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オルゾン村には三メートルを超える木の柵が等間隔に設置されている。それが村と外界との境界を作っているのだ。柵の向こうは薄暗さをさらに重くしたような深閑とした森が広がっている。
その柵の向こう側を、横切る何かがいる。
「カリン、あの大きな生き物は何だ? 猫っぽいけど……」
反射的に目で追って、言葉が途切れた。近づいてきたそれが、柵の向こうからこっちをじっと見つめてきたのだ。
柵の間から見える大きさは、動物園で見るトラの二倍弱。
黒い体、長い尻尾、アイスブルーの眼。
規格外の黒ヒョウにも見えるが、その赤い口からのぞく巨大な二本の牙は、絶滅動物図鑑の中の一匹、サーベルタイガーの持つものに酷似していた。
相手との距離は十メートル以上。
それにもかかわらず、射竦められた。背筋がぞっとし、空気が冷えた気がした。
「が、ガイアード……」
腕の中から、カリンのか細い声が聞こえた。幾度となく耳にした名前だ。
ちらほらと姿があった猫達も耳をぴんと立て、動きを止めて警戒している。
「ガイアードって……あれ?」
問うと、カリンが震える声で頷いた。
「最近、森に住みついた番いの獣よ。村の猫が四匹喰われてる。村長はあいつを退治するのにサラード・ランを呼び出そうとして、あんたが来たの」
「その話なら、多少は村の猫から聞いてたけど……想像以上の大きさだ」
ちらほらと耳に入った情報は、あくまでも猫たちの主観が入っている。だから、いくら大きいと聞いても、これほどとは思わなかった。大型の肉食獣、そのものだ。
「以前流れのガイアードが現れた時、私……食い散らかされた仲間の死体を見た」
柵の向こうのガイアードが、静かに動きだした。その視線は、柵の中にいる猫達から一瞬たりとも離れない。
相手から目を離したら食い殺されそうな脅威に、陽太の手が無意識に震えた。
「だ、大丈夫よ」
カリンは尻尾で陽太の頬を撫でた。
「四匹が連れ去られたのは村の入口が開いていたから。今はほら、柵が全部閉じてるでしょ。あの重くて大きな体で柵は飛び越えられないわ。あいつにできるのは爪とぎくらいよ」
震える声を誤魔化すように軽く笑ったカリンは、陽太の腕から地面に降りた。
「逃げるわよ。村長に報告しなきゃ」
ガイアードは入る所を探すように、柵の前を歩き回っている。動きがゆっくりなのは、それだけ重量があるということか、それとも余裕の表れか。
「ったく、これでまた物流が滞って物の値段が上がるのよ。迷惑なヤツ!」
そう言い捨てて、カリンが足を踏み出す。他の猫も一斉に村の中心へと走り出した。陽太もその後に続こうとした……次の瞬間だった。
ガイアードが空に向かって大きく吠えた。森の中の鳥が、一斉に飛び立つ。
猫達の足が反射的に止まった。
その恐ろしい咆哮が消えぬうち、黒い獣は森へと身を翻した。
去っていくのかという一瞬の期待はしかし、すぐに破られる。
柵から距離を取ったガイアードのアイスブルーの眼は、ひたと村を見据えていた。
黒いしっぽが鞭のようにしなる。
太い筋肉の塊が全身をバネにして助走する。
ガイアードは自分の体の倍はある木製の柵を、勢いをつけて飛び越えた。
体の大きさも重さも感じさせない跳躍。
地面に着地した時、ずん、と地面が鳴った。
あまりにも、あっけない突破だった。
ガイアードは重々しい足取りで一番近い場所にいた陽太達に近づいてくる。
その半開きになった口からは二本の長い牙がのぞいている。赤く長い舌と、ずらりと並ぶ鋭い歯も。
陽太は、背を向けて逃げることができなかった。目をそらした瞬間に後ろから飛びかかられる気がする。ガイアードは少しの隙も見逃しはしないだろう。あるのは、死のみだ。
足が竦む陽太の前に、四肢を踏ん張った白猫が立った。カリンは近づいてくる黒い獣を睨みつけ、強く叫んだ。
「食べるのなら私を、食べなさい! この子は異世界人で、私達とは、関係ないんだから!」
声が震えている。
当然だ。
村人が恐れる獣の体は、カリンより何十倍も大きい。ガイアードが腕を一振りしただけで、猫など死んでしまうだろう。
それでも、陽太をかばおうとしてくれている。精一杯声を張り上げて、必死に陽太に害が及ばないようにしようとしてくれている。
「……守られてばかりで格好悪いな、僕」
この世界に来て、生活全般カリンに負担をかけている。この上、陽太の代わりに彼女が命を落としたら、迷惑しかかけない陽太の存在などゴミだ。いやゴミならまだリサイクルの可能性がある。ゴミ以下か。
ガイアードはカリンの言葉に一切の反応を見せなかった。ただ、残り三メートルの位置まで来て足を止め、じっと白猫を見つめる。
陽太は急いで口を開いた。
「僕が、一緒に行きます」
言葉が通じるのかはわからない。だが、言わなければ伝わらないと思った。
ガイアードの視線に硬直していたカリンが、飛び上がって陽太を見上げた。
「ちょっと、何考えてんの。あんたじゃどうしようもないんだから、下がってなさい!」
陽太はあえてカリンを見ずに、黒い獣の返事を待つ。
ガイアードは陽太を見て、重々しく口を開いた。
「お前では駄目だ」
まるで船の汽笛ような、空気を震わせる低い声だった。言葉が、通じる。
「なぜですか」
「お前は猫ではない……お前は……」
同じ言葉を繰り返すガイアードのアイスブルーの眼は、ガラス玉のように感情がない。
人間だと大きくて攫いにくい、ということだろうか。猫の方が、肉が少ないはずだが。
陽太の頭に、一瞬の疑問が横切った。
なぜ凶暴だと言われるガイアードは、陽太達を今、襲わない。
ここには抵抗するための武器も仲間もいないのに。
陽太は唇を舐め、覚悟を決めた。
「僕の方が大きいので、猫よりも食べでがありますよ。腹がいっぱいなら話し相手をしましょう。物語ならたくさん知っています。それに手先も器用だから、物を作ったりすることもできます。僕は役に立つと思いますよ」
「ヒナタ!」
時間稼ぎも含めて、いくつかの提案をしてみる。
喰われるために自己PRをするなんて、どうかしている。でも、カリンを連れて行かれるわけにはいかないのだ。優しくてお人よしの、この綺麗な白猫を。
「……わかった。それでは、共に来い」
ガイアードは僅かに考えた後、長いしっぽで地面を打った。そして、森に向かって歩き出す。追従する以外の選択肢は見つからない。
「ばかヒナタ! いったい何を……ああもう、私も一緒に行くわよ!」
少しもじっとしていられないのか、カリンは陽太の足の周りをぐるぐると回り出した。
陽太はそのぴんと立った尻尾を問答無用で掴んだ。カリンは悲鳴を上げて硬直する。その一瞬の隙をつき、陽太は首根っこをつかまえて、カリンと自分の視線を合わせた。
完全に怒って「シャーッ」と息を吐くカリンに、陽太は早口で囁いた。
「君の方が、足が速い。僕が食べられる前に助けを呼んでくれ」
カリンを遠ざけようとする計算と、あわよくば助かりたいという期待。
異世界人のために村の猫達が力を合わせる姿は想像できないが、異世界で獣に生きたまま食べられることを、潔く受け入れることもまた難しい。
カリンの動きがぴたりと止まった。
ぱっと手を放すと、カリンは見事に着地した。そして脱兎のごとく村の中心へと走り出す。陽太は先を行くガイアードを追いかけた。
村の柵は大型獣避けらしく、ぎりぎり人が通れるほどの間隔で作られている。太い木で作られた柵の間をすり抜け、村の外へ出た。ガイアードは侵入時と同じく、軽々と柵を飛び越えて先を歩く。
生きている限り、逃げるチャンスはある。
汗ばんだ手を青いシャツにこすりつけながら、陽太はそう、自分に言い聞かせた。