第32話 悪夢
セイジとクレアは互いに正座し、黙って向き合っていた。
ナロンにあるセイジの家だった。セイジの寝室でもある6畳の部屋に、二人はいた。
クレアは長い髪を床に垂らし、俯いていた。髪の隙間からわずかに顔を覗かせている。
セイジも顔を俯き気味し、下を向いている。顔面はびっしょりと汗に覆われていた。時折、目線だけを上げ、クレアを窺い見る。
「信じて……いたのに」
クレアがくぐもった声で呟いた。
「い、いや……それは」
セイジが顔を上げ、何か言おうとする。
しかし、次の言葉は出ずに、ゴクリと唾を飲み込んだ。
クレアの目からは涙が一筋二筋と流れ、頬を伝いぽたりぽたりと畳を濡らしていく。
「セイジ様ならばと……全てを打ち明けましたのに。それなのに……」
セイジは、ただ呆然とクレアを見ていた。
「ならば何故、私と契りを交わされたのですか? 私は全てをセイジ様に捧げましたのに……セイジ様は私の体だけが目当てだったのですね」
違う、何かの間違いだ。俺は何も……。
セイジは言おうとする。だが、口がぱくぱくと動いただけで言葉は出なかった。
「このような辱めを受けては、私は生きてはいけません」
クレアが俯かせていた顔を上げた。そして、涙に濡れ、真っ赤になった目でじっとセイジを見た。
その目にセイジは言葉を出すことも出来ず、ただただ唾を飲み込むだけだった。
「……私はここで死にます」
クレアは着ていた藍色の修道衣を脱ぎ去った。下には何も身につけておらず、救出の際に見た細い体と薄い胸をさらけ出した。
クレアは目の前に置かれていたダガーを手に取った。いつもセイジが使用しているダガーだ。慣れた手つきで鞘を外すと、刀身の根元にくるくると懐紙を巻き付けていく。ダガーを逆手に持ち、懐紙を巻いた刀身を右手で握りしめ、左手を柄尻に添えた。
「介錯いたします」
いつの間にかレナードがクレアの後ろに立っていた。手にはセイジが使用していた斬馬刀を持ち、高々と振り上げていた。
クレアがダガーを突き立てた瞬間、首を落とすつもりだ。
おい、待て! レナード! 止めろ!
セイジは手を伸ばし、叫ぼうとした。だが、体は金縛りにあった様に動かない。
セイジは正座の姿勢のまま、その光景を大汗掻きながら見ているだけだった。
「お恨み申します、セイジ様」
クレアはダガーを大きく振り上げ、そして自分の胸めがけ、振り下ろした。
「まっ!!」
セイジは声を上げ、飛び起きた。見慣れない壁と柱が目に飛び込んできた。
小窓から入ってくるまぶしい朝日が部屋を照らしていた。
な、なんだ? どこだ、ここは?
一瞬混乱する。俺は自分の家にいたはず……。
が、すぐに混乱は解けた。自分はマイナの旅館に、クレアと宿泊していたのだと思い出した。
ゆ、夢か……。セイジは大きく息を吐いた。
何という……酷い夢だった。
左手で顔を拭った。部屋は肌寒さを覚えるほどの気温だったが、全身に汗をびっしょりと掻いていた。
後ろにある時計を見ようと体をねじろうとした。が、体にわずかな抵抗を覚え、視線を下に向ける。
そこにはセイジの服を両手でしっかりと握りしめ、胸に顔を押しつけ寝ているクレアがいた。セイジの右手を枕にしていて、本来の枕はセイジの頭上に転がっていた。
クレアの寝顔はだらしなく崩れ、幸せそうな眠り顔をしていた。先程までのセイジとは異なり、幸せな夢を見ている様だった。
セイジは自分の服を握りしめているクレアの細い指を、一本一本ゆっくりと剥がしていく。体を伸ばして枕を掴み、クレアを仰向けに返して枕を滑り込ませた。ここまでしてもクレアは起きずに、幸せそうな寝顔を続けていた。
セイジは体を起こして時計を見た。まだ6時だったが、もう寝る気にはならなかった。
今日も一日、大変な日になるのかな……。
セイジは思った。別に理由がある訳では無い。何となくそう思ったのだ。
とりあえず……風呂でも入るか。
セイジはびっしょりになった汗を落とそうと風呂場に向かう。
クレアは朝食の時間、8時まで起きること無く、幸せな眠りを続けていた。
そこには鬼がいた。巨大な槍を持った、真っ赤な鬼が立っていた。
鬼の周辺には死体が転がっている。この辺りを根城としていた山賊達だった。首を落とされた死体、頭を叩きつぶされた死体、喉に大きな縦穴を開けられた死体。まだ死にきれず、呻きのたうち回っている者もいた。
鬼はそんな山賊達の返り血を浴びて、全身を真っ赤に染めていた。纏っていた銀の鎧も朱に染まり、鈍い光沢を放っている。
顔面も血に染まっていた。左目は閉じられている。血が入り込んでいて既に見えてはいない。唯一見えている右目は、不気味な光を放っていた。元々の赤い髪も血でぐっしょりと濡れ、今はどす黒くなっている。前髪の先から血が滴り、珠となって地に落ちた。
右手が布でぐるぐる巻きにされ、丸い固まりになっている。その布の固まりから槍が上下に生えていた。槍が血で滑らないよう、握った状態で自らの右手と槍を布でぐるぐる巻きにし、強く固定したのだ。
初めは槍は振るうたび、裂けんばかりの激痛が走った。今は痛みは無い。慣れたのでは無く、痛覚が既に飛んでいた。手と槍は完全に同化していた。
鬼は槍を構え、目の前にいた男を右目で睨んでいた。
「ひいい……」
鬼と同じ銀色の鎧を纏った小太りの男は、悲鳴を上げながら後ずさりしていた。後を追うように、男が下がった分だけ、鬼も前に出た。
男の足が激しく震えていた。本当は一目散に走って逃げたかった。だが、後ろを向いた瞬間、鬼の槍が飛んできそうで怖くて振り返ることが出来ない。それ以前に、足が恐怖で竦んで走ることが出来ない。
「た、助けてくれ……」
男は呻くように言う。両手を前に突き出し、嫌々するように首を横に振る。
「違うんだ……お、俺はお前を……殺そうなんてしていない」
男の足が石につまずいた。「ひい」と悲鳴を上げ、無様に尻餅をついた。
すぐに立ち上がろうとして、足が縺れて前に転がった。すぐ目の前に鬼の足が見えた。顔を上げ、またひいい、と高い悲鳴を上げた。
「ち、違う……た、た、助けてくれ。い、いや、助けて下さい……レナード」
男はその場にひれ伏し、鬼に向かって土下座する。
それを目の前の鬼……レナードは黙って見下ろしていた。
穢い。
レナードは男を見下しながら思った。その表情は面をかぶっているかのように、ぴくりとも変化しない。
なんと穢い男だ。この男に比べれば、叩き殺してきた山賊達の方がまだ綺麗と言えた。
男は土下座したまま頭を上げない。恐怖で上げることが出来ないのだ。頭を地面にすりつけながら、何か言っている。しかし、既にレナードの耳には入っていない。
これがグランドナイツなのか。
これがエミリーナの、いや、大陸最強と謳われた騎士団の一人なのか。
エミリーナの騎士は己のために生きるのでは無く、他人の、そして教道のために生きるのでは無いのか。教道に殉ずることも厭わない、それがエミリーナの騎士では無いのか?
これが騎士なのか。いや、そもそも人間なのか。
くだらないちっぽけなプライドにこだわり、妬み嫉みで仲間を貶める。
そして今、そのちっぽけなプライドが何を起こしたのか。
辺りに散らばる死体。それは山賊だけではない。銀色の鎧を纏った死体も幾つかある。そして女、子供の死体もある。
すぐ脇に、自分の胸に手を当てたまま、仰向けに倒れている少年がいた。胸元は血で真っ赤に染まり、ぽかんと口を開け。目が驚きに開かれたまま死んでいた。自分が死んだことを理解出来ない、そんな表情だった。
男は必死にレナードに許しを請うていた。助かりたい、死にたくない、それが全身からあふれ出ている。
お前は何をやっている?
皆、死にたくない。女だって、少年だって、兵士だって、山賊だって。
そのほとんどが死んだ。死にたくないといいながら死んだ。お前はそれでも生きたいというのか?
穢い。そして醜い。
レナードは言った。だが、言葉は出ていなかった。自分の腹の中で叫んだだけだった。
穢い物は潰そう。
レナードは槍を振り上げる。男が何かを感じたのか顔を上げた。槍を振り上げているレナードを見て、叫んだ。
叫んで、尻餅をついて、喚いている。何を喚いているかは解らない。
聞こえないし、聴きたくも無かった。穢い者の言葉など聴く価値も無い。
レナードは槍を振り下ろそうとした。
「待て! レナード=ヘイルマン」
突然飛んできた声に、レナードは槍を止めた。
「殺すな。その男を裁くのは、お前では無い」
レナードは声の方向に顔を向けた。そこには灰色の髪をした、老騎士が立っていた。
日によく焼けた浅黒い肌をしていた。顔には深い皺が幾重も刻まれ、年輪の深さを感じさせる。だが、腕も足も太く、肌にたるみは無い。体は年齢に見合わない筋肉で覆われていた。
見た記憶はあった。だが、誰だかは思い出せない。
レナードは老騎士に体を向けた。
「邪魔をしないで頂きたい」レナードは静かに喋った。
「修羅道に堕ちたか、レナード=ヘイルマン」
「教道に……いや、人に悖る行為をしたのはこの男」
「戻れ、今なら間に合う」
「間に合うとは異な事を。この男が今更、元に戻るとでも?」
「その男では無い。お前だ、レナード=ヘイルマン」
「戻る? 私が? 何をおっしゃっている」
「その男を殺せば、お前はもう戻れない。修羅を心に飼う事となる。一度飼えば、心は元に戻ることは無い。そうなれば人で無くなる」
「結構」レナードは薄く笑った。「ならば修羅となり、穢いものでも一つ一つ潰していくことにしよう」
老騎士は黙った。じっとレナードと睨み合う。
ゆっくりと柄に手をかけ、剣を抜いた。それに合わせるようにレナードも槍を構える。
老騎士から凄まじい殺気が放たれた。それをレナードは平然と受ける。
脇でドサリと物音がした。男が殺気にあてられ、失神して倒れた音だった。
「お前をこうしたのもエミリーナなのかもしれない。だからワシが責任を取ろう」
「止められるとでも?」
「グランドナイツが、そこで転がるクズばかりと思わんことだ」
老騎士が剣を上段に構えたまま、右に動いた。間合いを詰めること無く、蟹のように横に動いた。
左目が使えないと見て、死角に回り込もうと言う腹か。
レナードは思った。老騎士の持つ剣より、自分の槍の方が手に括りつけているとはいえ、30cm以上長い。加えて周りに遮蔽物は無い。長い槍を大いに振り回すことが出来る。老騎士が突っ込んできたところで勝ち目は無い。だから死角に回ろうとしている。
そう思い、レナードは老騎士の動きに合わせてその場で回り始めた。こちらから間合いを詰める必要は無かった。相手が入ってきた時に動けば十分だった。
老騎士が蟹歩きを止めた。老騎士の足下には山賊の死体が転がっていた。剣を上段に構えたまま、老騎士は足をその場でちょこちょこと動かしていた。
何をしている?
レナードは老騎士の足に目を向けた。あ、と思った。
老騎士の靴の上には銀色の物体が乗っていた。そこに落ちていた、折れた刃の破片だった。
老騎士の足が跳ね上がった。破片がレナードの顔めがけ飛んでくる。
破片をレナードめがけ蹴り上げると同時に、老騎士は前に出ていた。破片でレナードを崩し、一気に懐へと入ろうとした。懐に入り込んでしまえば、槍は力を発揮出来ない。
しかし、レナードは避けなかった。破片を避けようともせずに、前に出た。空いている左手で顔をガードしようともしなかった。
開かれた右目は迫り来る老騎士しか見えていなかった。破片が頬を裂き、ぱっくりと傷口を開けた。だが、レナードはその事は気にも留めなかった。
勝った!
老騎士はレナードの槍の間合いに入っていた。いつもより深く踏み込み槍を薙ごうとする。狙いは頭では無く、腹だ。右目だけなので遠近感が上手くつかめない。頭を狙うより、確実にあてられる腹を狙ったのだ。レナードの重い鉄の槍ならば、どこに当たっても必殺となる。鎧を着けていても内臓破裂させる位の威力はあった。
レナードが槍を薙いだ、その瞬間だった。
「おじさま! ダメッ!!」
聞き覚えのある少女の声に、レナードは反射的に声の方向に顔を向けた。
今の声は!? まさか?
レナードは右目を老騎士から外し、声の主を探そうと顔を振った。すると、目に何か飛び込んできて、レナードの視界がぼやけた。
血だった。髪の先からこぼれ落ちた血の珠が、声の主を探そうとしたレナードの右目に飛び込んできたのだ。
視界が完全に絶たれた。さらに声の主を探そうとしたため、腰が浮いた。とたんに槍が暴れ、老騎士には当たらずに地を叩いた。衝撃で右手首に激痛が走る。
「カアッ!!」
うめき声を上げ、レナードは気配を頼りに、もう一度槍を振るおうとした。
ドサリと重い物が落ちる音と同時に、右手が急に軽くなった。反動で体が泳ぎ、地に突っ伏して倒れた。慌てて立ち上がろうとする。
凄まじい激痛が右手を覆った。脳天を貫かんばかりの痛みに、転げ回りたいのを必死に堪え、その場でうずくまる。
左手で右手を触ろうとして、空を握った。右手が無いことにその時に気が付いた。
老騎士がレナードの右手を切り飛ばしたのだ。レナードの側に槍とぐるぐる巻きにされた右手が落ちていた。
「ダメだ、近寄るな!」
老騎士の声が聞こえた。同時に、レナードは自分の顔に何かが触れた事に気が付いた。何か、暖かい物に抱かれている感触がした。
ぎゅうと自分の頭が強く抱かれた。老騎士か? と思ったが違う。なにか、細い、別の……懐かしいニオイがした。
「やめて、おじさま……もう止めましょう」
聞き慣れた……いつも聞いていた少女の声が、レナードの耳に届いた。
「帰りましょう……おうちに帰りましょう、おじさま」
細い手が自分の後頭部を撫でていた。懐かしい声と感触が、レナードの体を満たしていく。
少女は泣きながら、レナードの頭をなで続けていた。
「おじさま……おじさま……」
「リ、リム……」
レナードは呻くように言うと、その場で意識を失った。
「!!!」
レナードはベットから跳ね起きた。とたんに右腕に激痛が走る。
肘から肩にかけて、焼けた鉄棒をねじり込まれているかのような痛み。肉を引き裂き、押しつぶすような痛みがレナードを襲う。
左手を出し、二の腕に噛みついた。声を上げるのを必死に堪えた。しばらく堪えればいい。長く続く痛みでは無い、1,2分待っていれば、痛みはじきに引く。
痛みは2分ほどで引いた。左手からようやく歯を剥がす。腕にはくっきりと歯形が残り、血が滲んでいた。
時計に目をやった。7時ちょっと過ぎ、8時まで寝る予定だった。だが、目は完全に覚めていた。
隣に目をやると、そこに寝ていたはずの女性は既にいなかった。ほっと息をつく。この夢を見たことを知られたくは無かった。
……何という最悪な目覚めだ。
レナードは前髪に手を突っ込み、俯いた。
久しぶりの夢だった。かつてはよく見たが、ここ最近、1年半ほど見ていなかった。すっかり油断していた。
レナードは毛布を剥いで、床に降り立つ。一糸まとわぬ全裸だった。床に綺麗に畳んであった下着に手をのばした。
……さて、今日もまた何か大変なことが起きるのでしょうかね……。
窓から流れ込むまぶしい光に目を細めながら、レナードは嫌な予感を訴えて続けている自分の頭をなでつけた。




