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第28話 奸計

「ふう……」


 クレアは湯につかりながら、大きく息をついた。

 風呂の湯はクレアには熱すぎた。水で埋めて、ようやく浸かれる温度になった。

 風呂が深すぎるので、座り込むようにすると、顔半分まで沈んでしまう。クレアは湯船の中にしゃがみ込むようにして肩まで浸かった。長い金髪の髪がお湯に浮かび、放射状に広がっていた。


 両手を器状にして、お湯を掬い上げる。湯は透明ではなく、少し白く濁っていた。手を傾けると、濁った液体が両手からこぼれ落ちた。

 クレアはもう一度お湯を掬い上げて、傾ける。こぼれ落ちるお湯を見ながら考えていた。


 セイジ様、気を悪くされたかな……。


 クレアは後悔して、再びため息をついた。

 知らなかったとは言え、亡くなった両親のことを尋ねてしまった。そこで止めておけばいいものを、その後も調子に乗って聞きすぎてしまった気がする。

 20年も前だから気にしていない、とセイジは言った。私に気を使ってくれたのかな? とも思う。


 クレア自身もごく最近、父を失っている。教会の仕事が忙しく、ほとんど顔を合わせなかった父とはいえ、とても悲しかった。

 セイジはわずか9才で、両親を同時に失っている。どれほど悲しく、辛い出来事だったのだろう。想像しただけで、クレアの胸にズキリと鈍い痛みが走る。

 セイジが剣と魔法をあれほど極めたのも寂しかったからではないか、と思った。師でもあった両親を失った寂しさを、剣と魔法の修行に集中することによって紛らわせていたのではないか。そうだとすれば、両親を失ったことにより、セイジはあの強さを手に入れたことになる。何という皮肉だろう。


 クレアは顔半分を湯の中に沈めた。口から吐きだされた息が泡となってぶくぶくと浮き上がる。

 お湯の中で何度目になるか解らないため息をつきながら、今日の昼の事を思い出していた。




 クレアは現場調査に向かう馬車に乗るため、メルドムのホテル、セラヴィの中庭にいた。

 目の前には馬車があった。まだ荷台だけの状態で、4頭の馬はすぐ近くの木に括りつけられていた。兵士の一人が水と食料を与えている。


 クレアは馬車の荷台近くに立っていた。足下には昼食用の籐のバスケットが置いてある。

 すぐ隣に、一昨日の夜部屋にやってきた傭兵……レナードが立っていた。レナードは直立不動で手を後ろに組んで、正面の門をじっと見ている。セイジは所用で今近くにはいなかった。


「あの……レナード様……でしたよね」クレアがおそるおそると言った様子でレナードに話しかけた。レナードはゆっくりとクレアの方に振り返る。


「はい、そうです。何かご用でしょうか? エルダークレア」


「あ、いえ、用では無いのですが……」


「では隊長……セイジのことですか?」


 その言葉にクレアはわずかに頷くと、レナードをじっと見つめた。


「私が答えられる事ならお答えしますよ。あ、でも隊長には私が話したとは言わないで下さいね」


 レナードは片目をつぶり、悪戯げな笑みを浮かべ、人差し指を口の前に立てた。

 クレアはほっと表情を崩した。だが、すぐに表情を引き締めた。


「あの……セイジ様が……その、あの……なんと言えば良いか、夜にその、あの」


「ああ、抱いてくれない、と」


 レナードの直球どストレートな回答に、クレアは顔を真っ赤にして俯いた。そして……


「はい……」蚊の鳴くような声で呟いた。


「ふむ……まあ、そうでしょうね」


「え!? もしかしてセイジ様には心に決めた方がいらっしゃるのですか!?」


 クレアは顔を上げてレナードを見上げた。赤くなっていた顔から一転、青ざめている。


「いませんよ」


 はあー、とクレアは胸に手を当てて、安堵の息を吐いた。ほっとして思わずその場に崩れ落ちそうになった。


「えと……ではどういうことでしょうか?」クレアはレナードに首を傾けながら聞いた。女性がいないのであれば、レナードが「そうでしょうね」と言った意味がわからない。


 まさか私のことが嫌いになってしまったとか……。


 一昨日の夜と、昨日の朝に手痛い失態をしでかしている。それで身限りをつけたとか……考えてクレアは再び青くなる。

 レナードはそんなクレアをにやにやと見ていた。赤くなったり青くなったり忙しい娘だ。


「エルダークレア、貴方はセイジ=アルバトロスという人間をどう見ましたか?」


「え?」突然の問いかけにクレアはレナードを見上げたまま止まった。そのまましばらく黙って考える。


「その……真面目で、誠実で、強くて、優しくて……とても素敵な方だと思います」


「……まあ、真面目というのは正しいですね。隊長は敵は大根みたいに斬り捨てるくせして、性格は臆病で慎重ですしね。……とまあこういうことです」


「え?」クレアの頭の上にクエスチョンマークが浮かんだ。何がこういうことなのかさっぱり解らない。


「隊長は真面目な人です。くそ真面目じゃなくて根が真面目なタイプですね。四角四面にかっちりしている訳ではありませんが、根っこが真面目だから公序良俗や倫理に反することはやりません。まあ、敵は容赦なく叩き斬りますが」


「はあ……」クレアは曖昧な返事をする。当然まだ解ってはいない。


「今、隊長はエルダークレアに雇われている関係です。いわば主従関係が結ばれています。仕事中に雇い主たる女性に手を出すほど軽薄な男ではありませんよ」


「ああ、成程」とクレアは声を上げた。「では私はこのままお待ちしていれば良いのでしょうか?」


「ふむ……」今度はレナードが黙った。顎に手を当てて考え込んでいる。


 クレアに対する回答を考えている訳では無い。どうこの二人をからかうか……もっともレナードがからかいたいのはセイジだけだが……考えているのだ。


 クレアが言った「このまま待っていればいいのか」という質問に対しての答えはイエスだ。このまま待っていれば、ほぼ間違いなくセイジとクレアは結ばれるだろう。

 とにかく、セイジは根が真面目のタイプだ。今回のことだって、偶然とは言えエミリーナの婚約の儀をしたのはセイジだ。そして、偶然だからと言ってそれを反故(ほご)にするような男では無い。相手のクレアが嫌がっているならともかく、婚約を望んでいる以上、裏切るまねは決してしないだろう。

 飲み屋ではいやがるそぶりを見せていたが、どうしても無理なら受け入れようという雰囲気を言外から感じた。自分のした行動には責任を取るタイプの人間だ。


 だから、クレアはこのまま待っていればいいと思う。なのだがそれでは面白くない。

 なんとかこのいい年こいた(いい年こいているのはセイジだけだが)純愛カップルを面白い方向に持って行く手は無いか。

 レナードはこのろくでもない考えを必死に巡らせている。破談させたい訳では無い、あくまでからかいたいだけなのだ。


「あの……レナード様?」クレアが不安そうな声を上げた。あまりにレナードが眉間に皺を寄せて、必死に考えていたからだ。


「……こちらから攻めることも重要かと」レナードは目をつむったまま呟いた。


「え……攻める?」


「エミリーナでは妻は夫に従順であるを良しとしますが、もう古い考え方だと思いますね。これからは女性も前に出て、夫を引っ張る位に力強くてもいいと思うんです。こと恋愛においては」


「ううん……でも」クレアの返事は歯切れ悪い。


 クレアは純粋たるエミリーナ教徒だ。教会の女学校で男女の恋愛については厳しく学ばせられる。

 妻は夫の前に出る事無く、常に(かしず)き、敬愛の念を持ち、生涯を夫と子のために尽くせと言う教えだ。

 エミリーナは基本的に男尊女卑の考え方が強い。一般教徒にまではこの考え方を押しつけたりはしないが、修道職……つまりシスター以上にはこの考え方を徹底させる。酷く男性優位の考え方だ。


「エルダークレアがためらう気持ちもわかりますが、隊長を相手にするなら待っていては駄目かも知れませんね」


「え? 駄目ですか?」


「残念ながら隊長はエミリーナ教徒ではありません。ですので婚約の儀はそれほど絶対とは言えません。何せ真面目ですからね。考えすぎた末に撤回と言う事もあり得るかと思います」


 レナードを見上げるクレアの目が不安に震えていた。


「ですから今のうちにキメてしまうのです。既成事実さえ作ってしまえば、真面目な隊長の事、エルダークレアと結婚をし、生涯を共にしてくれることでしょう」


「既成事実……」初心なクレアにもその言葉が意味する事は解る。


「いいですか、恋愛というのは押して押して押しまくるんです。で、たまに引いてやるんですよ。そうすれば相手は重心を崩しますからね。そこを押し倒すんです」


 それは恋愛のアドバイスか? と首をかしげたくなるような理論をレナードは言った。むしろ格闘技のアドバイスのように聞こえる。しかし、クレアは真剣な表情で言葉に耳を傾けて、頷いている。


「隊長に真正面から攻めても駄目です。押しまくったところで隊長はびくともしません。『根が真面目』という点を生かして、引いて重心を崩すのです。よろしいですね、エルダークレア」


「は、はい。解りました。レナード様、私、頑張ります」


 クレアは両手胸の前で強く握りしめた。レナードはそれを見てうんうんと頷いた。

 そして、顔を横に向け、うにゃりと口元を歪ませ、あくどい笑みを浮かべた。


 これで良い……面白いことになった。


 レナードが悪魔の微笑みを浮かべていることも知らず、クレアは両手を握りしめ、決意を新たにしていた。

 



 でも、どうすればいいのだろう。クレアは湯の中でぼーっと考える。

 レナードはこちらから攻めることも重要と言った。押して押して押しまくれとも。だが、クレアには押す方法が解らない。


 そもそもクレアにとってこれが初恋だ。今まで恋などしたことも無かったし、学校は教師も含めた完全女学校だった。色恋沙汰には無縁の生活を今まで送っていたのだ。攻めろと言われたところで、どうしていいのか皆目見当が付かない。

 寝室に引かれた大きな布団……これはチャンスなのだろうが、どう考えてもセイジが一緒に寝てくれるとは思えない。どうすればいいのか……必死にクレアは考えるが、当然何も浮かばない。考えすぎか、何か頭がくらくらしてきた気がする。


「クレア! 長風呂のようだが大丈夫か?」


 脱衣所の方からセイジの声が飛んできた。クレアは慌てて湯から上半身を上げる。


「セイジ様!? あ、大丈夫です。もう出ますので」


「いや、大丈夫ならいいんだ。長いようだったから。ゆっくり暖まってからでいい」


 そう言ってセイジが下がっていくのが解った。ずいぶんと長い間湯に浸かっていた気がする。

 クレアは出ようと立ち上がった。浴槽から上がって脱衣所に向かおうとする。

 瞬間、湯気に包まれた風景が一転した。

 あれ? と思った時には景色が斜めになっていた。歩いているはずなのに、一向に進んでいない。

 なんか少し右肩が痛い気がする。目の前の景色が激しく歪み始めた。


「ク……? ……レア!? 開け……な!」


 セイジ様の声が聞こえるような気がする。何でだろう? 私はお風呂に入っているはずなのに……あれ? もう出たんだっけ、どっち……だっけ。


 セイジの途切れ途切れの声を聞きながら、クレアは意識を失っていった。




 セイジはちらりと時計を見た。11時近くになっている。

 長いな、と思った。クレアが風呂に入ってからもう30分以上経過している。


 大丈夫か? 倒れているんじゃ無いだろうな。


 セイジは少し心配になった。ぬるい風呂ならまだしもここの風呂は熱い。のぼせているんじゃ……。

 もっとも女性は基本的に長風呂だと聞く。特にクレアは腰まで届くほどの長い髪だ。洗うのにも一苦労だろう。


 ……一応、見に行った方がいいか?


 セイジはゆっくりと腰を上げ、風呂場へと歩いて行く。何故か抜き足差し足になっていたが、本人は気が付いていない。

 風呂場の扉の前に立ち、2、3度ノックする。扉の向こうが脱衣所になっており、浴室はその奥になる。

 ノックしたが、返事は無かった。念のためもう一度ノックして見たがやはり何も返っては来ない。ゆっくりと引き戸を開ける。籠に修道衣が畳まれて入っているのが見えた。浴室へのガラス扉は閉まっている。水音も何も聞こえない。


「クレア! 長風呂のようだが大丈夫か?」


 中に入るのはためらわれたので、セイジはその場で大声を上げた。とたんにパシャリと水がはじける音がした。


「セイジ様!? あ、大丈夫です。もう出ますので」


「いや、大丈夫ならいいんだ。長いようだったから。ゆっくり暖まってからでいい」


 心配しすぎだったか。セイジは後ろ手に扉を閉め、離れようとした。

 その時だった。

 ビターン、と風呂から凄い音がした。扉が閉まりかけ寸前の所で止まった。


 何だ今の音は? まるで風呂場ですっ転んだような音に……。


 クレア、と扉の隙間から声をかけた。だが、返事は無い。扉を開け、もう一度呼びかけた。やはり返事は無かった。


「クレア? クレア!? おい、開けるぞ。いいな!」


 セイジは浴室の扉を開ける。とたんにもわっと湯気があふれ出てきた。その湯気の中に、クレアは左側を向いた状態で床に倒れていた。

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