中編
今年で十六になった美貌の王女ネージュの名は、隣国にも轟いていた。
毎日のように彼女の姿を一目見ようと各国の王侯貴族が使者を立ててやって来て、その美しさに感嘆するのだった。
普通、王家の娘ともなれば本人に婚姻の自由は無いに等しく、その身は政略に利用されるのが常である。しかし、ネージュを溺愛する国王は愛娘を手放したくはないが、本人の意志を尊重したいという心づもりで、ネージュは高貴の生まれには珍しいほどの自由を約束されていた。
当のネージュといえば、山のような求婚を受けるでも断るでもなく、そもそも結婚をする意志があるのかすら明確でない態度をとっていた。
「ネージュ姫、お会いできて光栄です」
「わたくしの方こそ、遠方はるばる我が国を訪れてくださりうれしい限りですわ。アドルフ王子」
そして今日も、ネージュは求婚者の一人である隣国のアドルフ王子と会食をしていた。彼がこうしてネージュをたずねるのは、これで二度目である。
十六歳のネージュの美しさは、生来持つ無垢な可憐さはそのままに、未完成ながらも確実に円熟へと向かっていた。
ネージュと同年代のアドルフは、初めて会った時から彼女にぞっこんだった。
「以前お会いしたのは半年ほど前ですが……ますますお美しくなられましたね」
顔を赤くして精一杯の賛辞を贈る初心な王子に、ネージュは花のような微笑みでこたえる。
「国にいても、あなたにどれほどの男が結婚を申し込んでいるのか、もしあなたが誰かのものになってしまったらどうしようかと……そればかり考えてしまいます」
「そんな……わたくしはアドルフさまにそのように思っていただくほどの者ではありません。けれど、とてもうれしいわ。アドルフさま、ずっとそのように思っていてくださる?」
「え――ええ! もちろんです! わたしの心があなた以外の女性に動かされることなど、決してありません」
「ふふ、うれしい。そのお言葉、ずっと信じておりますわ」
*
アドルフ王子が城を去った後、ネージュは庭園を一人で散歩していた。
すると、前から二人の人影がやってくる。
「――お義母さま」
歩いてきたのは、妖艶な肢体を惜しげもなくさらしたドレスをまとっているエリザベートと、青年伯爵レオンだった。
「あら、ネージュ。一人で何をしているの」
「少し歩きたくて。お義母さまこそ、お二人で何をされていたのです? このような人気のない場所で」
「おまえには関係のないことよ。アドルフ王子はお帰りになったの」
「ええ」
「おまえもいつまでも煮え切らない態度をとっていないで、そろそろ結婚相手を選びなさい。そうね、大国の王位継承者であるアドルフ王子と一緒になれば陛下もお喜びになるわ。まあ、今のご時世結婚の自由を許されている姫など滅多にいないのだから、少しはそのありがたみを噛みしめることね」
「はい。わたくしもお義母さまのように幸せな結婚をしたいですわ」
「…………」
エリザベートは不愉快そうに眉を寄せると、すたすたと歩き去っていった。
すれ違うその瞬間、レオンとネージュの視線が絡む。エリザベートはそれに気付くことはなく、ネージュから離れると背の高い青年にしなだれかかるようにして腕を絡ませた。
*
「あの方はずっと男に愛されて生きてきたのですよ。少女の頃から大勢の男たちに山のように貢がれ……ずっと。いかなる時も己が最も美しかった。ゆえに、自分がいながら男たちが他の女に見惚れることが許せないのです」
レオンは彫刻のように見事な裸体を寝台に横たえ、隣に寝る恋人の黒髪を愛しげに梳く。
「あなたも彼女の美しさの虜となった一人ですものね」
「あなたほどではありません、ネージュ姫。わたしは三年前、まだ十三歳だったあなたとお会いしたその瞬間から、あなたに恋をしていた」
「ふふ。けれどその時、あなたはすでにお義母さまと――」
「確かにエリザベート王妃もお美しい。しかし、どんな花にも衰えはあるものです。少しずつ、齢と共に妖艶な花にもかつての輝きが失われつつある。あと数年もすれば、この国に名だたる美姫はあなた一人となっているでしょう」
ネージュは一糸まとわぬ体を起こして、レオンに口づけを与えた。そして、彼女が浮かべたのは甘く、男を誘い込むような危険な微笑みだった。それが再開の合図だった。
「恐ろしい人だ。その歳でそれだけ男を誘惑する術を備えているなんて……隣国の王子アドルフ殿下はあなたにぞっこんらしいですね。何度も使者を立ててあなたへ宝石や手紙を贈っているのでしょう。その他にも毎日山のような縁談が舞い込んでくるとか……」
「けれど、わたしの心を動かした人はいませんわ。たった一人、あなた以外は。三年前、初めてあなたを間近で見た時から欲しくてたまらなかった。お義母さまのように抱いて欲しかった……」
「もっと激しく抱いて差し上げますよ、あなたがお望みなら――」
「待って、その前に……」
ネージュはレオンの首にかかっていたペンダントを外した。
「お義母さまの贈り物でしょう。今は必要ないはずよ……」
「ああ、すっかり忘れていた。いつも着けていないとあの人がうるさいものだから」
「しょうのない人。母と娘を同時に相手にする気分はいかが?」
「意地悪な方ですね。わたしが愛しているのはあなただけですよ――」
*
青年伯爵レオンは一口に言うと、わかりやすい野心家であった。地位、名誉、女――すべてを欲しいままにしたいと思っていた。
彼の生まれは中流貴族であり、家柄から覇権を狙うには身分は低すぎ、かといってすべてを諦めるには高貴な家に生まれついたのだった。
容姿、能力ともに恵まれていた彼の欠点は、その性格――つまり女好きだった、というところである。ただ女ならば誰でも良いというわけではなく、高貴な令嬢や類まれな美女――他の男たちがうらやむような女を手に入れることに快感を感じる性質であった。
その点、エリザベートとネージュは彼の望む条件を兼ね備えた、“最高の女”だった。
「美貌、地位、権力。生まれは卑しいが、エリザベートが持つものは魅力的だった。今まではな……」
宮廷での務めを終え、領地へ帰る前日――城下にある高級酒場の個室でレオンは一人麦酒をあおった。身分の証明された地位ある者しか入ることができない、会員制の酒場である。お忍びで上流貴族や王族の縁者なども訪れることのある場所だった。
「だが情が深く面倒な女だ。このままでは王妃の座を捨ておれと一緒になるとでも言い出しかねない。それに、もうそろそろ若くはない……見かけは若々しくとも華やかなドレスを脱げばただの盛りを過ぎた女だ。もう三年か……そろそろ潮時だな」
彼の頭にあるのは、十六歳のネージュ王女だった。
レオンが彼女と関係を持ったのは、最近のことである。誘ったのはネージュの方からだった。
自分よりも七つ年下の少女の体を抱くたび、今まで自分が溺れていた年上の女は急に魅力を失っていった。
それに、今まで子供だったネージュが成長し、宮廷での権力関係が変化しつつある。今まではエリザベートが王妃として強い力を持っていたが、ネージュは隣国の有力者と政略結婚をするだろう。これ以上伸びしろのない王妃よりも、将来性のある王女へ身を寄せる者もじわじわと増えてきているのだ。
「おれもそろそろ、どちらかに身を固めるべきか」
勘定を済ませると、店を出た。酒で上気した体に夜風が冷たく当たる。
この時のレオンはほろ酔いで、近くに忍び寄って来る足音にも気付かなかった。
「――?」
ふと感じた夜風を裂くような感覚に振り向く間もなく後頭部に強い打撃を受け、レオンはその場にくずおれた。
*
「わたくしの召使いの一人が報告してくれたわ。ネージュの部屋を出入りするおまえの姿を見かけたと。そしてネージュがいない隙に部屋を調べさせてみたのよ。そうしたら、ベッドの下からこれが見つかった」
長い脚を組んで椅子に座っているエリザベートは、金の鎖でできたペンダントを見せるように前へ差し出した。
「聞きたいことは一つだけ。わたくしがおまえに贈ったこのペンダント……これがなぜネージュの部屋から見つかったのか――何か申し開きがあるというのならば、好きに申してみるがいい」
いたぶるようなエリザベートの視線の先には、縄で縛られ床に膝をつかされた男がいた。男は上半身裸で、その肌にはいくつもの傷があった。
「このままおめおめと逃がすわけにはいかない。だから領地に戻るおまえを追わせたのよ。おまえがいつも使っている酒場の前をわたくしの私兵に張らせてね」
「……お許しを……」
「つまらぬ台詞を!」
エリザベートのいらだつ声と共に、レオンの背後に立っていた大柄な男が鞭で彼の背中を叩いた。
「ぐあっ!」
「気付かないとでも思ったのか!? よりによって……よりによって、貴様はあの女と!!」
いきり立つエリザベートの怒りに燃える瞳には、レオンと――そして妖しく微笑む黒髪の美少女の姿があった。
「わたくしはおまえを信頼していた! 愛していた!! なのに、おまえは……」
「エリザベート、妃殿下……申し訳ありませんでした。ネージュ姫に強引に誘惑されて、断り切れなかったのです。ですが、どうか……信じてください。わたしが愛しているのはあなただけです!」
レオンの顔には傷はなかったが、眠りも許されず目の下には濃い隈ができており、疲労の色が濃い。
「わたしは許されないことをしました。しかし、この気持ちは嘘偽りなどではありません。もしもう一度あなたの信頼を得られるならば、わたしはどのようなことでもいたします。どうか、お許しを――!」
「…………」
しばらくの沈黙ののち、エリザベートは私兵の男に合図をし、レオンの拘束を解かせた。そして次に部屋から出ていくように命じて、部屋の中にはエリザベートとレオンの二人だけが残された。
「今もわたくしを愛していると?」
「ええ、もちろんです……!」
「では証明してみせて」
エリザベートは懐からあるものを取り出し、跪いているレオンの目の前へ投げ捨てた。
「これは……」
短剣だった。
「わかっているでしょう」
「…………」
レオンの背筋に冷や汗がつたった。
「それでネージュを殺しなさい」
「し、しかしそれは……」
「わたくしの信頼を取り戻すためにはなんでもすると、今その口が言ったのよ」
「……ですが、万が一わたしが姫を手にかけたと誰かに知られれば……」
エリザベートは微笑みながら、レオンの頬に触れた。
「わたくしは証明が欲しいのよ。あなたの愛の証明が。あなたがそれを証明できたのなら、心配する必要はない。わたくしが守ってあげる」
「…………」
「レオン……わたくしはあなたを愛しているわ。あなたのためならば、夫をこの手にかけてもいいとさえ思っているのよ」
耳元でささやかれる声。レオンは冷や汗が止まらなくなった。
「そのような……恐れ多い……」
かすれたような声を絞り出すのがやっとだった。
「ネージュがいなくなればわたくしたちの愛を邪魔する者はいなくなる。その後は……そうね、邪魔なようなら王も殺して逃げましょう。それがいいわ……」
うっとりするように言うエリザベートを見て、レオンは初めて己を呪った。
みくびっていたのだ。この女――王妃エリザベートを。不釣合いな地位と権力を持て余す、頭の軽い娼婦に過ぎないと。
しかし今は恐ろしかった。狂っているとさえ感じられた。
エリザベートの愛への執着は、まるで狂気だった。
*
短剣を受け取ったレオンは、しばらく考えたのち、王妃の命に従うことに決めた。
ネージュは将来エリザベートを上回る権力を手にすることも考えられるが、それはまだ可能性に過ぎず、エリザベートの怒りを買うより今は従った方が良いと考えたからだ。
ネージュを殺すことそのものに躊躇したわけではない。確かにあの美酒のような体を味わえなくなるのは惜しいが、それよりも自分の身の方が大切だ。
エリザベートの愛は狂気的ではあるが、自分に惚れていることは間違いない。味方につけていればこれほど強い盾はあろうか。
深夜、いつものように逢引にレオンはネージュの部屋を訪れた。
ノックをして入る。
「ネージュ姫……眠っておられるのですか?」
「いいえ。起きていますわ」
ネージュはベッドに横になっていたが、確かに目は開いていた。
豊かな黒髪を純白のシーツの上に広げ、黒い瞳は虚空を眺めていた。月明かりの中に横たわるその姿は、一枚の絵のように美しい。
「今日は遅かったのですね。お待ちしていましたわ」
「ええ、お待たせして申し訳ありません……」
ベッドに腰かけ、左手でネージュの髪を一房すくって口づけた。そしてもう一方の手で、マントの中に隠したベルトにさしている短剣を握る。
まったく警戒していない無防備なネージュ。殺すことなど簡単だ。
首をかき切るか、胸に剣を突き立てるか。手早く、叫ぶ暇も与えずに殺さなければならない。
「何かありましたの? お顔色が悪いみたい」
「いいえ? そう見えましたか」
ネージュは体を起こし、優しくレオンの顔に触れた。
「無理をなさらないで。もうすぐ領地に帰られるのでしょう。王都暮らしは窮屈だったのでしょうね……」
心配そうな声に、レオンは初めて胸にかすかな痛みを感じた。
信じがたいほどに儚げで美しい。まるで芸術品だ。生身の女の毒をまったく感じさせない。
ネージュの唇は、今夜は一際紅かった。おそらく逢引のために紅をさしたのだろう。大人びた姫のかわいらしい一面を見た気がして、レオンは彼女が愛しくてたまらなくなった。
短剣を握った手を離し、ネージュを抱きしめるとその唇に強く口づけをした。
「レオンさま……」
レオンはネージュを殺そうとしていた自分を激しく恥じた。
この美しく可憐な女神のような少女に、あろうことか殺意を抱いてしまったのだ。
レオンの頭の中からエリザベートのことはすでに消え去っていた。
「ネージュ、わたしは――」
その時、レオンの視界が揺れた。
ネージュの顔がゆがみ、たちまち激しい吐き気に襲われる。
「――!? ぐっ……」
なんだ、これは?
自分の身に何が起こっているのか理解する間もなく、呼吸ができなくなる。
「く、かはっ……」
シーツにぱたぱたと落ちたのは――血。口からとめどなく血があふれ出ている。
毒――? まさか。何も口にしていないはずだ。
エリザベートが始末しようと何か仕掛けていたのか――受け取った物といえば、短剣だけだ。
(早く、解毒しなければ……)
助けを求めるようにネージュに手を伸ばす。が、ネージュは少し離れた場所に座ったまま、微動だにしない。
霞んだレオンの視界に、かすかな笑みを刻む赤い唇が映る。それを最後に、レオンはベッドの上に倒れ伏した。