正義の資質 その2
【金乃湯 大浴場】
【安部晴明】
金乃湯。
学園から徒歩5分の住宅街に位置する、100年近くの歴史を持った銭湯で、シニア層を中心に根強い人気を誇る。
その立地から学園の学生にも足繁く通う者は多いとか。
僕もそれほどではないが、ゼミ帰りなどで二月に一回位は通っている。
浴槽は透明なお湯と薬湯の二つのみで、壁面にはタイルで描かれた大きなしゃちほこが活き活きと池から飛び跳ねている。
蛇口も今は懐かしい押している間だけ水が出るレバータイプで、赤の蛇口から出る熱湯と、青の蛇口から出る冷水を「ベロリン」と印刷してある備え付けの黄色い風呂桶の中で混ぜて自分好みの温度に調整する必要がある。
わざとらしいくらいにステレオタイプの銭湯然とした銭湯。
昨今のハイテク、源泉掛け流し、休憩所完備のスーパー銭湯とはまるで違う。
だが、それが良いのだ。
それと、金乃湯を語る上では外せない事がある。
ここのお湯は温泉ではないただの水を沸かしたものではあるが、そこらのスーパー銭湯にはない大きな特徴を一つ持っている。
それが……。
「ーーあっっっっつ」
そう、熱いのだ。
とてつもなく。
僕は足を浸けて3秒、慌ててすぐに引いた。
このやり取りも毎度の事で、ある程度予想はしていたが、それにしてもだ。
何度来てもこの煮え湯のような熱さには慣れない。
45、6度はあるんじゃなかろうか。
他の銭湯にも通常より高めの温度の浴槽はあるにはあるが、そんなものとは比にならない位の皮膚への刺激がある。
この感覚は最早熱い、というより痛いに近い。
「ナッハッハ、オボロゼミの次期エースとは言ってもまだまだ青いものだな」
余裕そうに笑う日高先輩。
その額には既に雨粒のような汗の雫が浮かんでいる。
「……先輩、熱くないんですか」
「熱いよ、それがいいんじゃないか」
「そりゃそうですけど」
「ここで限界まで耐えてこそ、風呂上がりのマナビールが最高に美味くなるもんだ」
まぁ、ここでいくらあーだこーだ言っていてもしょうがないので、腹をくくって一思いに再び足を湯に浸ける。
「ーーぐっ、ぅぅぅぁぁあ熱……っい……っ」
反射的にお湯から飛び出てしまいそうになる。
しかし、ここで引いては次はもっと辛いはずだ。
ここは堪えて、身体を出来るだけ丸めた姿勢で肩まで浸かる。
「おっ、おっ、おぉぉおお……」
「ナッハッハ、それでこそ男だ」
しゃちほこを背にする形で先輩と並んで汗を描く。
「いやいやいや、何回来てもこれは慣れないですね」
「他じゃ味わえない味ってやつだな、年季が違うとは正にこの事だ」
一応、救済措置ではないが、浴槽の角の常にお湯が湧き出る岩のオブジェの隣には冷水を足せるように大きな蛇口が二口あるにはある。
でも、それを使う人はここにはいない。
「水を混ぜるのはギルティですもんね、僕は足したい所ですけど……」
「ここに来るような客はこの熱さを求めてるんだから、文字通り水を差す真似は出来んわな。それに、おじいちゃん方がこの温度に耐えるのに若い俺等が弱気な姿勢を見せる訳にはいけないよ」
「そうですね、耐えましょう」
あー……。
だんだん熱さに慣れて来て、気持ち良くなってきた。
ここまで来れば、こっちのものだ。
ここ数日の地獄の様な疲れも何もかもを忘れて、身体をリラックスさせる。
「はぁ……」
「ふぅ……」
頭を空っぽに、二人並んでぽけーっと天井を見つめる。
本来の目的が何だったのか、どうでもよくなって。
どうでもよくなって。
「はぁ……」
「ふぅ……」
………………。
………………………………。
「先輩」
「んぁ?」
「いや、日高先輩じゃないです……。賀茂先輩、もうそろそろ良いんじゃないですか?」
二口並んだ蛇口の片方に向かって言う。
側から見たら馬鹿みたいに思われそうな光景だろう。
「あぁ、そういう事ね」
「センパーイ、賀茂センパーイ」
呼びかけて、銀色の蛇口を指先でつつく。
すると、突如ボコボコと蛇口が変形を始める。
透明なコップに入れたスライムを乱暴に振った時のような変則的な動き。
ボコボコと、ゴリゴリと中々エグい音を発しながら、それは少しずつ変形しながら大きくなっていく。
やがてそれは水面に接触し、ばちゃびちゃという音も混ざる。
10秒くらいそれが続いて、気付けば肌色の人型が形成されていた。
手があって、足があって、胴体があって、顔があって、毛が生えてきて。
それは見知った姿形を成していた。
「ーーよく気付いたじゃないか」
僕達よりも長く湯に浸かっていた事を示すように、大粒の汗をダラダラと流す坊主頭に、アスリートのようなガタイの良い身体。
いつもの凛々しい顔でそう言う男は、やはり賀茂先輩だった。
「気付きますよ、蛇口が二つも並んでたら不自然ですし」
「成る程、蛇口に化けるのは失敗だったか。風呂桶にでもしておけば良かったな」
「まぁ、そっちの方が自然ですよね」
賀茂先輩。
学園、そしてオボロゼミOBで、僕とみそらの代から3つ年上。
日高先輩の一つ前のゼミ長を担っていた、変装と幻覚にまつわる魔術の使い手だ。
今年からは魔警の期待のホープとしてあいも変わらず世の為人の為に尽力してると聞いている。
賀茂先輩と僕はゼミで1年間しか在籍期間は被っていないが、とても良くして貰ったものだ。
「賀茂サン、お疲れッス」
「お疲れさん。それにしても、二人とも遅かったじゃないか。流星には30分位前が集合時間だと教えたと思ったんだが……」
「すんませんね、晴明の例の件の報告書がまだ終わってなかったもんで、それ待ちで遅れたんですわ」
ここで僕を出すのか。
先輩なら庇うとか、誤魔化すとかやりようはいくらでもあったろうに。
「スイマセン」
「いやいや、責めてる訳じゃない。XXXクラスの事後処理は特に正確にやるよう教えたのはオレだしな、お疲れさん」
うん、やっぱり賀茂先輩の方が後輩としてもやりやすいよな。
というか、日高先輩は人間的に信用できない部分が普段から多い。
一人だけ単独行動が許されてるから、普段何をやっているのか僕達はよく知らないし、どことなくキナ臭い所がある。
ちなみに、ゼミ長の頃の賀茂先輩はきちんと相方がいた。
綺麗な長い髪の女の先輩だった。
名前も知らない花の匂いのする先輩だった。
そしてーー、何よりも歌声が透き通った先輩だった。
そう考えると、賀茂先輩も特に変装、変化の魔術の使い手としてはかなりのものがあるが、日高先輩の方が魔術師としての格は上なのだろうか。
そんなものを比べる物差しは直接対決をする以外には無いし、例え過去にそういった事があっても僕にその結果を知る術は無いのだが。
「賀茂先輩はいつからここに?」
「んーと、そうだな…、オレも『獄門』のせいで世間がざわついてるから、警備とか何とかの関係で夜勤明けなんだよ。仕事が終わったのが朝だから……、確か、5時間ぐらい前か?」
「5時間?!」
「ハァ?!」
びっくりしすぎて僕と日高先輩は二人揃って思わず大きな声が出る。
この人は何を言っているんだろうか。
「5時間前……って、今が夕方の6時過ぎだから、お昼じゃないですか」
「まぁ、そうなるな」
「何スか、学園出て脳ミソまで筋肉になっちまったんですか?」
「いやいや、たまたまだよ。ほら、学園の側にかた焼きそばの美味い『空海』って店があるだろ?」
「あぁ、あそこッスか。前に賀茂サンに連れてって貰った事ありますね」
「僕も去年、ゼミに入ってすぐの頃に賀茂先輩に奢って貰いました」
「そう、そこだ。夜勤明けで久々に食いたくなったから、行った訳だ。その時にお前達の事を久々に思い出してな、オレも明日は休みだからたまにはOBとして後輩の声を聞いておくか、って事で今日はこうして呼び出したんだ。で、待ち合わせがてらここで汗を流そうって思ったんだよ」
「それで待ち合わせ場所がいきなり金乃湯に変更になったんスね」
僕は日高先輩に声を掛けられただけなのでその辺りの事情は良く知らなかったが、そういう事らしい。
「こうやって僕が呼ばれるのは初めてなのて、魔警として何か聞きたい事でもあったのかと思いましたよ」
「もう何回も魔警に話は聞かれただろう、ハルだって疲れてるのは分かってるし、そんな野暮な事で呼びつけたりせんよ。OBとして、前ゼミ長としてあの『獄門』を相手にした後輩を単純に労いたいだけだ。さすがにみそらを呼ぶのはセクハラになりそうだから遠慮しておいたけど、奴にはまた今度別な形でなにかしてやるよ」
「いやぁ、さすが賀茂先輩ですね。今のゼミ長にも聞かせてやりたい話ですよ」
「おーい、そいつはどういう事だよ、晴明。あんまり調子に乗ってると知らんからなー」
「……スンマセン、調子乗りすぎました」
変わらない、やり取り。
変わらない、距離感。
今日、疲れ切った身体で、断ろうかなんて思っても、それでも何となくでここについて来て良かったと、少しだけ思える。
こんな感じで1年間、数少ないオボロゼミの、数少ない男衆でやってきた日々がどうしようもなく懐かしく感じられる。
こういう、上下の隔たりの少ない「良い関係」というものを、これからは僕達の代で新たに作り上げ、そして、オキマルの代、更に次の代へと引き継げるようにしないとな。
「でもな、本音を言えばちょっとだけ、ほんのちょっとだけではあるが、やっぱり気にはなる。オレも元ゼミ長、そして今は魔警の端くれだ。『獄門』なんて大悪党とはどのような輩だったのか。そんなのは、実際に対面したハルにしか分からないからな。オレも、流星にも想像すらつかないとても大きな経験だ」
「そうッスね、今後の為にも魔警に報告したような定型的な言葉以外にも、詳しく聞いておきたい話ではありますよね」
「……話しましょうか?」
「いやいや、無理に語らなくても良い。そんな目的で声を掛けたんじゃ無いんだから」
「……良いですよ、僕が感じた限りで話しますよ。参考になるかは知りませんけど」
うん、うん。
こうなる事は予想はついていた。
XXXクラスに出会うなんて経験は滅多に無いものだ。
普通に生きているだけでは一生で一度有るか無いかの経験。
無い人は普通に生きて。
有る人は……、その時点でまず命を落とす。
だから、一度有るか無いか。
ゼミでこういった仕事をしている僕はこれで二回目だけど、そんな運の良い奴はまずいない。
それも、今回は奴の気まぐれで、本当に運が良かったから生き延びる事が出来ただけだ。
だからこそ、信用できるこの二人にはきちんと伝える意味が、伝えておく必要性が有るのだろう。
今後のもしもの為にも。
「大まかな話を文書にした物は多分もう二人共目にしていると思うので、細かい話をしますと……、まず、こう、ものすごい金髪でした」
「金髪か」
「ええ。ほら、僕の代って僕とみそらの他にもう一人いるじゃないですか。調査に出たまましばらく帰ってきてないですけど、旭って……、熱海って苗字の面倒臭いヤツ」
旭とは八乙女先輩のいわゆる相方だ。
ちょっと特別な案件でこの町を離れて……、2ヶ月位になるか。
旭なんて名前をしているくせに僕がこれまで出会ってきた人間の中でとびきり陰気なヤツで、口を開くたびに空気がジメジメと湿気って重くなる、みそら曰く「黴けたキノコみたい」な男だ。
あれのどこが良いのか分からないが、何故だか八乙女先輩は偉く気に入っていて、ゼミに入ったのも先輩からの熱烈なアプローチによるものらしい。
でも、八乙女先輩が客観的に見ても美人な方だから全く釣り合っておらず、本当にタッグなのか、八乙女先輩の弱みでも握っているのではないかと今でもよく言われているそうだ。
二人共そういった陰口は気にしないタイプなので問題は無いらしいが、もう組んで一年以上経つというのに不憫な話だ。
「もちろん覚えてるよ。旭だって今でもオレの立派な後輩だ、今日だって金閣町にいたら誘ってたさ」
「そういや、もうそろそろ帰ってくるってオボロ先生が言ってたな」
「マジすか。てかそれ、八乙女先輩は知ってるんですか?」
「いや、まだ伝えてない。当たり前だろう、早めに伝えても亞里亞がただただ騒がしいだけだ。今回の調査だって旭が選ばれて自分は同行出来ないと分かった途端にどれだけ文句を言われた事か。アイツなら帰りの日まで毎日指折り数えながら惚気話を聞かされかねんし、そうなって困るのは俺じゃなくゼミ室に普段から居る晴明達の方だろう」
「日高先輩って……、そうやって人に気遣いとか出来たんですね」
「俺だって人の子だ、そこまで畜生には堕ちていない」
人間、知らない所で自分の運命が決まるものだ。
ありがとう、日高先輩。
この恩は近いうちに返す事にしよう。
「まぁ、その話はここらで一旦置いておいて。旭って茶色と金色を混ぜたような色で髪の毛を染めてるじゃないですか」
「ああ、そうだな。いつだか理由を聞いた気がするが、忘れちまったな」
「あの色にもっと黄色とか、金色を原色で混ぜたような随分と目立つ髪色をしていて、更に目立つドレッドヘアーでまとめてました」
「そりゃあまた、大層な自信家だこって」
そう言って賀茂先輩が眉を顰めて理解が出来ない、といった顔をする。
「それと、首に文字の書かれた長い布を巻いていたんですよ」
「布……、触媒か?」
「どうなんでしょう、少なくとも今回使った形跡は無かったです。でも、これは正確な情報ではないので報告書にも書かなかったんですけど、書いてあった言葉は……、恐らく『生の賛美歌』だったように思えます」
「光の魔術触媒、つまり、今回はたまたま使わなかっただけで『獄門』は光魔法の使い手という事か?」
「いや、違うッスよ」
賀茂先輩の言葉を否定する日高先輩。
「あっちぃわ」と言って湯から膝より上を出す形で浴槽縁に腰掛けてから、言葉を続ける。
「『獄門』の使ったマスターピースは報告の限りだとどう考えても呪いの類、闇の魔力を込めないと使えないはずッス。だろ、晴明?」
「ええ、あれは間違いなく闇の属性が主の魔術でした」
「じゃあ、その布とやらは逆説の触媒、光の属性を見に纏って闇の属性を高めてるんスよ」
「なるほど、そういう訳か」
「そっちの方が厄介っちゃ厄介ッスけどね。逆説の触媒は諸刃の剣……、反対の属性を高める分、それだけ魔力の管理は難しくなるハズの代物。だのに、それを体幹に近い首から垂れ下げるなんて馬鹿みたいな事してるとは、奴は完全に闇の魔法を使いこなしていると見える」
「……そういう事ですよね」
魔法ってのは万能じゃない。
姿を隠すだけでなく、気配、音まで消し去ったあのマスターピースは、最早「存在」という概念を捻じ曲げている。
みそらが不死鳥然り、概念に干渉する魔術は想像を超える力を得られる分、それ相応の代償を払わなければ手にできない禁忌に触れる代物だ。
奴の支払った代償は分からないが、例え逆説の触媒を用いた所であんな必殺の刃を使いこなすなんて芸当、はっきり言って普通じゃない。
だからこそ、XXXクラス。
だからこそ、『獄門』とでも言うのだろうか。
「僕が気付いた、話せるような事はこれぐらいですかね。死に物狂いだったので、他には何も考えていられなかったです」
「……ん?」
「え?何ですか?」
「いや、まだ大事な事を聞いてないぞ。ゼミ生ならあるだ、う、一番言わなきゃいけない事が」
随分と勿体ぶった言い方だ。
これ以上、僕から何を聞きたいのだろうか。
「晴明は、もしまた『獄門』と遭遇した時、次こそは捕まえられるのか?捕まえられないのか?」
問いかける賀茂先輩は、ゼミ長だった頃と同じ眼をしていた。
ただ、僕はそれにすぐには応えかねる。
事実を言うべきか。
信念で語るべきか。
少し悩んで、選択する。
「……いや、無理ですよ」
口から出たのは、事実の方だった。
「そもそも、XXXクラスをそう簡単に捕まえる力なんてあったら、それは僕もXXXクラスになるって事じゃないですか。ミイラ取りがミイラに、じゃないですけど、少なくとも今の僕には到底出来っこないです」
「……そうか、そりゃそうだ。晴明の言う通りだな」
「今の僕には、ねぇ……」
含みのある言い方で日高先輩が窘めてくる。
「ハルはまだ足を追ってるんだな」
「ええ、それがこのゼミに入った目的ですし、ある種の使命みたいなものだと僕は思ってるので。悪いですか?」
「いやいや、そんな事は無い。力なんてどう使おうが持ち主の勝手だ、それが道理に反してるってんなら俺達オボロゼミとか賀茂サン達魔警が止めるってだけの話さ。ま、将来有望な後輩がいて、ゼミ長としては嬉しい限りだよ」
「僕もゼミ長がXXXなんてやり易くて仕方ないんで助かってるんで、そこはおあいこですよ」
「ケッ、生意気なこって!」
3人揃って笑いが起こる。
実は日高先輩の名前が手配リストに載っているのは、以前に少しやらかした、やり過ぎたせいであって、必ずしも危険だからという訳では無い。
武勇伝というか、ヤンチャ話というか。
本来は名前がリストに載るなんて事は良い事な筈が無いのだが、そこは事情を知っているからこそ笑っていられる話だ。
人生とは人の歴史であり、表もあれば裏もある。
正義も、悪も、善も、悪も。
強い言葉に聞こえてしまうかもしれないが、それらは歴史の上での大多数の価値観に沿って測られるものでしか無いのだから、もしかするとそこに本質的な差は無いのかもしれない。
なんて、以前ふと考えた事を思い出した。
「さて、そろそろ上がるか、二人共。続きは飲みながらでも話そうじゃないか」
そう言って賀茂先輩が話をまとめて、湯の中で立ち上がる。
「そッスね」と、日高先輩が続いて浴槽を立った。
僕もその後を追う。
目の前には、並んで見える二つの背中。
一つは普段から鍛えている事が言葉にせずとも伝わる、ゴツゴツと凹凸のはっきりとした男らしい背中で、肩から臀部、太ももやふくらはぎのラインが美しい。
もう一つは無駄な肉の付いていない繊細なシルエットで、その性格には似付かわしくない程にとてもまっすぐしなやかな肌の表皮はまるで青々しい果実のようだ。
懐かしい光景。
丁度、一年前にも全く同じものを見た。
けれど、久々に見たそれは、思っていたよりも随分と大きな物に見えた。
この時間を惜しんだのか、つい声を掛けてしまう。
「賀茂先輩」
「ん?どうした、晴明?」
日高先輩は先に脱衣所に出てしまい、今、浴場には二人きりだった。
懐かしさからだろうか。
それとも、のぼせ上がって頭が混乱してしまったのか。
だから。
だから、一つ、聞いてしまったのかもしれない。
流れ、というか、何というか。
最初から用意していた質問では無い。
でも、口から溢れ始めた言葉は濡れたタイルを滑り落ちるように、止まる事なく全てをさらけ出してしまった。
「賀茂先輩は……、みそらを、恨んではいませんか?」
「……どうして、そんな事を聞くんだ?」
「あ……」
瞬間、先程までの熱が全て冷気に変わったように空気が凍るのをはっきりと感じる。
しまった、と思った。
やってしまった、と思った。
流れに任せて聞いてしまった自分を、とてつもなく悔いた。
何の為に、誰の為にこんな事を聞いてしまったのだろう。
一体、僕は何がしたかったのだろう。
つい、なんて言葉では済まされない。
触れてはいけない、踏み込んではいけない領域のど真ん中、目に見えるとびきり大きな地雷を全力で踏み抜くような、取り返しのつかない発言だった。
「ーーい、いえ!何でもないです!すみません、忘れてください!」
こめかみから垂れる汗は氷水のようだ。
自分でも今から訂正しようなんて無理な話だと理解している。
そうと分かっていても、僕には何とか取り繕ろうとするしか選択肢は無かった。
矢継ぎ早に誤魔化しの乾いた言葉を繋ぐ。
「僕、のぼせてどうにかしてしまったのかもしれません。賀茂先輩に、まさかこんな事を聞いてしまうなんて……」
「晴明」
僕の名を呼ぶ声。
ざくり、と脳天から爪先までを串刺しにするように突き刺さり、ぴたり身体が固まる。
「……答えになっていないぞ」
「……答え」
「ああ。オレはお前の口からそんな言い訳のような言葉を聞きたい訳じゃない。……どうしてそんな事を考えて、どうしてそんな事をオレに聞いたんだと聞いているんだ」
「……っ!!」
その眼は人を見る為の物ではなかった。
後輩を見るそれでは無かった。
僕を捉えたまま微動だにしないそれは。
敵を、犯罪者を睨みつける時の、あの眼をしていた。
これ以上は、間違えられない。
今度は踏み抜いた地雷から足を外す作業。
1ミリでもズレてしまえば、どうなるかは目に見えている。
「その……あの……」
正解が分からない。
取り繕う?……これ以上、不可能だ。
助けを求める?……誰に、何て?
逃げる?……論外、以ての外だ。
では、どうする……?
残された選択肢は、やはり一つ。
「……すみません、僕が、僕が思い出した、からです」
素直に全てを白状するしか無かった。
「久々に、死ぬかも、って。あと少しで僕は死ぬんだろうな、って思ったんです。勿論、このゼミにいる以上はその可能性は常に付き纏ってくる話ですし、承知の上でやってきたつもりです」
「………………」
「でも、いざ『獄門』を前にして、みそらがやられて二人きりになった時、僕は……、死を選択しようとしてしまったんです。ここで逃げる位なら、あの人と同じように正しく死んでしまおうって、思ってしまったんです。だから……、だから……」
「……もういい」
賀茂先輩の顔を見る事が出来ない。
ゼミ生が、自分の知ってる人が死ぬ事の辛さ、重さを一番思い知って、背負っているのは間違いない先輩だ。
それわ分かっていながら、わざわざ死のうとした事を告げるのは、あまりにも罪悪感の大きな事だった。
「……お前のやろうとした、考えた理由は良く分かった。その気持ちも分からないでもない。むしろ、オレにはそれが手に取るように理解できる。……でも」
ぺたり、ぺたりとこちらに近寄ってくる足音が聞こえてくる。
爪先が見えて、膝が見えて。
先輩が目と鼻の先にまで近づく。
そして、僕の右肩を掴んだ。
手から伝わる力は、その想いの強さを物語るように。
ゆっくりと顔を上げ、その眼を見る。
「それを良しとする訳には行かない。オレはお前が死ぬ事を許さない。お前だけでなく、オレの後輩、オレの知ってる限りで、いや、それ以外でも誰かが殺されるなんて事を許す訳には行かない。その無念を背負うのは遺された者であり、遺された者はそれを一生悔い、背負って生きて行かなければならないんだ。そんな人生に意味はない」
正義とは何であるかを示すような、真っ直ぐな眼。
過去の自分を否定し、前に進む男の眼とは、これの事を言うのだろう。
「誰かの十字架を代わりに背負う事こそがオレ達のような正義の仕事なんだ。背負った十字架の数こそが、誰かの悲しみに縛られるはずの運命を救った数だ。正義とは、その事を誇りに思い、邁進するその姿勢の事を言うんだ。だから、間違ってもオレ達が背負わせる立場に回ってはいけない。そう、お前達には教えたはずだ。二度と忘れてくれるな」
正義なんて概念を、ここまで自信を持って言い切れる人が他にいるだろうか。
強い言葉には、それ以上に強い覚悟がある。
その覚悟が、僕には足りなかったのかもしれない。
「……すみません、僕が、甘かったです。二度と、忘れないです」
そう返すが、自信は無い。
僕にそれだけの覚悟ができるか。
片手間で仕事をしているままの僕に、それだけの正義を、十字架を背負い切れるだろうか。
やはり、なるだけ早く迷いを断ち切らなければいけないのか。
その為にも、足を早く取り返さなければいけないのか。
改めて、今後の僕のやるべき事を見定める必要があるのかもしれない。
「……今はそれで良い。さあ、流星が待ってる、行こう」
「はい」
次にここに来るまでに、答えを出さなければ。
踏み出すその一歩は、とても重たく感じた。