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十七章「ゆうちゃん」下

 一度漏れた言葉は奔流の呼び水だ。

「いかっ、いかないで――いかないでッ」

 畳の上で、船酔いした人間のようにふらついて。あまりに求め続けていたせいか、現とこの世が混濁していたせいか、国枝宗二は口にし続ける名の主が目の前に現れても驚きも覚醒も見せず、よろめきもがいて友子に両手ですがりつく。

「嫌だったんだ。本当は嫌だった。北原なんかにやるのは嫌だった! ずっと俺のゆうちゃんだった。でもどっかで、ゆうちゃは断れないだけなんじゃないかって。夕子が死んだときの俺に、断れ続けなかっただけじゃないかって。大切だけど怖くて。大切だから、怖くて。物分りのいいふりして。し続けて。――でも嫌だった。ずっと、嫌だったんだ! 俺のゆうちゃんなのにって。北原に何がわかるって。嫌だ。俺のゆうちゃんなんだ。ずっと見てきたのは俺だ。俺がそばにいた。ずっと考えてきた。ゆうちゃんのことを」

 そこまでいってこみあげてきた衝動に飲まれたように、ああ、ああ、と身を震わせる。うつむいた先で母親に泣きつく小さな子どものように膝にすがり、首を横にふる。

「北原なんか嫌いだ。大嫌いだ。俺からゆうちゃんをとってく。嫌い。嫌い。嫌だ、嫌だ、やりたくない、やりたくない。いかないで、いかないで、俺を、置いていかないで」

 一気に吐き出した後、膝に顔を埋め泣く宗二以外の、誰もの視線が友子にあった。真上も、国枝の両親も、突き放された北原も。家の中から聞こえた絶叫を聞いた瞬間、車から飛び出し靴も脱がずに駆け込んだ友子を追ってきた時任たちも。

 嵐の激しさは通り過ぎて、残滓の嗚咽だけが残る部屋の中。震えて繰り返す宗二に呆然とした様子で友子は前を見つめていた。

 見開いていた瞳が、ひとつだけ瞬きして。そして友子は身震いして口を開く。

「……――わ、わたしも。――ゆうこちゃんが、嫌いだった」

 一度口にすると、言葉は溢れた。

「嫌いだった。そうちゃんに好かれてた。自分の家族を持ったのに、そうちゃんの心も持っていったゆうこちゃんがずるいって思った。自分の家族を手に入れたんだから、あなたはそうちゃんを置いてったんだから、そうちゃんはちょうだいって。わたしにちょうだいって。」

 誰も自分を迎えに来ないのはわかっていた。日々共にすごす職員や仲間たちすら、見過ごしがちな自分だ。少しの時間しか会えない相手の誰が、自分などに目をとめてくれるだろう。そんなことに、感情を覚えたわけではないのに。初めて知った。激しい嫉妬を知った。その子は自分と同じ立場なのに、何もかもを手に入れる。

「わたし、あの頃、思ってた。思ってたの。一回じゃない。何回も。思ってたの。ゆうこちゃんなんか、いなくなっちゃえばいいのにって。わたし、そうちゃんがほしかった。すごくすごくほしかった。ずっとそばにいてほしかった。だから、ゆうこちゃんなんか、いなくなっちゃえって。ゆうこちゃん、ゆうこちゃんなんかいなくなっちゃえって。いなくなっちゃえって――……ううん。違う。死んじゃえ、って思った。何度も唱えた。死んじゃえ、死んじゃえ、死んじゃえ、そしたら」

 ひゅっと喉が鳴る。

「ゆうこちゃんが、ほんとに、亡くなった。箱の中のゆうこちゃんの前に、そうちゃんが座ってた。そうちゃんの顔を見た」

 瞳が死の色に染まっていく。罪から逃れられないと絶望的に悟った、幼いあの時と同じ。

「なんでこんなわたしが、生きているのかと思った」




 告白の後、友子は抜け殻のように天井を見上げていた。抱え続けてきた罪を吐いて何もかもなくなってしまったように。

 天井の蛍光灯が白く照らし出す顔の、見開かれた瞳から一筋涙がこぼれて。遅れて顔を歪めて。

「……ごめんなさい。十年間もごめんなさい。許して、じゃない。ただ、ごめんなさい」

 静まり返った部屋の長い沈黙を消したのは、ず、と鼻をすする音だった。宗二の顔があがった。涙で濡れて汚れていたが、喪失していた落ち着きが戻ってきている。のぞきこむ宗二にむかい、友子が顔をさげる。顎からぽつんと涙の雫が落ちた。

「……夕子が、死んじゃえって思ってたの?」

 一拍おいて友子はうなずいた。そう、と宗二は呟き鼻をずっとすすった。

「夕子は、死んだもんね」

 淡々と、ただ淡々と。宗二の口から出る言葉は平らだ。

「むかし、園の先生もよく言ってたけど。死ねって、一番、ダメな言葉だよね。ほんとになったら、洒落にならないし、俺達は他の子よりずっとそれがよくわかるはずだし」

 自分を必死に抑えようと固く握られた友子の拳に手が触れた。俺を見て、と言うように。見下ろす友子と見上げる宗二。間近で視線はあった。

「北原なんか死ね」

「――」

「俺もずっと、心で唱えてたよ。ゆうちゃんと北原がいるのを見たときから。ゆうちゃんが苛められたと思ってからじゃないよ。北原はゆうちゃんをかばってる、ゆうちゃんも心許してるんだって思ったときからずっと。手を離そう、見守ろうって誠実ぶってる裏で死ね死ね死ねってずっと唱えてた」

 起伏のない声音には妙な真実味がある。時任たちは少なからず驚きを露にし、真上の顔はかすかにしかめられたが、北原本人の表情に変化はない。

「あと俺は、夕子のこと。ひどい目に遭っちゃえって思ってたよ」

 友子の目が見開いた。乾いた沈黙の後、うそ、と乾いた声が告げた。

「うそじゃないよ。夕子のばーか。ひどい目に遭っちゃえって。俺を置いていきやがって、一人で幸せになるつもりだってそうはいかないって。俺、全然優しくなれなかったよ」

「うそ。そうちゃんは、ずっと夕子ちゃんを気遣ってた」

「俺はね、かっこつけで自分勝手な小心者なんだよ。ゆうちゃんに、姉想いで優しいって思われたかったんだよ。いいかっこしてる裏で、いつもぶつぶつ不満抱えてたよ。夕子の馬鹿。許さない。ひどい目に遭っちゃえばいいって。冷たくなった夕子を前にしたときだって、俺は辛さ悲しみより怖さがきたよ。死んだときは俺がんなことを思ってたせいじゃないかって。ああどうしようって。怖かった、」

 やるせなく見つめ返す瞳に、かつて味わった自身への失望がきらめいた。

「怖くてたまらなかったから、ゆうちゃんに必死に顔向けた。大切にしなきゃ大切にしなきゃ。自分のさびしさなんかにかまうな。ゆうちゃんが優先だ、なによりもって。そう思うことで俺は必死に顔そらしてた。夕子の不幸を自分が願ってたことから。――でも、そのうちどんどん別の怖さが大きくなった。俺は、俺から離れて幸せになる夕子が許せないって思った。そしたら、夕子が死んだ。俺はゆうちゃんが全てでも、ゆうちゃんにそれを求めちゃいけない。そんなこと思っちゃいけないって。俺は二度とそう思うことは許せない。だって。俺はもう――ゆうちゃんだけは失いたくなかったから」

 小さくけれど深く強く。子どもたちは呪いをかけた。自分自身に。生きていけないから、と。どれだけ苦しんでも自分を締め付けてもその鎖を外さない。呪いの果てに、早くも赤みが浮かび上がってきた頬に残滓のように涙がすべって。

「でもダメだった。ごめんね。――ごめんね。ゆうちゃん。俺はまた、君の幸せを願えない。ゆうちゃんにいて欲しいんだ。とられたくないんだよ。それを取り繕うのに必死で、君が苦しんでたのもわかんないくらい身勝手なのに。君は俺よりずっと綺麗だ。俺が君に値しないだけだ」

 友子の瞳が国枝宗二を向いている。

 初めて彼を眺めるように。

 やがて長い凝視の後に。そうちゃん、ぽつんと言った。

「そうちゃん、そうちゃん、そうちゃん」

 ふるりふるりと篠原友子は震えている。伝えたい情を身体中に湛えてとめどもなくあふれそうで。首をかしげる国枝に向かって吐かれる言葉は「そうちゃんそうちゃんそうちゃんそうちゃんそうちゃんそうちゃんそうちゃんそうちゃんそうちゃんそうちゃんそうちゃん」ただそれ一色で。ふるりふるりと細い首も瞳も国枝を見つめて、ただただ繰り返す繰り返し続ける。

「――篠原」

 無限のループに陥りそうな中、ふとさしこまれたのは北原の声だ。

「伝えろ」

 集団の中でもよく通るが透明な声は、両頬が腫れを持ち始めているせいか、今はくぐもっていて、そのせいで少し感情を帯びたように聞こえる。不快そうにそちらを見る国枝の前、友子は鼻声で言った。

「そうちゃん」

「なに」

「そうちゃんは私の手を握ってくれてた。そばにいるよってそうちゃんはいつでも笑ってくれてた。それだけが私の全てだったの。どんな動機でも関係ないの。それだけで私の全てに十分なった。でも、そうちゃんがいつでも私の手を離せるように握っているのがわかってた。いつでもいなくなれるようにそばにいるのがわかってた。だから。――不安だったの。離したくないって、嫌だって、私、そう言って欲しかったの。でも言えなかったの。言えるわけがなかった。ゆうこちゃんからあなたを奪ったのに」

 夕暮れ空にどこまでも響く、空までも届く、包み込むように寄り添う声。それを放つ小さな背中。仮初めで十分だった。十分だと思った。でもやがて錯覚に陥った。手の中にあったから、そばにあったから。いつしか受け入れられなくなった。去ることに、なくなることに、それが当たり前でないことに。

 呪って罪を蒔き手に入れた。自分だけが醜かった。自分だけがしがみついていると思い込んだ。こんなに地の底にいるから、手を離されたら二度とあがれないのに、いつでも手を離せるように清らかに笑う姿は互いに恐怖でしかない。その光に焦がれながら同時に自身の闇に慄いて。

 清らかではない。さりとて醜くもない。全て光満ちていなければ、また全て闇に沈んでいるわけでもない。当たり前のただの人間二人。嫌われないかと震えてる。

「言って、ゆうちゃん」

 薄く開いた唇からこぼる言葉もまた震えて。

「私の手を、離さないで」

 震える言葉が終わるのと、すがりつくように固く抱きしめあうのは、ほぼ同時だった。









『君も佐々木って言うんだよね。僕もそう。下の名前は? そう、いい名前だね。ともちゃんって呼んでいい? 同じ苗字だし。……――どうしたの? その呼びかたはいや?』


『三人? 三人もここにともこがいるの。一人はとも君? うん、でもそっかぁー。確かにまぎらわしいね』


『……――じゃあ、ゆうちゃんってどうかな。友の別の呼び方は「ゆう」だし、夕子と似てるけど、俺があいつをゆうこちゃんなんて言うこと絶対ないし。あ、でも夕子我儘だし似てる呼び方嫌だったらやめるけど。うん? いい?』


『うん。これは君だけの呼び名だよ』


 身体の中で不思議な感覚が弾けた。何かが脈打っているような、熱を孕んでいるような。初めての感覚だ。熱がせかすままにうなずくと、相手はパッと笑った。表面いっぱいにその姿が刻まれる。



『ゆうちゃん』










 ゆうちゃん、と声が聞こえた。そちらを見た。こちらを向かない空っぽの横顔。口も喉も動いたようには見えない。でも聞こえた。ゆうちゃんと聞こえた。誰もいない深淵に向かって行ってしまう背中が、一度だけ。

 だらりと身体の横に投げ出された、小さな手に、小さな手が重なる。

 ぎゅっと握りしめる。

 棺を見つめたままの、小さな瞳から涙が溢れ、握り返す。血のつながりもない。未知の力もない。でも彼の声が聞こえた。焦がれ焦がれてそして捨てて完全に忘れ去った。でも聞こえた。確かに聞こえた。






 助けてと聞こえた。






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