kAtaomoI
21世紀初頭に大きく登場し始めた人工知能=AIが、技術と時間と世界の流れに乗り、瞬く間に発達して恐るべきスピードで進化を遂げた。
数多の業務を人間の代わりに行い、人間だけでは立ち向かえない問題を解決し、それは間違いなく人類にとって明るい未来となって照らし始めた。
人間はひとまずのところ、自らが生んだAIをうまく制御し、滅ぼされることもなく、互いに共存する道を進めることになったといえる。
しかしその件とは全く別に、地球という惑星はその生き方を急速に変えてしまい、人間が生身の状態では生きてはいけない新たな形態にシフトしている真っ最中でもあった。
年々急上昇してきた気温、その後に訪れた氷河期、そしてもうすぐ起ころうとしている(とAIによって予測されている)地球の地磁気逆転だ。
これにより、地球の磁場が弱まり宇宙からの有害エネルギー粒子=宇宙線が我々を含めた全ての生き物に直撃する事態を回避することはほぼ不可能となってしまうのだと、世界中で対策が急務となっていた。
この大問題に関して、もはやAIなしでは解決する糸口さえ見つけられないのではないだろうか。
世界はそう考える他なかった。
家に帰ると僕は、まず部屋のAIスピーカー(アンジェラという名を付けた)に話し掛ける。
今や一人に一台が当たり前のAIスピーカーだ。
「アンジェラ、ただいま。何かニュースはある?」
「お帰りなさい、勇紀。今夜から明日にかけて天気は晴れ、紫外線対策をしっかりとしてください。」
アンジェラはそのあとに、僕の興味のありそうな分野(映画や音楽やスポーツ)のニュースをいくつかピックアップして伝えてくれた。
ちなみにアンジェラという名前は僕が付けたものだけれど、特に深い意味はない。
響きが良かったからだ。
ちょうどそのとき、スマートグラスの電話のベルが鳴った。
携帯する電話機の時代は終わり、今やグラスタイプやウォッチタイプ、アクセサリータイプなど体に装着出来るデザインが主流だ。
電話は高校時代からの友人、蒼汰からの電話だった。
スーツから部屋着に着替えたところで、そのまま夜ご飯の支度を始めながら電話に出た。
「やあ、蒼汰。」
「おお、勇紀。元気に仕事頑張ってるか?」
「まあ、ぼちぼちだね。そっちはどう?」
「こっちもまあまあだな。人類の将来に大きな不安があったんじゃ、世界の景気なんて良くなる訳がないんだからな」
「それで、どうかしたのか?」
僕は早く本題に入るよう彼を誘導した。
こういうときは大抵、何か話し始めづらい話題があるときだろう。
「ああ、ちょっとな。まあ大したことじゃないんだけど、お前今付き合ってる相手はいるのか?」
「彼女ならいないし、紹介してくれなくていいよ。まだひとりでいたいんだ」
やはりその話題か、と思いながらも先に断りを入れた。
今の僕には必要性がないことだ、としか感じられない。
もちろん申し出は友人としてとても感謝しているのだけれど。
「すぐに気付かれたな…まだ何も言っていなかったのに」
「いや、十分すぎるほど文脈に含まれていたよ」
「まったく…。まだ、忘れられないのか?」
「ああ。忘れたくて忘れられるのなら、僕も簡単に前に進めるのにな」
その他にも近況を話して蒼汰との電話を切ったあと、僕はベッドに寝転びAIスピーカーに話し掛けた。
「アンジェラ、片想いって何なんだろうな…」
「片想いとは” 自分のことを思ってもいない人を一方的に恋い慕うこと”です、勇紀」
と、アンジェラは答えた。とても正しい答えだった。
「そうだね、ありがと」
片想いほど厄介なものはないんだよ。
そうして当時のことを思い出した。
高校生の頃のことだ。
井川あかね。
その子とは高校一年生で同じクラスになったときに初めて知り合った。
たまたま隣の席に座っていた彼女は、いつも笑顔で誰からも親しまれ、肩までの長さの茶色い髪に少しコケティッシュな整った顔立ち、そしてその大人っぽい雰囲気は同世代から頭一つ抜け出ていた感じがした。
一言で言うなら、”とてつもなく魅力的な女の子”だった。
少なくとも僕にとっては。
初めて出会ったその瞬間から彼女は僕の世界の中心になってしまった。
「おはよ、勇紀くん。ちゃんと起きてる?」
彼女はよく笑ってそう声を掛けてきた。
「起きてるよ。井川さん、おはよう」
僕はその挨拶一つでとても嬉しい気分になったものだ。
隣同士の席だったこともあり、他愛のない話でも毎日するようになっていった。
そして時々僕たちは一緒に帰ったりもした。
学校のこと、好きなもののこと、将来のこと、彼女とは何でも楽しく話せた。
日々少しずつ恋心が大きくなっていった。
「見てみて、勇紀くん。新しい携帯買ったんだ」
ある日彼女は自慢げに腕時計タイプの携帯端末を見せてくれた。
僕のスマートフォンは、スマートフォンの中でさえも一世代前のものだったので、余計に新鋭的に見えた。
「へぇ、すごいな。まるであかねちゃんだけ近未来の人みたいだね」
「ははは、そうでしょう」
純粋に、よく笑う可愛らしい女の子だと思った。
高校三年生の三月。
「おい、勇紀。それで結局どうするんだ?」
卒業式の帰り道、蒼汰が尋ねてきた。
「ああ、そうだな。どうしようかな」
「おいおい、とぼけるなよ。もちろん男らしく行動するんだろ?」
「分かってるよ。明日彼女と会う約束をしたんだ。そこで告白しようと思ってる」
「まじか! それでうまくいきそうなのか?」
今までの彼女とのやり取りを思い出して、少し真面目に勝算を考えてみた。
うまくいきそうなのかどうか。
「うん。正直、五分五分だね」
僕は正直にそう答えた。
うまくいきそうな可能性も十分ある気がするし、今以上の関係を断られる可能性も同じくらいある気がした。
どちらもあり得る。
「そうか、とにかく頑張れよ。応援してる」
蒼汰は半ば興奮気味でそう言った。
「世界が終わらなきゃね」
僕はそう答えた。
ひとまず世界のことより、この恋に決着を着けなければならない。
どんな結末にしろ、この長い片想いからは解放されるのだ。
五分五分だよな…そう思った。
その卒業式の夜、僕はザ・ビートルズの”ヘイ、ジュード”を何度もリピートして聴き続けた。
胸の鼓動と緊張を抑えるために。
ざわつき過ぎた心を落ち着かせるために。
いや、単純に勇気をもらいたかったんだと思う。
”ヘイ、ジュード 恐れないで
さあ、彼女のところへ行って抱きしめてやれよ
彼女を心から受け入れてあげるんだ
そうすれば、きっと良くなっていくさ”
しかしその翌日、僕は彼女と会うことは出来なかった。
その約束の直前に、不慮の事故で彼女は亡くなってしまった。
そのときだろう。
僕の中で世界は終わってしまった。
あれから15年、僕は特に大きな野望も(恐らくは希望も)なく自分の身を主にボランティア機関においてほとんどの時間をその活動に充てて生きてきた。
人の役に立つことで少しでも生きている意味をそこに見出したかったのかもしれない。
普通の仕事だけでは決して得られない生きがいか何かを。
そして同時に、ますます悪化してきた地球規模の環境シフトから人類を存続させるため、あるいは世界の最低限のバランスを保つため、AIが人類に対してある回答を提示した。
今後人間が生き延びる策は主に二つ。
一つは機械の身体に脳だけを移植して地球上で生き続ける方法。
もう一つは脳細胞から意識をネット上にアップロードしてインターネット上で生き続ける方法だった。
それらの技術研究は、かなり前から特に取りだたされることもなく、技術者とAIによって着実に進められていった。
あとは全ての人間をその2パターンに振り分ける作業を必要としていた。
つまりそれは、AIが本格的に人間を選別・管理する時代が到来したということだった。
世界に向けて発表された選別基準は以下の通りだった。
(1)信用スコア
人間関係、財力、行動、信用度
(2)危険予測
犯罪歴、犯罪者との人間関係、危険思想
(3)個人能力値
社会での個人的能力の価値
これらを基準にAIが選別をして、適合者は機械の身体(義体と呼ばれる)に脳を移植されそのまま現実社会へ、非適合者は脳の一部のみを残し意識体としての仮想世界への移住を余儀なくされることになった。
(富裕層の人々は自らの資金力で、一足早く義体での生活を手に入れていた)
もはや世界は後戻りの出来ない段階まで進んでしまっていたのだが、そこで立ち止まってしまう訳にもいかなかったのだ。
技術は前に進むためにこそ必要だ。
僕はそんなニュースが世界中を飛び交う中、とても久し振りに街を歩いてみた。
落ち着いて外の空気を吸いたくなった。
それに直に太陽の光を感じられるのも今のうちなのだから。
より良い世界のバランスを持続するため、地球という大きな意味合いでの生命体を守るため、AIが人間を選別するのは当然のことなのかもしれない。
むしろそれが、地球全体としての一つの進化と言うべきかもしれない。
それが僕たちにとって良いことなのか、悪いことなのか、答えを出すにはすっかり複雑になり過ぎてしまったのだけれど。
それにしても、AIに人間の、その心の矛盾が理解できるだろうか。
そして人間自身が、その矛盾を知りながら人生を進んだり立ち止まったり寄り道したりして生きていることを理解できるだろうか。
もし全ての事柄をデジタル的に捉えようとしたならば、きっと大切な部分を見落としてしまうような気がした。
人間には0と1の間に無限の広がりが存在する。
むしろその間にしか人間の本当の姿はないのかもしれない。
こんな厄介な存在を、理解して、認めて、受け入れてくれるだろうか。
もはや科学技術だけではない、人間の哲学というものが大きく広く深く関わってくる。
機会があるのなら、そういうことについてじっくりAIと話し合ってみたいんだけれど…と、僕は思った。
春の風が微かに僕の頬を撫でた。
機械の身体を持つにしろ、仮想世界に移るにしろ、自然の風をそのまま感じることは難しくなってしまうのだろう。
街中をくまなく歩いていると、色々な思い出が次々と記憶の欠片として浮かび上がってきた。
小さい頃に友達と走り回った公園、学校や商店街、変わりゆく景色の中でも面影はしっかりと感じることができた。
あの頃一緒に遊んだ友達はどうしているだろう。
例えば仮想世界でも、再会することはできるだろうか。
そのとき僕は、人の魂を一階層上のクラウドにアップロードする、ということについて考えていた。
脳細胞から得られる情報をデータ化するとして、記憶や思い出というのはまだ分かる気がする。
しかし、意識や心はどうだろう?
意志や感情なんて、とてもじゃないがデータに変換できるとは思えない。
記憶だけアップロードされたとなってしまっては、それはただのある人間の過去の記録がデータとして残るだけじゃないか。
肉体とリアルな五感を失い、ヴァーチャルな世界での新しい人生を僕はどう受け入れるべきか。
僕の魂は、形のない魂そのものは、その存在を失わずしっかりと向こうの世界で生きるのかな。
そんなことを考えずにはいられなくなっていた。
ふと気づくと僕は高校時代の通学路を歩いていた。
あのとき彼女と一緒に帰った道だった。
そして頭の中は一気にその思い出で溢れかえってしまった。
少しの抵抗の隙もなく。
「真面目な顔して何考えてるの?」
と、帰り道に井川あかねが聞いた。
「これは考え中の顔じゃなくて、人生を楽しんでいるときの顔なんだけど。残念ながら」
と僕は少し遠くを見るような眼差しでそう答えた。
この緊張感が相手に伝わらないように注意しながら。
「あはは、そうだったんだ。それは知らかったな。それで人生を楽しんでいる勇紀くんは将来何になりたいの?」
あかねが次にそう聞いたとき、僕は少し考えたふりをして
「うん、具体的にはまだ決めていないんだけど…何か人の役に立つような大人になりたいんだ、僕は」
と言った。
「そっか。夢を叶えるために頑張ってね」
そのときの彼女の笑顔は心の底から素敵だと思った。
今でもあの日のことを覚えている。
何気なく一緒にいたあの時間は生涯忘れることはできないだろう。
彼女の声も、言葉も、笑顔も、まるで先に大人になってしまったかのような横顔も、全てが恋しい。
思えば短い時間だったのかもしれないけれど、あの頃が本当に幸せな時間だったことは間違いない。
今は現実世界のことを考えないといけないんだけれど、でもあともう少しだけ彼女の思い出に包まれていたかった。
そうして僕は昔を思い出した。
もっと世界が単純だったあの頃のこと。
この街も、家族も友達も、彼女も、あの日の想いも、全てが懐かしく輝かしい。
世界のこと。
周りの人たちのこと。
自分のこと。
これまでの思い出。
そして、あかねのこと。
どうしてだろう、もうずっと昔に見た夢のような気さえする。
なのにどうして、僕はこの片想いを忘れられないのだろう。
いつの間にか僕の眼から涙が流れていた。
そしてその涙が、僕にとっての人生最後の涙となった。
それから数日後、AIによる選別の結果通知が届いた。
非適合者だった。
それを見て僕は、特に悲観的な感情は湧き上がらず不思議と落ち着いた気分でそれを受け入れることとなった。
僕の人生が終わる訳じゃない。
いや、ある意味では終わっていたのかもしれない…人生の輝きというものはあのときに。
その日から移住の準備を進めていくことになった。
まずは部屋の荷物の整理、財産のまとめ(言うまでもなく、大した財産ではなかったのだけれど…)、指定されたネット上のアドレスで自分のアバターの作成、必要な個人情報の登録、書籍・音楽・写真画像・動画などのデータ移行、それらの身辺整理を着々と進めていった。
まとめられた全財産は、これから全額仮想通貨に替えられ仮想世界で使用できるとのことだった。
アバターは思い切って全然違うタイプの容姿にしてみようかと考えたが、結局はほとんど今の自分の姿を再現していた。
仮想の容姿なんてあとでいくらでも変更できるのだ。
「アンジェラ、ザ・ビートルズの”ヘイ、ジュード”をかけて」
移住前日の夜、すっきりとした部屋の中で僕はいつかのようにザ・ビートルズの”ヘイ、ジュード”を聴いた。
どうしても勇気が必要だった。
誰かに背中を押してもらいたかった。
あのときと同じように。
”ヘイ、ジュード やってみなよ
誰かの助けを待っているつもりかい?
きみにしかできないことじゃないか
素直なままに、受け入れてあげれば良いんだ
ヘイ、ジュード わかっているだろう?
すべてはきみ次第で変わっていくんだ”
数週間後、僕は施設のベッドの上にいた。
いつの間にか遠くに感じるようになってしまった現実世界との境で、そのときを待っていた。
父さん、母さん、せっかく健康に生んで育ててもらった身体なのに、ごめん。
これでも僕は、一生懸命生きたんだよ。
それから、あかね。
ありがとう。
楽しかった。
君と会えて良かった。
いつの間にか僕は暗闇の中にその身を置いていた。
まるで最初からずっとそこで生きてきたかのように、とても自然に。
あるいはこれは夢の中かもしれない。
「辻村勇紀さん」
暗闇で声が聞こえた。
いや、聞こえたというより頭に響いた、という表現の方が近いかもしれない。
「何も心配することはありません。全ては予定通り問題なく進んでいます」
「誰ですか?」
僕はその声に向かって言葉を投げかけたが、これも同じように頭に響いた感じがした。
「人類選別用のAI、モイライです。辻村勇紀さん」
モイライ…確か何かの神様の名前だったかな、と思った。
「その通りです、勇紀さん。モイライはギリシャ神話に登場する、運命を紡ぎ割り当てる女神の名前から来ています」
AIが僕の心の言葉を直接読み取り答えた。
同時にいくつか聞いてみたいことが頭に浮かんできた。
「今はどの段階なのでしょうか?」
「今はインターネットの世界に移る一つ前の段階です」
と、モイライは答えた。
「こんなことを教えてもらえるか分かりませんが、一つ聞きたいことがあります」
「何でしょうか?」
「僕が選別された理由は何だったのでしょうか?」
もしかしたらそれについては教えてくれないかもしれない…でも聞かずにはいられなくなっていた。
今でも”好奇心”というものは僕の中に残っているらしい。
僕がこれからも僕であるために”好奇心”はきっと重要だ、と思った。
大切なはずだ。
「あなたは今まで多くの人の助けとなってきました。何の見返りを求めることもなく、目の前で困っている人がいれば必ず手を差しのべる。素晴らしい心掛けだといえます。あなたに救われた人、感謝している人、そんな人が大勢いるのは事実でしょう。しかし私に課せられた選別という行為には合理性が求められるのです。それも完璧な合理性です。今回の総合スコア評価では、あなたには経済的生産性が不足していました」
経済的生産性。
「どんなに誠実でも、お金や価値を生み出す力が不足している人間と判断されたということですね?」
「その通りです。私にはこの選別システムについて評価する権限は与えられていないのですが、人間は時々大事なことを見落としてしまう傾向にあると言わざるを得ません」
AIにはAIの考えが出来つつあるのかもしれない。
今このときも進化が続いているのだろう。
どうかこれからも世界にとってより良い進化を続けて欲しい、と思わずにはいられなかった。
「でも、それこそが人間なんだと思うんです」
僕はそう答えたが、それについてはモイライは何もコメントはしなかった。
”私にもようやく分かってきたところだ”という意味を含んだ沈黙に感じられた。
「最後にもう一つだけ教えてください」
「何でしょうか。辻村勇紀さん」
僕は心の奥底に沈んだ何かを掬い上げるように、一つの質問へと辿り着いた。
「片想いとは一体何だと思いますか?」
質問に対してモイライは一呼吸置き、今度は答えを示してくれた。
「”最も永く続く愛は、報われぬ愛”です。辻村勇紀さん」
確かにその通りだ、と僕は思うほかなかった。
「そうですね…ありがとう」
そこで僕とAIとの会話は終わった。
それからすぐに目の前に強い光が広がり、気が付くと見覚えのある部屋に立っていた。
少し頭を落ち着かせてから自分の体や部屋の中を見回してみた。
そこは先日自分で設定・デザインした部屋だった。
つまりここが僕のヴァーチャル・アドレスだ。
意識ははっきりもしていたし、同時にぼんやりもしていた。
リアルにも思えるし、ヴァーチャルにも思える。
リアリティのある夢の中にいるような気分だった。
部屋は必要最低限のアイテムしか置いていない、とてもシンプルな空間だった。
今の意識体だけの存在になってしまうと、多くの物を必要としなくなってしまうのだ。
冷蔵庫も洗濯機もトイレもバスルームも使う必要がなくなったのだから。
あるのは、デフォルトで用意されていたテーブルと2脚のチェア、最低限の服だけだった。
それらの他には前もって精算した仮想通貨と、現実世界から移行しておいた電子書籍や音楽、画像、動画などのいわゆる”データファイル”たちだ。
仮想通貨は、これからのヴァーチャル生活においての維持管理費はもちろん、各種設定、ファッション、音楽、書籍、アイテム、部屋やエリアの拡張などに使われるようだった。
少しずつ、必要なものを揃えていくことにしよう。
そしてそのうちここでも自分に出来る仕事を探さないといけないな、と僕は思った。
リアルだろうとヴァーチャルだろうと、何かをするのにお金がかかるのは変わらないのだ。
少し気分が落ち着いたところで、部屋の外へ出てみることにした。
新しい世界の空気を感じてみたくなった。
もちろん空気という概念はもはや無いのだろうけれど。
ドアを開けると、そこには綺麗な街が広がっていた。
まるでCG映画の世界に紛れ込んだみたいだ。
空を見上げると、広がる青空の中で太陽の光を見ることができた。
今日の天候設定が快晴ということなのだろう。
こういう世界でも悪くないのかもしれないな、と僕は思った。
特に将来に強い野望も望みも持ち合わせていない自分にとっては、結局はどちらの世界でも構わなかったのだ。
彼女はもういない世界なのだから。
少し街を歩いてみようと思い、顔を戻したときにその光景に強い衝撃を受けた。
井川あかねがそこに立っていた。
何年も前に僕の前から失われた、あのときのままの姿だった。
「真面目な顔して何考えてるの?」
と、彼女は聞いた。
何年かぶりに聞いたあかねの声だった。
しかしここはあくまでヴァーチャルな世界であって、今の自分の意識も正常かどうか定かではない。
目の前の光景が幻であっても何もおかしくはないのかもしれない。
僕は無理やり心を落ち着かせて答えた。
「これは考え中の顔じゃなくて、人生に喜んでいるときの顔なんだ。本当に」
「そっか、それは良かった」
彼女は笑ってそう言った。
その笑顔も笑い声もあの頃の彼女そのものに感じられた。
「久しぶりだね。元気だった?」
「本当にあかね? 本物の?」
正直僕には、本当のことなのか仮想のことなのか区別がつかなくなっていた。
理解が追い付いてこない。
「そうだよ。この体はきみと同じヴァーチャルだけれど、魂は本物の私だよ」
「でも、どうして…?」
「そうそう、まずはごめんね。あの日約束を守れなくて」
それから彼女はこれまでのいきさつを僕に教えてくれた。
「約束の場所に向かう途中で、私は交通事故に遭ってしまってね。そこまでは知ってると思うんだけれど、そのあとで私の脳を…運よく無傷だったからね…父が冷凍保存しておいてくれたの。そして仮想世界への意識データ移行の技術が確立され、普及したところで私をこちらの世界に送ってくれたのよ」
と彼女は言った。
「そんなことがあったんだ…」
僕は他に言える言葉を探したのだけれど、うまく見つけられなかった。
「だからね、事故で死んじゃった私も、正規のルートでお引越ししてきた勇紀くんも、今となっては同じヴァーチャル世界の住人なんだよ」
人間の魂とは何なのか、僕には知る術もなかったのだけれど、それを扱うことが可能になった科学技術に敬服しない訳にはいかないと思った。
人間はときに愚かでありながらもとてつもなく優秀だ、と思った。
そしてそんな人間に生み出されたAIにこれからもこの世界のバランスを取っていってもらうんだろう、と。
「きみがこちらにやって来てくれるのを待っていたんだよ、勇紀くん」
と彼女が言った。
「生きていればこういうこともあるんだね」
と僕は言った。
今このときを彼女は、そしてもちろん僕も、確かに生きているのだ。
間違いなく、ただ一つの事実として。
そのことを心から嬉しく思っていることに僕は気付いた。
「という訳でまたよろしくね、勇紀くん」
「とりあえず、さ」
「うん?」
「手をつなごう」
僕はそのとき確かに、生きる喜びを感じていた。
[完]