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番外編3「さよならIf」

奇変隊の半田瑞希主役の番外編です。

「さよなら、If」



 if

 中学の英語に別段強い印象や思い出があったわけではないが、その用法を習ったとき

(あまり好きじゃないな)

 そう思ったことは覚えている。

(ドラえもんの「もしもボックス」があれば別だろうけど)

 他の秘密道具を全て無意味にするチートさを思い出して、顔に出さずにひとり笑う。

(だけど、想像力と授業に集中しない時間がある限り、逃れられないんだろうなあ)

 まさにその時点での実体験として覚えてから、黒板をノートに写すだけの集中をなんとか引き戻して。

 もし、もしも。

 そっと寄りそうようにその単語は自分のそばに常にあった。仮定の過去・今・未来。それを思うたびに、重ねてもしも、と思うのだ。

(「瑞希さん、」)

 もしも、自分の息子をさん付けで呼ぶような母親でなければ、こうまで身近にこの言葉はなかったかもしれない。

 それを、想像力と授業に集中しない時間がある限り、たびたび半田瑞希は思い返した。

 



(「瑞希さん――」)

 おっとりとはしているが、特にお嬢様育ちというわけでもない彼女が、自分をそう呼ぶことに初めて違和感を覚えたのは小学生三四年の頃だろうか。

 同級生達の母親はたいていに呼び捨てで呼ぶ。良くて君づけかちゃんづけだ。後者もぽつぽつ嫌がる子が出始める中で、自分の呼び名は異質だった。

 ただ同級生は少し変な顔をすることはあったとしても、極端に不思議がったりあげつらったりすることはなかった。周囲にはいなかった、それは確かだ。だがテレビのドラマなどで息子をさん付けで呼ぶ母親がいないわけではなかったし、大人になればそれも自然になるパターンも多いようだ。

 あるいは女子の中でなら過剰な反応があったかもしれないが、そこは大雑把で単純な男子の世界。流されそのうちに気にならなくなる。それ以外では優しい母親の枠をはみでることはない。

 いってらっしゃい、そう送り出す母親にも、送り出される場所にも、憂鬱さや苦痛を覚えたことはない。ちょっと影が薄いが適度に距離感があるサラリーマンの父親と、専業主婦の母親の三人暮らし。平凡な一軒家に住む平均的な男の子。

 他所での評価も

(「瑞希くんは、温和で思いやりがあってクラスのみんなともよく馴染んでいます。他学年の子ともよく一緒にいて仲良く遊んでいますね」)

 善良で無難の一言。自分でもやりにくさを感じたことはない。時たま酸欠の金魚のように、教室やその他の子どもの社会で苦しげにあえぐ同級生を目にすることはあったが、自分はすいすいと泳いでいた。

 変わらぬ評から一歩踏み込んだのは五年の時の担任だったろうか。

(「誰とでも仲良くできています。クラスにも友達がたくさんいます。ただ、上級生と一緒にいることが多いですね」)

 そのとき、顔をあげて隣で一緒に聞いていた母親の顔をふと見たのを覚えている。そうですか、と彼女は何気なく微笑んでいた。特に何かを感じ取った様子はない。

 一緒に家に戻りテレビを見ながらおやつを食べていると、自分用にお茶を入れた彼女がダイニングテーブルでふと息をつく気配を感じた。振り向くと、そうすることがわかっていたような目が向けられる。

 どうかした? と問いかけると、母親はゆっくりと首を振って。そして、口を開く。

(「瑞希さん――」)

 担任の言に、他人の問いかけに、特筆すべき反応は見せない。だからか。でもか。彼女は言う。毎日のように執拗ではない。でも忘れ去ることはないタイミングで告げられる。たとえ告げなくとも瞳が語りだす。

 母親に連れていってもらった公園で、輪からはみ出したボールを拾いあげたとき。真新しいランドセルを背負って小学校門の看板前で並んだときに。届いた中学校の制服を開き袖を通したときに。

 突然、彼女の瞳はさまよい出し、そこに向く。ここではないどこかを見つめだす。そのことを、別段うらんだわけでも面白くないと思ったわけでもない。透明な視線に感情は抱きにくかった。でも

(「もう――なるのね。」)

 そんな言葉にまで深く踏みこんでしまうのは、自分の中にもなんらかの引っかかりがあるのだろうか。

(「瑞希さん――」)

 例えば知らない瞬間に。例えば知っている瞬間に。さまよう目。そして知らないどこかに定まる目。探している。

(「あなたには――」)

 もしも、もし、と。遠い瞳の奥に、ifが横たわっている。



 中学に進むと友人の半数以上は体育会系クラブに入った。自分も特に考えもなくその流れに乗るつもりはあったけれど、見学を重ねると入る気が失せた。身体を動かすことは得意ではないが、嫌いではない。でもどうしても、と思うような競技はない。結局、適当な文化部をいくつか掛け持ちすることにした。

 そこそこ顔は出したが、そもそも活発に動く部ではないのでのんびりしたものだ。それでも人とのつながりは活発だった。学年ごとに委員会を変えてそこでの知り合いも多く作った。

 ただ三年になると同じく先輩となった同期からぽつぽつと

(「お前、先輩たちがいなくなると急にやる気がなくなったな」)

 実際に三年になり数ヶ月もたつと、意識は部活や委員会ではなく、受験にシフトチェンジした。間違っても学業優秀でも勉強熱心でもないのに、卒業した先輩たちと連絡をとり、周囲の高校をいち早くチェックした。

 夏を前にしてすでに見学の計画をたてた。小学六年の頃にもこういう心境になったことがある。最後の夏を楽しむより自分は次の季節が気になって次の環境が気になって、急いたのだ。

(「もう、高校生になるのね」)

 見学に行く、という自分に、感慨深げに母親は呟いた。小学校の門の前で、中学校の制服に裾を通した鏡の前で、幾度か聞いた類似の言葉を思い出して。

 目を閉じる。



 幾度か夢に見た。

 他には何も見えない透明な空間。その中央にぽつんと置かれた、チケット売り場のような箱の中、緑の大きな電話が設置されている。携帯電話が普及した今ではぐんと数が減ったという、現実には入ったことなどないそこに迷わず自分は駆け込んで。

 大きな受話器をお金も入れずに取り上げて、丸い電話口に向かって息せきって自分は喋りだす。

 (もしも、もし――)




 その学校の名は他の候補と等しく並んでいた。家からはそう遠くないのだが、知り合いがほとんど進んでいないので、あまり情報が入ってきていない。だから早目に見学の予定をたてた。大学と違うので見学会はあまり大々的にはない。もぐりこむには、夏の土日に行われるという体育祭がいいだろう。

 当日に訪れた場所の第一印象は、新しい私立、と言ったところだ。校舎は綺麗で新設校のようにも思えるが、入り込んで少し進むと旧校舎が見えた。改築した私立、が正しいのだろう。

 がちゃがちゃと人が入り混じる体育祭の只中で見ても、校内はそれなりに整然とした印象を覚えたが、体育祭の盛り上がりはというと微妙なところだ。

(高校生ならこんなものかなあ)

 やる気が感じられない競技の数々は、見ている分にはあまり面白くない。他の学校と比べて考えてみる必要があるかもしれないが、そこまでこの学校を庇ういわれもない気がする。荒れているようにも思えないが、活気溢れる、とまでもいかないようだ。

 昼食の時間になったので、生徒達が散らばった。自分と同じように校舎内には部外者も入り込んでいる辺りは排他的ではないようだが、学食を少し見てからなんとなく綺麗なだけの新校舎より木造の校舎に向かった。

(人がいないなあ…)

 どうやらこの校舎には教室が入っていないようだ。第二理科室や工作室と言った普段からあまり使いそうにない教室が、古ぼけたプレートを下げている。見学の意味はあまりなさそうだ。だが。

(まあ、いいか)

 人いきれにいささか参っていたところもある。それにここなら見咎められることも少ないだろう。奥の突き当たりにまだ階段が続いていたが、どうせ同じ風景が続いているのだろうと思うと、わざわざ上る気にもなれずに、いまどき珍しい木作りの段に腰掛けて、斜めにかけていたバッグからペットボトルを取り出しひねる。

 ぬるくなった水を喉に流し込み、嚥下と同時に木造の校舎をぼんやり見つめた。

 来年にこの学校に通う自分。ぴんとはこなかった。まあ今までめぐったどこの高校も同じだが。ちょっと目を閉じて、先ほど目にした同じ体育着の上に乗った生徒達の顔を思い出す。知らない顔。知らない人々。当たり前のことに、ふ、とため息をつく。中学の先輩の中でここに上がった者がほとんどいないのもネックだ。

(でもなあ)

 だからと言ってなら進学した先輩の数では決められない。結局、

(中学では、いなかった)

 もう一度、ぬるくなった水を喉に流し込み、飲み下すと同時に

(「瑞希さん――」)

 息を吐く。

(「お前、先輩たちがいなくなると急にやる気がなくなったな」)

 人間関係は卒なくこなせる。でも自分が本当に懐くのは年上ばかりだ。上がいなくなればこうして急いて求めに行く。それを見て母はあの時と同じ、そうすることがわかっていたと目を向けるのだ。

 母とは違い父が口にしたことは一度もない。忘れてしまったのかもしれない。あるいは封をしているのかもしれない。母は父には言わない。いや、もしかしたら夫婦の中では取り出されているのだが息子の前で口にしないという分別が父にはあるのかもしれない。

(「――瑞希さん、あなたには」)

 違う、と思い返した。彼女はきっと、父には言っていない。

 たった一人で、どこにも定められずにさまよう瞳。探している。この世にないものを、彼女は探している。

 そんなことをしても仕方ないのに、と思うこともある。探しても決して見つからないものなのに。そう思うとき、その発言は自分に跳ね返ってくる。

 自分もそうだろうか。無駄な行為に心をとられているのだろうか。決してその可能性がないものにも「if」は適用されるのか。そうでないならなぜ夢など見るのだろう。夢の中で受話器に叫ぶのだろう。

(……初めは、そうだったかな)

 少しの抵抗の後に、認めた。初めは子どもの忠誠心で母親と同じものを探していたと思う。でも。

 影響は確実に受けている。けれど、付き合いでしているうちに、いつの間にか自分自身の目標になっていることだって自然ではないか。

 透明な電話ボックス、受話器の向こうに叫ぶもしもの続きは――



 ドカッ、と不意に上で物音が聞こえた。ハッとして顔をあげる。幻聴ではない証拠のように、天井の間から埃が少し落ちている。そんなに近いところであがったのではなさそうだが、その分、決して小さな物音でもないようだ。

 立ち上がり迷わずに上階に駆け上がる。物見高い、とはよく言われたことがある。好奇心は確かに人一倍大きいと思う。それも探していることの延長だ。自分の行ける範囲で何かが起こっていたら、確かめずにはいられない。

 二階分ほど駆け上がった。あがるたびに廊下を確かめたが、どこも暗くて何かが起こったようには見えない。つきとめられるかと懸念はあったが最上階の四階にあがった瞬間、ここだ、とはっきりわかった。最上階のせいか外の日が入って明るく見える廊下だが、明らかに異変がある。

 丸い。

 影を背負わせた丸い巨大なものが廊下の真ん中に鎮座している。よく見ると赤の大玉だ。さっき、体育祭で使用されていたものと同じだ。

 もしかして四階は物置になっているのかと思ったが、それにしても廊下の真ん中に置きっぱなしはおかしい。とりあえずと急いで誰かが横着に置いたのだろうか。

 そのときに大玉の向こうからバンッと何かが弾かれる音がした。誰かの叫びが聞こえた。飛び出してきたものを、視線が追ったものを、見上げる。

 人間だ。蛙がその体勢のまま垂直に飛んだような格好で、飛んだそれは腹ばいで大玉の上にへばりついた。

「!?」

 大きく揺れながらも一瞬、奇跡的なバランスを保ったような大玉は、すぐに背後へとぐらり傾く。当然、その上に乗った人間は転がっていく後ろ側に消える。

「!?」

 球が一回転したところでへばりついた人影が下から現れて一瞬また上に行きそうになったが、重みがあるのだろう。人影を下に止まって数度揺れた。

「アホっ!!」

 金切り声に近い男の声が廊下に響く。

 その声が示す言葉は正しい。だが、おそらくそれを越えるものだ。なんというか、何故か片手をあげて垂直にとびあがる、スーパーマリオの動きを実際にやってみようとしたら現実はこうなるのではないか、という代物だった。バランスとか人の体重とかをまったく考えていない動機の上に基づいた行動。ただ再現率の高さに脅威の運動能力も垣間見える。

 考えているうちに赤玉がこちらに向かって少し転がされ、その向こうで先ほど聞こえた男の罵声が続く。あはははは、と妙に明るい笑い声も。それは女性のもののようだ。

 ちょっとして足音が聞こえた。玉の向こう側に行くそれについていく。

 真ん中に鎮座した玉を避けて先の廊下を見やると、突き当たりの部屋の引き戸がちょうどぴしゃりと閉まった所だった。何故か跳び箱とジャンプ台も廊下の真ん中に鎮座している。それらを横目に少し足音は潜めながらもすぐに閉まった部屋の前に行く。

 木造の引き戸には、張り紙があった。太目の黒マジックを使い優等生を思わせる几帳面な文字で『長州風俗研究会』と書かれて、その下に豪快な筆遣いで『部員大募集中!』と書かれた紙が貼り付けられている。

「お前いつか死ぬぞ!」

 引き戸越しに男性の声が響いた。そっと引いて隙間からのぞく。部屋の中でソファに腰掛けて二人の人間が向かい合っている。服装は体操着なので生徒なのだろう。男子生徒が右に腰掛け、その前に座る女子生徒に怒っている、という図式だろうか。顔はよく見えない。ひとしきりのお叱りの後。それまで黙っていた女子生徒が足をぷらぷらさせて

「大介くん、人こないねー」

 ひくり、と不穏な空気が満ちたのがわかった。

「――俺はな、これでも真面目に勧誘をしてるつもりだ」

「うん」

「見学にも何人か引き連れてきた」

「うん」

「お前の行動で全部ひかれて終わるんだよ!」

 部員が欲しけりゃちったあ考えろ! と叫ぶ。少し腰を高くして生徒の顔を見た。座っていても背が高いことがわかる。眼鏡をかけた顔は、怒ってさえいなければ涼しげに整っていると言っていいだろう。もてそうな人だなあと思う。

「んー」

 女性徒の顔が見えた。ふわふわした髪に、こちらもいやこちらは群を抜く愛らしい顔立ちだ。アイドル並みの美少女と言っても言いすぎではない。鼻頭にでかでかと絆創膏を貼っていなければ、だろうが。

 この二人がそろえば部員なぞミーハーを中心に勝手に集まりそうな気もするのに、増員を望みながら閑散とした校舎で閑散と二人でいるらしい。

 鼻絆創膏の美少女はんー、とまた首をかしげて

「活動しなかったらなにするの?」

「……」

 眼鏡の男子生徒が頭痛がするように額をおさえる。

「あのな。お前がしたいことは、たいていの人間にはひかれるんだよ。別にそれはいい。何も言わん。ただ新入部員は諦めろ。お前がやりたいことを貫くのと仲間を増やすこと、その両立は無理だってことを飲み込め」

「もっと知らせるー」

「知ってるだけならほとんどの生徒が知ってる」低いテーブルの上の何かの紙をばさっと開いて、彼はまたなんらかの頭痛を覚えたようだ。「なんだこの記事…」

「宣伝になる?」

 答える気力もなくしたよう沈黙する相手に、さすがに能天気そうな少女も自分で少し考えなければと思ったのか

「なにするところかわからないって言われたー」

「……いや、だからなにをするんだ」

「楽しいこと!」

「説明になってない」

「あと名前がよくわからないってー」

「そりゃよくわからない名前つけたからな」

 誤魔化すために、となんだかなことを男子生徒が言う。

「ま、確かに。一応同好会が成立して当初の目的は達成したから、用無しではあるが」

「変える?」

「変えられねえよ。――ただ、通称は、つけてもいいかもな。キャッチーな奴」

 そんなことをしても入らないと思うが、と深く息をつきながら付け足す彼はやや短気だがそれ以上に苦労性に見える。その前でキャッチャー? とボールを受ける仕草をしている女子生徒を合わせるとなおさらだ。

「名前付けてもっかい勧誘ー」

「望み薄だ。もうこの学校にいる奴は、たいていなんらかのアプローチ受けてる」

「じゃあ一年!」

「だから俺達の学年は真っ先に勧誘しただろ」

 女性徒はぶんぶんと首を横に振って。

「新一年!」

「は?」

「新しい一年生」

「それはわかってる」と男子生徒が眉を寄せながら「春に入ってくる一年生のことか?」

 元気のよい首肯をうけた男子生徒は、まだ眉間の皺は消えていないが検討したようだ。

「まだ知られてない分、在校生より抵抗は少ない、か?」

「勧誘会がんばる!」

「勧誘会……」えらく先の話だな、と呟いてから「なにする気だ?」

「さっきの大玉乗り」

「一発で終わるわ!」

 叫んだ後、顔に手をあてた。

「……勧誘会は、……かなり先だからもういい。お前は通称でも考えてろ」

「高杉晋作部」

「ごくごく数パーセントの確率でその名に惹かれて入ってくる部員がいたとしても、そいつらの期待が裏切られる度100%だろ」

「面白きことなきこの世をおもしろくする部」

「お前はそれしかないのか」

 馬鹿のひとつ覚え、と愚痴っていると「大介君は?」と聞かれて男子生徒はそこで初めて痛いところをつかれたような様子になった。

「……」

 険しい顔のまま、腕を組んで考える。合間にキャッチー、と呟くが、やがて渋い顔のまま「悪い」と白旗をあげた。「いいよー」と女子生徒が笑って答える。

「……こういうのを考えるのは苦手だ」

 女子生徒もちょっと考えた後、「やってみたいこととか思いつくけど」と口にしてから、こくりとうなずく。

「奇変隊ってどうですか?」

 女子生徒の反応は早く、男子生徒も一歩遅れたがパッと振り向いた。彼らに向かい全開の笑みを作る。

「どうも、こんにちは。いきなりすみません。学校見学に来ました」

「こっんにちはー!」

 元気に手をあげた女子生徒にたいして、男子生徒は不審と警戒を浮かべた顔で立ち上がり

「中学生か」

「はい。開成中学の三年生です」

「迷ったのか?」

「いえ、物音が聞こえてきて、なんか面白そうだなあと思ってきました」

 少し警戒がとれかけていた男子生徒の顔が、む、と押しとどまる。かわりに女子生徒が

「面白いこと好き?」

「はい。とても」

 もともとにこにこしていた彼女の笑みが全開になった。

「で、奇変隊ってどうですか?」

「あ?」

「高杉晋作が作ったのが「奇兵隊」でしょう。それを一文字もじって。――あ、ペンありますか?」手で持てるホワイトボードが差し出されたので、キュッキュッと軽快に書き付けて掲げた。「こんな字で」

「……もじったところに作意を感じるが」

「でも、こんな感じじゃないですか?」

「……」

 渋い顔だが反論がない男子生徒の横、女子生徒は興味津々という様子で目を落とし

「隊になるの?」

「そうですね。部や研究会よりよくないですか? より行動する感じで」

「うん!」元気よく答えてからふと小首をかしげた。「でも大介君いまぶちょーだから、隊だとたいちょーになるの?」

「嫌だ」

 きっぱりと断る。

「部長と隊長は別でもいいんじゃないですか? 部としての体裁の時は部長が出て、行動する時の旗頭が隊長ってことで」

 ぱちりと女子生徒が目を瞬かせて、それから男子生徒を見上げた。ため息混じりに「勝手にしろ」と言われて「おー!」と声をあげた。

「たいちょー!」

「隊長ー!」

 囃してぱちぱちと手を叩くと、男子生徒が

「で、お前、誰だ?」

「半田瑞希と言います。来年、この学校に入学します」にっこり笑って付け足した。「僕は副隊長か副部長でいいですよ」

 その言葉に男子生徒は一瞬止まり、じろじろと眺めた後。

「佐倉目当て…ってわけでもなさそうだな」

「三分の一ですね」

「?」

「隊長目当て三分の一、部長目当て三分の一、活動目当て三分の一で」

「変人か」

 ため息を吐き出す。にこにこしているが、よくわかっていないような女子生徒に向かって

「喜べ、新入部員だ」

「おー!」

 元気よく声をあげたあと。それから意味が浸透したように「おおおおーっ!!」と顔を輝かせる。

「入ったー!」

「入りましたー」

「数ヶ月後だがな」

 のらずに呟いてからふと男子生徒が「推薦、決まってるのか?」

「いえ。まだ受験対策もしてないです」

「……お前、勉強はできるのか」

 えへへ、と笑うだけに留める。渋い顔をした相手は机の上に乗ったガラケーをとりあげて

「メルアド教えろ」

「はい。――ああ、そうだ。お二人のお名前はなんて言うのですか」

 そこで二人はまだ名乗っていなかったことに初めて気づいたようだ。

「一年の時任大介だ」

「佐倉晴喜ー」

 並んで挨拶する相手を目に入れて、一年生かと少し驚いた。佐倉と名乗った彼女はともかく、彼の方はとても一つ違いとは思えなかった。だがなら共にいられる時間は長い、それに思い至ると半田瑞希は知らずに笑む顔そのままで。

「よろしくお願いします」




 英語の参考書からふと顔をあげた。関係ないところが目に付いて、ついつい止まってしまっていたことに気づき、これではいけない、と首を振る。参考書を買っただけでなにやらひと勉強した気持ちになってしまう、というのは陥りやすい罠だ。

 できたら推薦を受けたい。そうしたら課外参加として早いうちに加われる。とは言え、素行を悪くした覚えもないが、好成績を保った覚えも同時にないので、内申書はそこまでよくないだろう。明日にでも教師に声をかけて相談に乗ってもらおう、と決める。

 まあ、それで無理なら試験だ。幸いそこまで難関という学校ではないし、今日会った彼らはいざとなったら勉強の面倒を見てくれる気もあるようだ。”隊長”はあまり期待できないが、”部長”は頭が良いだろう。やりとりの合間に彼が言った言葉がふとよみがえる。

(「しっかし、お前。思い切りがよすぎんのか、ただの考えなしなのか。初めて来た場所で、初めて会った奴相手に、迷ったりしないのか」)

 階下から、瑞希さん、と声がかかった。夕食の時間だろう。答えかけた瞬間、つきんと胸を駆け抜けたものがあった。彼女は探すだろう。この先も変わらず、ずっと。あったかもしれない未来。透明な電話ボックスが作り出すもしも。

 開いたままの参考書に目を落とす。広がるのはifの用法。仮定の過去・今・未来。とりあげた受話器から堰を切ったように流れ出す声。



(「瑞希さん、あなたには、本当は、お兄さんかお姉さんがいたのよ」)



(「あなたが産まれる前に、お腹の中で死んでしまったけれど」)



(「もし、もしも――」)



 瑞希さん、とまた階下から呼び声がして夢想を破った。すぐ行く、と返して、参考書は開いたままシャーペンをノートの間に転がし、立ち上がる。

 ――迷ったりしないのか。

「迷わないですよ、もう」

 受話器をおろし、ボックスの扉をそっと閉めて。「見つけましたから」













 『さよならif』













 了


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