密室殺人
「警部、これは密室殺人です」三浦が興奮したように言った。
「え!…なに!?密室?出ていけるところはあるのか?」古川警部は入口のドアの方を見た。開いている。密室殺人だと自分達も出られなくなってしまう。
「窓は鍵が掛かっているのか?」
「はい、中から掛かっています」
「これだけの残酷な殺しをやって、どうやって外へ出たのだ?」
被害者はうつ伏せに倒れている。頭を鈍器で殴られていて、どす黒い血が流れ出している。ワンルームの狭いアパートだ。犯人はこの箱の中からどうやって抜け出したんだ。透明になってするりと壁を通り抜けるより以外に、出る方法はない。
「ベランダは?ベランダから出られるだろう」
「ここも鍵が掛かってますよ。さっき言ったでしょう。窓ってここしかないですよ」
二枚の両開きのガラス戸だ。
「窓と戸と違うだろう。外に出て見てみろ」
「外に出られそうな感じじゃないですよ。草が生えてますよ」
「ベランダに草?植木鉢にか?」
「はい、つる草が伸びてますよ」
「手入れしてないな」
古川警部は、顎に手を当ててガラス越しにベランダを覗いた。
狭いベランダに、幾つもの植木鉢に雑草だか花だか分からないが伸び放題になっている。ひっくり返った植木鉢から、泥が流れ出していてそこからも草が伸びている。もうだいぶ前から横になったままのようである。
「ちょっと外を覗いてみます」
三浦が引き戸を開けて外に出た。途端「うわぁ!!」と悲鳴を上げて中に飛び込んできた。ガラス戸が勢いよく閉まった。
「なんだ!?どうしたんだ?」机の上などを調べていた古川警部がうろたえた。三浦は何も言わずに頭を抱え込むようにして、そこにあった布切れを掴んで頭の上で振り回した。五、六匹の蜂が羽音をたてて左右に飛び散った。
「うわあぁああ!!」悲鳴を上げて逃げ出したのは古川警部。
ちょうど、玄関から前の通路に出たところへ
「なにやってるんですか!?」やって来た鑑識二人が、眉をひそめて警部を見た。後から三浦が首の後ろを手で押さえながら、顔をしかめて出てきた。
「僕、医者に行かないと…なんか目眩が…」
「蜂に刺されたぐらいでなんだ。ほっとけば治る」
「じゃあ警部はなぜ逃げたんですか?」
「うん…それは…その」
「二か所刺されましたよ。熱持ってますよ」
「えっ!なんですか?蜂ですか」鑑識の一人が言った。
「ええ、ベランダのところに足長蜂の巣があったんです」三浦が言った。
「それじゃ、まず蜂を退治しないと」と、鑑識が言うと、古川警部が「ああ、君たちに任せるよ。ちょっと聞き込みに行って来る」と、言って背を向けた。
鑑識が慌てて
「ちょ、ちょっと待ってください。誰か立会ってくれないと何もできません」
「君たち二人いるじゃないか」
「まだ、捜査中でしょう。何かあったらどうするんですか」
「もう、犯人の目星は付いてるんだ。すぐに引き返す」
と、さっさと階段の方へ向かったので、三浦も慌てて古川警部の後を追った。
後方から「おい!殺虫剤買うて来い!」と、若い鑑識を怒鳴るような声が聞こえてきた。
「いいんですか、警部?」
「俺は蜂に刺されるとアレルギーになるんだ」
「僕だってそうですよ。さっき犯人の目星が付いていると言いましたが、ほんとですか」
「ああ、犯人は透明人間だ」
「透明人間!?冗談はやめて下さいよ」
「じゃあ、誰だっていうんだ。猫の子一匹どころか、蜂の出口もないんだ。どうやって出るんだ」
「犯人は合鍵を持っている人ですよ」
「じゃあ、なにか大家か?」
「いや、他にも持っている人がいるかもしれません」
「たとえば、誰だ?」
「愛人ですよ」
「そんなもの居そうな感じじゃなかったぞ」
「いや、人は見掛けによりませんから」
下側の階に回ってみたが、一人住まいのアパートは勤めに出ているのか、ほとんど留守のようだ。三軒目のところで八〇歳前後の老夫婦が出て来た。二階で殺人があったことを言うと、仰天して
「ええっ、加倉さんが殺されたんですか!」
「加倉さんと親しくしておられましたか?」三浦が訊いた。
「いえいえ、めったに話もしたことありません」
関わると、厄介なことになると思ったのか、二人とも口を揃えて否定した。
「でも、名前は知っておられるんですね」
「ええ、あの人一年ぐらい前かな、まだ引っ越して間がなかったようで、その階段のところで越して来たのでよろしく頼むと言われました」爺さんの話。
「今朝、何か物音とか聞いてませんか」
「そういえば、今朝何か倒れるような音はしたけどね」婆さんが言った。
「それは、何時ごろですか」
「ええと、十時ごろじゃないですかね」
「他には何か?」
「戸の閉まるような音がしたけど、ベランダの引き戸じゃないですかね」
爺さんはちょうどベランダの方に出ていたらしい。
「ベランダの戸…?」
「玄関の戸だと開きですから、ぶつかる音が聞こえたと思うんだけど、なあ…」と言って、同意を求めるように婆さんの方を振り向いた。
「はあ、それに悲鳴が聞こえたような気もするけど」
「テレビも点いてたから、何処から出た悲鳴かよくわからんな」
「それで…何で殺されたんですか。刺殺されたんですか?」婆さんが好奇の目を向けてきた。
「なにか投げつけたような音だったぞ」と、爺さん。
老夫婦はだんだん饒舌になった。こんどは話が止まりそうにない。
「いや、頭を叩かれたようですが。今取り調べ中で」
「おい!」と三浦を窘めて「すみません、お手間を取らせました」
と、古川警部と三浦は礼を言って、老夫婦と別れた。
「どこかで飯食っていくか」古川警部が腕時計を見ながら言った。
まだ蜂が死んでなかったら困る。
「いいんですか?」
「ああ、蜂を殺さないことには何もできないよ」
「それもそうですけど」
近くに食堂があったので、そこに入って定食を注文した。二人ともがつがつ食べて
「もう蜂は死んだだろう。行ってみるか」と、古川警部が立ちあがった。
「えっ、行くんですか?」
「あたりまえだ。どうだ、痛みは治まったか」
「はあ、少しは…」まだ、頭がくらくらしている。
再び現場に行ってみると、大げさに蜂の防犯ネットを被って、雨合羽のようなものを着て、完全防備の男二人組がベランダで蜂の駆除をしている。
古川警部が慌てて
「おい、これはどういうことだ!まだベランダの現場検証してないんだ」
「だって、さっき警部逃げ…いや出て行ったじゃないですか。僕たちじゃどうにもなりませんよ。足長蜂じゃないですよ。スズメバチですよ」
「なに、スズメバチ!」
「僕、やっぱり病院いきますよ」三浦が言った。
スズメバチは凶暴で毒性も強い。
「う~ん…仕方がないか」
被害者は加倉正之六十七歳
死亡推定時刻 午前八時から十一時
死因は頭部投打による出血多量
六十歳で不動産会社を定年退職して、母親と住んでいたが、母親が亡くなったので、家を処分して一年前このアパートに引っ越してきた。
十年前に離婚した妻との間に息子が一人いる。
午前十一時ごろ、隣の住民が悲鳴を聞いて警察に通報。近くの巡査が駆け付けた時は、鍵が掛かっていたので大家に連絡して開けてもらう。
隣の住民は竹山法子。若い女で夜の勤めらしい。悲鳴を聞いた直後、階段を掛け下りて行く紺のジャンバーの男を目撃。
近くの駅の防犯カメラを調べたところ、紺のジャンバーを着た男は三人も映っていた。この三人のうちから洗いだしていったところ、振り込め詐欺の一員で、今朝頼まれて二百万円受け取りに行った上沢年男一八歳が浮上してきた。受け子を何回かやったことがあるらしい。しかし、上沢が行った時は、鍵が掛かっていて戸を叩いても加倉は出てこなかったという。隣の住民、竹山法子の部屋の鍵が開く音がしたので、慌てて逃げ出したと言うのだ。竹山法子の目撃情報と辻褄が合う。しかし、加倉が朝引き出した二百万円と、キャシュカードが消えている。
電話の通話記録に「車で事故って、相手に怪我をさせてしまった。示談金二百万円いるんだ。お父さんなんとかして!」
と、悲痛な息子の声が残っている。
「達也か!何したんだ!」
「交差点で接触して…」
「…明日の朝まで待てないか」
「いいですよ。明日でも、あ…い、痛い…」怪我した男の声
そして、あくる日
「お父さん、僕が行けないから友達が取りに行くから」
「なんでお前が来れないんだ?」
「僕は証人でここに残っていないといけないんだ」
「よし、わかった」と、加倉の声。
別れた妻と息子達也に、問い合わせてみたが、加倉とはもう何ヶ月も話をしてないと言う。元妻に至っては別れてからは殆ど話はしていないと言う。
上沢を振り込め詐欺の容疑で連行した。
「振り込め詐欺の主犯格は誰なのだ?」
「知りません。僕は電話で指示されるだけです」
「それで受け取った金はどこへ持って行くんだ」
「受け取る人がいます。いつも同じ人じゃありません」
「お前が殺ったのだろう。ドアのノブにお前の指紋が残っているんだ」
「そりゃあ開けようと思ってドアに手を掛けたよ」
「それでどうしたんだ?」
「がちゃがちゃやってみたけど開かないんで引き返した」
「それだけか?」
「それだけだよ」
それから、二日後。
キャッシュカードを持って金を引き出しに来た男が捕まった。
「お前が殺して、キャッシュカードを盗んだのか。どうやってあそこから抜け出したんだ」
「私は、拾っただけですよ」
「拾った?どこで拾ったのだ」
「電話機の横に置いてありました。公衆電話です」
暗証番号もキャッシュカードに張り付けてあったと言う。
「ほんとか!?」
「ほんとですよ」
「じゃあ、なぜすぐに警察に届けなかったんだ」
「どのくらい入ってるのか知りたくて」
この男、中元康彦は五百万程の貯金は持っていたが、もともと貯めていた金だということは銀行の調べで分かった。五十歳前後でまだ独身だ。家宅捜査も行ったが、二百万の金は出てこなかった。
一向になんの手掛かりも掴めぬまま、一週間が過ぎた。
古川警部は苛々していた。
「知っているのは、あのスズメバチだけか。スズメバチ、ハチ…」
三浦の方を振り向いて
「とうだ、まだ蜂に刺されたところは痛いか?」
「ええ、まだ少し熱っぽいですよ」
「そうか、おい、三浦、あそこら辺の病院を当たってみるか」
「病院?何の為です」
「ハチに刺された患者が来なかったかだ」
「ハチに刺されたぐらいで、病院には行くなって言ったじゃないですか」
「いや、ハチに刺されて救急車で病院に行った奴もいる。凶暴なスズメバチだ。毒性も強い」
「そうですか…」
「行くぞ」ジャケットを取ると外へ向かった。三浦も慌てて後を追った。
病院を何軒も虱潰しに当たって、やっと個人のクリニックでスズメバチに刺された男が来たことがわかった。木崎孝雄三二歳。保険証を出しているので本名に間違いない。
その日のうちに、被害者宅からそう遠くない安アパートに住んでいる木崎が見つかった。木崎は建築会社で働いていたが、被害者が殺された日は会社を休んでいる。さらに手繰っていくと、隣の竹山法子と恋仲だということも分かった。
「もう間違いないですね」三浦が言った。
「なんだ、通報した張本人が犯人か。よし、木崎を引っ張れ」
木崎は最初容疑を否認していたが、問い詰められると白状した。スズメバチがベランダに巣を作っているところなどめったにない。スズメバチをや駆除してなかったので犯人が捕まったようなものだ。
電話の内容を不審に思った加倉が竹山法子に相談した。もともと、母親の家を売却して金を蓄えていた加倉に近づいてチャンスを狙っていた。
「それ、本当かもわかりませんよ。取り敢えず二百万は用意しておいた方がいいんじゃないですか」と、けしかけた。
あくる日、受け子が来る前に、受け子を装って木崎が金を受け取りに行った。ところが加倉はすぐに気が付いた。
「お前、隣に来てた男じゃないか」と言って、二百万円入った封筒を引っ込めた。木崎は慌てて奪い取ろうと飛びついた。加倉は瞬時に身を交して、枕元にあった目覚まし時計を掴んで投げつけた。飛んできた時計は交わしたが、頭に血がのぼった。「ちくしょう、この爺!!」と座イスを持ち上げて振り回した。ちょうど座イスの硬い部分が、額の所に当たって血が流れ出した。「うわあ!!」と俯いて額を押さえる。木崎は俯いている加倉の後頭部目掛けて、座イスを振りおろした。
物音を聞いて駆け付けた、竹山法子は「キャー!なにしてるのよ!!」と悲鳴を上げたが、時計を見ると九時近い、本物の振りこめ詐欺が来たら大変なことになると、ドアの内側に引っ掛かっていた鍵を掴んで外に出て、鍵を掛けてしまった。五分もたたないうちに、受け子の上沢が来た。ブザーを押す。ノックする。返答がない。大声で二、三度呼んでみたが返事がないので帰って行く。
その間、竹中法子は息を殺したままじっとしていたが、ふと思いついて玄関のドアを開ける。ちょうど受け子が階段を駆け降りるところだった。
木崎は外へ出ようと、ベランダの戸を開ける。一気にスズメバチが襲いかかって来た。ドアをすぐに閉めたが、二、三か所刺されてうずくまった。
そこへ法子が入って来て
「いやだ、蜂を追い払ってよ」木崎がスズメバチをそこにあったタオルで、追い払っている間に、法子は二百万円とキャッシュードを持ってでる。
「キャシュカードまで持っていくのか?」
「もう要らないでしょう。早くして警察が来るから」と、木崎を急かして外に出るとまた鍵を掛けた。その際
凶器に使った座イスは、法子の部屋へ運び込んで、頭を抱えて蹲っていたが、どうにも痛みに耐えられなくなって病院に行った。その後、法子が警察に通報。鍵は開けて置いた方が良かったのかもしれないが、開ける前に警察に通報してしまったので、開ける機会を失ってしまった。それに恐怖で開ける気にもなれなかった。ついでにキャッシュカードも持ち帰ったが、後から足がついてはいけないと思い、電話ボックスに置いてきたのだ。加倉は記憶力が弱く、いつも暗証番号はメモしてカードに張り付けてあった。
「スズメバチのおかげで犯人が見つかったなあ」
「はあ、僕は囮ですか?」三浦が言った。