闇に溶ける匂い その4
【金閣町駅前通り外れ 飲み屋街】
【安部晴明】
「次のお店はどうするかにゃー?」
時刻は日を跨ぐ少し前。
みそらがフラフラキョロキョロしながら飲み屋街を探るように練り歩く。
その後ろをポテポテとゆっくり付いて行く。
一軒目で良いだけ飲んだのに、僕もみそらも足取りがやけにしっかりとしているのは、きっと何も知らない人から見るととんでもない酒豪に見える事だろう。
遠からず、近からず。
酒豪というのは語弊があるだろう。
正しく言うと、二人ともいくら酒を飲もうと酔っ払う事が無いというだけの話だ。
僕は懺鬼の影響で浴びるだけ飲んでもさして酔わない身体であり、彼女に至っては体内の毒素が常に不死鳥の活動によって分解される身体なので、そもそも酔うという事が有り得ない。
彼女は飲むと気分が良くなるのでテンションが上がると言うが、僕にはその言い分はよく分からない。
いくら気分が良いからといって、語尾にニャンニャン付けるのは控えて欲しいものだが。
「ハルー、次は魚行ってみっか!ほら、見てみろよ!火炎魔法のフランベ、って書いてあるぜー?!」
「僕は何でも良いよ」
「何でも?……あっそ。じゃあニンニク料理出すところな」
「ちょっと、ニンニクはやめてくれよ!」
ニンニクは嫌いだ。
次の日になっても臭いが残ると分かっていて、なぜ食べたがるのかが全く理解できない。
ニンニク好きの輩はよくも自分の口からあの臭いを発したまま一日を過ごせるものだ。
一体どういう神経をしていたら口を開くだけで周りに不快感を与える存在になってまで生きながらえていられるのだろう、と常日頃から疑問に感じている。
……まぁ、タバコを吸う僕も非喫煙者からそう見られているのかもしれないし、そう考えると僕も大概ではあるが。
とにかく、タバコは無いと困るが、ニンニクは無くても生きていけるのだから、僕はなるべく口に入れたくない。
「……ん?おお?あのあたりとか雰囲気あって良い店がありそうだな!」
「あの……、ゴールデンロードって書いてある所か?」
「そう、ハルは行ったことあっか?」
「いや、存在すら知らなかったよ」
「じゃあ決まりだな!二軒目はあそこで探そう!」
みそらが少し先にある古びた鉄のゲートに向かい、腕を大振りにして闊歩していく。
……あいつ、本当に酔ってないのか?
どう見ても素面のテンションには見えないけれども。
ゲートの前に立つと、ゴールデンロードの全容が目に入ってきた。
薄汚れた細い道で、スナックにバー、パブといった飲み屋特有の色とりどりの看板が所狭しと並んでいる。
通りにビールケースをひっくり返した椅子と木製の簡易的なテーブルがはみ出ている店もあって、仕事終わりの出来上がったリーマンが騒いでおり、いかにもといった雰囲気を醸し出している。
特に、壁の「キンキンに冷えたポッピーあります」「看板商品 モツ煮」と書いてある張り紙なんかは、ニクイほどにふらっと立ち寄ってみようかな、と店選びに迷う感情を煽ってくる。
ハムカツ、いいよね。
ソース多めで一口齧れば、口に広がる脂の甘さと衣のサクサク感。
ジューシーな肉の味はとたんにビールが欲しくなってしまい、ついつい杯数が増えていってしまうものだ。
あれはまさに悪魔のおつまみだ。
気取らない呑兵衛の為の呑兵衛による飲み屋街、溢れんばかりのレトロ感、これぞゴールデンロードといった所だった。
「おー、いいじゃんかよ!」
「こんなわざとらしい位の飲み屋街なんてあったんだな」
「今まで知らなかったのが不思議なくらいだぜ」
「さーて、どのお店が当たりかにゃー?」なんて言いながら店の看板を指でなぞってみそらがゲートをくぐる。
だから、にゃーって言わないでって……。
そもそも、何で猫なんだよ、お前は鳥だろうに。
と、一歩踏み入れた所で、それまで軽快に動いていた彼女の足はピタリと止まってしまった。
「どうしたみそら、そんなに目についた店でもあったのか?」
「……あぁ、当たりだな、こりゃあ。大当りだぜ、ハル」
後を追って僕もゲートをくぐって一歩踏み入れた時、彼女が足を止めた理由がはっきりと理解できた。
瞬間、つま先から頭の先まで一気に走るゾワッとした悪寒と共に、僕の目の前に広がる全てが真っ暗に染まる。
ネオンの明かりも、蛍光灯の輝きも、さっきまでそこかしこで賑わっていた店先の人達も、全てが夢まぼろしのように消え去り、ただの細く真っ暗な一本道へと姿を変えた。
じめっと湿った嫌な空気が漂っていて、まるでこれ以上踏み込むなと言われているような、この先を探れば確実に不幸を目の当たりにするような、そんな予感がする。
只事ではない事件の予感を既に感じさせる程の、溢れれんばかりの嫌悪感。
「……人払いの魔法に、過去を写す幻術の類か」
「ったくよぉ、これじゃあゴールデンどころか、ブラックロードだぜ。皮肉にもなってねぇ。せっかく気分良くなってきた所なのに、興が冷めるったらありゃしねぇよ」
「残念だけど、次の店はお預けみたいだね」
「ケッ!お預けで済めば良いけどな」
スンスン、と音を立ててみそらが匂いを嗅ぐ。
彼女の鼻は特別良く利くので、これで相手がどの程度の力量なのかを探れる事も多い。
「……匂うぜ。鉄と、死の混じった、とびきりキッツイ匂いがよ。油断したらアタシ達も死ぬぜ、こりゃあ」
「……ハァ」
正直、彼女のような鼻が無くても、相手がその辺の有象無象とは話が違うのは誰にだって分かる事だった。
通り一帯を、それもあれだけの人と光量を隠せるだけの人払いと過去写しの重ね掛け、かなりの腕が無いと出来やしない。
間違いなく僕達の何倍もヤバい奴がこの先にいる。
あんな縁起でもない話、さっきの店でするんじゃなかったと後悔する。
まさか、こんなとびきりのハズレくじを話したそばから掴まされるなんて、思ってもみなかった。
みそらが片手の親指を片耳に突っ込み、小指をアンテナのように立てる。
あれはいわゆる交信、テレパシーのようなものだ。
あらかじめパスを繋いだ相手の脳に直接連絡ができるという初歩的な魔法の一つである。
きっと今日のゼミ室の当直の誰かに連絡をするのだろう。
「おーい、おーい、アリアさーん?」
『でね、ここは土と水の魔法の性質の複合を考える問題でね、それで……』
「おーい!おーーーい!!!」
『……あら?誰か私のことを呼んでいるかしら?』
「アタシだよ!みそらですよ!」
『はいはい、みそらちゃんね、こんな時間に突然どうしたの?』
「気付くの遅ぇッスよ!緊急事態です!」
『気付けなかってごめんねぇ?ちょうど今、コロマルちゃんに勉強を教えていた所で♪……って、緊急事態?』
「そうッス!一応、こっちで手に負えなかった時の為に、追っ付けでサポートの準備しといて下さいッス!あ、あと暖炉に火ぃ点けといて下さい!」
『了解よー♪……あれ?今はそっちはみそらちゃん一人じゃないわよね?』
「あー、一応ハルアキがいるっすよ」
「一応、って何だよ。一応って」
『あなた達二人が揃ってるなら、こっちの準備とかいらないんじゃないのかしら?』
「いや、それがまだ何も確認はしてないんスけど、大分ヤバそうな匂いがするんで、念の為って感じでよろしくお願いします」
『……そう、分かったわ。それじゃあ、くれぐれも気をつけてね』
「うぃーッス」
……この状況で一番事の大きさを把握出来ているのは、匂いで状況がある程度把握出来ているみそらだろう。
そして、普段はあれだけ適当な彼女がここまで言うのだ、この先の暗闇に潜む相手は僕の予想を超える危険な存在だという事だ。
最悪を想定するなら、『血濡れサーカス』クラスまでは行かないまでも、『無能狩り』クラスが出て来ると考えるべきだろうか。
となると、僕も万全の準備で臨む必要があるだろう。
いつもは最初は片手だけで済ませてしまうが、今回は念には念を入れ両腕に一文字の線を引き、戦闘態勢を整える。
「ーー斧はいるか?ーー」
「……ああ、必要になるかもしれないから借りておくよ」
「ーー了解、ほれーー」
懺鬼がそう言うと、何も無かった僕の右手に斧が現れる。
見た目は片手サイズの小振りな無骨で真っ黒い斧だが、実際に持つと大人数人が全力でかからないと持ち上げられない程に重たい一本だ。
僕も懺鬼の力を借りていない生身の状態ではきっとピクリとも動かす事が出来ないだろう。
節々には欠けたり擦れたような傷が無数に散在していて、長いこと使い込まれた証になっている。
この斧の名は『懺鬼』、文字通り懺鬼が振るった本物の鬼の斧で、懺鬼が唯一使った凶器である。
一度振るえば相手の防御ごと打ち砕き、肉も骨も分け隔てなく全てを潰す、血塗られ、呪われた刃。
これを正義の立場で扱う事を躊躇った事もあるが、あえて人を救う為に使う事でこそ、これまでにこの斧が奪ってきた命に対する贖罪になると僕は信じて使っている。
「『点火』ーー!」
みそらも両手を宙で払い、紅蓮の炎を拳に纏う。
普段のタバコに火を点けるようなちゃちなものでない、魔力を解放して放つ火炎魔法。
手だけでなく全身から放たれる熱気は、隣にいるだけでバチバチとその圧を肌に感じさせる。
オボロゼミに限らず、魔法使いのコンビというものは基本的に一人が戦闘、もう一人が補助を担当する事が多い。
当たり前の話ではあるが、そうやって分担することで様々な場面に対応しやすく、そして、短所をカバー出来るのは、魔法なんていうイレギュラーの塊を自分も相手も扱うシチュエーションにおいては非常に大きな意味を持つ。
しかし、僕達は二人とも戦闘要員、それも近接戦がメインの魔法使いであり、そうしたセオリーからは外れた組み合わせである。
僕は魔力の残滓が見える「眼」が、みそらは状況把握に優れた「鼻」があるので、探索等の戦闘の前段階における情報収集は困らないのだが、近接メインというのは、やはり相手次第で有利、不利が尚の事はっきりとしてくる。
遠距離から強力な魔術を扱う相手だと近づくまで無防備だし、そもそも相手の姿を把握出来ない事もあるのは致命的な欠点だ。
その代わり、長所が伸ばせるという側面もある。
懺鬼と不死鳥の力によって、二人とも継続戦闘に長け、状況を見て戦場から離脱しやすい魔術師だ。
特にみそらは死ねるという絶対的な個性を持っているので、危機的な状況においては自分を囮に僕を逃すなんて奥の手も使う事が出来る。
そうした点から、僕達はゼミでも『一番失敗しないコンビ』と言われている。
「成功する」、でなくて、「失敗しない」。
例え最悪の状況に陥っても、最低限の情報を持ち帰って次に繋げられるという意味での「失敗しない」だ。
時には一度で決め切る必要が無いと考えて行動出来るのは、僕達の唯一無二の長所だと僕は考えている。
つまり、こういった何もかもが不明の状況にうってつけのコンビだという事だ。
「みそら」
「あん?」
「残機はあるのか?」
「ああ。ゼミ室の暖炉に一つと、ほれっ!」
みそらが僕に小さな箱をヒョイと投げつける。
「アタシの血のついたラッピーだ。そっちは予備だけど」
「なるべく頼りたくは無いけどな」
「ヘヘッ!」
これを僕に渡すという事は、きっと彼女も死んで当然と覚悟を決めているのだろう。
受け取った手に力が入る。
「っと、忘れてたぜ」
「何をだ?」
「コイツだよ……っと!」
そう言って、肩から掛けていた大きな革張りのギターケースを降ろす。
デカデカとバンドのロゴのステッカーが貼られたそれは、随分年季を感じさせる代物で、彼女は命と同じ位大切な物だと口癖のようによく言っている。
みそらがバンッ、と音を立てて魔力を込めた手のひらで叩いた。
すると、ネックの部分が何かの生き物のようにキョロキョロと辺りを見渡すように動き出す。
「バルカンフレイム1080、ゼミ室に帰っておけ」
「ーーー!ーーー!!」
バルカンフレイム1080と呼ばれるギターケースは頷くようにネックをクイクイッと動かしてから、尻の部分からロケットのように火を噴き出して猛スピードで空高く飛んで言ってしまった。
「……やっぱり、何回見ても違和感が凄いな」
「どこがだよ、そこらのペットなんかよりも可愛いじゃねぇか!」
「そうか……?」
初めて見た時はそれはそれは驚いたものだ。
あの見た目で人間の言葉を理解して行動するのは、何か自分の中の常識がひっくり返された気分になる。
しかも、アレはたまに独りでに動いてゼミ室でお菓子とかつまんだりもするし、勝手にコーヒーを淹れて飲んだりもする。
その絵面はそこいらの映画なんかよりもよっぽどホラーだ。
そもそも、食べたものがどういう仕組みでどこに消えているのかも分からないし、何で火属性の魔法しか扱えないみそらがアレを動かせてるのかも分からない。
謎ばかりの存在だ。
「うっし!これで準備完了か?」
「みたいだね」
「オッケー!それじゃまずは、適当に匂い辿って散策でもしていきますーー」
「ーーそんな必要ねぇよ」
割り込む突然の声。
二人共身構える。
声は男のものだった。
2軒先のバーの開いたドアの先、暗闇で何も見えないが、どういう仕組みかそこにいるのは明らかだった。
殺気というか、存在感というか。
声を上げるまでは全く無かった気配が、今はむせ返るほどに強く感じる。
「生きてるのは俺一人だけだ。いや、今も生きてるのは、って言った方がいいか?寂しいもんだぜ……」
「ケッ!自分でやっといてよく言うぜ。案外、生き残りの一人や二人、どっかに隠れてるかもーー」
「ーー無ぇよ。そりゃあ、絶対にあり得無ぇ」
そう言い切って、男はゆっくりと影から姿を現した。
膝丈程の長い黒のローブ、肩から下げた呪詛の書かれた帯状の布、フードを被ったその顔は暗くて良く見えできないが、こちらを野暮ったく見つめる嫌らしい目つきははっきりと確認できる。
片手に持った中身の入ったグラスは、きっと店にあったものだろう。
「俺ぁ、獲物を逃がすなんてダセェ真似はし無ぇ。なんせ、俺様ぁこれでも一流だからよ」
男がフードを取る。
出てきたのは、わざとらしい程の金髪、いや、橙色のドレッドヘアー。
あまりにも目立つ、目立ちすぎるその格好は、確実に素人では無い事を物語っている。
二流……、自分に自身の無い者、細心の注意を払う者は黒系の目立たない格好を好む。
それが常識であり、もしも僕がそういった立場でも当然のように全身黒で統一する。
絶対に目撃されない、されたとしても確実にどうとでもリカバリーができる、言い換えれば、見た者全員を殺し切れるという確信がなければ、こんな目立つ格好でいられる筈が無い。
それを、一流と呼ぶのであれば、男は恐らく自分を一流だと自信を持って信じられるだけの腕を持った、手配犯レベルのとんでもなく厄介な相手になるだろう。
その読みを裏付けるように、僕達を前にしてもどこか眠たそうに半分閉じた眼は危機感など感じてる様子も無く、溢れ出るほどの油断と余裕が表れている。
そして何より、格好よりも、態度よりも、一番異様だったのは、男の纏う魔力の残滓の量だった。
10や20なんかで済まない、優にその数倍の罪をこの短時間で重ねたことを証明するだけの濃い残滓を全身に纏わせている。
今になって、みそらがあれだけ警戒していたのが理解できる。
こんな酷いモノを見せられては、彼女のように鼻が利かなくても耐えきれない程の死臭が臭って来る気がしてくる。
身の毛もよだつ邪悪。
寒気とか嫌悪感なんて弱い表現では済まされない、心の底から震え上がるほどの命の危機を感じさせる。
こいつは、ヤバい。
「いやいや、タイミングがよろしい事でよ、お二人さん。あと少し早く来てたらアンタらまで殺さないといけない所だった」
頭をポリポリと掻きながら面倒臭そうに男は言う。
「そりゃあどういう意味だ?」
「僕達に危害を加える気は無い、って事か?」
「俺はよぉ、日に殺す数ってのを決めてんだ。まず、狩り場を決めて、その時間にそこにいる人数を適当に囲っちまう。んで、囲いの中のターゲットに選ばれた運の悪い人間だけを皆殺しにするって訳だ。だからよ、今日殺るのはこの通りにいた73人だけって決めちまってるからよぉ、今からアンタらを殺す事はできねぇのさ」
「正気か、テメェ」
ブルブルと。
みそらの拳が震え上がる。
恐怖からでも、危機感からでも無い。
怒りだ。
彼女の内の許容量を超えた、今すぐにでも殴り倒してしまいたいという怒り、そして、反吐が出る程の嫌悪感。
僕は知っている。
彼女は悪人の発する言葉が嫌いな人間だ。
例え、それが正論でも、詭弁でも、言い訳でも、独り言でも。
そのどれもが結局の所行き着くのは極論であり、それ正義になり得ないから。
それでも、時に善人が悪人に堕ちてしまうだけの信じ難い、あまりにも過酷な現実がある事を彼女は理解しているし、それなりに配慮する事もある。
僕は知っている。
彼女の本質は一人の優しい女の子だから。
幾度と無く自身に言い聞かせて、時に無理に割り切って、悪人を悪人として一義的に認識して正義を執行しているのだ。
善人だった悪人に、なるべく罪と後悔を背負わせない為に、わざと十字架を背負わせる事で救っているのだ。
そうする事で、自分も同じだけの十字架を背負って生きている、どこまでも健気な女の子なのだ。
そんな彼女だからこそ。
こういうどうしようもない悪人の、腐り切った戯言を許容できない。
そんな人の価値を理解しないような悪人の、曲がった思想を受け止める事が出来ない。
「何が運が悪いだ!何がアンタらは殺さねぇだ!テメェは他人の生き死にを自由に決めるだけの資格があんのか、権利があんのか、義務があんのかよ?!人様の命、なんだと思ってんだ!!!」
「資格、権利、義務、ねぇ……、じゃあ俺も聞くけど、それを持ってる人がもし人を殺したとしたら、それはアンタ的にはセーフなの?」
「あぁ?!んな奴いねぇよ!人の生き死には誰かに勝手に決められるモンじゃねぇんだよ!いかなる理由があったとしても無関係で善良な一般市民を一人でも手にかけた時点でそいつは悪だ!悪にセーフなんてぬるい選択肢は与えねぇ!アタシが公平に不公平を、絶対的なアウトをその胸元に突き立ててやるよ!」
「ふーん、良くできた正義のヒーローだこと。そんなにハッキリと枠組みを人に向けるなんて、俺には息苦しくて無理だな。もっと自由に、スマートに生きれば楽なのに。アンタも可哀想な人間だねぇ」
男は、正義を信じ、自らが正義になろうと努力してきた彼女にとって、一番許容できないタイプの人間そのものだった。
人の命を軽んじる、悪人そのものだった。
みそらの拳がギリギリと音を立てて握り締められ、噛み締めた唇の端からは血が垂れてくる。
きっと、悪に同情されるという行為そのものがどうしようもなく許せないのだろう。
「っ!御託はもういい、ここまでだ!いいからテメェは一つだけ答えろ!テメェは人様の命、なんだと思ってんだ!!!」
「何って……、ふむ」
男は手に持っていたグラスをに目を移す。
中には茶色い液体と大きな氷、ウィスキーのロックか何かだろうか。
その氷をくるくると、何度もグラス内を回転させるように指先で転がし始める。
くるくる、と。
ぐるぐる、と。
やがて、ピタッと指先を突き立てて回転を止め、そして一息で飲み干し、口を拭ってこう答えた。
「……餌、かな」
「餌……?」
餌……。
僕にはよく分からない。
みそらもその返答が気に食わないという顔で、男を真っ直ぐに睨んでいる。
「俺の殺しの道具はかなり変わったちゃんでさ、定期的に餌を食わせとかないとすぐに不機嫌になって使い物にならなくなっちまうんだよ。貰い物だから無下には出来ないし、使うにしてもそうなったら困るしで俺もこりごりさ。そんなだから、たまに決められた範囲、決められた数を適当に決めて餌をやってるってだけの話だ。だから、俺……、いや、俺の道具にとっては餌、かね」
男はさも自分の意思ではないかのように。
自分には一切の責任がないかのように。
まるで他人事を語るかのように。
そう言った。
不気味なまでに感情を乗せず、興味も表さず、ただただ事実を淡々と語った。
「あぁ、そうだ。質問の意図としては俺が人の命をどう考えるか、だったか。そうだね、俺としては命ってのはこれ以上無く平等であり、果てしなく不平等なもの、とでも言えばーー」
「ーーいい。もういい。もう、沢山だ」
男の言葉を遮って、みそらが言葉を挟む。
「テメェにこんな事を聞いたアタシが馬鹿だった。テメェの言ってる事はこれっぽっちも理解できねぇし、したくもねぇ。アタシは頭が良くねぇから、そもそも何を言ってるのかも分からねぇ。所詮、テメェとアタシは悪人と一般人、そもそも分かり合える訳が無かったんだ。」
その顔を見るまでもない。
男の言葉がどうしようもなく彼女の逆鱗に触れてしまった事は、火を見るよりも明らかだった。
「ただ、アタシにも一つだけ、これだけは間違ってねぇって胸を張って言える事がある」
「ほう?それは、どんな事だ?」
「それはよぉーー」
「ーーテメェは生きてちゃいけねぇ人間だって事だ!!!テメェみたいなとことんイカれたクソ野郎はアタシが!今!ここで!ぶっ殺してやるっつってんだよ!!!」
これまで見たことないような殺気を全身から放ち、みそらがその歩を進めだす。
「辞めとけ辞めとけ。アンタらが敵うオレじゃねぇよ」
そんな彼女を目の前にしても、男は余裕を捨てようとはしない。
「ハル!テメェはそこで待ってろ!!!」
「え?いや、でも……」
「コイツはアタシ一人でやる!アタシ一人で十分だ!!!」
既に彼女はギアを最大限に上げていた。
普段は戦況を見て力加減をするのに、今日は頭から全力全開、本気で行くと少しずつ遠ざかる背中が語っている。
「俺だって有名人だと思ってたのに、舐められたもんだぜ……」
男はワザとらしく肩を落とし、がっかりした表情になる。
「有名人……?」
「あ、それともあれか。これが無いから俺が誰か気づいてないのか?」
男がそう言って右手をかざすと、身長と同じ程はある黒塗りの棒が現れた。
見た目は本当にただの真っ黒な、男の身長より少し長いくらいの棒っきれ。
「……っ、何だ……?」
でも、どこか。
説明しようのない、嫌な予感というか、違和感を感じさせる所がある。
まるで、それが棒ではない、もっと何か別な物のような感覚を覚えるというか。
注視すればするほど、それが、どこか悪意と殺意で塗れているかのような、錯覚を覚えてしまう。
「ーーッ!?!」
そんな、取るに足らないような違和感から。
僕は、気づいてしまう。
ようやく男が何者であるのか。
今からみそらが殺り合う男がとんでもない相手だと、今更になって気づかされる。
「みそら、気をつけろ!その男はーー」
「うるせぇ!!!口挟むんじゃねぇ!!!」
「っ!?」
その迫力に気圧されて、伝えられない。
男の正体が何者であるかを。
絶対に伝えるべき情報なのに、僕とみそらはコンビなのに。
「ま、せっかくだしちょっくら遊んでやるよ。殺さない程度に全力で手加減してやっからよ」
「……ァァァア"ア"ア"ア"ア"!!!!!」
みそらが駆け出す。
燃える拳を振りかざして。
男は構えない。
あくまで自然体で迎え撃つ。
「さぁ、来いよ。『獄門』様の世にも珍しいエキシビションマッチだ、せいぜい楽しませてくれや」
そう。
男の通り名、それは『獄門』。
最恐最悪の手配犯、XXXの中のXXXとは、正にこの男の事だった。