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第8話 危機

 すごい……。


 クレアは瞬きすることなく、その光景を見ていた。


 司祭の体格が良いことには気がついていたが、まさかここまでの戦闘能力を持っているとは思わなかったのだ。

 なんでエミリーナの教えが垂直落下式ブレーンバスターなのかは疑問には思ったが、とりあえず置いておくことにした。


 ライトンは法衣の乱れを直すと、クレアの元に近寄った。クレアは手を伸ばし、回復魔法を司祭の左腕にかけた。司祭の刺し傷がみるみるうちに消えていく。

 ライトンは懐から一通の便箋を取り出し、クレアの胸元に忍ばせた。


「これを持ち、向こうの森に隠れているのです。朝まで待ち、私が戻らぬ様ならばそれをメルドムの教会に届けるのです」


「そんな、私も戦います。回復魔法が使える以上お邪魔にはなりません」


「クレア、そういうことではありません。全滅は避けねばならないのです」


 全滅……その言葉の意味にクレアはびくりとなる。


「敵が多すぎます。魔物だけならまだしも間者(かんじゃ)まで(うごめ)いている状況、我々に勝ち目は薄いでしょう」


 不意に茂みから唸り声が聞こえた。


 紅い体毛に覆われた全長2メートルはあろうかという犬……魔犬マスラーだ。大きく開いた口から鋭い犬歯がのぞき、粘度の高い涎が地にこぼれ落ちた。

 クレアが振り向いたときには、既に茂みから飛び出していた。すさまじいスピードで、のど笛めがけ飛びかかってきた。


 が、それがクレアに届くことはなかった。


「ふんっ!」


 ライトンが気合一閃手刀を振り下ろす。飛びかかろうとしていたマスラーの首元を直撃した。

 ぼきりという乾いた音と共に、マスラーは地面に叩き落とされた。長い舌をだらりと出したまま、ぴくぴくと痙攣を起こしていた。


「時間はない。クレア行きなさい」


「し、しかし……」


「行くのだ! お前を庇っている余裕はもはや無い!」


 ライトンはくるりと背を向けた。そして魔物の大群へと走り出す。


「己の使命を履行(りこう)せよ、クレア!」


 ライトンの背を見ながら、クレアは少し躊躇った。

 やがて、意を決すると森に向かって走り始めた。

 己の使命……胸の書状をメルドムに届けるまで死ぬ訳にはいかない……クレアは闇夜の中を賢明に走り始めた。




 クレアは闇夜の中、懸命に走り続けた。


 とはいえ、そのスピードは遅い。もともと走り慣れていない上に、暗闇で感覚のない泥水に足を入れている様でおぼつかず、蹌踉(よろ)めきながら走っている。

 明かりを持っていないこともその事に拍車をかけていた。もっともこの暗闇の中、明かりを持っていたら自分の居場所を敵に教えている事になるので仕方がなかった。


 自分の吐く息が白い。気温はどんどん下がっている。だが、クレアの額にはうっすらと汗が滲み始めていた。

 まだ500m位しか走っていない。にもかかわらず、もう数10kmは走ったかのように体と足が重い。

 運動しておけばよかった……そう思ったが後の祭りだ。

 常に移動は馬車であり、町中でも滅多に歩かない。さらに教会でも座学が多いクレアにとって走る行為自体が滅多になかった。



 なんとか森の中に入ると、そこは完全たる暗闇だった。

 木々に遮られ、僅かに照らしていた月の光もここには届かない。


 クレアは走るのを止め、振り返った。木にもたれかかって、必死に息を整える。

 呼吸が苦しく、心臓が悲鳴を上げていた。横っ腹が引き()るように痛い。走る時の呼吸の仕方が悪いとこうなる。整えながら、顔を上げた。

 そこは戦場だった。ここからでも戦っている兵士達の姿が見える。かすかに怒号や悲鳴が聞こえる。ライトンの姿は見えなかった。クレアはしばらくそこで呼吸を整えながら戦闘を見ていた。


 ……ここで大丈夫だろうか?

 やっと呼吸が整い始めたクレアは思った。ここでは丸見えではないのか? もっと奥に行った方が良いのではないか。

 振り返り、森の奥を見る。そこは何も見えない暗黒の世界だった。まるで地獄の入り口がぽっかりと口を開けているかのように感じた。


 怖い……行きたくはない。

 でも奥に行かないと、ここでは敵に見つかってしまう。


 クレアは意を決すると、森の奥へと歩き始めた。

 立って間もない幼子の様に、両手を前に突き出す格好で、よたよたとクレアは奥へと進んでいく。


「何も見えない・・・」


 呟きながらクレアは進む。暗闇という海の中を泳いでいる様だ、そう思ったせいか、息苦しくなってきた。


「あうっ!」


 張りだしていた木の根に足を取られ、クレアは派手にすっころんだ。肘をしたたか地面に打ち付ける。触ってみると修道服の肘の部分が破れ、ぬるりとして痛いというより熱い。

 立ち上がると肘に回復魔法をかける。傷はすぐにふさがった。修道服に付いたほこりも払わず、再びよたよたと歩き始める。


 突然目から涙があふれ、頬を伝った。意図していなかった涙にクレアは驚いた。手の甲で涙をぬぐったが、次から次へとあふれてくる。

 それは痛みの涙ではなかった。恐怖の涙だった。


 クレアの側にはいつもライトンや教団の兵士達、それに母がいた。一人で行動することなど無かったのだ。

 その上、戦争が休戦状態になってから生まれたクレアは、いわゆる「戦争を知らない子供」だった。今まで恐怖とは無縁の生活を送ってきたのだ。


 自分の戦闘能力が先の魔物達に対して皆無だと知っている。間者や魔犬マスラーに襲われたらあっさりと殺されるだろう。

 特にマスラーは自慢の嗅覚でどこまでも獲物を追ってくる。今迫ってこられたら……。

 かちかちと自分の歯が鳴り出した。止めようと思っても止まらない。涙がさらにあふれてくる。


 もし襲われたら……これで……。


 クレアは修道衣の内ポケットに隠された小型ナイフにそっと手を当てた。刃渡り7cmほどのナイフが木の鞘に収まって入っている。

 攻撃用の武器ではない、自決用の武器だ。


 教会にシスターと認められた女性すべてに手渡される物だ。もし暴漢等に合い、自らの貞操を守れそうに無くなったらこれで己の喉をかっ切り自決せよ。これが教会の教えだった。

 定められた人以外に体を許すくらいなら自殺せよという教え。教会は女性信者に対し厳粛(げんしゅく)なまでの貞操(ていそう)観念を求めている。


 急に茂みがゴソゴソと鳴った。反射的に足が止まった。クレアは音のした方におそるおそる顔を向ける。

 当然何も見えなかった。しかし、クレアの背中にざわざわとした、得体の知れない何かが這い上がっている感触がした。


 恐怖だ。恐怖が背中を這い上がり、かけずり回る。心臓が激しく鼓動し、握りつぶされたかの様に痛み出した。

 背中を押される様にクレアは再び走り始めた。方向などどうでもよかった。ただ、ここから逃げなくてはならない。その一心だった。


 瞬間、足が空を切った。え? と思った時には体勢が前傾していた。

 反射的に手を前に出す。だが、体が固い地面に叩き付けられることはなかった。衝撃と共に、体中に冷たいモノがまとわりついた。驚きで息を吐き出すとごぼごぼとなった。

 息を吸い込もうとしたが、口に入ってきたのは大量の水だった。鼻の中にも入ってくる。猛烈な痛みと現状不明の状態にパニックなる。


 数秒後、水の中に落ちた! と気がついたが、パニックが収まらない。力を抜けばいいのに水中でもがき続ける。結果どんどん沈むことになる。

 クレアは決して泳げない訳ではない。しかし、パニックが泳ぐ方法すら頭の中からすっ飛ばした。低い水温があっとゆう間に体温を奪い去る。修道服が水中で体に絡みつき、さらにもがく。体力が奪われていく。

 水に落ちた時に息はすべて吐きだしてしまった。体が勝手に酸素を求めて呼吸しようとする。だが、入ってくるのは水であり、それを飲み込んでしまう。水を飲みたくなくても飲んでしまう。体の反応だった。


 ようやく手が動く様になった。必死に水面に出ようと水を掻いた。でたらめに掻いているだけだが、奇跡的に体は水面の方に向かっていた。

 ようやく水面に頭を出した。息を吸おうとしたが、鼻から少し吸えただけだった。


 襲ってきたのは猛烈な吐瀉(としゃ)反応。大量に飲み込んだ水を引き出そうとしているのだ。

 息が吸いたいのに吸えない。むしろ吐きだそうとしている。クレアは再びパニックに陥りそうになる。


 手をばたばたさせると、岸に手が触れた。必死に掴み、岸に体を寄せる。口からは大量の水があふれ出てくる。息は鼻から辛うじて吸えた。

 ようやく水を吐きだすのが止まった。だが、口から息を思いっきり吸えない。何か喉の奥が詰まったかのように、少ししか吸う事ができない。

 手に力を込め、体を水面からだそうとする。上半身を岸に上げただけで止まった。もう指一本動かせなくなった。だが、何とか再び水面に落ちることだけは避けられた。


 しかし、水に落ちなければクレアは確実に死んでいた。

 あの茂みの物音はマスラーだったのだ。クレアのニオイを追って追跡してきた一体だった。

 水に落ちたことにより、クレアのニオイが消えてしまった。マスラーはうろうろしていたが、諦めて去っていった。


 とはいえ同じ事なのかもしれない。体力のすべてを失い、水に体温を奪われ、呼吸も満足にできない。クレアは一歩一歩死に近づいていた。



 もうだめだ……。


 そうクレアは覚悟した。

 もう助からない、朦朧(もうろう)としている頭がそう訴えている。

 体もそう訴えている。指一本たりとも動かない。自慢の回復魔法も使用できない。

 体中が冷たい。自分の意志とは関係なく、最後の力を振り絞って震えている。


 ごめんなさい、司祭様。私は自分の使命を果たせぬようです。

 ごめんなさい、お母様。クレアはここまでのようです。

 ごめんなさい、エミリーナ様。ごめんなさい、ごめんなさい……。



 助けて……。

 誰か……誰か……助けて……。



 クレアの意識は闇へと落ちていった。

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