前編
「姫さまの御髪は本当にお美しいですわね。まるで漆黒の絹のよう」
ネージュの豊かな黒髪を梳きながら一人の侍女が言った。
大勢の召使いたちが服や髪飾りを持ち出し十一歳の幼い姫に何が似合うか考えあぐねている横で、当の本人は指先さえも動かさず豪奢な椅子に座っている。
これから特に夜会など華々しい出来事があるわけではない。しかし、毎夕のこの光景は日常であった。これからネージュは両親と夕餉を共にするのだ。
ネージュは必ず、父王にまみえる際にはこうして着飾らされていた。他でもない、国王自身の意向である。
ネージュは美しかった。
深く黒々とした艶やかな髪、それと見事な対比を描く白皙の肌、可憐な花のような唇は紅をさしたように鮮やか。繊細な造りの目鼻立ちは、人形のような愛らしさとともすれば壊れてしまいそうな儚さを備えており、見る者の心を惹きつけてやまない。
たった十三歳であるが、その体はすでに美姫として目覚める兆候をみせていた。
「さ、姫さま。お仕度が終わりましたわ」
侍女に導かれ、自室を出て夕餉の間に向かう。動きづらいドレスの長い裾を引きずって歩くことに、ネージュは物心ついた時から慣れていた。
たくさんの高級女官を従えたネージュが城の廊下を歩く。廊下にいた者たちが王女に気付くと、皆一様に道を開け脇に跪いた。ただまっすぐ前を見て歩くネージュの姿は、さながら女王であった。
小さな美しい女王は、着飾ることにも、皆が己に跪くことにも、窮屈だとか楽しいだとかそういった感情は持ち合わせていなかった。
それは、ただ当然のことだったからだ。
ふと、ネージュの黒檀の瞳が初めて動いて、道の脇に跪く一人の男に留まった。
「姫さま? いかがされましたか」
突然足を止めた姫に、女官の一人が声をかけた。
自分の前で立ち止まった姫を不思議に思ったのか、その男が顔を上げる。身なりからして、城の者ではない。おそらく外から呼ばれた貴族であろう。彼はまだ若く、二十歳そこそこといったところだった。
「――いいえ、なんでも」
ほんの一瞬目が合った後、ネージュは再び歩みを進めた。
歩きながら、愛らしくも歳の割に落ち着き払った声で女官にたずねる。
「あれは何者?」
「ミレス伯爵レオンさまですよ。先の戦で武勲をあげ陛下の目に留まり、正式に爵位を継いだとか。近頃はよく城を出入りされているのを見かけます」
「それは知っているわ。身分や名は知らなかったけれど」
「左様でございますか。早くも婦人方から大変な人気だそうですわよ。若くして勇猛な美丈夫とあらば、当然ですわね。そうそう、エリザベート王妃さまも――」
おしゃべりな女官ははっと息を止めた。
その視線の先にいたのは、ネージュよりも大勢の侍女たちを従えた、一人の女だった。
豊満な肉体の曲線がくっきりとあらわれる煽情的なドレスを身にまとい、波打つ金髪を腰まで垂らした妖艶な美女。
ネージュは小さくお辞儀をした。
「ごきげんよう、お義母さま」
義母と呼ばれた美女――王妃エリザベートの秀麗な眉がぴくりと動く。
「わたくしより席に着くのが遅いなんて、昼寝でもしていたの」
エリザベートは、娘をじろりと見た。
「そんなに着飾る暇があるのなら、もっと早く来たらどうなのです。陛下をいつまでお待たせするつもり?」
「ごめんなさい、お義母さま。でも、このドレスや髪飾りはお父さまから贈られたものなので、お見せしたら喜んでくださるかと思って……お義母さまのドレスもとっても素敵。ねえ、わたしとお義母さま、どっちのドレスをお父さまが気に入ってくださるか、勝負してみるのはいかが? といっても、わたしがお義母さまに敵うだなんて、とても思っていないけれど――」
「くだらないことを言っていないで、早く席に着きなさい」
エリザベートの声は明らかにいらだっていた。王妃の不機嫌を察した女官たちは、そそくさと二人を夕餉の間の中へ誘導する。
中には、豪華な調度品を色とりどりの食事が飾っていた。
一際豪奢な椅子が置かれた上座に、大柄な壮年の男性が座っている。
「お父さま!」
部屋に入るなり、先ほどまでとはうって変わって年相応の無邪気な態度で、ネージュは父に抱きついた。
「おお、ネージュ! 待っていたよ。そのドレス、とても似合っているな」
「うれしい。お父さまに早くお見せしたかったの」
「さあ、早く座りなさい。今夜もおまえの好物ばかり用意させたぞ。――エリザベート、おまえも早く席に着きなさい」
食事が始まってからの最初の会話は、エリザベートのいらだたしげな声だった。
「陛下。ネージュを甘やかしすぎでは? この年頃からそんなに贅沢をさせては、後が大変ですわ」
「そう言うな。これほど美しいのだ、着飾らなければネージュにこの美貌をくださった神への冒涜というものだ」
「美貌だなんて……まだ子供ではありませんか」
「お義母さまのおっしゃる通りです、お父さま」
口を挟んだのはネージュだった。愛らしい唇に花のような微笑をたたえ、両親を交互に見る。
「お父さまからの贈り物はとてもうれしいけれど……まだわたしにはもったいないほどの高価な物ばかり。そう、お義母さまにも何かさしあげてくださいな。お父さまがわたしにばかり贈り物をくださるから、お義母さまは――」
「ネージュ!」
遮ったのは、鋭いエリザベートの声だ。それを王がいさめる。
「エリザベート。何をいらだっている。娘を相手に……」
「体調が優れませんので、失礼いたします」
いきなり立ち上がると、エリザベートは控えていた侍女たちを連れて出て行ってしまった。
「まったく……何が気に入らないのか」
ネージュは義母の背中を見送った後、王に向かって笑いかけた。
「お父さま、ちゃんとお義母さまを愛してあげてくださいね。私だけではなく……そうしないと、お義母さまはさびしくなって気が狂ってしまうから――」
*
「ネージュ姫の美しさは亡き前王妃セーラさまから受け継いだものなのよ。まだ十三歳なのにあの美貌は末恐ろしいわね」
「それにしても、気味が悪いくらい大人びていて可愛げというものがまったくないじゃない。エリザベートさまが気に入らないのもわかるわ」
「王妃の王女嫌いは折り紙付き。陛下はまだ若い美女である王妃よりも、幼い娘に夢中なのだから。男を手玉にとってきた高級娼婦としての誇りが許さないのでしょう。ネージュさまが可憐な白百合なら、エリザベートさまは大輪の薔薇のようにお美しい」
「けれど生まれが違うわ。ネージュさまは大貴族の母を持つ正真正銘の王女、エリザベートさまは美貌で成り上がったけれど、もとの身分は平民よ」
「高級娼婦だったエリザベートさまは呼ばれた夜会で陛下に見初められ、宮廷に入られたのよね。のちに正式に王妃として迎えられたのだからとんでもない成り上がりよね。当時は諸侯の反対がすさまじかったとか」
「当然でしょう。セーラ前王妃がご存命だった時から愛人として囲っていた女を、王妃が亡くなって間もなく正妻にしてしまったのだから。まったく、陛下の美女好きには困ったものだわ。陛下のネージュさまへの溺愛ぶりは、セーラ前王妃への後ろめたさもあるのかもね」
おしゃべりな女官たちの噂話の主な話題は、十三歳のネージュ王女とその継母エリザベート王妃についてだった。
そのような噂は、はからずとも広まりやがて本人の耳に入るものである。
「ネージュ――あの小悪魔め!」
誰もいない自室で、エリザベートは葡萄酒を一気にあおった。
豊満な肉体を透けるような薄衣で包み、輝く金髪を惜しげもなくその上にまとわせたその姿は、さながら宗教画に描かれる女神のようであった。
しかしその表情は毒々しいまでにいらだっており、杯に注がれた血のような葡萄酒を見つめている。
「実の父を虜にし貢がせるなど、何が高貴の生まれ……天性の娼婦ではないか。それに、このわたしを見下すようなあの目つき……セーラによく似た憎らしい小娘だわ。自分が世界一美しいとでも思っているにちがいない」
テーブルの隅にあった手鏡を手に取り、それに映る自らの顔を見つめた。
「目も鼻も唇も、わたしの方がずっと美しい。そう、世界一美しいのはわたし……」
その時、部屋のドアが三回叩かれた。
エリザベートの表情がぱっとやわらぎ、手鏡を放り捨てて駆け寄る。
「レオン!」
ドアを開くと同時に、その先に立っていた男に抱きついた。
「ああ、レオン。待っていたのよ」
「お待たせして申し訳ありません、王妃さま」
その男は、宮廷貴婦人の間で人気が高いという若き伯爵レオンだった。
「今は王妃などと呼ばないで」
「ええ、わかっていますよ。わたしの愛しいエリザベート……」
甘い言葉を囁きながら、レオンはエリザベートの艶やかな唇にくらいつくように接吻をする。
「レオン、これを」
そう言ってエリザベートはレオンの首にペンダントを下げた。
「これは……?」
「贈り物よ。あなたに似合うと思って、高名な職人に作らせたの」
「そんな……身に余る光栄です。あなたがわたしのことを考えてくださったと思うだけで、どうしようもなく胸が熱くなる……」
王妃エリザベートは騎士レオンと許されざる関係にあった。毎夜皆が寝静まる頃、レオンが宮廷に不在の時は何かにつけてエリザベートが街へ外出したりして、逢瀬を重ねていたのだ。
二人が互いの体を貪るようにドアの近くでしばらく愛撫を味わった後、二人は部屋に入りドアは完全に閉められた。
そのしばらくの間を、見る者がいたのだ。廊下の柱の陰に隠れ、さしこむ月明かりを頼りに。
「ほら言ったじゃない、お父さま……お父さまに愛されないから、お義母さまがあんなことをしてしまったのよ」
呟きながら、嗤う唇。
まぎれもなく、ネージュ姫だった。
*
「赤、青、白――たくさんあるけど、やっぱり赤が一番だわ」
そう言ってネージュは花壇の隅に生えている赤い花を摘んだ。花摘みは大人びたネージュにしては珍しく、年相応の趣味だった。
「ネージュ姫、それは危険です!」
「?」
慌てた様子で一人の青年が駆け寄って来る。
先日、夕餉の間へ向かう途中で会った若き伯爵レオンだった。
レオンはネージュが手に取った赤い花を奪い取って捨ててしまう。
「大変失礼いたしました、姫。わたしはミレス伯爵――」
「名はレオン、というのでしょう。知っていますわ」
レオンは一瞬きょとんとした後、すぐに笑顔になった。
「光栄です。――姫、花を摘む際は供をお連れください。野に咲く花は危険なものも多くあります。特にこの赤い花は根が猛毒です。花びらは深紅でとても美しいですが、本性はその見た目と甘い香りで獲物を引き寄せる、危険な花なのです」
そう言うレオンの笑顔は、多くの貴婦人を魅了してやまぬだろうと容易に想像できるほど、甘いものだった。
その首からは金の鎖でできた高価なペンダントが下がっている。エリザベートからの贈り物だ。
数日前、こそこそ職人を呼んで何か作らせていたのは、この人に贈り物をするためだったのね――お義母さまもこの顔に絆されたのかしら――
「それは恐ろしい花……こんなにきれいなのに」
「美しいものほど、気を付けなければなりませんよ」
ネージュはくすりと笑った。
「あなたも」
「――?」
「いいえ、なんでもありませんわ。わたしもお会いできてうれしかった、ミレス伯爵。これからも会ってくださる?」
「ええ、もちろんです」
ネージュはにこりと笑顔を見せる。
十三歳の少女の可憐な微笑みに、二十歳のレオンは心動かされた――そして、ネージュもそれに気付いていたのだった。