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第68話 暴走

 街に正午を伝える鐘が鳴り響いていた。


 いつもは昼食の時間であるが、今日は違った。メルドムの人々は皆東門に集まり、街から出る馬車を歓声と共に見送っていた。

 法皇であるセリア達一行が乗った馬車数十台だった。これからマルヴィクスへと帰還するのだ。馬車群の周りを馬に乗った兵達が囲んでいる。その数は1000名以上。厳戒態勢での帰還だった。


 馬車の一つはレナードが登場していた。荷台にはリムが乗り込んでいる。他にゼオとホローの遺体が乗せられていた。

 二人はゼオの埋葬まで付きそう予定だった。ゼオに家族がいないのと、二人の関係を知っていた教団兵士も多く、セリアの口添えもあり正式に認められ同行していた。

 メルドムの門から長い行列が吐きだされている。そのスピードは非常にゆっくりとしていた。今日は途中のラトームで一泊し、明日の昼過ぎにマルヴィクスへと到着する予定だった。


 その同時刻、真逆である西門側から、一つの集団が出てきた。中央を馬車が歩き、その周りをいかつい男達が囲んで歩いている。

 ロウガ傭兵団の面々だった。正式に契約終了となり、ナロンに帰還しようとしていた。


 傭兵達は大声で話し合い、笑い声を上げている。どの者達も非常に機嫌が良さそうだった。それもそのはず、今回の仕事は非常においしい仕事だった。

 最初に調査と言われていたが、すぐに召集がかかり、メルドムの街へと戻った。その後は街の警備に付くも、今日まで何一つ事件らしいことは起きなかった。それでいて報酬はいつもの倍以上だった。笑いが止まらないのも頷ける状況だ。

 彼らの笑いのツボはそれだけではない。時折、中央を歩く馬車を指さし、低い笑い声を上げている。話題の中心はもっぱら馬車に乗っている人物のことだった。




 2時間前。

 セイジはセラヴィの自室で椅子に座り、ぼーっと開けっ放しになっている窓の外を眺めていた。心地良い風が流れ込んでいる。外は快晴であり、この季節には珍しく少し汗ばむほどの陽気となっていた。

 すぐ前にあるグラスの中で氷が溶け、カランと音を奏でた。セイジはグラスを掴むと、残りの酒をぐいと一気に煽る。空になったグラスに半分ほど酒を注ぎ、また窓の外に視線を向けた。


 久しぶりののんびりとした時間だった。今日は食事会も慰問もない。あと少ししたらメルドムを離れることになる。教団と結んだ契約は終了となり、ナロンに帰ることになっていた。今は最後の酒を楽しんでいるところだ。

 帰る準備は終わっていた。と言うより何もなかった。元々がニード村からの帰還途中に巻き込まれた仕事だ。簡単な手荷物しか持っておらず、準備などものの数分で終わってしまった。


 クレアはどうすんのかな……。


 セイジは外を眺めながらぼーっと考えていた。

 猊下と一緒にマルヴィクスに帰るのか、それとも自分と一緒にナロンに来るのか。その答えはいまだ聞けていない。


 もっとも、どっちでもそう変わるものではない。ナロンに行ったとしてもそれはせいぜい一ヶ月だけのこと、セイジの退団手続き、家の売却等が完了すればマルヴィクスに行くことになる。

 その事はメルドム襲撃前に伝えてある。ただ、その後がてんやわんやで二人の時間が作れず、結局どうするのかは解らない。

 扉がノックされる音が聞こえた。セイジは顔を向ける。


「クレア?」セイジは呼びかけた。


 扉が開き、入って来たのはクレアではなく、セリアだった。


「あ、げ、猊下でしたか。これは失礼を……」


 セイジは慌てて立ち上がり、グラスを隠すようにテーブルの端に寄せた。


「……猊下ではないでしょ、婿殿」


 にっこりとセリアが微笑みながら言った。しかし、その背後にはゴゴゴゴゴ……と言うような激しいオーラが発せられている。

 何故かセリアは激しく怒っていた。


「あ……いえ、その……」


 セイジはちらりとグラスの方を見た。朝から酒かっ喰らっているのを咎められていると思ったのだ。


「お酒を飲んでいた事を言っているのではありません、猊下ではなくお・か・あ・さ・んでしょ!」


 そっちかよ、とセイジは心の中で突っ込んだ。


「は、はあ……申し訳ありません、義母上(ははうえ)


「そうそう、それでいいんです」セリアは満足そうに満面の笑みで頷くと、扉を閉めた。


「げい……義母上お一人ですか?」


 入ってきたのはセリア一人だった。クレアはもちろん、いつも離れず寄り添っている侍女二人もいなかった。


「クレアちゃんじゃなくてごめんなさいね」


「あ、いえ、そういうわけではなく……侍女の方々もいないのは珍しいかなと」


「ああ、二人ともセイジさんに尻込みしちゃってね……」


「う……」セイジは言葉に詰まった。思い当たる節がありすぎるからだ。


 彼女たちにはいい印象を持たれていなかった。初めて会った時から敵意丸出しで一挙手一頭足を見張られていた。一傭兵が教団の王と会っているのだ、当然の行動だとも言える。

 挙げ句の果てには、気迫でそのうちの一人を叩き斬る幻影を見せた。女性ながら法皇に付きそう二人だ、実力も普通の兵士とは比べものにならないほど高かった。その為、斬られた侍女は幻影とは言え、はっきりと斬られる感覚を味わったはずだ。セイジを怖がって近寄らないのも無理はない。


「そうじゃなくてね、セイジさんに合わせる顔がないみたいなのよ」


 セイジの心中を察してか、セリアが笑いながら言った。


「ほら、ちょっと彼女たちセイジさんに辛くあたっていたじゃない。今更どう接して良いか解らないみたい。後でいいから、少しフォローして上げて」


「はあ……」セイジは曖昧に答えた。まあ、嫌われていないのであればフォローのしようもあるかな、と思った。

 セリアはセイジの方に歩み寄ってくると、そっとセイジの手を取った。


「セイジさん、今回の事、クレアのこと、本当にありがとう。3日間一緒にいたけどお礼を言うタイミングがなくってね、今さらだけど改めてお礼を言うわ」


「いえ……とんでもありません」


 セイジは慌ててかぶりを振った。


 確かにこの3日間、セイジはセリアと朝から晩まで行動をしていた。だが、そこでのセリアはお茶目な女性でもなく、クレアの母でもなかった。紛れもないエミリーナの法皇その人だった。

 教徒でもないセイジが見ても解るほどのオーラを放っていた。おいそれと話しかけられない威厳と風格を身に纏い、法皇としての任をこなしていた。この3日間、まともに会話も交わせず、時折ふられた話に相槌を打つ程度だった。

 今日は違った。今のセリアは法皇ではなく、クレアの母だった。だからセイジも何気なく会話することが出来た。


「それでね、婿殿、ちょっとクレアちゃんのことで相談があるんだけど」


「クレアですか? 所でクレアは今どこに? ライトン司祭の所にいるのですか?」


「ううん、私の部屋にいるわ。その少し悩んでいてね」


「悩んでいる? もしかして……」


「そう、セイジさんと一緒に行くか、マルヴィクスに私と一緒に行くか、迷っていて結論が出ないみたいなの」


 セリアは人差し指を頬にあて、困った表情でセイジを見上げていた。


「しかし、どちらにせよ私も所用が済み次第マルヴィクスに向かいます。義母上と一緒に行かれましても一月もあれば……」


「確かにそうなんだけど、今のクレアちゃんにはその一ヶ月も長いんだと思うの。やっと巡り会えた良き人だもの。ひとときも離れたくはないと思う。だから本当はセイジさんに付いてきたい……でも法皇の娘としての自分が、セイジさんに同行する事を許さない……その板挟みになって今も悩み続けているわ」


「そうですか……」と呟き、セイジも難しい顔をした。


 ライトンはクレアに我が儘になれ、と言った。だがそれはやはり難しい。クレアは生まれついてからの生粋のエミリーナであり、現法皇の娘だ。自分の思う通り行動出来ないことも多いだろう。


「だから……セイジさんがクレアちゃんを悪い子にして上げてくれないかな?」


「は?」セイジが顔を向けると、満面の笑みを受かべ、セリアが笑っていた。




「クレア、入るぞ」


 軽くノックをして、セイジは部屋の中に入った。


「え? あ、セイジ様!」


 クレアは椅子に座り、物憂げな表情であらぬ方向を眺めていた。その顔が一瞬にして驚きと嬉しさの混じった表情に変わった。


「その……クレアがここにいると、義母上からきいてな」


 言いながらセイジは歩み寄り、クレアの向かいの椅子に腰掛けた。


「もうすぐメルドムを離れる事になるが……クレアはどうするんだ?」


「あ……そ、その……」クレアはさっと目をそらした。やはりまだ決まっていないようだ。


「難しく考える必要は無い。義母上と共にマルヴィクスにいっても、一月もすれば俺も行くことが出来る。なるべく早く行くようにするから……」


「はい……」クレアはゆっくりと頷いた。しかし、その目がセイジに向けられることはなく、瞳が揺らめいている。


 二人の間に沈黙が流れた。クレアはちらちらとセイジを窺っているだけで口を開こうとはしない。セイジもじっとクレアを見つめたまま、何も言わなかった。


 ……言え! セイジ、言うんだ!


 そうさっきから自分を鼓舞し続けている。しかし、反して唇は小刻みに震え続けるだけで言葉が出てこない。

 頭から汗が噴き出し、もみあげをつたって流れている。顔がだらだらと汗まみれになっているのだが、クレアは気が付いていない。


「あ……あのさ、クレア……」


 ようやくかすれた声が出た。ただ、その後の言葉が続かない。


 た、戦っている方が数倍マシだ!


 心で絶叫しつつ、必死に言葉を絞り出した。


「もし……もしどちらに行くか迷っているなら……お、俺と一緒に来て欲しい」


 その言葉にクレアははっと顔を上げてセイジの方を見た。


「たった一月……それは解っている。だけど俺は今、クレアと離れたくはない。この数日間はキツかった。クレアの事ばかり考えていた。今、どうしているのか、無理をしていないか、倒れていないか……心配事が頭の中でぐるぐる回り続けていた。

 クレアは俺と出会ったことを運命と言った。俺にとってもクレアと会ったのは運命だった。離れて……っていってもたった3日かそこらだけど、それがよく解った。だから……だからクレア、俺と一緒にナロンに来てくれ。俺にはお前が必要なんだ」


 クレアは呆然と目を大きくしたまま、セイジを見つめていた。

 対してセイジは下を向きながら、顔を真っ赤にしていた。

 まともにクレアの顔を見ることが出来なかった。顔面を汗が伝い、滝のように流れている。頭が沸騰し、湯気が立ちぼらんばかりになっていた。


 セリアに言われたからではない。全てが今のセイジの偽らざる言葉だった。頭に流れていた無数の言葉を思いつく限りに紡ぎ結んだ。自分でも何を言っているのか良くは解っていない。


 再び沈黙が流れた。だが、その沈黙の持つ意味が先程とは一変していた。

 ふと、セイジは自分の手に何かがそっと触れたのを感じた。それはクレアの手だった。セイジの手を包み込むようにきゅっと力を込めた。


「セイジ様……ありがとうございます。私、お母様にセイジ様と一緒に行く旨、伝えてきます」


 クレアの手が離れた。椅子から立ち上がる音と共に、ぱたぱたと小走りに走る音が聞こえた。


 ……ええと……俺と一緒に行くということだよな……。


 クレアの言葉を頭の中で反芻する。数回繰り返した後、はあーと大きく息を吐き、テーブルに突っ伏した。

 疲れ果てた。言葉を喋るのにこれほど体力を使うことがあるのだ、と生まれて始めて知った。

 しばらくは立ち上がれそうもなかった。テーブルの上で打ち上げられたクラゲのようにべちゃっとなりながら、セイジはそのままぐったりとしていた。






 セイジは馬車の中で腕を組み、むっつりと口を結んでいた。

 目の前にはクレアがいる。どこか落ち着かない様子で、きょろきょろと視線を彷徨いさせ続けている。


 セイジは窓の方に視線を向けた。もっとも窓にはカーテンが敷かれ、外の様子は分からない。だが、傭兵(なかま)達が自分達のことを肴にして、盛り上がっているのは容易に想像出来た。

 この馬車に乗る時でさえ、散々からかわれ、下品なヤジを浴びせかけられた。セイジがシスター攫ってきただ、既成事実を作り無理矢理婚約者にしただ、トンビが鷹を落としただ散々な言われようだ。ナロンに付いたらどうなるのか、嫌な方にしか想像は働かない。


 それよりもセイジは今、別のことで悩んでいた。


 ……クレアの寝るところ、どうしよう。


 セリアの言われるまま、勢いでクレアを連れてきてしまったが、その後のことを全く考えていなかった。

 セイジは確かに自分の家を持っている。だが、ただ寝るためだけの場所と言っても良かった。

 基本自炊はせず、外で済ます。家の中には最低限のものしか無い。水道は通じているが、そのほかは普段使用しないので解らない。


 一番の問題は寝る場所だった。セイジは床に布団を敷いて眠る。ベッドなどは存在しない。替えの布団があるにはあるが、部屋で飲んでいた時に帰れなくなったやつが使用するものしか無い。流石にクレアを酒と男のニオイが染みついた布団で寝かせるわけにはいかなかった。


 新しいものを買ってくるしかないか……。


 考えてうーんと悩んでしまう。当然、クレアと一緒に行かなければならず、街の者にお披露目する形になる。もっとも仲間達にばれてしまっている以上、明日になれば街中に伝わっている事は間違いないのだから、どちらにしても一緒な気もするが……。


「セイジ様?」クレアの声にはっと顔を上げた。


「あの……どうされましたか? 何か唸っておられましたが……」


「い……いやな、ちょっと今夜のことを悩んでいて」


「今夜のこと……」呟いて、クレアは頬に手を当てて、顔を赤くした。


 セイジはそれに気づかず、顔を横に向けたまま話を続ける。


「クレアの分の寝具がないんだ。どうせ家は売らなければならないから、ホテルにでも……」


 そこまで言って、クレアの様子がおかしいことに気が付いた。

 クレアは顔を上気させ、ぼーっと天井を眺めていた。魂が抜け、完全に別世界へと旅立っている。


「クレア?」


「は、はい! なんでしょうかセイジ様!」


「いや……寝る場所ないからどうしようかって話なんだけど」


「寝る場所? え、あ、今夜の事ってそういう……」


「ん……そういうって」


 そこまで言ったところでやっとセイジも気が付いた。

 セイジは寝る所の話をしていた。クレアは寝る前にすることを考えていた。

 クレアは先程よりも顔を赤くして、茹で蛸のようになって俯いた。セイジも何となくクレアを見ていられなくなり、目をそらす。しばらくそのまま沈黙が続いた。


 何か話題を……。


 セイジが必死に頭を絞った時、ポケットの中に入ったままになっているモノの存在を思い出した。さっき部屋を訪れた時に渡せば良かったのだが、クラゲ状態となっていたセイジはすっかりと忘れていた。


「クレア……その、受け取って欲しいものがあるんだが」


 セイジは中腰で立ち上がり、クレアの前に膝を突いた。


「え?」クレアが赤い顔をあげてセイジを見た。眼前に出された手に青い小箱が乗っている。

 セイジはその小箱を開けた。中には細工の施された銀の指輪(シルバーリング)がちょこんと乗っていた。


「マルヴィクスについたらちゃんとしたものを買ってやる。だから今はその代理ってことで」


 セイジは銀の指輪を取り出すと、クレアの指につけてやった。

 指輪はぴったりとクレアの薬指に収まった。まるでクレア用にしつらえたかのようだった。


「驚いたな……ぴったりじゃないか」


「これは……」


「おふくろの指輪だ」


「お義母様(かあさま)の……」呟きながら左手の指輪をしげしげと眺めた。


 それは一見質素な指輪に見えた。宝石等の派手派手しい装飾は一切付いていない。その代わりに細かい女性の像を模した彫り物が刻まれている。素人目に見ても凄まじく手間のかかった指輪だ。


「親父と一緒に旅立ったあの日、おふくろは指輪を家に置いていった。何かを予期していたのかも知れない。旅に出る時、形見代わりに家から持っていたんだ。マルヴィクスに付くまでの代理の婚約指輪として受け取って欲しい」


 目覚めた日、レナードに取りに行ってもらったモノがこれだった。

 母の形見だからクレアに送ったわけではない。ただ単にあの指輪なら、クレアに大きさもぴったりだし、似合うだろうなと思ったのだ。

 クレアに市販されているようなゴテゴテと装飾のなされた、派手派手しい指輪はイメージに合わなかった。シンプルながら細かい装飾のなされた母の指輪は、セイジの描くクレアのイメージとぴったりと合致した。


「……ありがとうございます。私、もう指輪なんていりません。これで十分です」


 クレアは声を詰まらせていった。うれし涙が頬を伝っている。


「……マルヴィクスに行ったらちゃんとしたモノを買ってやるって。これは男の義務……」


 言葉の途中で、跪いていたセイジの頭がふわりと包み込まれた。

 クレアの腕がセイジの頭部を包み込んでいた。自分もセイジの方に身を寄せながら、軽く自分の胸元に引き込む。

 見上げたセイジの顔にぽたりぽたりと涙の滴がこぼれ落ちた。


「ありがとうございます。セイジ様にこれほど大切に想われて、クレアは幸せ者です」


 クレアは上体を丸め、セイジの肩に甘えかかった。

 対するセイジは完全に固まっていた。手は空を泳ぎ、プルプルと小刻みに震えている。ゴクリと唾を飲む音だけが自分の中で大きく響き渡った。


「セイジ様、好きです、大好きです、愛しています。どうか……どうかクレアと末永く一緒にいて下さい」


 耳元で囁かれる熱い愛の言葉。熱いクレアの吐息と混じって、セイジの体温がみるみる上昇していく。

 クレアの言葉が脳の中で反芻し続けた。ただセイジを想い、セイジのために紡がれた言葉。シンプルが故に強烈な一撃となってセイジの全身を揺さぶる。

 頭に一気に血が上った。目の前が真っ白になって意識が途切れ途切れになる。

 手の震えがぴたりと止まった。クレアの背中に手を回し、力強く抱き寄せる。


「え?」クレアが顔を起こし、セイジの方を見ようとした。


 そんなクレアにセイジは覆い被さっていた。驚きに目を見開いたクレアに構うことなく、その唇を貪るように重ねた。

 右手をクレアの後頭部に回す。唇を差し込み、口内をかき回す。今までのセイジから想像も出来ない欲望のキスだ。クレアは驚きで呆然としている。加えてセイジが凄い力で抱きしめているので、身動きは取れない。

 セイジはそのままクレアを押し倒そうとした。セイジの力が更に強くなる。


「い、痛っ!!」たまらずクレアが悲鳴を上げた。その声にセイジの目に光が戻った。


 クレアと数秒、見つめ合ったまま固まっていた。やがてぶるぶると震え出す。


「わ、わわっ!! す、すまん、クレア!」


 セイジは慌てて飛び下がった。狭い馬車内で勢いよく飛び下がったので、座席に背中をしたたかぶつける。しかし、セイジは痛みを感じることもなく、座席にへばりつくように張り付いた。


 お……俺は今何をしようとしていた……。


 完全に我を失っていた。勢いのまま、クレアを押し倒し、襲おうとしていた。

 だらだらと汗が流れる。最近夏でもないのに汗を尋常ではないほど掻いている。主に冷や汗だが。

 クレアは驚きの表情のまま、セイジを呆然と見ていた。が、すぐにその表情は和らいだ。柔らかな笑みが顔に宿る。


「セイジ様……」


「は、はい!」


「そちらに……お隣に行ってもよろしいですか?」


 セイジは慌ててクレアのスペースを作るため、端に飛び退いた。クレアはセイジの隣に座ると、手を重ねた。


「抱きしめて下さいますか?」


「は、はい」セイジは震える手でゆっくりとクレアを抱きしめた。先程とは一変して壊れ物を扱うように、優しく抱きしめる。


「……少し、怖かったです」


「ご、ごめんなさい」


「いえ、嬉しかったです。情熱的なセイジ様を初めて見ました」


 セイジの腕の中でクレアが微笑んだ。


「でも……ここではいやです。他の人に聞かれるかも知れません。二人きりでゆっくり出来るところがいいです」


 クレアは目をつむってセイジに身をゆだねた。


「クレアはどこにも行きません。セイジ様が望まれる限り、離れずお側にいます。ゆっくり……ゆっくりと歩んでいきましょう」


「わ、わかった……」


 セイジはクレアをそっと抱きしめながら天井を見ていた。


 俺が……。セイジは思う。


 (トンビ)クレア(タカ)を落としたんじゃない。

 俺がクレアに堕とされたんだ……。


 どこか震える手でクレアを抱きしめながら、セイジは自分の中で何かが変わっていく感覚がした。

 それが何であるか、今のセイジには解らなかった。

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