闇に溶ける匂い その5
【金閣町駅前通り 外れ ゴールデンロード】
【安部晴明】
ゼミ室には手配リストというものがある。
過去に何かしらの犯罪……、特に魔法犯罪を犯した者、あるいは事件そのものの概要が載ったとても分厚い冊子であり、逮捕者、死亡者、そして新たなる犯罪者の発生にともない、日々その中身は魔法局の管理の下、自動で更新されている。
リストの大半を占めるのは、Xクラスと呼ばれる小さな事件や危険性の低い案件だ。
僕とみそらが二人だけでの見回りや、簡単な依頼に際して相手する犯人の多くがこれであり、まだ確認はしていないが、先日の旧校舎のゴーレムの件もおそらくXとしてリストアップされているはずだ。
次に多いのがXXクラスであり、夕方のニュースや新聞に載るような一般大衆にも知れ渡る規模の事件の多くがこれに当たる。
当然、危険性はXからは跳ね上がるために規則としては3人以上での対応が推奨されてはいるが、人数の関係上、コンビだけで調査に当たる事も多く、場当たり的にそのまま犯人と対峙する事もそれなりに多い。
以上の二つが全ての事件の9割以上を占めており、リストも大半はこれらの分類の事件が書かれている。
それはつまり、基本的に事件のほとんどはコンビで何とかなる範疇のものばかりだという事だ。
僕達はこの程度までの危険は承知の上で日々の活動に取り組んでいて、有り体に言えば、オボロゼミの活動としては普通、常識的な話なのである。
ここまでは特に語る事もない。
問題は最上位、XXXクラスについてだ。
割合にして残りの1割に満たない、たったそれだけの人数、事件しか分類される事の無いクラスではあるが、その被害の人数、規模、危険性は、XとXXを合わせたとしても到底届かないものであり、その一人一人、事件の一つ一つが名前を出すだけで誰もが知っている程、特別視されている。
そして。
そ僕がオボロゼミに入室してから1年と少し。
毎日更新されているリストの内容でも、このクラスに当たる手配犯の人数が更新された事はただの一度も無い。
増える事も、減る事も無かった。
もし、そのチャンスがあったとすれば、あの時。
ゼミ総出で立ち向かい、死に物狂いで戦って、それでもあと一歩の所で逃してしまった、『血濡れサーカス』の一件だけ。
それだけ危険で、特異で、不明な存在として誰もが知っているにも関わらず、どうしようもなく野放しにされている、生きているだけで災厄とも呼べる程の存在、一握りの悪そのもの。
悪人を超えた、極悪人。
それが、XXXクラス。
そして、今、目の前にいる男こそーー
「どうしたよぉ、避けてるだけじゃ俺には勝てないぜぇ?」
「ーーッッ!!!」
『獄門』。
活動開始時期、不明。
10年程前から活動し続けていると言われるXXX。
出没場所も不明、いつ現れるかも不明、誰が狙われているかも不明。
それでも。
相手が赤子であろうが、老人であろうが、素人であろうが、手練れの魔術師であろうが。
狙われた獲物は必ず消し去る。
骨の一欠片も、血潮の一雫すら残さずに。
逃げる事も、抵抗する事も許さない、通り雨のように突発的な、神隠しのように不条理な犯行から、誰かが言い始めた。
地獄の門を管理する死神の仕業だ、と。
だから、『獄門』
「ッラァ!!!」
「おっと、危ねぇなぁ」
その被害人数、被害規模、不明。
恐らくその仕業だとされているだけでも数百人。
人によっては千を超えるとさえ推測する。
一体、どれだけの無関係な一般人を屠って来たのだろうか。
それだのに、誰もその犯行を見た者は誰一人としていない。
生きていない。
ただ、極めて少ない目撃証言からか、はたまた風の噂か、そいつにまつわる都市伝説のような言い伝えが、どこからともなく広がっていて、今もそこかしこで語り継がれている。
そいつは闇夜に鎌を持って現れる。
ゆらりと暗がりから現れて、
ぬるりと暗がりに消えていく。
姿を見たなら、諦めろ。
請うも、願うも、潜めても、
その全ては意味を持たない。
ただ、祈るが良い。
ひたすらに、ひたむきに。
そうすれば、少しくらいは、
次は幸せに生まれてこれるかもしれないから。
「ーーッァ!ダァッ!!!」
「よっと、おっとと」
空気の焦げ付くような芳ばしい臭い……。
『獄門』とみそらの殺し合いが始まって数分。
状況は最悪という他ないだろう。
みそらは搦め手抜きで、ただ男の顔面に一発のパンチをお見舞いする為に真っ向勝負で突っ込んで行く。
そんな彼女の猛撃を、男はあっさりといなしてしまう。
あの黒い棒切れを巧みに操り、紙一重の所で躱してしまう。
汗一つ流さない余裕の男に対して、みそらはスタートからぶっ続けで怒りに身を任せたトップギア状態、当然、かなりの疲れの色が見え始めている。
そもそもが素手対長物というハンデを抱えた闘いだ、素人相手なら力押しでいける事もあるが、相手は『獄門』程のプレイヤー。
その熟練の長物捌きに単身特攻をかける事自体が悪手でしか無く、このまま長期戦に流れ込んで割りを食うのはどうやっても彼女の方なのだ。
みそらはどこかで逆転の一手を打たない限り、男に勝つことはおろか、一撃を当てる事すら出来そうも無い。
そう遠く無い内に、みそらの体力が限界に達するだろう。
決着は近い。
それはきっと、みそらも分かっているはずだ。
たが、いい話が全く無い訳でも無い。
とても価値のある情報を一つ、得る事が出来た。
それは、男の扱うあの長物……、黒い棒切れについてだ。
違和感に気づいたのは、初めてそれを手にした時。
僕は先端から少し離れた位置に空間のボケを見つけた。
ボケ、ピントのズレ、ノイズ、なんと表現すれば良いか分からないが、とにかくそこには空間のズレがあった。
しかし、それを注視しようとした時、それは一瞬にしてフッと消えてしまった。
見間違いか、なんて思っていたのだが、次の違和感でその正体に気づけた。
みそらと男の戦いが始まってから、そのボケは頻繁に消えては現れ、現れては消えを繰り返すようになった。
それと、みそらの手首や首にだけ浅い切り傷が着くようになった。
正体を確かめようと、棒の先を注視すれば見えなくなり、諦めるとまた見えるようになる。
そこで、一つの仮説から、視界の端にギリギリそれが入るように、「見る」のでは無く、「視界に入る」状態を作り上げた。
そこではっきり見えたのは、大きく婉曲した、切れ味鋭い二枚の刃だった。
さらに、二枚の刃は流動的に変形していて、男が棒を振るう度に、確実にみそらの首や手首などの急所を狙える最適な大きさ、角度、形に変わっていた。
男が言っていた殺しの道具とは、適当に降っても、狙って降っても、絶対に相手の急所を切り裂くよう自分の意思で動き出す、これ以上無く厄介な「鎌」だった。
つまり、今のみそらはこの仕組みに気付いていなくても、例え気付いたとしても、見えない一撃必殺の刃を避けつつ、男へ攻撃をしているという事になる。
それも、近接戦闘のみでこれだけの時間を一人で、だ。
残念な事にまだ一撃すら入れられてないが、それでも彼女自身もまだ一撃も大きな攻撃は貰っていない。
やはり彼女の格闘センスというものが飛び抜けて高いという事に他ならない。
だが、やはりどうやってもみそらの圧倒的不利は変わりようが無い。
首や手首には無数の切り傷、右足の靴は熱で溶けて裸足になり、手の炎も最初に比べてどんどん弱くなっている。
「ーー加勢、するか?ーー」
「……いや、みそらが一人でやると言ったんだ。僕達は手を出しちゃいけない」
「ーー難儀な奴だぜーー」
僕には、見守るという使命がある。
正義と悪の真っ向からの勝負を。
例え、いくら不利な状況でも。
いくら血反吐を吐いて跪くような決定的な瞬間でも。
いくら目の前で彼女が首を刈り取られようとも。
僕はその過程から結果までの全てを見守る必要がある。
みそらがやると言ったのだから。
見届けるのが相方である僕の使命だ。
「そぅら、そろそろキツいんじゃないの?」
「ーーチィッ!!」
少しずつ押され続けていたみそらが、遂に体制を崩す。
弾かれるように後ろに飛ばされ、べたりとつく尻餅。
少し後ろに身を引くように下りはするが、そんなものは数歩程度の時間稼ぎにしかならない。
男がにじり、にじりとわざと時間をかけるようにゆっくりと歩いて距離を詰め寄る。
「降参なら受け付けてあげるよ、このまま続けてたら手が滑って殺しちゃいそうだしねぇ」
「ケッ!!こんなに有利なゲーム、捨ててたまるかよ!!てか、降参ならそっちがするべきじゃねぇの?!」
「ハァ……、生意気なお嬢ちゃんだこーーっ!?」
「ーーヘッ、ようやくかよ」
瞬間。
男が足を滑らせる。
気付けば、戦闘を始めた位置から、二人の立ち位置は動いていた。
動かされていた。
みそらの計算通りに。
その距離、およそ3メートル。
男は、最初にみそらがいた辺りに立っていた。
そこから、みそらが今いる位置まで、地面には一本の細い道筋。
足一つ分程の幅の、浅く、滑らかな地面の抉れ。
圧倒的不利な戦いの最中、みそらが右足に魔力を集めて熱を放出し、土、ごみ、塵、残留物の全てを溶かして作った窪み。
途中からずっと続いていた焦げ臭さの原因。
一本の、細く、短い、勝ち筋。
「この瞬間を待ってたんだよォ!!!」
僕はこの光景にはっきりと見覚えがある。
先日のゴーレム戦で実際に彼女がやらかした失敗。
あの時の失敗を、今度は自分の技にしたのだ。
ずっと狙っていた機会。
みそらが戦いの中に見出した、千載一遇、唯一のチャンス。
「チィッ、小癪なっ!」
男が咄嗟に鎌を振る。
見えない刃がみそらの首にかかり、これまでで一番深い傷をつける。
柔肌に刻まれる一文字。
飛び散る鮮血。
それでも、みそらは止まらない。
飛び込むように突っ込んだ勢いそのままに、燃えたぎる拳に想いの全てを注ぎ込んで、振りかざす。
そして、一閃。
ゴシャリ、という鈍い音が響く。
みそらのパンチが、男のテンプルを捉えた。
踏み込み、抉るような、回転を効かせた渾身のストレート。
「やった!」
「ーー……いや、足りないーー」
しかし、浅い。
いくら準備していたとはいえ、崩された体制からの始動で彼女の反応が遅れたか、男が済んでの所で受け身を取ったか、あるいは完全なる時の運の仕業か。
男の身体は少しよろけたものの、直ぐに体制を立て直し、再び間合いを取った。
そこに、追撃の隙はない。
渾身の一撃は確かに届いた。
届きはした。
しかし、それは逆転の一手と呼ぶにはあまりに弱く、形成を変えるには程遠い。
「……いやいや、大したお嬢さんだぜぇ。この俺に攻撃を当てるなんて」
「ケッ!大したダメージも無ぇじゃねぇかよ、笑わせんな」
「いやいや、俺は本気で尊敬するぜ、なにせ俺に少しでもダメージを喰らわせた奴なんて、ここ10年じゃアンタだけだからよ」
男が笑う。
「クククッ……カーッカッカッカッ!!!」
それは、先ほどまでの作ったような不敵な笑顔ではなく、子供のような心からの笑いだった。
闇夜の何も残っていない通りに、甲高い笑い声がどこまでも響いていく。
みそらは構えたまま、動こうとしない。
男は暫くの間、笑い続けた。
ケタケタと。
カタカタと。
まるで、壊れた目覚まし時計のように、笑い続けた。
それが、ようやく終わる頃。
涙を拭いながら男はみそらに向かって言った。
「いやー!面白ぇ、面白ぇ、面白ぇ!最高だよ、アンタ!!!」
途端。
急に風向きが変わった。
先ほどまで無風だったこの通りに、幾多もの突風が吹き荒れる。
異常なまでの風量。
気を抜けば、飛ばされかねない程の風力。
突風は男を中心に発せられていた。
「……っ!」
「アンタ!良いよ、面白れぇよ!!最高だ!!!こんなに楽しいのは久々だぜぇ!!!」
「急にどうした、悪党らしく脳ミソまで腐り切っちまったか?」
「いいや、そうじゃない……、逆だ、逆だよ……、俺ぁ今、最高に昂ぶってるんだよ!!!」
男の様子が変わった。
大きく開かれたその眼は、ショーケースの中のおもちゃを見つめる子供のように爛々と輝いていて、どこまでも深く狂気を感じさせる。
どうやら。
みそらのあのダメージにもならない一発のパンチが、『獄門』というXXXの本性を呼び起こしてしまった。
これまでの余興とは違う、対面していない僕でも浴びる程に感じさせられる、悪意と殺意。
そして、直ぐに男の口から発せられた言葉に、僕は耳を疑った。
「決めたぜ、俺ぁ……。もう殺さねぇなんてつまらん決まりは今日はナシだ。……アンタ、特別に殺してやるよ。それも、俺の全力で」
それは、紛れも無い、一切の歪みを許さぬ、一方的な処刑宣告。
約束が違う。
最初に男は確かに今日はもう殺さないと言ったのに。
ただでさえ、みそらと男には絶対的な実力差がある上、彼女は既にかなりの魔力と体力を消耗してしまっている。
もし、男の言葉が本当だとすれば、これから始まるのは殺し合いなんかでは無い。
ただの蹂躙だ。
人が虫を狙って靴底を振り下ろすような、どうしようもない破壊だ。
「ち、ちょっ、ちょ、ちょっと待てよ!今日はもう殺しはしないって、殺さないってーーっ?!」
何とかみそらを守りたくて、その一心で僕は叫んだ。
男に乞い、懇願した。
しかし。
僕の叫びは遮られた。
見違えるほどバリバリに蘇った、紅蓮の炎を纏った右手で、みそら自身の後ろ手一つで制された。
何故?
みそらは死にたいのか?
そんなにも、殺されたいのか?
それだけでも僕はみそらの考えが理解出来ずに混乱しているというのに。
更に混乱の極地まで陥れるような一言を彼女は男に向かって言い放つ。
「来いよ……テメェの全力とやら、アタシが全部受け止めてやっからよ」
「おい!みそらっ!お前……、何を言ってーー」
「ーーハルは下がっとけって言っただろ!」
彼女が吠える。
今まで見た事ない程の気迫で。
気圧され、もうそれ以上は何も言えなくなる。
「……これは、アタシと、コイツの、サシの勝負だ!」
「そうこなくっちゃあなぁ……」
『獄門』の、XXXクラスのマスターピースは、僕らの一般的なそれとは話が違う。
最高の魔法、なんてチャチな表現では片付けて良いものでは無い。
発現した時点で、災害や、天災レベルの被害が及ぶ物もあれば、運命、概念そのものに干渉するような反則級の物もある、もや何でもありの世界。
対象に向けられる、人智を超えたパンドラボックスのような魔術をXXXクラスの人間は当然のように扱うと言われる。
それを初見で受けきるなんて芸当、たとえオボロ先生だったとしても、出来る可能性は限りなく低いはずだ。
だのに。
彼女が真正面から受けるなんて、そんなの、ただの自殺行為だ。
幾らみそらがまた生まれ直せるとは言っても、その前に一度死ぬ事に変わりは無い。
死の苦痛を味わう事に他ならない。
僕は、みそらに死んで欲しく無い。
「それじゃあ、いくぜ。言い残す事はねぇなぁ?」
「言い残す言葉か……、そうだな、アタシはみそら。祠堂みそら。いつかテメェを殺す人間の名前だ、覚えておけ!」
「いつか、ねぇ……」
ケケケッ、と男が再び笑う。
「やっぱアンタ、最高だぜ。殺すにはちと惜しいが……、スマンな、俺の全力は必殺なんだわ」
ニヤリ、と彼女が笑い返す。
それが、最期の合図だった。
「ーー《必殺》 ここは地獄の一丁目」
「どっからでも来いやぁぁぁアアア!!!!!!」