最終章「きょうだい」
渡されたタオルに包まれた保冷剤も頬にあてがうことなく膝に落ちている。ほとんど放置された客間にぽつんと腰掛けた北原の背中に、真上はわざと音を立てて近づいた。ぽんと背中を強めに叩いてぼんやりした瞳を見下ろす。
「透。大丈夫。望みがないわけじゃないわ。篠原さんのあれはどう考えても家族の愛情に近いわ。家族の愛情に満たされたら、あなたの方を向くようになる。篠原さんはあなたを共犯にした。彼女のような人はよっぽどのことがない限り、共犯関係なんて結ばないのよ。鍵は待つことよ。気長に。気長に。あなたはそんなにせっかちな方じゃないでしょう」
ぼんやりと眺め返していた彼は、やがてぽつりと呟いた。
「そういうのじゃない」
「そういうのって?」
「恋とか愛とかそういうものじゃない」
「好きかという問いに肯定していたじゃない」
「ああ言わなければ、話が進まなかった」
真上は到底納得できない、というように眉を寄せて
「じゃあ、どうしてあそこまでしたの。基本他人には無関心なあなたが」
北原はその問いに、ぼんやりと考え込んでいたが、やがてぽつりと口を開いた。
「僕と彼女はとても近い。僕らの性質は鏡に似てる。何もかもうつし出せるけれど、うつるものがなければ何もない」
「……」
「彼女も同じだ。違うのは、僕は何もうつしていない鏡だったけれど、彼女は一人をうつし出していた。たった一人を、懸命に」
うつむく北原に、透、と呼ばれた。
「鏡で、性質が似ていて、とても近くて。――だからなんだって言うの」
北原が顔をあげる。腰に手をあてて憤慨したように見下ろす美奈子がいる。
「それだけのために、これだけ骨を折ったり殴られてやったりしたの? 近いから恋愛にならない? そんなものはそれぞれよ。タイプが違う人を好きになったり同じ人を好きになったり。だいたい今まであなたが人のタイプなんて気にしたことがあって? それほど誰かに関心を持ったことが一度でもあった? ああ、もうじれったい」
憤然と言って、畳の端にある鏡台につきだした。
「これが、あなたよ。――何がうつってる? 歪んだ顔よ。誰かに執着してる顔よ。飢えて欲しがってるのにそれを隠して、でも隠しきれてない顔よ。篠原さんが一人をうつし出していたように、あなたにもうつったんでしょう。何もうつらない、鏡なんてないわ」
「……」
「あなたの前から、いなくなって欲しくないんでしょう」
長い長い間をあけて、北原はほんのわずかに首を縦にふった。弱くも見えた。
「さっきも言ったけど、脈はあるのよ。気長に待てば振り向いてもらえる可能性は十分ある。だから待ちなさい。あなたは待てって言われたら、百年だって待てるんだから」
「寿命がある」
「長寿日本一でも目指せばいいわ!」
そういうことを言いたいんじゃないのよ馬鹿っ!と真上は叫んで。
「あの子が完全に大人になるまでの間よ! もうとにかくいいから! 素直に私の忠告にわかったって言いなさい!」
「わかった」
北原は前を向いた。その姿をつくづくと眺めて嘆息する。
あの後。まるでお供のような三人に囲まれて篠原友子は戻っていった。その隣には国枝宗二がいた。互いにきゅっと手を握って。二度とはなさないように。それにのこのこついていける立場ではあるまい。鼓舞したが、可哀想に彼のポジションはどこまでも当て馬だった。
だが、反面。先ほど北原にふるった熱弁は、間違ってもいないと思うのだ。篠原友子がここに来て焦り始めたのはなぜか。二人に決定的な亀裂が入ったのはなぜか。やはりそこには別の要素がわりこんだのだ。二人だけで完成された幼い世界を、脅かす要素があったのだ。違う影がちらついたとき、世界は自己を保とうと暴走した。
友子の性格に、彼らの間の揺るぎも加味すれば、そう考えるのが自然だろう。暴走の一端に自身の後輩達がしでかした過負荷がなかったとは、この立場からは決して言えないが。
彼らのこともきっちりと落とし前をつけさせねばならない、と思ったとき、北原がぽつりと呟いた。
「よくわからないけれど」
「なに」
「あなたは、僕に優しいんだな」
かなりしばらくの沈黙の果て。
「透。今まで思っていなかったの」
こくりとうなずく相手に真上は眉をひそめてため息を吐き出した。
「ま。予想してしかるべき事態ね。いいわ。見返りとか感謝を求めているわけじゃないし。――どうして? みたいな顔をしないの。それは腹が立つわ。あなた以外の人なら一秒でわかるのよ。いい? 私は一人っ子で、あなたは親戚で、ほどよく年下で、ほどよく近くにいて。そういう存在をなんて言うの?」
「下僕」
わりと真面目に答えた相手に。頭が痛いように額をおさえて、まあ結局似たようなものかもしれないけれど、とおいてから
「私が、苛められて自分なんか生きてる価値がないんだってどん底だったとき、親戚のあつまりでぽつんと端っこに立ってる人形みたいな子がいたのよ。親戚の子にこづかれても、自分が苛められてるんだってのにも気づかないような。この先、どうやって生きていけるのかてんでわからないような。その子をじっと見て思ったの。私がいなきゃ。私が助けなきゃ、この子はこの先生きていけないって。一種の自己暗示よね。私も生きたくて自分に価値を持ちたくて必死だった。その日から、私は、ずっとあなたの姉貴分のつもりだったわ」
ほんのかすかだが目を見開く相手に、真上は微笑んだ。
「人間って不思議よね。ただそこにぼんやり座ってるだけでも、誰かを救うことになったり、勝手に救われたりして。でも感謝はしていたのよ。透、私が自分をすくい上げるきっかけになってくれてありがとう」
今までの彼なら、その無関係さ、自分の貢献のなさを淡々と指摘したろうが、北原は口を開かなかった。かわりに立ち上がって後ろの自分のキャビネットの一番下から、紙の手提げ袋を取り出し差し出してきた。
「……なに? これ」
「渡そうと思っていた」
「……? 見ていい?」
手提げ袋の口からずっしり詰まった何かのチラシが見える。問いかけに北原は首を横に振る。
「帰って見た方がいい」
真上は諦めたように手提げを受け取った。
「あなたが、ダイアナ妃だと思う」
「ダイアナ妃?」
プレゼントのセンスも教えなきゃいけないかしらね、と肩をすくめていた真上は、北原の言葉に本気で怪訝そうな顔になった。やはりまだあまり動かない顔を見つめて、その意味を探っていたが、結局、ふ、と息をついて
「あなたには、私はそううつるのかしらね。どう受け取っていいかわからないけど。――ねえ透。あなたは自分を鏡だって言ったわね。篠原さんも、そうだって」
うなずく相手に、弟の物分りの悪さを愛情混じりに受け止めるよう苦笑して。
「あなた達は自分がないって言ってたけど。鏡が向かい合ったら、うつるのはお互いの姿でしょう。悪魔が出てくるってあなた言ってたけど。あなた達が向かい合ったら、初めて本当の自分が見えてくるんじゃないかしら」
国枝邸の一階にある、敷居の襖を外された畳の間に長ちゃぶ台が続いている。座布団が敷き詰められたその端に、どこから持ってきたのか丸ちゃぶ台が置かれている。
区分で言えば、不本意だろうが『子ども席』となるのだろう。円卓を囲んで敷かれた座布団の上に、時任大介、半田瑞希、佐倉晴喜、京免信也、結城清明、磯部善二郎の六人が、いささかはみ出ながらも座っている。
狭いながらもちゃぶ台の上には寿司やらピザやらのデリバリーが並んでいるが、佐倉ですら手をつけずに、注がれた紙コップの飲み物をちびりとやりながら、横目で様子をうかがっている。
長ちゃぶ台に付くのは向かって左手に、国枝の父、竹下、何故か運転手金本。右手に友子の両親が正座をしている。互いの顔は露骨には強張っていないが、緊張したように肩が張り、下手をしたら強張っている方がまだ息がつけるのかもしれない。空気の重さは少し離れたところの『子ども席』からも十二分に見て取れる。
「はいよ! いっちょできあがりー!」
そんな場の中に、底抜けに明るい調子が割って入り、廊下に繋がる襖が開く。
「いやあーすいませんな。ただでさえあたしの手作りって微妙なところを、さらに冷めてちゃもうどうしようもないってんで無理言って」
「い、いえ……」
襖をあけたのは国枝の母親、その隣にもうひとりいるのがでかい声の主で、麻婆豆腐やら餃子やらがぎっしり並んだお盆を持ち、ストレートの黒髪をすっと束ねてシャツにスーツのスカートをまとう細身の――
「……あれは佐倉のお袋なんだよな」
「はい」
うなずいた半田自身もどこか疑っているような顔つきだ。
国枝の家に戻り、知らせを聞いた大人たちが揃うにあたって、夕食の提案をしたのは国枝両親だ。時間が遅くなったことを気遣っての発言に、竹下もフォローを入れた。むろん彼としては少しでも両家の関係修復を願ってのことだ。友子の両親も友子自身がこの家にいるのでは断るわけにもいかずにやってきた。そこまでそろって、ではと帰るわけもない子どもたち側にも、当然夕食の用意はされたが、その時点で教師らしく竹下が全員の親に連絡をとるように指示した。
僕の親はドイツでコンサート中だ、と言い一応保護者代わりですと金本が申し出た京免以外、素直に連絡をとった面々の中。
「ハハがくる」
通話をきった佐倉が一言告げて、今にいたる。
強く勧められておずおずとあがった金本も場違いと言えば場違いだが、佐倉の母親、三月はもう意味がわからない。
「あれ、まだ注いでないじゃないスか」
ぬるむぬるむとビール瓶を持ち上げ、まずは先生、と竹下に傾けた。竹下が跳ねるように膝を立たせ、コップを両手で差し出した。それに続くように国枝の父親も慌てて瓶を持ち上げ、金本と友子の父親に視線を走らせ一瞬止まる。車ですので、と気を利かせた金本が先手をうつと、ぎくしゃくと動いて友子の父親に瓶を差し出した。
「……どうも」
受ける側も一瞬間が開いた。が、結局、友子の父親は低い声でコップを差し出した。そんな夫の様子を見て、友子の母親も国枝の母親とぎこちなくそのやり取りをかわした。
金本のコップにもウーロン茶を注ぎ
「んじゃあ先生、乾杯の音頭頼むよ」
「え、あ。えっと。あ、はい。えっ、と……では」
強引に指名された竹下が狼狽して声をあげる。乾杯などというひたすら場違いな所作をしていいのか、という迷いが見える。
「ほらほら、こっちが始めないとあそこで三歩歩いただけで腹がなる年頃のがきどもが気ぃ使って手ぇつけてませんよ。お前ら、こっちは大丈夫だから食べな。ほら」
そこで初めて子ども席に視線が向き、そろってこちらを見つめるまなざしに、大人としては何かしら恥じ入るものがあったのか、控えめに大人たちは杯をあげる。
依然として目は離せないが、一応気を使って時任たちも食べ始める。ピザなり寿司なりをつまみながら、横目で見やる大人たちの集会はちぐはぐそのものだ。
なんとか会話を繋ごうと必死な竹下とほとんど関わりがないのに気遣う金本を残して、双方の両親は静まり返っている。国枝の両親は沈痛さを、友子の両親はもって行き場のないやるせなさを。
放っておけば石像の見合いのように固まるだけの場を、回すのはひとり陽気な三月だ。目の前の食事は取り皿にさっさと分けて両隣に渡す。国枝の母親がハッとして動こうとするが、いいからいいから、と次々に小皿を量産しはじめた。その三月から小皿がどんどん押し寄せて、それ塩効きすぎてないですかねえ、と味の感想も求められるので、自分からはほとんど手をつけない友子両親も箸を動かさざるをえない。
「意外と三月さん合コンとかいけそうですね」
「女子力という言葉とは決定的に何かが噛み合わないけどな」
フライドチキンを骨ごと噛みくだく娘の横で、半田と時任が呟き、結城は呆気にとられた様子で、磯部は呆れた態で、京免はピザに興味を示している。
空気は重いがなんとか動いている宴席で、腰をおろした三月が手酌でビールを注ごうとしたのに気づいた友子の父親が瓶を手に取った。スーツ姿のままなので、様になる。
「どうぞ」
「ありゃ、すみませんね。うちの晴喜が散々お世話になってるってのに」
「いえ、こちらこそ。娘がよくしてもらっています」
「いやいやいや、うちのときたら、もう周囲がみんな深海魚の中でひとりくらげみたいに浮きまくってて女の子の友達なんてこれまでひっとりも出来なくて。友子さんに捨てられたらめでたくぼっちですよ。――おい、晴喜ぃ、捨てられないようにしろよ!」
突然向いてふられた手に、佐倉がチキンを持った手で大きく振り返す。
「篠ちゃん大好きーっ!」
肉片をまき散らし叫ぶ佐倉に、戸惑いながらも友子の母親が頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
「お礼を言いたいのはこっちです。見てのとおりのあれですから」
「明るくて裏表のない素敵なお嬢さんで」
「ははははは。いやあ、馬鹿なところそっくり母親に似ちまって。すんげえネガティブ人生歩んできて二十代前半で自分も不治の病にかかっちまった薄幸男があれの父親なんですけど、全然そこいら受け継ぎませんでしたね」
言われたことが飲み込めなかったような顔をした大人達に構わず、ビールを煽って三月が笑った。
「そいつの冥土の手向けに作ってやったのが晴喜なんですよ」
視線が集中した。大人たちは三月に、子ども席では佐倉に。固まる周囲だが、発言前と発言後で三月も佐倉も何も変わらない。
「そ、それは……」
友子の父親がなんとか口をひらき、引きつった顔で「その、なんとも……」
「あ。すいませんね。いきなり変なこと聞かせちまって。気にせんでください。親子ともどもデリカシー使っていただく必要はこれっぽっちもないガサツ者なんで。だいたい生まれて十何年もたつと、理由なんて、今となっちゃもうどーでもいい話で。生まれる前なんて所詮十ヶ月もなくて、生まれた後の方が何年も十何年もある。家もそうですよ。建った当初がいくら綺麗でも二十年三十年建ってなきゃなんの意味もない。きっかけとか動機より、年月重ねてく方が重要だ」
白い泡が浮かぶジョッキを揺らして笑う三月にしばらく圧倒されたように面々は黙っていたが。
「そ、そのご苦労もあったことでしょう」
「苦労? まああったかもしれませんが。一杯飲んで子どもの寝顔を見てりゃどーでもよくなるもんですよ、疲れも苦労も」
「……それは、わかります」
それまでほとんど口を出さなかった宗二の母親がぽつりと言った。視線が集まると我に返って肩を狭めたが
「……子どもの寝顔ってどうして、あんなに可愛いんでしょうね」
「寝る前に、怪獣みたいに暴れ狂って邪魔しまくって手間増やしまくってどついてやろうかこの野郎と思ってても、寝てたら許せるんですよ。あれはずるい」
友子の母親も言葉こそ吐かなかったが、そっと目を伏せる。
「先生もどうですか。男性教師って人気あるでしょ。相手の一人や二人」
「え、あ、はあ。いや、まあ」
うちはもう就職しましてね、と金本からまた少し話が転がる隣席を見ながら
「結構盗み見られてるんですかね……」
「高校生になってそれは、と思いたいがな」
と子ども席の年頃が若干複雑そうに囁く前で
「ま、とりあえず言えるのはお互いお疲れ様ってことで。なかなか言ってもらえませんから、自分たちで言いましょうや。お疲れ様ー!」
そう言ってコップを友子の母親の前に突き出した。戸惑いながら慌てて持ち上げる、ほとんど減ってないコップにかちんとあわせて「お疲れさま」同じ事を隣の宗二の母親にもした。
「職場に同じ年頃の親がいなくてね。こういう場もいいすねー。何かの縁だ、たまに保護者同士飲んで情報交換でもしましょうや」
三月がまたビール瓶を持ちあげた。
ハハー、と廊下で呼び止める声に、佐倉三月が振り向くと娘と時任、半田が近寄ってきている。自分が手洗いを借りるのを見計らって抜けてきたようだ。
「おうよ」
普通に迎えた相手に半田と時任は視線をかわしてから、半田が
「えーと、なんか衝撃の事実を普通に聞いちゃった気がするんですが」
「そうか? これの父親なんか今までも見てねえだろ」
「いなーい」
「ええっと…、はい、そうなんですけど」と半田が口ごもり、結局そこはあまり固執しても仕方ないと思ったようだ。「でも三月さんいてくれて良かった気がします。篠原先輩のご両親も一応席を立たないし」
「聞くだけでダメっぽい会だなとは思ったからな。竹下先生も悪いが教職じゃ接待機会もないだろうし。事態が膠着した時には空気読まねえ馬鹿が必要なときもあるんだよ」
「……」
妙に説得力のある言葉だと深くうなずく。
「ご両親方、ずっとぎくしゃくしてきたみたいですけど、これを機に少しは和解できますかね」
「すぐにはどうにかならん。子ども同士とは違うからな」
大人がこじれると面倒臭いんだ、と三月がシャツに包まれた腕を組む。
「だが、大人にはひとつ子どもにない武器がある」
「なんですか」
「酒だ」
にやりと笑う相手にどんなリアクションをとっていいかわからず、半田と時任は目を彷徨わせる。
「酒飲んでぐだぐだしてそういうの繰り返してなんとかかんとかやってく。不器用な大人の唯一のやりようだ。一回で無理でも、また機会設ければいいだろ。ま、あんま子どもが心配すんな。大人の立つ瀬がなくなるからな」からっと笑って三月が天井に視線をうつす。「んで。子ども同士はうまくいったのか」
同じように天井を見上げて、そして三人顔を見交わしてから同時に力強くうなずいた。
「大人に心配かけずとも大丈夫です」
「そっちもちょっと立つ瀬がないぞ」
だけど頼もしいな、とぽんぽんぽんと三つの頭を叩いて三月が見下ろした。
「お前らも、ほんと、お疲れさん」
二階にある宗二の部屋のベランダから、今日はよく星が見えた。宗二が桟に座って用意をしていると、友子が後ろからのぞいてきた。
「結構寒いよ。上着、着てきなよ」
うなずいて友子が一度引っ込む。そしてカーディガンを羽織ってきて宗二の横に座った。白い煙がゆらゆらともう肌寒い夜の中にあがっていく。
「送り火って言うんだって。死んだ人を送るんだって」
「うん」
「俺は、自分の中で今まで夕子を天国にやってなかった。やっぱり悔しかったからさ。両親と一緒にしてやるのが。でもそろそろねたんでばっかりをやめて送る。一緒に送ってくれる?」
「うん」
宗二の思い出の中で母はクリスチャンだったような気もする。だが、ここいらは適当でいいだろう、と片付ける。これで送るのも本来は多分天国ではないのだろうし。小さな碗からあがる煙は細くたなびき闇に消えていく。
「ゆうちゃん。俺達さ。いろいろと置いてかれたじゃん。離れて別れてそのたびにやっぱり何回でも辛くてさ」
「……うん」
「でも、俺はさ。お父さんにもお母さんにも夕子にも、不思議と一回も呼ばれたようなことはなかったんだ」
「……」
「俺の居場所はここなんだ。だから、ここで、がんばって生きるよ。死んだ人だって、きっとがんばってる」
横顔を見つめた。月光に照らされて空を見上げる彼の視線。一途に、濁らずに、少年のときのまま。それでもその横顔は大人びた。
「そうちゃん」
「なに」
「聞かせて欲しいの。夕子ちゃんをどう思ってた」
宗二は見返した。そうして軽くうつむいた後、月を見上げた。
「威張ってたし、きつかったし、喧嘩ばっかだったし、可愛くなかった。でも――大切だった。俺のたった一人の家族だったから」
はやくいきすぎなんだよ、馬鹿。
泣きそうな響きを友子は受け止めた。そして。
「ありがとう」
脇に置かれている手をとる。優しくうながすように、指を絡めた。
幼い頃、棺を見つめ続けていた時分と重なる仕草だが、今は違う。あの時とは違う。生きているから違っていく。違いを知って生きていく。
月は夕日が沈んだ夜に輪郭をはっきりとして浮かぶ。空を見上げる。隣で息づく吐息。手に広がる体温。それだけで良かった。それだけで湧き上がる清水のような幸福がある。
「きれいだね」
「うん」
「本当に、きれいだね」
「うん」
不意に宗二が友子を向いた。袖が覆う腕で口元を隠して、小さな悪戯をたくらむ子どものように。
「――聞こえた?」
ひとつまばたきして、友子も微笑み返す。
「うん」
『ええ。はい――。そう。そうですか。そうですね。まだまだ困難なことはあるかもしれませんが、あの子たちはひとつ乗り越えた。そう思っても、いいんじゃないでしょうか。大丈夫。大丈夫だと思います。あの子たちなら、きっと。
いいえ。とんでもない。国枝さんたちが親身になって心を砕き続けてくださったおかげです。いい友達にもめぐり合えたようで、本当によかった。
……あら。私…ですか。年ですからねえ。やめるのはなかなかやめられませんけどねえ。ええ。ここに来る子ども達も減ることはないですけれども――……。大丈夫です。無理はしません。無理してやっているんじゃないんです。
……――国枝さん、私、昔、二人にもらったものがあるのです。それがあるから、続けているのかもしれません。悲しい連鎖があるなら、きっとそれとは逆の連鎖もあると。
――ええ。本当に機会があれば、ぜひ。では失礼します』
受話器を置いてふう、と息をついた。そのまま心地よく目を閉じていたが、壁越しに聞こえてくるかん高い声に目をあけた。
窓から見える園庭に、六歳以下の幼年組が、宿題をしている年中組を待ちながら、自分達だけで遊んでいる。日の下の彼らの姿が思い出と重なる。
――せぇんせい、とそろえた声に振り向いた。そして、ああ、いいものを見たと、微笑んだ。
そこにいたのは子どもたちだ。ませた子ならそろそろ男女の違いを意識し始める年頃だろうけれど、彼らは小さな手を繋いでいる。それだけで、そうあるだけで、そろってとても満ち足りていた。
特に少年の方は手を繋いでいなかったら浮かれて空まで跳ねていってしまいそうなほどだ。姉と別れてここに来た時からどこか無理をしている風が気になっていた子だったから、余計に彼の嬉しそうな顔は特別だ。
「楽しそうね」
こんにちは、というのももどかしく、少年は上気した顔で
「あのね先生。俺達、どう見える?」
「とっても仲がよさそうよ」
「だってね、兄妹なんだ。それでね、俺が兄なんだ。妹なんだよ。ゆうちゃんが、それでいいって!」
ね! と勢いよく確認すると、少女はおず、とはにかんだ。控えめでそれでも控えめさから、喜びがにじみ出る。長くいた少女が初めて見せた顔。それも特別で。
「おれさ、ずっとおかしいと思ってたんだ。夕子なんてたいどでかいだけだから、それで姉なんておっかしいってさ。まあ、名前ももう宗二になっちゃったから仕方ないけど。三人兄弟の真ん中でさ、ゆうちゃんはおれの妹なんだ。兄妹なんだよ! 兄妹ならずっと一緒にいられるよ」
ね、と確認するとまた少女がはにかむ。少年が笑う。満足を噛み締めるようにしみじみと。
「おれさ、生きててよかったなあ」
生まれてきて、よかったなあ。
少女がこくんとうなずく。
そう、と呟いた。一拍あとに微笑んだ。
二人の幸せな子どもたちは、両手をつないだまま建物の方へ走っていった。微笑みながら、こみあげてきた涙をもう我慢する必要はなく流した。
繋がれた小さな掌と輝く二つの小さな顔が、とてもうつくしくて。
世界がとても、すばらしくて。




