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沈黙が場を支配したかに見えた。だが。
「……人の生活を、何だと思っているの」
怒りを含んだ声は、陽太の隣から聞こえた。
この暗色の生き物たちの世界でただ一匹、呪いをかけられた白い猫が、まっすぐに顔を上げて村長を睨んだ。
「強制される生き方の苦しさを知らないから、そんな無責任なことが言えるんです」
「か、カリン」
名を呼ぶ村長を無視して、カリンはガイアードの雄の後ろ、姿が見えない雌に話しかけた。
「奥さん。あなたが大切にする相手は、身代わりの猫でいいのですか」
ガイアードとの距離は十歩以上ある。それでも、震える声を、体を、必死に制御して訴える。
何かに負けまいとするように。誰かを守ろうとするように。
「私の親は英雄と呼ばれているけれど、本当にろくでもなくて。朝日を見たいからって壁に穴をあけたり、壁掛けで焚き火をしたり。骨折したら大人しくなるかと思えば、実際には口が達者になるばかりで、世話する手間が増えただけでした」
「まあ……」
漏れたその二文字に込められていたのは、憐憫か、失笑か。
カリンは続けた。
「そんな迷惑な親を持つ私でも、あの猫めがいつまでも帰ってこないと恋しいと思うんです。あなたの亡くなった子供達が、愛情深いあなたを恋しく思わないはずがない」
凛とした声が、洞窟に響く。
誰も何も言わなかった。動く者もない。
「それでもあなたは、攫ってきた生き物を、家族が恋しいと泣く猫を、自分の子と偽って傍に置いておきたいですか。家族がいなくなる悲しさを、あなたは痛いほど知っているはずなのに」
静まり返った洞窟に、風が吹き抜けた。強く強く、空気をかき混ぜて消えて行く。
「……寂しさを、埋められないの」
ぽつりと、雌のガイアードが呟いた。
「幸せの、取り戻し方が、わからないの」
雄の陰に隠れて姿は見えない。しかし、抱えきれないほどの苦しさを含んだ声だった。
カリンは力強く応えた。
「過去の自分には戻れません。だから、明日の自分が幸せであるために、何ができるか考えましょう。あなたの目の前には、奥さんさえよければ猫だって攫ってきちゃう、あなたのことが大好きな旦那さんがいるんだから」
雄のガイアードがそっと動いて、雌の隣に並んだ。黒い毛皮を鼻先で撫でる。優しく、労りを込めて。雌の尻尾が雄の尻尾に絡んだ。
寄り添う番いには凶暴さなど欠片もなく、ただ、互いを思いやる愛情だけがあった。
「それじゃあ、こうしたらどうでしょう」
静謐な空間に、しゃがれた声がした。村長が咳払いをしながら、お座りの体勢で大きな声を出す。
「カリン、この者達の面倒をみてやりなさい。今日からお前が、この者達の家族だ」
「…………は?」
カリンは怪訝な視線を村長に向ける。村長はそっくり返るほどに胸を張った。
「問答無用で飛びかかってこないガイアードは貴重だ。護衛役としてうちの村に来てくれれば、外敵から村を守れる。何せ、力の強さではここいらの獣は敵わないからな」
「ちょっと待って下さい。家族って、あの」
戸惑うカリンに、ガイアードの雄が微塵の動揺もなく自己主張してくる。
「私達は自分で食べ物をとってくる。猫は殺さない。私達に落ち着いて暮らせる場所を与えてくれるのなら、どんな役目も担おう」
「まあ、本当に? 私達と家族になってくれるの? 私達を歓迎してくれる?」
雌は不安そうに、しかし、隠しきれない喜びを光る眼に宿して身を乗り出した。大型肉食獣を喜んで迎え入れる場所は少ないだろう。弱い者にとって身の危険を考えるのは同然のことだが、ガイアードにとっても実は、安住の地は見つけにくいのかもしれない。
村長は満足げに、カリンに頷く。
「ほら、こちらは問題ないそうだ。な、いいだろう、カリン。シャムルはあまり帰ってこないし、娘の一人暮らしは心配だ。ガイアード夫婦がいれば、お前も安心だろう」
「でも……」
カリンは不安げにガイアードを見上げた。
二匹の獣の視線がカリンに突き刺さる。それだけで白猫は硬直して動けなくなった。
怖いのだ。
体格差は十倍以上。ガイアードの大きな口では、カリンなど二口で食べられてしまう。完全に兎とライオン、鼠と大鷲の関係だ。
意思の疎通が出来ることと、共同生活を送ることはまた別の話だろうに。
「君は英雄シャムルの娘じゃないか。あれを親に持つ君なら、大丈夫」
無責任な村長の発言に、カリンのエメラルド色の目から光が失われた、気がした。
何が大丈夫だ。
心の中で吐き捨てた陽太は、黙っていられずに声を張り上げた。
「村長、僕に提案があるのですが」
ざっと動物たちの視線が陽太に集中した。人とは違う強さの視線に怯みながらも、陽太は気楽さを装いながら手を上げた。
「僕が、彼らの家族になりたいと思います」
笑顔を作る。笑うのは得意だ。相手を手懐ける時は、特に。
「君が?」
村長が驚いたように尻尾をぴんと立てた。
陽太はただ村長だけを見て、にっこりと笑う。
「はい。気性が荒くて厄介な害獣みたいに聞いてましたけど、ちゃんと言葉は通じるし、猫を攫っていたのだって理由があってのことだったし」
「だ、だが……君は牙も爪も持っていない」
「では、カリンの小さな牙や爪が、彼らに通用するとでも?」
軽い口調で問うと、ぐう、と村長は押し黙った。深く考えてない証拠だ、阿呆と陽太は内心毒づく。
「僕は異世界人だし、彼らにとってもここは故郷ではない。僕達は違う場所で生きてきた者同士、仲良くなれると思うんです」
ガイアードに視線を走らせると、二匹とも「ありがたい」と頷いた。興奮して牙をむき出し似ているときは迫力がありすぎたガイアードも、二匹並んで腰を落としている様子は飼いならされたサーカスの猛獣レベルだ。
遠巻きにしていた猫達が、ざわつき始める。
今はまだ、彼らにとってガイアードは本能的に怖い存在だろう。
だが、怖さは慣れる。
日常を共にし、相手のことを知れば知るほど、怖さよりも親しみが湧くはずだ。
イギリスに留学した時も、知らない人間ばかりだった生徒会も、そうして陽太は回してきた。
陽太はガイアードに向けて話しかけた。
「僕はこの世界に来て短いですが、猫の皆さんは異世界人の僕にも気軽に挨拶をしてくれます。オルゾン村は皆が優しくて、互いに助け合って暮らしている素晴らしい村です」
猫達のざわめきが大きくなる。聞こえる声には自慢や謙遜が混じっている。
褒められたら嬉しいものだ。そして、気持ちが緩めば相手を受け入れる余裕も出てくるはず。
村長は周りの反応を見ながら頷いた。
「う、うむ。きっとガイアードのお二方も気に入るはずだ。うん、君が面倒を見てくれるというのならひと安心」
「あ、でも。僕は異世界人だから、いつか元の世界に帰りますね」
間髪入れずにそう言い放った陽太に、村長は慌てたように首を振った。
「それじゃあやっぱり、カリンに」
「あなた方は僕が一緒にいられなくなった場合、どうしてもこの白猫が世話人じゃないと嫌ですか?」
陽太は村長が言い終わらないうちに、ガイアードに問いかける。獣の雄は否、と答えた。
「そのように素晴らしい村なら、ぜひ住みたい。それ以外は些末な問題だ」
陽太は動揺する村長に笑いかけた。
「村長。彼はこう言ってくれてます。世話人は僕やカリンじゃなくてもいいらしい。カリンの家は狭いし、村の中心から離れています。彼らにとって利便性のある家を探して下さい」
村長猫は「うむむ。だが」と唸った。往生際の悪い猫に、陽太はすっと目を細める。
「まさか、カリンにすべてを押し付けて、自分は無関係だなどと思ってませんよね?」
「し、失敬だぞ君! そんなわけあるか!」
「すみません。それなら、村長の家にご夫婦を寝泊まりさせてくれてもいいですよね? 異世界人の僕も、ガイアード二頭も、となったら、世話するカリンには負担が大きいと思うんですよ。女の子の一人暮らしですし」
あくまで深刻な顔で顎に手を当てると、村長は「ぐっ」と言葉に詰まった。
その間、二匹のガイアードはその場に伏せの体勢を取った。アイスブルーの眼は慎重に周りを見ている。害意がないのを示すつもりなのだろう、尻尾もぴくりとも動かない。
ガイアードの意図はわかるが、猫達との物理的な距離は縮まらない。
陽太は覚悟を決めた。
内心かなりびくつきながらも彼らに近づき、その背を撫でた。初めて触る大型獣は、毛の先までも温かかった。
撫でられるまま抵抗しないガイアードに、猫達の空気が少し変わった。
好奇心の強い者から、おずおずとガイアードに近寄り、その体に触り、逃げていく。猫達はそれを繰り返し、相手が本当に自分達にとって害がないかを確かめている風だ。
奥にいた猫達も、ガイアードの意識が別に向いているとわかると、素早く仲間達の輪に加わった。ひときわ高い歓声が上がる。
猫が慣れてくると、陽太は元の壁際に戻り、カリンに手を伸ばした。
この場所で唯一の白は、じっと陽太を見上げていた。そっと差し出した手に、カリンは身を寄せる。
小さな頭を優しく撫で、陽太はカリンを腕に抱く。そして、悔しげな村長に笑顔を向けた。
「村長、名を上げるいい機会ですよ。歴史を変えた名誉ある村長と、後世に名を残すかもしれない」
村長の尻尾がぶわりと膨らむ。そして、腹立たしげに怒鳴った。
「わかった、私の別宅を貸そう! その代わり皆、ガイアードと仲良くするのだぞ!」
洞窟の中が、賑やかな猫の鳴き声でいっぱいになった。
カリンが陽太の首筋に顔を埋めた。柔らかな毛がくすぐったい。
カリンは何も言わない。
でも、彼女が何を思っているのか、なんとなく伝わってくる。
陽太は充足感で満ちていた。猫好きではなかったはずだが、カリンが喜んでくれることが嬉しい。カリンの言う、明日の幸せのために今日できること。陽太はカリンの幸せのために、何ができるか、もっと知りたい。
陽太は白猫の名を呼ぼうと口を開けた。
その時。
「見事!」
張りのある声がした。