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番外編1「形状記憶合金は、」

奇変隊の時任大介主役の番外編です。

 形状記憶合金は、金属結晶構造の10%以内の曲がり(歪み)に対して、所定の温度を加えると弾性を発揮、元の形状に戻ろうとする性質を発揮する合金である。






「形状記憶合金は、」







 高校入学初日にして、俺は自分の身体が形状記憶合金だと知った。

 身体の中身はテンプレートが詰まっていた。

 十六年間生きてきて、初めてその事実に気づかせたのは、滅多に見ない幻想だった。

 その幻想の名は、高校デビュー。

 小学校。正直地元にがんじがらめ。家が近い奴と友達になって、幼稚園・保育所の縁もあなどれない。

 中学校。まだ小学校の縁を引きずりつつ、クラブの縦関係は奴隷制、ついでに思春期と中二病に悩まされる。

 高校。ここでふっと糸がばらける。小学校から顔を見てた奴が、ばいばいと手をふって消えていく。クラス名簿には知った名前は数個しかない。場所も遠い。電車やバスが突如登場して、自転車も突然許される。やってきた新しい教室を見回して、おお、と鼻白む。担任は少しやる気なげ。勉強だけは厳しくなるぞ、と釘をさされても、この浮つきには水がさされない。配られるプリントをまわすさなかも、また知らない顔知らない顔。

 それに少し呆気にとられながらひしひしと迫るように感じる。この空間に自分を知るものはほとんどいない、と。いたとしても、互いに知らんふりを決め込むだろう。ここには昔を持ち込むのは野暮、そんな空気があるから。

 だからここなら、自分をチェンジしても、誰も気づかない。誰も指摘しない。だから人は自分を変える。新しく生まれ変われる。

 ちくん、と少し胃が痛くなる。シャツの胸元を握りこむ。知らない奴ばかりのその中で緊張と戸惑いと。何が始まるのかと、手汗ごとシャツの胸元を握りこむ。

 自己紹介がまわってきた。知らない顔の中で立ち上がった。知らない顔を見回して、どくんと急に胸が跳ねた。何事かと思ってひどく久しぶりに緊張していることにおそばせながら気づく。自分に注がれている視線に、一瞬何もわからなくなる。

 沈黙の拍数は、まだ大丈夫。間合いととれる。でも針は進む。思考より先に口が動く。

「山二中学から来ました。時任大介です。一年間、よろしくお願いします」



「時任ー」

 背後から呼ばれた名前に座ったまま振り向くと、斜め後ろの席の鈴村が顔の前でお願いのポーズに手をあわせている。ため息をついて鞄に手を突っ込んだ

「グラマーか。数Ⅰか?」

「両方です…!」

 哀れな子羊にお恵みを~! と下げられる頭を取り出したノートでうつ。

「仏の顔も三度までって言葉知ってるか」

「さ、三度目! ちょうど三度目」

「あいにく俺は仏じゃないんだ」

「神様仏様時任さまー! 後ろにいくほど最上位です! ラスボスです!」

「誰がラスボスだ」

 ぽかっと二冊重ねで頭を打ってそのまま留めておくと、不審に思ったのかそろそろと鈴村の顔があげられてノートをそろっと見た顔がぱあっと輝く。

「時任愛してるー!」

 ぎゅっと抱きしめられるノートに嫌な顔を作りながら、「ノーサンキューだ」と返した。

「時任君」

 視線を前方に戻すと、教室の前の扉から担任の松本先生が顔を出していた。注意されるかな、と思ったが、ホームルーム用のプリントを渡されただけだった。アンケートで配る際の注意事項が伝えられた。

「ごめんね、時任君。子どもが熱出したって連絡がきて」

「わかりました。後は任せて、先生はもう行ってください」

 今日はこの後、担任の現国の授業は入ってない。ホームルームで適当にアンケートを集めて帰るだけだ。松本先生も鈴村と同じ拝むようにして申し訳なさそうに廊下に去った。

 推薦された学級委員長の仕事は高校と言えど、中学とそう変わりはなかった。幸いなのは委員長、で呼び名が定着されなかったことか。席に戻ると真横の田中さんが首をかしげて、女子だけが使う担任のあだ名で

「淳ちゃん、どうしたの?」

「急用だって」

「やった、今日帰り早い」

 と聞いていたらしい斜め前の入江がガッツポーズして、ぐいっと身を寄せた。

「なあ、時任って部活入ってないんだろ? 今日の放課後ひま?」

「いや、今日はちょっと。――何か用か?」

「用ってわけじゃねえけど、サッカー部が、今日休みだから部の一年で遊ぼうって話になったから誘おうと思って」

「部外者入れると気まずいだろ」

「いや、それは他の奴らも入れるし。それに時任なら問題ないだろ」

「ともかく用があるから残念だがまたな。楽しんでこいよ」

 入江は「おー」と言った後、急に身体の向きを変えた。

「田中さん、どう? 他の奴らもいっぱいくるし、女の子も多いよ、もちろん友達誘ってもいいしさ」

 さっきはそっちのための前ふりだな、と思いながら、田中さんも戸惑いながらも嫌がっている風でもなく、ちらりとこちらに目をやったので

「予定次第だと思うけど。よそのクラスってあんまり交流する機会ないし。もうすぐ夏休みだから、その前に交友関係広げるのも楽しいと思うよ」

「ほんとに友達誘っていいの?」

「もちろん」

 すると田中さんは、はにかんで「えっちゃんに聞いてみる」と携帯を取り出した。

 次の授業だった移動教室から帰ってノートを戻していると、ぐっと鈴村が机ごと距離を縮めて肩を叩いて示した。指の先では、入江と田中さんが話がまとまったのか楽しそうに話している。

「時任って、うめえよな」

「なにが」

「そうゆうとこ」

 何も言わずに取り出した次の授業の教科書とノートをそろえる。

「言葉とかさらっとよく出るよな、と思う」

 テンプレートだよ、と心で呟いた。口では何も言わなかった

 俺の時も来たらよろしくー、と鈴村は笑って引き下がった。

 とんとん、とノートと教科書を机にたててそろえる。心がまた呟いた。

 テンプレートだよ。



 旧校舎の屋上は、この学校で少しだけマシな場所だった。

 奥の扉の、屋上に通じる鍵は一見かかっているように見えて、開け方のコツを覚えればあけられた。でもそこにたどり着く前の階段は、黄色いロープが張っていて文化祭か何かで使われた小道具が埃をかぶってごちゃごちゃ置いてあるので、たいていの人間はその奥に行こうと思わない。

 本来立ち入り禁止がほとんどだろう屋上も、使用されている部屋が少ない旧校舎ということで甘いのだろう。

 委員長の仕事の折に立ち寄ってそれを知ったとき、少しだけ自分の何かが晴れた気がした。それから折々、何かの隙間に立ち寄るようになった。なにをするわけでもないけれど。

 何かと何かがぶつかる音で眼が覚めた。赤い空が見えた。

 喉と眼の痛みを認識する。寝始める前は、横たわった場所は給水塔の影に入っていたが、太陽がいつの間にか動いたのか。期せずして日光浴で散々紫外線を浴びた重い頭で目覚めて、顔をしかめる。春ごろは快適だったが、最近の熱さは少し無理があるか。身体が熱を吸収したみたいに熱い。夕焼けと言えるかわからない赤黒さが混じった空を手すりの向こうに見る。

 起き上がると肩が太もも辺りが軋んだ。全体にがちがち強張っているのがわかる。コンクリートで寝るようになると、布団のありがたさがわかるなあ、と肩をまわしながら思い、ふと聞こえてきた音に俺は顔をしかめた。

「またかよ」

 ドア一枚を隔てた階段から奇妙な音が聞こえてくる。擬音語で言うと、ガッガッガタガタガラガラドッシャーン! みたいな感じの。どうするかと考えたが、待っていてもいつ終わるかわからない。ため息をついて、ドアに向かった。この屋上には今も人がいないし、俺が来たときもいない。

 なぜかって? 

 人は公園のホームレスは空気のように無視するし、道路で死んでる子犬から目をそらす。酔っ払いが道の真ん中で倒れていたら誰もそこを避けて通る。誰だって、アブナイものには近づかない。

 ここにはそれと同種のものがある。

 ドアを開くと、もう電気がついていた。その明かりの下でパンツが見えた。膝までのスカートがまくれあがって、見えるパンツの下に顔がきている。大きな丸い目は思い出したように瞬きをしはじめ、やがてごろんと横にして態勢をたてなおすと、ねっころがった姿勢のまま腹を抱えて笑い始めた。

「びっくりしたー! びっくりしたー! びっくりしたーっ!!!」

 大爆笑だ。その傍らには手すり付きの台車が横になっている。家に帰るにはあの横を通り抜けていかなきゃならないのか。うんざりして俺は見下ろす。もう笑いすぎて涙が出ている。それをぬぐって上半身を起こす。

「びっくりしたー! どきどきしたあ!」

 両手で胸を押さえてそう叫ぶ。旧校舎の屋上には人がこない。

 永誠高校の大変人、この佐倉晴喜がしょっちゅう顔を出すからだ。




 もう日が沈んでもムッとくる熱気は去らない。夏は着実にすぐそばにきていて、蝉が鳴きだす直前といったこの時期。うす影に染まった運動場には長い長い影が伸びる。

「お前、もういい加減にしろよ」

 運動場には部活動の奴らはもういなかった。妙に広々とした無駄な空間を最短ルートで区切って歩く。

「うん!」

 隣の佐倉が元気良く答えた。その両手は手すりに添えられて、台車を押している。コンクリートと比べればでこぼこが激しいグラウンドを、小さなタイヤががたごと飛び跳ねながら進んでいる。

「今日は全体重かけたんだけど、カーブは無理だった。走ったままじゃ、回れない」

「ようやく気づいたか」

 カーブというか、あれは階段の踊り場だ。半階分登ると、方向転換して互い違いになるフツーの階段。ぐるりと回る角度を計算すればほぼ360度。なぜ回れると思ったのか。高校生、大丈夫か。

「別の方法考えるー!」

「やめろよ。やめることを選択に入れろよ」

 すると佐倉は何を言われたのかわからないように目を瞬かせる。やや童顔だが、ぱっちりした瞳に色白の肌、多分、可愛い部類に入るんだろう。またたく睫毛が長い。

「なんで?」

「無理だからだろッ!」

「無理じゃない」

「無理だよッ!」

「大介君、やってみたことあるの」

「お前が何度もやってるだろ! そして結果無理だろ!」

 それを聞いて佐倉は、ドヤ顔で腕を組む。

「じゃあ大介君は、私が出来たら無理は撤回する」

 ドヤ顔の使いどころを間違っている。

 佐倉晴喜は同じ永誠高校一年生。佐倉晴喜は一部の連中にはもうだいぶ名が売れている。佐倉晴喜は顔は可愛いかもしれないが、あまり頭がよろしくない。そして。両手をぐっと拳にして顔を輝かせて言う。


「台車に乗って階段を駆け下りたい!」


 まごうことなき変人だ。




「佐倉晴喜って知ってるか?」

 初めてその名を言い出したのは誰だったか覚えていない。でもその名は話題は教室の一角にぱっと広がった。知ってる、知ってる。え、だれそれ? と反応を見せる中で、言い出した誰かは

「すっげえ変人」

 と奴をあらわした。他にもいろいろと奴の噂は聞いたが、ともかくおかしい、と行き着くのは必ずその結論だった。

 俺が本物の佐倉晴喜に出会ったのは、つい最近のことだ。

 それまで、こんな辺鄙な旧校舎の屋上でも、まったく人がいないというわけじゃなかった。俺が見つけた直後は、自習中の授業中でもなければだいたいは先客が、または後客(っていう言葉あるのか?)を我慢しなければならなかった。

 人が少なくなったなあ、と気づいたのは数週間前だろうか。その頃には、ほとんど先客はいなかったし、後客もこなかった。俺は本とかウォークマンとかを持ち込んで、もうちょっと長めに入り浸るようになった。

 俺は気づいていなかった。他にもそこをうろうろしていた連中は「それ」に出くわして来ないようになった。たまたま俺だけ「それ」に出くわすタイミングを綺麗に外していたんだと。

 ある放課後。階段を登っていると、上に人の気配がした。久しぶりのことだから、裏切られたような気がした。それでも引き返すのもなんだか面白くなくて、意地のように階段を登った。

 通じる扉の前にいたのは、女子だった。正直、これは珍しかった。埃っぽくて人気がなくて下手をしたらスカートを何かに引っ掛けそうなこの場所で、女子の姿は見たことがなかった。それでも素知らぬふりで、横をすり抜けただろう。まるでいないみたいに。そのまま通り過ぎただろう。普通の女子だったら。

「……なにをしてんだ?」

 そこにいたのはおかしな女子だった。まず持っているものがおかしい。台車だ。マンションとかの廊下で使うあれ。荷物を載せてがらがら運ぶ。

 まあ、それも最初はこのガラクタのうちの何かを取りにきたのかな、と思った。そして台車で運ぶつもりだと。それなら台車をもって最上階にいるのはおかしいんだが。ともかく最初に浮かんだ一番真っ当そうな理由はそれだった。

 しかし女子は膝を落としてじっと台車と台車の向こうの階下を見ていた。俺の方向だが、俺を見ているわけじゃない。真剣そうな顔で何かに焦点をあわせようとしている。プロゴルファーがパターをしているときのようだ、とちょっと思った。

「GO!」

 女子が叫んだ。そして突然台車に飛び乗った。台車の先端ががたん、と階段を向いた。ガッタドカガッガダガタタタッ、と音を立てて台車が駆け下りてくる。その上の女子の体は当然激しく揺れていて、手すりにしがみついていないとこっち側に振り落とされてきそうだった。女子の身体が大きく横に傾いたので俺はそれを予想した。しかし奴は、手すりを掴んで身体でカーブしようとしたらしかった。瞬間、ガタンと傾いていた台車の側面がコンクリートにこすれた。記憶がちょっととんだ。

 気づくと俺は腰をついていた。横腹に強烈な痛みがあり、抑えて顔をしかめる。すると目が合った。きょとんと見上げる瞳。膝の上に女子の顔が乗っていて、さかさまにこちらを見上げている。数秒、目があってそれからどうしようもないまま顔をあげる。反対側の壁に引っくり返った台車が見える。まだ車輪の一部は回っていた。女子の身体を見る。見た目はよくわからないが、顔は別に痛さを感じているわけではないようだ。そこまで確認した。目下、確認しなければならないところはした。

 だから次は。心置きなく――狼狽した。

「あっ――ぶねえっ!!」

 真下の女子の顔に、唾がとんだと思うが知るか。

「あぶっ、あぶっ、あぶねえっ! マジあぶねえっ!」

 なんだ今の!? 事故か!? すげえやばかった!! 生きてきた中でも相当鮮烈な一件だったぞ今の!

 すると女子がむくっと俺の膝から上半身を起こしたので、少しハッとする。

「だ、だいじょうぶか」

 声をかけてみるが、相手は何か考え込んでいるように口元に手をあてた。真剣な顔。それがそのままうつむく。向こうをむいた肩が震えている。

「これは――」

 パッと振り向いた。

「楽しい!」

 満面の笑みだ。

「はあっ!?」

 俺は思わず大声で言い返してた。また唾がとんだかもしれないが、相手はまったくひるまない。拳をぎゅっと握って、ガッツポーズにも似た仕草を見せながら

「これ楽しい! すっごく楽しい!」

「はあっ!? 何が!」

「台車に乗って階段を駆け下りるの! せっかくだから下まで行く。体重かけたら横になったしカーブできる!」

 できねえよ。

 俺の心のつっこみも届かず、ようし、と立ち上がって台車を元に戻す姿を呆然と目にしていたが、持ち上げてのぼりかけたところでハッとまた我にかえる。

「ちょっ、待て!」

 持ち上げたまま、女子は振り向いた。きょとんとしている。

「なにしてんだよ、あんた」

「台車に乗って階段を駆け下りてる」

「そうじゃねえよ! なんでそんなことしてんだよ!」

 すると、女子は真面目な顔をした。台車をおろして、手すりに優しく触れた。

「今日、授業で拡大地図使うから、三階の教材室に行った。奥にある奴」

「あ、ああ……」

「そこに、この台車があった」

「あ、ああ……」

 うなずきながら俺は待った。しかし奴はそれ以降、話さない。言葉を選んでいるとか詰まったとかいう感じではない。もう説明は終わった、みたいな顔をしている。

「……で?」

「ん?」

「だから、三階教材室に台車があった。それで?」

 ああ、と女子はうなずいた。それからえーと、と少し考えて

「だから、それを見たら、」

 またガッツポーズ。頭の上で。

「やりたくなった」




 頭がおかしい。

 俺だとて最初は少しは考えた。その思考に歩み寄ろうとした。なんかいろいろ訳があるかもしれないと。だが、最終的に俺が出した結論はそれだった。みんなが噂するように、佐倉晴喜は頭がおかしい。そしてそれはこの屋上を使っていた奴の総意だったようだ。

 だから道端のホームレスを無視するように、道路で死んでる子犬から目をそらすように、酔っ払いが道端で倒れていたら誰かを避けるように、誰もが屋上から去ったのだ。

 だいたいなんで台車なんだ。しかもそれにのって階段を駆け下りることになんの意味があるんだ。何日もかけてセッティングする労力は言わずもがな。佐倉なりに説明はあったが、ひとかけらの意味も見つけられない。

 そんな台車は校庭の端にある、自転車置き場にいつも置いている。他の台車もあるので、持ってかれないー、と佐倉が言う。手ぶらになると、ようやく普通の女子高校生に見える。

 しかし、手があいたら佐倉はすぐに鞄から手帳を取り出して、シャーペンのノックを押した。んー、と目を細めて、何かを書き留める。

「なにしてんだよ」

「どきどきした回数」

 どき、と書かれた字を星型が囲む。満足してうなずき、イチはどきー! ニはどきどきー! サンはどきどきどきー! と叫ぶ佐倉。

「お前、頭おかしいな」

「えへへへ」

 佐倉は笑う。

「どきどきは大切!」

「なんでだよ」

「心臓は、動いているから生きてるでしょ」

「……だから」

「ずっとどきどきしないでいると、生きていることを忘れる」

「はあ」

 お互いに正門を曲がる方向は一緒だが、方角がまったく違うので初めの角ですぐに別れる。自転車にまたがって振り向いた先で、佐倉はいつもの台詞を言った。

「大介君もやろう。台車のり。二人乗り」

「やだよ」

「楽しいー。面白いー。騙されたと思ってやろー」

「間違いなく騙されているからやだ」

「騙してないよ」

 そう言って、佐倉はきびすを返す。あっさりと。これもいつものことだ。肩越しに振り向いて佐倉はバイバイ、と手を振ってそれから笑いながら付け足した。

「大介君生きてるー?」

「生きてるよ」

 多分。

 そう付け足しそうになった言葉は飲み込んで。

 夕焼けどきはもう終わっている。




 家に帰ると飯が出来ていたので食べる。父親は帰りが遅いし、習い事だの近所の主婦 集まりだのに忙しい母親も一緒に食べようという気はもうないらしい。

 別に家族仲が悪いわけではないが、高校生にもなると仲良しこよしというわけでもないだろう。兄弟でもいれば少しは違ったのかな、と思う。

 課題と予習があるので部屋に戻ったが、机に向かわずベッドに横になった。なかなかすぐには勉強にむかえないのもこの年頃なら当然だろう。

 なにをするわけでもない時間。すると携帯が鳴った。ガラケーを開いて表示を見るとクラスメイトの鈴村だった。

 着信をうけて、軽く話をする。今日は助かったという内容一割と馬鹿話九割。

「そういや知ってる? 田中さん結局きてさ、入江と結構いい感じになってた」

「そうか。お前もいってたんだな」

「ま、ね。入江はぜったいお前になんか奢るべきだよな。教室でも言ったけどさ、ほんとうめえと思ったよ。時任って、絶妙なのがすんなり出るよな。なんかコツでもあんの?」

 この類の台詞を人に言われたのも何度目だろうか。鈴村とその後ろでこれまで出会ってきた奴らが、言うとおり。物心ついたときから、俺の口からは場にふさわしい言葉がすんなりと出た。発表やらなんやらで言葉に詰まりどもる同級生を見ると不思議に思ったものだ。言うべき言葉なんて決まっているじゃないか、と。自分の中にある定型文からぴったりな言葉を引き出せばいいだけの話なのに。

「適当に喋ってるだけだけどな」

 そして、物心ついたときから、そんな本音を口に出しては決していけない、と知っていた。

「お前、落ち着いてるし同い年とは思えねー」

「それはちょっと言われるかな」

 しみじみ言う鈴村に笑いで返す。

「今日はちゃんと課題しろよ。グラマーと英Aと古文出てるぞ」

 うう、と電話の向こうの主はうなった。

「……がんばるー」

 俺も課題なんかするつもりないよ、と言ったら相手はどうとるだろう。驚くか。またまた、と冗談で流されるか。机についた本棚のガラスケースに自分の顔がうつってる。知らずに教室での顔を作っていた。

 初日のあの時。自分の番が回ってきた瞬間。逡巡した俺を置いてけぼりに、口はすらりとテンプレートを紡いだ。表情筋は迷子が家に帰り着くように、勝手に表情を作り出した。この顔がもっとも多く作ってきたそれを自然に選びとって作り出した。湯につけるとぐにゃりと元の形に戻る、形状記憶合金のように。

 鈴村の中の"時任"の枠をはみ出すようなことは何も言わず電話を切って、課題と予習をやった。始める前の気乗りなさが嘘みたいに終わった。ノートには教師の赤ペンでAの文字が刻まれている。中学時代もこうだったな、と思った。なにもせずにできるほどの頭はないから、真面目に取り組むものに与えられる印。

 ノートと教科書をカバンに片付けてベッドに舞い戻った。まだ寝るには早いし風呂にも入ってないし、この後起きてネットでもやって気が向いたらゲームして、寝て起きたら学校に行く。テンプレートを吐き出して、形状記憶合金の体が元に戻る。それを何百回が続けたら、高校が終わる。大学生になったら、何かが変わるだろうか。ちょっと遠くの大学を受けて、家から出てもいい。国立なら許してもらえるだろう。そうしたら、きっと大きく変わるだろう。大学なら。大学なら。ここじゃないなら。

 ――高校でなら。

 天井を見上げた。心まで記憶合金か。それとも心はないのか。合金だから。

 眼を閉じた。佐倉のアホ面が浮かんで片手をあげて言った。

 ――大介君生きてるー?

 なんで聞くんだよ。

 



 むろん、一般生徒はあいつの奇行を見て見ぬふりだが、そうできない人種も学校にいる。教師だ。そのためしょっちゅう佐倉は呼び出される。特にしつこいのが、生指もかねている社会の谷村で、佐倉のクラスの担任でもある。気の毒だ。

 生徒指導という立場上、あまり生徒人気がない教師で俺もそう好きではないが、佐倉関係ではほんとに気の毒だ。

 廊下でたまに通り過ぎるとき、俺は谷村をそういう目で見てしまうけど、きっと谷村は俺を知らない。俺は、谷村に呼び出されるのはおろか一瞬でも目をつけられたこともないから。

 佐倉が呼び出されて反省文だのお説教だのされているときは、屋上も平和だ。あいつがしょっちゅうああいうことするのは、屋上に入るまでの階段なので屋上はなんとか教師達の目からそらされている。あいつの奇行が屋上じゃなくて良かった。

 そんなことを考えながら、給水塔の日陰で一眠りする。ひどく熱かった。何かと戦うように目をつぶって、また夕焼けどきに起きて伸びをして階段から降りようとしたとき。油断をしていたが、佐倉はそこにいた。踊り場にしゃがみこんで、何かをしている。

「何してんだ?」

 振り向いた佐倉は、釘を食べていた。

「……」

 ホラーか、とぎくっとしたが、正確には佐倉は釘を咥えていた。右手にはトンカチを持っている。

「……何してんだ?」

 そのまま何かを話そうとしたのをやめろと制すると、佐倉はざらっと掌に釘を口から吐き出して

「台車はカーブを曲がれなかったので、カーブの方を曲げる」

「……カーブって元々曲がってんだぞ」

「床から曲がった壁作るー。スケートボードの人がやってるような奴」

 俺は無言でそれを眺める。何か、いろいろと無理があるが、そこには突っ込まずに。かわりに別の点、その材料はどうしたかということに焦点をあてた。佐倉の手元には確かに木片がある。

「それ、どこから……」

 言葉途中で俺は気づいた。この使われていない階段においてあったガラクタの数々。謎の文化祭のキャラクターの尻尾とか。

「お前……」

「大丈夫。治せるように壊した」

 日本語がおかしい。

「ちょっと足りないけど、粗大ゴミの日が明日だから、なんとかなる」

「なんとかするなよ」

 俺の毒づきに、楽しそうに釘をくわえなおした佐倉はトンカチをふるう。歌うように鳴る。とんとんとん。

 立ち去るべきだとわかっていたけれど、俺はそこに立っていた。夕暮れ時の校舎に、とんとんとんとん、変わらない元気さでかなづちが木霊する。

「なあ、なんでそういうことすんの?」

 また佐倉は振り向いて、釘を放した。面倒さなど感じないように、笑う。そんなことして言ったってどうせ同じな答えを。

「したいって思って、したら楽しいから」

 ほらな。

 でも、同じなのは俺の方かもしれない。答えなんて知っていたのに聞いた。何回聞いただろう。したいしたいしたい。楽しい楽しい楽しい。初めっから。

「――なあ」

 佐倉が振り向く。

「なんで、そういうことできんの?」

 何から何まで俺とは違う。他の生徒から奇異な目で見られて。教師には目をつけられて。たった一人で釘をくわえて、なんでお前は楽しくやれんの?

「大介君。楽しい?」

「……んだよ、急に。ふつーだよ」

「ふつーより楽しい方がいい」

 はあ? と声に出すが、佐倉は振り向かないまま。

「でも、なにもしないとふつー」

 とんとんとんうってから、佐倉は振り向いた。そして指を一本おったてる。

「「おもしろきこともなき世をおもしろく」」

「え?」

「By 高杉晋作&私!」

「へ?」

 佐倉は、右手を腰にあて左手でピースした。全開の笑顔。俺はその顔を眺めていた。不意に右腕にうずきを感じた。とぐろのように渦巻くものだった。そのうずきに不穏なものを感じて、俺は何も言わずに佐倉から急いで顔を背けた。



 おもしろきこともなき世をおもしろく。

 長州藩の志士、高杉晋作の時世の句。その後ろに、すみなしものは心なりけり、と別の誰かがつけたらしい。

 ネットで出てきたそれを眺めていると、ガラケーが鳴った。表示を見ると、中学の友人からだった。高校が別れてからメールを一二通したのみの中だ。数秒おいてから着信ボタンを押した。

「どうしたんだよ」

「や、なんか懐かしくなってさ」

「ちょうど俺も連絡とろうかと思ってたからよかったけどさ」

 すると携帯向こうの相手がほっとした気配が伝わってきた。急にくだけて話しはじめた相手と、ちょうど鏡みたいにあわせて砕けて答える。

 それからひとしきり思い出話に花を咲かせた。別にそれが悪かったわけじゃない。中学は楽しかったと思う。でもまだ離れて三四ヶ月でする話じゃない。会話の中に今はほとんど登場しなかった。懐かしくなった、と言ったけど。知っている。高校生活に本当に夢中なら、すぐ後ろの過去なんか振り向かない。

 散々話してようやく最後に相手は言った。

「ちょっと高校馴染めなくってさ、そしたらなんか懐かしくなっちまって」

 ほらな、と冷たく思いながら、また会おうぜ、と具体的なことは何一つ口にしない去り際の挨拶をした。

 自分の内心の薄情さをどうかと思いながらも、胸は冷える一方だった。空々しく語り相槌をうちながら、心中ではこんなに見下して、虚仮にして、悪いと思いながらどうしようもできない。そうしたら、無邪気に相手は去り際の挨拶をした。

「お前、ちっとも変わってないから、安心したよ」

 報いはうけたな、と思ってつけっぱなしだったネットのディスプレイに顔を戻す。細いが四角い顎の高杉晋作の写真を眺める。書かれた経歴をなんとはなしに眺める。受験用の知識としては知っていたけれど、知らない知識もいくつかあった。師匠が安政の大獄の吉田松陰で、弟弟子が伊藤博文で、たった27才で死んだのか。27才。俺の今から十年後。

 すみなしものは心なりけり。

 窓の外を見る。夜の中を蝉が鳴いている。本格的に夏が到来した。屋上を思った。あそこは、不快に耐えられる場所ではない。

 ちょうどいい。もう行くのをやめよう、と思った



 しばらく屋上には向かわなかったが、佐倉の話題は耳に入ってきていた。奴は着々とこの学校で名を売っていっているらしい。聞く気がなくとも誰かが話している佐倉のことは耳に入ってきた。よくも悪くも目立つ奴だから。

 そこにあるのは、小さな粒子の塊だ。馬鹿にしている、ネタにしている、面白がっている、それが少しずつ交じり合って、生徒は奴の話をした。クラスも違い関係性もない相手にとって、佐倉は軽いスパイスみたいなものなのだろう。

 そんな話題の中で、今日の放課後、ついに堪忍袋の尾が切れた谷村に、佐倉が呼び出されたのを聞いた。谷村、相当立腹だったから長くかかんだろうな、と鈴村か入江が笑って言っていたが、俺が思っていたのはひとつだ。

 なら放課後、あそこに奴はいない。

 そう思って次に気づいたとき、俺はカバンを持って階段をあがっているところだった。

 その途中で何か怪しいものは見つからなかった。前はカーブに何かを作っていたのに。撤去されてしまったのだろうか。

 上階にたどり着いても、案の定、佐倉はいなかった。ちょっと壊れた文化祭の道具を見ながら、俺は何をしにきたんだろうと思った。屋上に通じるドアを開こうとして、いやだ、あそこは熱いと手を引っ込めて何もできなくなって、段上に座った。

 俺は何をしにきたんだろう。これも形状記憶合金の性なのか。行動も覚えた行動をたどるのか。笑おうして失敗した。

 ここは好きじゃない。はっきり言うと嫌いだ。だけれど、居場所がないから立ち上がらないでいた。息を吐き出した。ひどくくたびれた。炎天下に出なくても、行き止まりの空間にも熱がこもっていた。暑い。熱い。頑固に目を閉じる。

 別に中学が嫌いだったわけじゃない。楽しくなかったわけじゃない。うまくやっていた。うまくやっていることに疑惑を持っていたわけじゃない。ただ。終わりごろに、もういいと思ったんだ。十五年続けてきたそれが、もういいだろうと。俺は実に軽くそう考えていた。時任は自分がわかっている、落ち着いていると、そんな評に毒されて疑いもしなかった。そうできると。あの時の俺は、きっと羽根が生えていた。笑えていたのかもしれない。――…みたいに。

 トントントンと叩く音がする。ノックの音と少し似ている。でも金属的な響きもある、とぼんやりと思った。

 音の次に光が見えた。ぼんやりとしたもの。栗色の髪の丸い後ろ頭。しゃがんだ後姿の女子はやがて立ち上がって、ちょっと汗がかいた顔でふうっと満足そうに笑う。

 そして大きな瞳が、俺を見た。

「完成したよ」

 後悔なんか欠片もないその顔。見つめながら覚醒していった。でも感情はまだ伴っていなかった。ああ、俺は眠り込んでいて、そしてその合間に佐倉がきたんだと、そこまで理性が考えても感情は戻ってきていなかった。立ち上がっても。

「ふうん」

 こもって密度を増した熱をかき混ぜるように、初めて自分から近づいた。板切れを組み合わせて作った、傾斜。一番釘と板が重なっているところ。佐倉が指差す。

「ここに、車輪をのせて――」

 言葉の途中で思い切り踏み込んだら、すぐに割れた。ばきっと音を立てて。その音が佐倉の浅はかさの証明のような気がした。喉で笑った。

「無理だろ」

 佐倉は俺の足とその下敷きになった木板を見た。そして。

「もっと丈夫に作る」

 笑った。

 笑った顔を俺は見た。

 そして突きつけられた。嘘だ。笑えてなんかいない。羽根なんか生えてなかった。俺は佐倉のように笑えたことはきっと一度もない。これからも。

「笑うな」

 自覚は瞬時に真っ黒に染め上げられた。俺を一瞬で埋め尽くした。ずっと警戒していたもの。すぐ間近にあったもの。熱は一気に高まって止める暇もなく爆発した。

「大介――」

 腕が襟首をつかむ。片手ですら十分なほどの重さを両手でつかみあげて後ろの壁に押しつけた。

「笑うなって言ってんだろいかれ女! いつでもへらへらへらへら! うるせえんだよ、目障りなんだよ! 俺の前で笑うんじゃねえっ!」

 その顔に張り付いた笑いを振り落とすみたいに、揺さ振った。壊すみたいに揺さ振った。わざとかけるように唾をとばしながら、同時にガツガツ振り下ろした足元でばきばき音をたてる。許せない。こんなバカみたいな板切れも。跳ねる台車も。笑う佐倉も。自分が望めないものを、手が届かないものを、存在させておくことが許せない。

「――」

 衝動が去ったとき、俺は汗だくになって息を切らしていた。腕はいつの間にか下がっていて、佐倉の足は地面についていた。ぐしゃぐしゃになった襟首から指を離すと、崩れることもなく普通に立っていた。髪はばさばさ顔にかかっていたけれど、その合間から佐倉の大きな瞳が見上げている。

 苦しげに顔をゆがめるではなかったけれど、佐倉の顔から笑みは消えていた。俺が消してやった。なのにちっとも晴れなかった。胸に落ち込んできたのは耐え難いほどの不快な痒みだった。

 高校生活を楽しみにしていた。面白いことが山のようにあるだろうと。俺は変われる、と胸を高鳴らせていた。なのに何も変われなかった。誰も前の俺と比べる者はいなかったのに、俺の顔は俺の身体は中学をなぞった。時任大介の人物像はあっという間に出来上がった。金属になった身体に胸は鳴ることなど忘れた。生指にまったく覚えてもらえない。課題も授業もさぼるなんて夢夢にも思われない。愚かしいことなんて何もしでかしやしない。

 佐倉に問いかけた、答えなんて知っていた。それが聞きたかったことじゃない。でも聞きたいことは言えなかったから、それを隠していた。なんでそういうことできんの? 違うよ。なあ、佐倉。

 なんで、俺は、それができないの?

 ぽろっと目の下をくすぐる感触に、ああ、溢れちまったとぽつりと思った。もういい、と思った。いくら佐倉がおかしいとしても、なんもしてない女の襟首をつかみあげて、力いっぱい揺さぶって、唾飛ばして怒鳴りつけて、懸命に作っていた物を踏みにじって、どれひとつとして、やっていいことじゃない。ずるっと鼻水も垂れてきた。もういいやと袖でぬぐった。停学でも退学でもなんでもいい。こんな所にいたくない。こんな俺でいたくない。

 腕で顔を覆っても佐倉の視線を感じてた。見るな、と言わなかったのは最後の矜持だったろうか。

 鼻水と涙をぬぐっていた腕が不意に、ガッツリつかまれて引っ張られる。

 そのまま佐倉が走り出す。意表をつかれて俺は引かれるままに前によろめく。抵抗しなかった。どこでもいいと思った。谷村に突き出されてもいい。他の生徒の前でさらされてもいい。

 だけど汗だくの全身に寄せる風を感じた。あまりに足が速い。俺は顔を上げた。走りながら振り向いた佐倉ははじけるように笑った。

「乗ろ!」 




 もう白状してしまうと何度も何度も想像した。馬鹿らしいと思いながら、あれは半端じゃないだろうな、と。乗ったら叫ぶかな、と思った。

 しかし、そんな余裕はなかった。ジェットコースター? 目じゃねえ。物凄い振動に、普通に身体が持って行かれそうになる。普通に怖い。すげえ怖い! マジでこれ、やばくね? 最初のカーブ。壁が迫る。壁が。壁が。

 ぐわっと台車の前輪が持ち上がった。そして後方が沈んだ。足の裏から台車の床が抜けていきそうになる。ぎりぎりで踏ん張る。気づいたらガタガタがまだ回っていた。

「回った!」

 佐倉が叫んだ。よく喋れるな。しかし回った。階段の踊り場を、台車が曲がった? 自転車だって回れねえぞ!? だがしかし。え? 回った? ってか、下にまだ作ってたのかあの壁。もしかして、下の階まで? 聞いてねええええええといろいろ考えたが一瞬だった。

「最後っ!」

 佐倉がまた叫んだ。舌をかまないでいられるのは何回も試した末のあれか。先が見えた。しかし、もうその下に折り返す階段はない。痺れた腕で手すりにまだなんとかつかまりながら俺は思った。


 ところでこれって。どうやってとまるんだ?


 廊下に飛び出たところにある壁が真っ白で。頭も真っ白になった。




 気づいたら床に、投げ出されていた。はあはあ、と何かの荒い声がする。そして、同じだけ弾んでいる体。唾を飲み込んだ。喉がカラカラだった。ぶわっと噴き出た汗が包む全身は、熱い。ひたすらに熱い。

「……生きてるか」

 こくんと唾を飲みこんで、佐倉がうん、と掠れた声で言った。生きているのはわかっていた。佐倉の鼓動が聞こえるから。

 身体を受け止めているのは、でっけえ白マットだ。マットと言っても体育館にある、やたらぶ厚いマットレスみたいな奴で、それが壁に斜めに三枚たてかけてあった。合計の厚さは軽く一メートルはいくのではないか。現実問題、どうやってここに運んできたんだ佐倉は。ああ、非現実。

 それにもたれかかって、まだ真っ白に近い頭でそれを考える。さすがの佐倉もやや呆然としているようだった。人間、驚きすぎると飽和するらしい。もたれた形で重なる佐倉の身体は、雨の中の子犬のようにぐっしょり全身が汗でぬれている。俺の胸から頭をあげて、佐倉は聞いた。

「面白かった?」

「こええよっ!!」

 俺は飛び起きた。動きで汗が飛ぶ。

「すげえこえよ! ってかお前やめろ! マジでやめろ! 普通に死ぬ! これは死ぬ!」

 こえええええ、ほんとに怖かった。マジでこれは死ぬかなと思った。報いにしてもちょっと代償大きすぎじゃねえ? と棚上げで思った。

 うん、と佐倉がうなずいた。

「残念。ちょっと危険すぎるかー」

「初めからすげえ危険だったよ! でもこれほどとは思わなかったわ!」

 私も思わなかった、と汗でへばりついた髪をかきあげて、佐倉は笑った。

「でもさ」

「なんだよっ!」

「どきどきしてる」

 今、と佐倉が両手を自分の胸にあてる。俺はしなかった。そんなのをする必要もないほど、心臓に負荷がめちゃくちゃかかって飛び跳ねているのはわかる。体はまだ異常なほど熱い。

「……つーか、これならジェットコースターとか乗ってりゃいいんじゃね?」

 俺のつっこみを無視して、どきどきどきどきどきー、と佐倉は笑っていたが、ふとこちらを真っ直ぐ見上げた。

「大介君。仲間作りたい」

「ああ?」

「カーブ作りも台車実験も大介君とやると凄く楽しかった。一人より、大勢の方が面白いことたっくさんある。おもしろ仲間で。楽しいこと一緒にする仲間」

「……」

「いっそ部活! 同好会でもいい。部屋も貰えるし、名前は、高杉晋作サークル!」

「……」

 弾んだ声をあげる佐倉を、俺は長いこと眺めていた。カーブ作りはいつ俺がお前とやったよ壊しただけだろとか、実験だってお前が無理に乗せただけだよなとか、ってか俺は土下座して謝罪するべきじゃないか、とかいろいろ突っ込みどころはあった。でも、ぽつっと出たのは

「……それじゃ、あんまりな名前だろ」

「そう?」

「そういうあれなサークルは許可されるために長ったらしい意味わからない単語連ねて誤魔化すんだよ。例えば高杉晋作なら、明治維新なんとかとか、長州風俗研究会とか」

 へええ、と佐倉が言うが、ちょっと長い、とも呟いた。確かにちょっと長いが。シンプルなのはよくないだろう。中身がばれないように色々隠さなきゃ認可されないぞ。どうしてもそういう事務的・現実的なことに頭がいく。幻想や夢想には浸れない。形状記憶合金は状況も立場も忘れて元の形に戻る。いかに処理できるか俺が唸っていると

「ともかく申請!」

 佐倉が立ち上がった。俺の手をひいて、職員室へ引っ張っていく。

 ぐいぐいっと容赦なく引っ張られる手、それが連れて行く先が俺には見える。教師たちは唖然とするだろう。そこに谷村がいたら俺を初めて見るだろう。顔見知りの同級生は全員信じられないという目を俺に向けるだろう。全部予想できた。強く引っ張る佐倉に、いてえよと文句を言ったけれど、手を振り払わない。足もとめない。

 多分、俺は佐倉にはなれない。たった一人で誰の目も気にせず心から笑えるようにはなれない。でも。

「おい、申請ったって、いろいろ決めないとなんねえんだぞ。活動内容とか、方針とか」

 ホームレスを見つめた。子犬から目をそらさなかった。倒れた人間に近づいた。自分では変えれなかったけれど。俺は、巻き込まれることはできる。巻き込まれる位置には行ける。引かれる手を振り払わずにいられる。ひたすら情けない話だけど、必要なリハビリだと許してくれ。十六年も外面優等生やってたんだから。形状記憶合金のその性質を変えるには、それ相応の回りくどい処理と時間がいるはずだ。

「活動内容は、楽しいことをいつも探す! 面白そうと思ったことは片っ端からやる! 一生懸命、真面目にふざける!! 部の方針は、おもしろきこともなきこの世をおもしろく!」

 肩越しに振り向いた佐倉の顔は、弾む笑みときらきら輝く瞳で満ちていて。

「大介君、私、面白いことがしたい。いっぱいしたい」

 佐倉晴喜は面白いことがしたい。一人でできないこともしたい。例えば台車の二人乗りとか。なんで台車なんだ。台車に乗って駆け下りてどうすんだ。そういう問いに答えはない。そこにあるのは、ただしたい。それだけ。

 俺は、時任大介は、まだ形状記憶合金は。ささやかに思う。壁にぶつかりたい。逡巡も後悔もふりちぎる速さで。そして金属の身体を壊したい。燃えるような熱で。

 形状記憶合金は、



 台車に乗りたい。何度でも。


















 形状記憶合金は、金属結晶構造の10%以内の曲がり(歪み)に対して、所定の温度を加えると弾性を発揮、元の形状に戻ろうとする性質を発揮する。



 ただし金属結晶構造が変わってしまうほどの極端な変形、または結晶構造が崩れるほどの高温を加えると、この弾性が損なわれ可塑性により、その時の形状が「記憶」される。











<形状記憶合金は、>完







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