闇に溶ける匂い その8
【金閣町駅前通り 外れ ゴールデンロード】
【安部晴明】
べちゃり、と。
嫌に水っぽい音が一つ聞こえてくる。
両手サイズの肉の塊が地面に触れる音。
みそらの頭が落ちる音。
それはイメージとは違っていた。
5キロ前後の重量のある肉と、骨と、血と、髪の毛と、脳みその集合体が宙に放り出されて、滞空して、そして土に砕ける音なのだから、もっと、こう、重厚感のある、物質的な音がすると思っていた。
でも、べちゃりと音がした。
とても、とても水っぽい音だった。
耳に残る、どこか気味の悪い音。
その音を聞いて、人間の60パーセントとちょっとが水分だなんて話を、初めて理解出来たような気がした。
「……んぁ?」
少し先の漆黒に滲み出るように、浮き出るように再び『獄門』が姿を現わす。
彼女との勝負に勝ったというのに、その表現は疑問に満ちていた。
「魂を刈った手応えがねぇ……、どういうこった?」
その言葉に、少しだけ心を落ち着ける自分がいた。
どうやらみそらはきちんと生まれ直す事が出来たみたいだ。
「あいつはそういう体質なんだよ」
「体質……?何かの魔術って事か?」
「……そんな所かな」
「何だそりゃ、不死身とは大したチートじゃねぇか」
別に教える必要は無かったのかもしれない。
というより、今後もこの男と巡り合う事もある可能性を考えると、教えなかった方が良かっただろう。
でも、教えた。
きっと、みそらもそれを望んでいるだろうから。
それでこそフェアであり、一騎打ちで殺り合った二人に相応しい距離感だろうから。
「まぁ、生きてるってんなら俺はそっちの方が面白いから良いけどな。この俺に必殺を使わせる奴なんて久々だぜ。あの女、まだまだ強くなるはずだ」
「伝えておくよ、みそらもきっと喜ぶだろうから」
さて、と。
僕は身を屈め、地面に右手の指を突き立てる。
「……んぁ?」
深く、深く、出来る限り深く、その爪を食い込ませる。
男を一撃で仕留める為に。
「ーーボウズ、アイツに勝てると思ってるのか?ーー」
「……いや」
「ーーそりゃそうだよなぁ、あの男はボウズの何十倍も、いや、何百倍も修羅を纏ってきた臭いがするからなぁーー」
「……ああ」
「ーー死にたいってんなら止めはしねぇけどよぉ、俺には今すぐ元いた道を戻った方が賢明に思えるぜーー」
「……そうだな。その方が利口だし、きっと頭の良い選択なんだろうな。でもね、懺鬼」
右手の甲に、左の手のひらを重ねる。
ありったけの魔力を込めて。
「……僕には、それが正しいやり方には思えないんだ。そんな風に生きてまで正義を名乗れる程、正義を降りかざせる程、僕は強くないんだ。だからーー」
僕とみそらに正義を教えてくれた人がいた。
その人は、清く、正しく、常に正義であろうとした。
どこまでも、平和を目指していた。
信念を貫き通して。
いつまでも弱者の味方であり続けて。
そしてーー。
ーーそして、一人で散って行った。
その生き様を、あの人が歩いてきた道を、僕は穢す訳にはいかない。
この命を以って、あの人が正しかったと証明しなければならない。
「ーーだから、あの男をこのまま見逃す訳にはいかない。僕が正しくある為に、あの男は正しくないと思い知らせる為に、ありったけの力を僕に貸してくれ……!」
全身の回線を限界まで拡張する。
瞬間、電流のように走り抜ける違和感。
か細い血管が内側から無理矢理広げられ、生身では到底耐えきれない程の激痛が走る。
死ぬほど痛いとは正にこの事だ。
だから、どうした。
この程度、みそらが受けた痛みに比べれば、痛みですらない。
彼女は死んだけど、僕はまだ死んではいないのだから。
そう思えるから、まだまだ耐えられる。
僕にはやらなくちゃあいけない事が残されている。
「ーーそうだ。それで良い。闘争無くして平和を願うなんて虫のいいおとぎ話は存在しない。望むなら、そう、勝ち取るんだ|ーー」
そんな想いに応えるように、身体中に魔力が満ちていく。
力がどこまでも湧いてくる。
紋章の様に浮き出た血管はくっきりとその血潮の流れを皮の裏から映し出す。
筋線維の一つ一つが膨張し、限界まで張り詰める。
指は更に地面に食い込み、握るような形でグリップを効かせる。
これが、ありったけの鬼の力。
今の僕の暴力の限界。
でも、これでも。
あの男に届くかどうかは分からない。
構える。
地に伏せた身体はさながらバッタのようなフォルムとでも言うべきだろうか。
自分が人である事を忘れ、野生に近いそれになっているのを自覚する。
狙うは一点。
男の胸の中心だけ。
その心の臓を必ず抉ってみせる。
今の僕と男とは実力差がありすぎる。
だから、長期戦は不利、いや勝ち目は万に一つも無いだろう。
この一瞬、この一撃だけが、僕に残された唯一無二のチャンス。
感覚を、集中力を尖らせる。
視界から異物を排除していく。
ターゲットを中心に据え、意識を固定させる。
「お前もやるってかよぉ、若いってのは血気盛んなこって良いもんだなぁ……」
やれやれと、野暮ったいポーズをわざとらしくとって、男は僕の方を向く。
みそらの時と同じく、どこまでも自然体で構えずに。
「そのワンちゃんみたいな構えは……、アンタ、いきなりマスターピースで来るのか」
「悪いが、手加減は出来ない。全力で、僕はお前を殺す」
「死にたがりも嫌いじゃねぇが、そこまで頭が悪い奴には見えなかったんだがなぁ……」
「そう見えたなら、それは間違ってないよ。僕はこんな所でお前みたいな悪党相手に死ぬ気なんてこれっぽっちも無いんだから」
「言うじゃねぇか」
余裕の笑みを浮かべる男に対して、僕の顔は緊張で引きつっている。
震えが止まらないのを、何とか抑え込んでいる。
顎には汗の雫が溜まり、今にもこぼれ落ちそうだ。
怖い。
どうやったって勝てる気がしない。
飛び込めば死ぬのが分かっているのに退かない自分を今すぐにでも抱きしめて労ってやりたい。
いや、考えるのはやめだ。
これ以上は覚悟が鈍ってしまう。
中途半端で終わる事こそ、あの人に、自分に失礼だ。
死に様は、生き様。
散り際にこそ、自分のこれまでの選択の結果が現れる。
なれば、やるだけのことはやったと言い聞かせて、自分を信じてやるしか無い。
ただ一つ。
思う事があるとすれば。
「……みそら、ごめんな」
腹はくくった。
分厚い雲の隙間、ぽかりと空いた小さな穴から綺麗な満月が顔を出す。
暗闇に差し込む光が僕と男の丁度中間の地面のアスファルトを照らす。
それが、合図だった。
「ーー《鬼」
「辞めだ、辞め。帰るわ」
くるん、と。
背中を向けて『獄門』が歩き出す。
「……は?」
僕は突然の事に呆気にとられ、その場で固まってしまう。
「ちょ、ちょっと待てよ、おい!何で僕とは戦わないんだよ!」
「いやいや、そもそも今日はもう殺さねぇって決めて俺ァ言ってんのに突っかかってきたのはアンタの連れのあの女の方だろぉ?アンタと殺り合う理由は元々ねぇじゃねぇか」
そう返す間にもてくてくと男は歩を進める。
「あの女が不死身で殺さずノーカンで済んだから俺としても問題無し、俺が帰ってアンタも問題無し、それで良いじゃねぇか」
「いや、そうは言っても……」
「それに、アンタだって死にたかぁ無ぇだろうよ」
「………………」
その言い分はもっともだ。
男が立ち去るのならここの危険性は無くなる訳だし、今日はもう殺しもしないと言うその言葉が本当なら被害の拡大も無い訳だ。
この場で男を僕が捕らえられるという可能性も極めて低いし、僕としても助かる選択だと言える。
考えれば考えるほど、それがベストの選択に思えてしまう。
「そう辛気臭い顔すんなって、どうせアンタらとは長い付き合いになるだろうからまた殺り合う機会もあるさ」
このままXXXを、あの『獄門』をみすみす逃して良いものか。
でも、今この場で僕に出来る事って何だ。
だんだん自分でも思考がまとまらずに混乱してくる。
「じゃ、そういう事で。お互いさっさと帰ってシャワー浴びて寝ようぜ。俺ァ明日も朝早いしよ。いや、もう日を跨いだから今日か。尚更急いで帰らねぇとな」
「……僕は事後処理とか、報告書とかあってそうもいかないんだよ」
「そうなのか、ご苦労なこって。でも、結局早く終わらせたいのは同じじゃねぇか」
「……まぁ、そう、かもしれない」
生返事とはこの事だろうか。
「ま、次会うときまで達者でな。あの女にも伝えといてくれ、じゃあな」
そう言って、男は闇に消えて行った。
「………………」
そんな形で。
突然訪れた平和。
……平和?
何はともあれ、危機は去った。
僕は構えを解く。
そして、ゆっくりと魔力を鬼に返しつつ、回線を元に戻していく。
「ーー何だこりゃーー」
「……僕にも分からん」
どっ、と。
死の覚悟が無駄に終わった気の緩みからか、疲れが押し寄せてくる。
その場に立ち尽くしたまま、しばらくぼけっとして数分。
何もせず、数分。
「ーー無事、みたいだな」
背中から声が掛けられる。
知っている声だ。
振り返ると、刀を携え戦闘態勢のオボロ先生が立っていた。
「……ええ、先程、帰って行きましたよ」
「帰った?」
「ええ」
「どういう事だ?」
「僕にもよく分からないですよ」
納得できない表情のオボロ先生。
僕だって同じ気持ちだ。
「……ま、晴明が無事ならそれ以上の結果は無いじゃない。さっきオキマルから連絡があって、みそらもちゃんと復活できたみたいだし、とりあえずは問題無しね」
「先生、オキマルとの回線繋いであるんですね」
「当たり前じゃない、これでも先生よ、私?」
「僕はまだ繋いで無いのでちょっと以外でした」
「あら、意外。晴明はうちのゼミの管理職って感じだから全員分持ってるのかと思ってたわ」
「管理職て……。先生が何かとサボるから僕がそのツケを払ってるだけですよ」
「そうだったかしら」
エヘッ、なんてその年齢ではキツイような先生の笑い方を見て、ようやく気持ちが身体に戻ってきたというか、馴染んできた気がした。
「それじゃ、さっさと事後処理とかやっちゃいましょうか」
「エーッ!それ、私にもやれって言うの?」
「今日は逃がしませんよ。XXXの事件なんで、すぐに魔警も捜査に来るでしょうから、先生には立ち会ってもらわないと」
「それもそうか……。トホホ、学生のパンチとはいえ、わざわざ来るんじゃなかったわ……」
僕は動き出す。
黙ってても、何も始まらない。
今後の課題と、不安を心の隅にしまい込んで、とりあえず今日やるべき事を済ませてしまおう。
いつか、あの男をこの手で捕まえる為に。