悔悛するマリア
檸檬絵朗さんが主催されている「アートの借景」企画作品です。
ぽつねんと彼は『孤独』を弾いていた。
多くの人が彼の前を通り過ぎていく。自分は忙しいんです、疲れているんです、と言った風に誰もがみな知らんぷりをしている。ただ彼はギター片手に音楽を奏でている。とても稚拙なその歌詞、声、震えて、小さくて、群衆に紛れて今にも消え入りそうな音の数々に私は『孤独』を感じた。
その瞬間思ったのだ。この音楽は私だ、と。そう思うと、大粒の涙が浮かんだ。粒は次から次へと流れていく。とめどなく流れ、ぬぐうことすら鬱陶しくなる。
その時、彼はギターを下ろした。
「ありがとう」
ぽつりと彼が私に向けて感謝を投げる。気づけば周囲には誰もいない。空は真っ暗でそこには星なんか一つも輝いてない。あるのは商店街の電灯と無機質なアーケード。シャッターはどこの店も閉まっていて、まるで世界が止まっているかのように彼と私は二人っきりだった。
「お姉さんだけだよ。僕の歌を最後まで聞いてくれたのは」
それから彼はそそくさと、ギターを黒いケースにしまいだした。
「明日もここでやるの?」
彼は振り返り、私と見つめあった。少しだけ私より背が低い。顔は幼さを帯びているし、見るからに学生だと思われる風貌は生意気だ。
それでも私は彼を年下だと見れなかった。年下だと分かっているのに、まるで人間の頂点に立つような神聖さを纏っていた。凛とした瞳はどこまでも見渡せそうだった。
「やるよ」ふぅ、と彼が外気で白くなった息を吐く。「これしかやることがないんだ」
「じゃあ、私も来る」
「ありがとう」
なんて言葉を照れくさそうにする。
「楽しみにしているね」
私の『孤独』を体現した神様は、案外近くにいたようだ。神様は『音楽』という形で私の『孤独』を丸ごと表現してくれた。
◇
その後、彼が『孤独』を歌いに来るたびに私は欠かさずそのライブに訪れた。いつだって私一人だけの観客だ。
なぜだか分からないが回数を重ねるたびに彼の『孤独』が鋭く際立っていく。
私は今日もマフラーに顔をうずめて彼の曲を聞く。彼は歌う。バラードのようなゆったりとしたテンポなのに、声を荒げて歌をのせる。
途中、曲を歌いきれず、一旦咳をつく。そして再びその曲を何度もリピートする。聞くたびに洗練される彼の歌は、内にとどめた熱を発散させるようだった。
彼がギターを下げれば終わりの合図。
「今日も、ありがとう」
気づけば周囲には誰もいない、二人っきりの世界が広がっている。
アーケードは錆びついていたし、シャッターは閉ざされている。彩りを加えるものはここにはない。
「普段は何してるの?」
少しだけ踏み出してみた。でも、必要以上に踏み込むつもりはない。これは神聖な存在に手を伸ばしたいただの憧れ。
「学生です。お姉さんは?」
「私も、と言っても、大学生なんだけどね」
「じゃあ、年上だ。僕は高三」
「そうなんだ。じゃ、本当に私は君の『お姉さん』なんだね」
でも、全く彼の上に立った気はしない。逆に彼の下に仕えている気分だった。もしくは、彼のことを『お母さん』のように抱擁したい気持ちがほんのりとあった。
「ほら、ユーチューブにアップするみたいに、売り出したい! とか、はないの?」
「ない」
「へぇ、ないんだ」
「うん、ない」
『ない』の強さに何回も彼に「本当に『ない』?」とその後繰り返してしまった。
意味合いは可能性が『ない』。つまりはゼロパーセントなのに、どこか違う意味が含まれている、裏腹だ。着飾っている私の『お姉さん』と同じだ。
それに私はくすりとつい笑ってしまった。
彼は私の反応になんだか分からないと言った風にギターを背負う。黒いカバーが掛けられたギターは今はなんだか分からないものになっている。開けてはならないパンドラの箱みたいにミステリアスだ。きっとこれを開けられるのは一人だけ。彼という愛を注ぎ続けた隣人だけだ。
さらりとした若い肌。つぶらな黒い瞳。淡く光る彼という存在に、私は『孤独』を埋めた。だから彼を上にしか見れない。私は仕えることしかできない。膝をつき、彼という存在に祈る。そうすれば口から漏れだす彼の歌は私の『孤独』をどこまでも深く埋めてくれる。
その時、乾いた空気で私の指先がぱっくりと割れた。すると堰を切ったように彼の口元から大きな息が吐きだされる。次第に息は大きくうねり、激しい咳をつく。数回つくと、彼の呼吸は収まり、口元を手の甲で拭った。ふぅ、と安心した彼の表情に、私は一抹の不安を覚える。
「風邪?」
彼の応答はない。
「最近インフルエンザが流行ってるみたいだし……」
彼の応答はない。
「お大事にね」
彼の応答は、ない。
お互いが白い息を二回ほどついた。そして彼はようやく私の言葉に気づいた。それまで彼はどこか違うところを見つめていた。目の前の私はいないように。それが、とても快ちよかった。
彼は申し訳なさそうに何回か「うん」とうなづいた。またとない輝きをその瞳に写しつつ。
「今、曲が浮かんだんだ」
高揚感で弾んだ彼の声に、私は不安を隠せていないのに気づいていた。
「でも、明日はお姉さんが言ったように大事をとるよ」
「大事っていうのは、曲を作るってことじゃないよ?」
「うん、分かってる。きちんと寝るから」
「じゃあ、曲、楽しみにしていい?」
「うん」
力強い神様の返事はなぜかとてつもなく大きなものを抱えているようで、ひどく儚げだった。もろくて壊れやすい、ぽろぽろと落ちていく涙のように。
彼が壊れていくのを私は見ていられなくなってしまうのではないか。これから先そういうことがあれば、私は『孤独』を神様の記憶だけで埋められるだろうか。考えるが、しかし踏み出せはしなかった。
神様のお膝元に私なんてものに立ち入るのは惨めったらしく思えてならなかった。
◇
路上で彼の歌が説かれていた。
その日は、「やらない」を聞いていたので、私は驚いてしばらく立ちつくした。声は遠くの方の路上、駅前の雑踏の中から聞こえている。雑音と雑談に紛れていても私は難なく彼の声を聞きとれた。
いつものように叫ぶ声、荒げられたギターの音は彼の声とはミスマッチな丁寧さと優しさを含んでいた。歌詞もこの前の曲とは違う。美しすぎる『二人』へと変わっている。
これは新しい神様だ。
楽園を目の前に『孤独』に逡巡する神様の図が思い浮かんだ。彼の隣にいるのは、誰だか知りもしない女性の影。私はその女性に嫉妬した。
知らず知らずのうちに私は彼の袂へと足が運ばれている。
駅前の雑踏。中央改札前。ここは人が入り乱れ、迷宮とされた場所だった。横断歩道の前には人が大勢留まる。それを見込んで大勢の音楽家たちが演奏を披露していた。
かたやギター片手に弾き語る女性、かたやギター片手に一人歌う彼。雑踏の中では圧倒的に彼の声は小さい。大きな音の波に飲み込まれて消えていく。
彼に気づいたのは私だけだ。
誰も手を差し出してはくれない。
いつものように気づけば私一人だけがぽつねんと相対していた。
彼は一曲が終わると、苦し気に息を吐いた。その息が暗闇の中でうっすらと光る雲のように見えた。息を整えて、肩を上下する。彼の視線はただ一心に私へと注がれている。
彼の深淵色の瞳。この純真無垢な瞳には嘘はつけない。
「お姉さん、今日も来たんだ」彼の最初の一言は意地悪く聞こえた。
「君が弾いてるんなら、私はどこだって聞きに来るよ」
「路上ライブをする日。黙ってたこと、怒ってないんだ?」
「怒ってない」
「怒ってる、そういう声してる」
彼にはお見通しだったみたいだ。
「ごめんなさい。曲に怒ってたの」
「曲に?」彼が怪しげな声色で聞き返してくる。
「えっと……もしかしてなんだけど彼女とかできたの?」
ぷはっと彼は途端に噴き出してしまった。答えるのは私の腹の虫。ぐるるる、と虫とは言えない獣のような唸り声をあげた。
私は恥ずかしくて、頭の中がぐるぐるにかき回される。そこでちろちろと心地いい彼の声が降ってくる。
「実は一旦休憩しようと思っててさ」ひひひ、と笑いながら涙が浮かんだ瞳を彼は指でこすった。「良かったら、お姉さんも一緒にご飯食べない?」
いつもなら彼と一緒にご飯なんてこと、私ができるはずがない。すぐに断るはずだ。だが、私は腹の虫や、彼の笑いで混乱しておかしくなっていたせいか、彼の提案にすんなり「いいよ」を返してしまった。
かすんだ声、彼の『孤独』の声は他とは違う。それは近くのファミリーレストランでも同じだ。
注文をとる声、紡ぐ言葉、どれもこれもいつも歌っている曲と似ても似つかないものなのに端々で、ああこの人なのだな、とうなづく部分があった。いつもは細切れになる言葉も次第に流暢になって、彼の口から次々と零れだす。
「お姉さんとこんなところに来るなんて思っても見なかったなあ」
「ほら、僕達、いつもは簡単に挨拶をすませて別れるから」
「音楽って難しいよね。お姉さん以外、立ち止まらせることできなかった」
「ほんと、僕って才能ないんだなあ」
次々と流れ出る言葉の数々が私に向けられているなんて思うだけで、身が浄化されているような気がした。それほど醜い私がこんなこと言うのはきっと生意気だ。
「そんなことないよ」と、私はぎゅっと肌割れした親指を隠すように握り、「あれから音楽のこと少しだけ調べた。でもね、全然分かんなかった」
やっぱり音楽の世界は私を阻んだ。遠くて手が伸ばせる代物じゃなかった。それでも、分かったことがあった。
「私はインディーズとか、メジャーとか、ネットとか、ライブとか、全然分かんないけど、それでもね、君の曲にうるっときたよ」
私の言葉が彼に届くことが怖い。彼の曲に変化があるように、私という『孤独』が影響し、神様が変化するのは耐えきれない。彼の曲に訪れた女性の影のように、全てに平等に配られるべき彼の愛が一心に誰かにだけ注がれるところは見たくない。
でも、口をついて出てくるのは、私のことだった。彼のおかげでここにいる幸せだった。
「あのね、私、大学で一人なんだ。『孤独』、なんだ。高校生の君には分からないと思うけど、大学って自分で声をかけないと、ぜんぜん友達ができないんだ。それなのに友達とか作らないとひどく惨めで、授業も広い教室なのに、大勢人がいるのに、寂しいまま。
今まで私は流れに乗ってただ生きてただけだから、そういう環境で、誰かに話しかけるなんて怖くって。
だから君の曲を聞いた時思ったんだ。ああ、これ、私だって。穏やかな演奏なのに、叫んでて、『孤独』で寂しいんだって、心の中をそのまま、表現してた。君の全てが私を表した。だから……」
上手く説明できない。俯いてしまう。こんなことを彼に言ったら、幻滅されるだろうな、とこの先は口をつぐんでしまう。
言えない。彼を見た時、神様だ、なんて思ってしまったことなんて。
「うん……分かったよ」
凍ていた私は、彼の一言で一気に溶けた。
「なんだか、そこまで言われて嬉しい」と、ぽりぽりと彼は頬をかく。「実はね、今日、お姉さんに路上ライブすることを言わなかったのは、自分の実力をみるためだったんだ。全然、全く、全体的に、上を目指す気は『ない』って言ってたのにバカらしいよね。今になって目指したくなった、なんて……時間も、もうないのに」
「時間もない?」
「あ、気にしないで。音楽野郎のタイムリミットみたいなものだから」
「そういうのってあるんだ」
まあ、ね。と彼は不自然に生返事した。それからいろんな物事を彼と話した。ご飯が運ばれてきても私達の会話は途切れなかった。
途切れたとしたら、それは数度、彼がトイレに行く時だけ。見送る時の小さな背中は哀愁まみれで、おおよそ年下とは思えないほどの大きな荷物を抱えているように見えた。
ファミリーレストランでご飯を食べた後は、再び路上で二人っきりの路上ライブをした。
『孤独』であるはずが、その叫びには『二人』で『一人』という『孤独』が感じられた。それを聞いた私は先ほどの醜い嫉妬心は綺麗さっぱり消え去っていた。曲に納得がいってしまったのだ。
この曲の女性は私だった。お互いがお互い『孤独』であるからこそ初めて成り立つ曲だった。私も必要以上に彼に近づかず、彼も近寄らない、このつかず離れずの関係を表した曲だった。
路上で歌う他の歌手達なんて目もくれず、二人っきりで彼のライブを楽しんだ。次第に人の息遣いが聞こえなくなる夜まで、星が瞬いて人々が寝静まるまで、眠らない街が眠るまで、『二人』という『孤独』になるまで、私達はそこにいた。
「あり」病みあがりなのか彼は咳を一つつき「ありがとう」とライブが終わった後、感謝の言葉を残した。そうして終わりの合図にギターを下げた。
私はコートのポケットから手を出す。まだぱっくりと肌割れた親指のまま拍手した。たった一人、巻き起こる拍手喝采に彼は苦し気に白い息を吐きながら、頬をぽりぽりとかく。
「お姉さん、本当にありがとう」
その神様のお告げだけで、これから先も私は生きていけそうだった。
◇
彼の言葉を疑った。
路上ライブが終わり、彼はパンドラの箱を背負って帰るところだった。私と同じ方面に歩みだし、そうして、一言。
「僕の作業場、見ていかない?」
彼の瞳に揺らぎが見えた。今まで凛としていた黒い瞳が、今は弱弱しい。
「ほら、あそこ。見える?」遠くに見える黒い闇に紛れた四角い建物を彼は指さすと、「あそこのアパートの206号室で一人暮らししてるんだ」
「えっ……」
「だ、だめ? じゃあ、連絡先、交換しよう。お姉さんラインとかやってる? それが無理ならメールアドレスでも……」
「そういうことじゃなくって、突然どうしたの?」
「いけない?」
心底寂しそうな声色で、彼はちらりと見てくる。少し悩むが、それでも返答はしっかりと決まっていた。
「うん。ちょっと、嫌かな」
私がこういう返答をすることを彼も悟っていたのだろう。すぐに、そうだよね、と相槌をかました。
「ごめんね。今になって私、なんだか近づきたくないなあって気持ちがある。応援はしたいんだけどね」
「分かるよ。お姉さんの気持ち。自分の応援する人ってなぜだか、こうあってほしいって思うよね。当然女性関係だってそう」
彼が視線をねっとりと私を下から上へ移す。値踏みされている。気分が悪くなる。
「安心してよ。僕は、今彼女なんかいない」彼がどんよりとした陰る瞳を瞼で蓋をし、頭を振った。「いいや、作れないんだ」
瞬間、私の右手の親指に痛みが走った。
ぱっくりと彼との距離がまた開く。きっとこのぱっくりと割れた肌みたいに神様には些細なことなのだろう。でも、私には痛みを伴う、深い悲しみが胸を突いた。
ゆっくりと、神様は動き出したパンドラの箱という十字架を背負って坂を上っていく。向かう先はどこだろうと、神様は行ってしまうのだろう。私なんて知らずに。
◇
その日、彼は来なかった。
◇
アパートの206号室の前で、私は深く息を吸う。
最後のライブから私は考えた。踏み込むなんてことは、私にとって神様の領域に土足で上がるのと同じだ。彼が深い悲しみや寂しさを『孤独』に昇華して音楽へ表現しているのに、私が踏み入ることをしてはいけない。
しかし簡単にことは運ばない。
もう一度、ライブに立つ神様を見たい。結局、そう結論づけてしまった。
深く息を吐き、チャイムを鳴らした。
応答は、ない。
これで良かった。これで安心できる。彼とはこれっきりだ。彼なんて神様、きっと一夜限りの夢だった。そうだ、これで良かったんだ。
それなのに、なんで私は落胆しているのだろうか。
うぅ、と小さくうめく声が扉の先から聞こえた。ドアを隔てた向こうから、彼の声が確かに響いた。
途端、全ての物事が輝きだした。晴れていく。彩りが戻っていく。私の世界が復活する。
うぅ、と二回目の唸り声が聞こえた時すぐにノブに手をかけた。鍵は不用心にも開いていたので勢いよく開けた。目に飛び込んでくるのは、床にうずくまる彼の姿だった。体が小刻みに震えている。
「大丈夫?」と、駆け寄る。
彼の瞳は濁り、どこへとも見つめていない虚ろな鈍い光を点している。
部屋は暗い。電灯も何もついていなかった。ただ一つ、床に転がっていた液晶が割れているスマートフォンの灯りだけが蝋燭のように一点をほんのりと灯している。
「誰?」と彼が言った。
答えようにも黙るしかない。名前さえ彼には告げていなかったのだから。
とにかく救急車を呼ばないと、と思ったが、その前に、彼の手が私の手を握った。それはしないで、と力強く握り訴えてくる。
「怖いんだ。これが死に至る病だったら。血を吐いて、しんどくっても、それでも僕は知りたくない。病名なんて知らずに逝きたい」
「でも、それじゃあ治る病気も治らない」
「治んないんだよ」
叫ぶ声が、あの歌声と重なる。彼が此処にいる、『孤独』を叫んでいる。今の彼がどれほどまでに『孤独』か分かってしまった。
「僕の最後を看取るのがお姉さんだったらいいな」
彼の瞳からふつふつと涙が浮かんで、するっと頬に落ちていく。艶めく一粒の欠片が、彼の最後を悟らせる。
「悔しいけど、しょうがなかったんだ。体に異変を感じて、それがもう治らないものだって分かっていたから、僕はギターを片手に歌ったわけで、これがなかったらお姉さんとは会えなかった。この病気はお姉さんとの唯一のつながりだった。だから、今はこの病気すらも愛おしいんだ」
苦しそうにごろんと彼が仰向けになる。それでも苦しそうだったから、彼の頭を私の膝の上に乗せた。すると幾分か楽になったのか呼吸が整ってくる。どんどん呼吸の感覚が開く。
「でも、悔しいのは変わりないよ。もっと、お姉さんみたいに僕のこと称賛してほしかった。……僕が此処にいることを認められたかった。でも全部遅かったんだ」
ここで彼は『孤独』とともに朽ちてゆくんだろう。目の前の私なんかに決して手を伸ばさずに、最後を迎えるのだろう。
「死にたくないなあ」
ひひひ、と自嘲気味に彼が笑う。笑い声は上に上に響き浮かび上がる。ふわふわ浮かんで、今にも飛び立ちそうなその時……
「お姉さん、僕の歌を唯一聞いてくれた……マリア様」
彼はそれから口を閉ざしてしまった。あるのは体を動かさず、白い息も吐かず、歌わない彼という何か。
冷たい肌を指先で触れると、最初に出会った時と同じ神聖さを感じ取れた。
やっぱり、もう動かないのだ。
確認したはずなのに、そうでなければいいと頭の中で思い描いてしまう。数日後、復活している彼を見つけて再び神様が降臨したと騒がれる、そんなありもしない寓話を紡いでしまいそうになる。
だが私の腕の中で眠っている彼は紛れもない本物だった。
こんな本物を見るくらいならば、此処にも来なければよかった。最初から彼と出会わなければよかった。彼の姿を、音を、声を聞かなければよかった。でも、そうすればきっと私は違う『孤独』で押しつぶされてしまっていたに違いない。
それでも後悔してしまう。悔やんでしまう。祈ってしまう。また神様を奉るように。
ここにはもう、『一人』しかいない。
『孤独』を分かち合う彼は逝ってしまった。空の彼方へと、涙をこぼして、私をマリアだと崇めたてて逝ってしまった。
神様の骸へ手を触れさせる。ぱっくりと割れていた親指はつん、とつららが突き刺さったように痛かった。
でも、愛おしくてたまらなかった。神様がいなくても、強く生きていかなければならない、と覚悟をして諦めようとして此処に来たのに、溢れだす感情が言うことを聞かない。悔やみや後悔が、愛おしさに凌駕されてしまっている。
ただただ愛おしい。
この感情は本当に神様への信仰心なのだろうか。それとも……
「ああ、私の神様」
ぐっと唇を噛みしめて堪えるが、堪らなくなり、大粒の涙を骸に一滴たらしてしまう。
「歌って」
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593年‐1652年)
『聖なる火を前にしたマグダラのマリア』(1640年‐1645年)
ルーヴル美術館収蔵
この場を借りまして企画に参加させていただけたこと感謝します。
企画を立ち上げてくださった檸檬絵朗様、素敵な企画をありがとうございました。