第16話 初心
クレアは目を覚ました。凄まじい雨音が、地面を叩いている音が聞こえる。
眠気の残る頭を押さえつつ、ベッドから上体を起こした。そして、あれ? と思った。いつの間にかベッドに寝ていたからだ。しかもご丁寧に毛布が掛けられている。
昨夜どうしたかを思い出そうとしたが、何やら頭に霞がかかっているかの様に、もやもやとして思い出せない。さらに軽い頭痛がした。風邪でも引いたのだろうか、と思いつつ首を横に振った。
セイジが出て行った後、テーブルの上に置きっぱなしにされたグラス類を片付けた。その後……そう、ボトルに残っていたお酒を少しだけ飲んだ。あまりおいしくはなかった。口の中に苦い味が残って消えなかったので、ジュースを一気に飲んだ。体が何やら熱くなってきて、さらに眠気が襲ってきてソファーに座りこんだ……思い出せたのはここまでだった。となると頭が痛いのは酒のせいなのだろうな、と思った。
隣のベッドに目を向けたが、そこにセイジの姿はなかった。敷布等に一切に乱れがない、つまり誰も使用していないという事だ。昨夜は戻らなかったのだろうか。
窓の方に顔を向けた。凄まじい雨が窓を叩いていた。
クレアはベッドから降り立つと、窓の方に向かった。窓を少し開け、様子を確認しようとしたが、激しい雨が部屋になだれ込んできそうになったので、慌てて閉めた。
今日は司祭と共に現場に行き、調査と残した兵達の遺体回収の予定だった。だが、この雨ではさすがに行けそうにない。いつから降り始めたのかはクレアには解らなかったが、このまま降り続ければ、洪水等の心配もしなければならないだろう。それほどの雨量だった。
クレアは窓から離れ、水を飲もうとキッチンに向かった。
その足が驚きで止まった。そこにセイジが居たからだ。
セイジは出入り口の扉のすぐ脇で、壁に体を預ける様にして、床に直で寝ていた。傍らには刀が横たわっていた。
何故このようなところで? クレアは目を丸くした。ベッドやソファーもあるというのに。
クレアがセイジ様、と呼びかけようとした時、セイジはびくりと体を震わせた。目を開いたかと思うと、一瞬で立て膝の体勢に起き上がる。左手がダガーに素早く伸びていた。が、柄を握ったところで動きはぴたりと止まった。クレアは驚きで固まっていた。
「……クレアか。今何時だ」
「え? ええ、6時半ちょっと過ぎです」
そうか、と言ってセイジは立ち上がり、ダガーの柄から手を離した。クレアの緊張もそこで解けた。ほっと息をつく。
「何時戻られたのですか?」
「日が変わる直前くらいかな」セイジは顎をなでながら答えた。触りながら無精髭が多いな、と感じた。
「お休みならベッドの方がよろしいのでは」
「柔らかすぎてどうもな。固い床の方がいいんだ」
ベッドやソファーは、沈み込みすぎて嫌だった。いざという時の反応が遅くなってしまう。だから床で寝ていた。
また侵入者が来た時の対応のためでもあった。セイジが寝ていた場所は、扉や窓など侵入できそうな場所を一望できる場所でも会った。
クレアはキッチンに行き、水差しからグラスに水をいれ、セイジの元に持って行った。セイジは礼を言って、一気に水を飲み干した。
「戻られた時、私、ソファーで寝ていませんでしたか?」
「ああ、お前さんがソファーに埋まる様に寝ていたから、ベッドに移動させた」
「そうでしたか、お手数をおかけして申し訳ありません」
クレアは深々と頭を下げた。
そして頭を上げた時に、違和感に気が付いた。
セイジが微妙に視線を外している。昨日はクレアの目を見て話をしていたのに、今はちらちらと窺っているだけで、一切目を合わせようとしない。どこかそわそわしているようにも見えた。
クレアは不思議に思いながらも、キッチンに戻って自分の分の水を注いだ。飲みながらふとセイジの方を見た。目が合ったとたん、弾かれた様にあからさまに目をそらす。明らかに様子がおかしい。
「あの……私、何かいたしましたか?」
クレアは心配そうな顔で聞いた。セイジは驚いた表情で振り返った。
「覚えてないのか? 昨夜のこと」
「え? 昨夜ですか?」
「い、いや、いいんだ。何でも無い。忘れてくれ」
セイジは慌てた様子で、顔の前で左手を振った。そしてまた顔を背ける。
な、何をしてしまったのだろう?
何でも無い、忘れてくれ、なんて逆にただ事ではないとクレアは感じた。酒に酔って、とんでもない醜態をセイジに見せてしまったのではないか……。
クレアはグラスを握りしめたまま頭をフル回転させた。まだグラスに水が残っているのだが、もはや飲むことなどどうでも良くなっていた。脳の隅っこをつつき、掘り起こして、必死に昨夜の事を思い出そうとする。
クレアがびくりと大きく身を震わせた。するりと手の中にあったグラスが滑り落ち、床に落ちて粉々になった。残っていた水が飛び散り、修道衣を濡らした。が、クレアは固まったままだった。
なんだ、とセイジが再びクレアの方を向いた。
クレアは小刻みに震えていた。顔の上部は真っ青に青ざめているが、下半分と首が真っ赤に染まっている。セイジが初めて見る、すさまじいコントラストの顔色だった。
あー、思い出させちゃったか……。セイジは左手で顔を覆った。
クレアがゆっくりと視線をあげた。目がまるで錆び付いたかの様に、ギギギと音がしそうな動きでセイジを見た。
「あ、あの……違うんです。いえ、違わないんですけど、あの、じゃなくて違う……んじゃなくて違わない……」
「ええと、解った。解ったから、まず落ち着け」
「ち、違わないけど、違うんです。信じて下さい!」
「解った、解った。信じる、信じるから」
クレアは手をばたばたと振りながら、パニックになって何度も同じ事を繰り返し叫んでいた。
「痛っ!」
足の裏に痛みを感じて、クレアはよろけた。ばたばたして割れたグラス片を踏みつけてしまった。体勢を立て直す事が出来ず、そのまま後ろにひっくりかえる。
「おい、大丈夫か!?」
セイジが慌てて駆け寄る。大きなガラス片を下敷きにしたら大怪我しかねない。
「いたたたた……」
呻きながらクレアは回復魔法を詠唱していた。幸い傷は浅いらしい。ガラス片も下敷きにはしていない様だ。
「大丈夫か?」セイジはクレアの足をのぞきこんだ。
「ハイ、大丈夫で……」
クレアの言葉が途中で止まった。のぞき込んだセイジの顔がすぐ真横にあったからだ。
セイジも視線を横に向けた。言葉を止め、じっと見つめていたクレアの視線とぶつかる。
あ、と思った。いったん戻ったクレアの顔色が、みるみるうちに赤くなる。
「あ、あ、あの……」
クレアは喋ろうとしたが、言葉にならなかった。というか何を言ったらいいのか解らなかった。
それはセイジも同じだった。クレアにどう声を掛けて良いのか解らない。
二人は声無く見つめ合った。が、やがて、
「…………くきゅうぅ」
クレアが妙なうめき声を上げて、崩れるように倒れ込んだ。
「お、おい、クレア」
クレアは目を回して、完全に気絶していた。
セイジは自分の額に手を当てて、大きくふうと息をついた。昨夜と同じようにクレアを横抱きに抱き上げ、ソファーに寝かせた。
割れたグラスかたさねーとな……。
セイジはキッチンに戻る。
ふと窓を見た。叩き付ける雨は、一向にやむ気配を見せず、降り続けていた。
雨は昼前には止んだ。今までの雨が嘘に様に、からりと晴れ上がった。
しかし、今日の予定は中止になった。さっきまでの大雨で、街にも幾つかの被害が出ていた。司祭としては街を離れる訳にはいかなかった様だ。
今日は一日ゆっくりと休み、明日に備えるように、との司祭から伝言だった。
セイジとクレアは部屋にいた。二人とも一言も喋らず、部屋にこもっていた。
気まずい……。
セイジはソファーに沈みながら、窓を見た。
外はすっかりと晴れていた。むしろこの季節にしては温かいと感じるほど、日が照っている。
しかし、そんな中、セイジは部屋にいた。もちろん仕事だからだ。
今はクレアの護衛が仕事だ。クレアが部屋にいる以上、側を離れる訳にはいかなかった。
クレアは隣の部屋で横になっていた。寝られないのか、寝返りを何度もうっている音が聞こえた。
レナードに変わってほしかったが、別に司祭からあれこれ仕事を頼まれているらしく、先程報告にちらと現れただけで、すぐに去って行ってしまった。冷たい男だ、とセイジはひとり嘆息した。
酒が飲みたかった。しかし、仕事中に飲む訳にも行かない。しかもまだ時間は午後2時だ。いくら何でも早すぎる。
またしばらくすれば、あの拷問のような食事が始まるのだろう。確かに美味いが、量もなく時間がかかりすぎる。
加えて、今日はクレアとどう接して良いか解らない。あれ以来、会話はなかった。セイジもクレアもどうして良いか解らなくなっていた。
この状態であの2時間もかかる食事……どんどんセイジは憂鬱になっていった。
気まずいなあ……
クレアはベッドに仰向けになって、天蓋を見ていた。
窓から強い日差しが差し込んでくる。明かりも必要ないほど、部屋を照らしていた。
クレアは大きな枕を抱きしめ、ひたすらベッドの上でじたばたしていた。暴れている訳ではなく、右へ左へと寝返りを打っているだけだが。
本当は、足を無性にばたばたさせたかった。あー! と声を上げたい衝動に何度も駆られた。何とか堪えて、ただひたすらにゴロゴロしている。
時折顔を真っ赤にして、枕をぎゅうと抱きしめた。昨夜の事を思い出して、顔から火が出そうになる。
セイジに言った事は紛うことなき本心だった。セイジに出会えた事はエミリーナの導きであり、運命である、と。そう信じている。
だが、いくら何でもあれは無かった。酔っ払って抱きつき、キスをして告白、さらにそのまま寝てしまう……ただの酔っ払いの戯言だった。そして朝の醜態。思い出すだけで、なにか声を上げたくなる。
しばらくすれば、夕食になる。どんな顔をしてセイジの前に立てばいいのか……ずっと考えているが、何も浮かばなかった。
「「はあ……」」
二人は同時にため息をついていた。もっとも互いのため息は聞こえていなかったが。
どこまでも初心な男の娘と、30間近の大人だった。




