移動
菜月は、あの男性が来る前に皿の中身を片付けてしまおうと食べることに集中した。早食いの性分がこんな所で役立つとは思わなかった。大きく頬張ってから、顔を上げると、同じように少し緊張した面持ちで食事をとっている人が何人か見受けられた。
就活生だと思うが、彼らは、リクルートスーツを着用していない。身体にぴっちりしたジャケットに膝丈スカートは、カラフルでパーティに相応しい。メールで指定でもあっただろうか。首を捻りながら、最後の一口を放り込む。
菜月は口を拭って、リップを取り出した。派手すぎないようにと、流行りの赤を止めておいたが、ここでは赤の方が合っていたかもしれない。視線を巡らせると、さっき話していた男性が上司らしき人に捕まっていた。すぐに戻ってくると思っていたが、助かった。
今のうちに、出よう。席を立ち、入口に向かうと、女性社員が笑顔でA4サイズの封筒を手渡してくれた。
「今日は、来てくれてありがとうございました!」
「こちらこそありがとうございました」
両手で受け取るように気をつけながら、足早に退出する。ドアを静かに閉めて前を向いた途端、ぐわぁんっと視界が揺れた。
「っ!」
何度か瞬きをすると、奇妙な揺れは消えた。疲れているのかなと目尻を抑える。ふぅーっ。
コッコッコ。ヒールの音が響いてくる。目を開けると、廊下の向こう側から女性が歩いてきていた。ピシッと伸びた姿勢に紺色のパンツスーツ姿。ショートカットの毛先は少しあそばせていて、少しキツめな顔の印象を和らげている。これでロングだったらっと見惚れていたら、
「どうかしましたか?」
「あ、いえ、」
「お待たせして申し訳ございませんでした。社員の八代と申します。よろしくお願いします」
菜月の狼狽を、待たせて放置したことだと捉えてくれたらしく申し訳なさそうに目を伏せた。
「あ、安藤菜月です。よろしくお願いいたします」
緊張を和らげようとするかのように笑顔を向けてくれる。優しい。そして前に立って案内をしてくれた。
「それでは、待合室にご案内致します。この後、グループディスカッションの開始時刻までは、自由時間となります」階段を降り2階につくと、右に曲がって立ち止まる「この突き当りに御手洗がございます。待合室は、こちらです」
右奥にちらりと目をやる。窓があるのを見て思い出した。この窓、
「先ほどのイベントはどうでしたか?」
きょろきょろしていた時に話しかけられてビクッとしてしまった。
「あ、はい。その、」
その、なんだ?美味しかった、面食らったしか感想が浮かばない。どうしよう。焦りながら無難なことを口に出す。
「非常に勉強になりました」
上手く笑えてることを願いながらそう答えると、八代さんは、優しく笑ってくれた。
「多少戸惑ったかもしれませんが、その感覚よく覚えておくと、この後役立つかもしれませんよ」
瞳を一瞬光らせて菜月をじっと見つめる八代さん。どういう意味なのか問いかける前に、ドアを開けて中へと促されてしまった。菜月は、バタンと音を立ててしまったドアを所在なさげに見つめる。
部屋を見渡すと、誰もいなかった。普通の白を基調とした会議室で、椅子が三列に三脚ずつ配置されている。ホワイトボードには「13:20開始」とだけ書かれていた。
入ってすぐの右側の席に腰を落ち着けた。