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十七章「ゆうちゃん」上

 鈍い音がした後。国枝宗二はしばらく固まっていた。壊れたロボットを思わせる左右非対称な奇妙な表情で、完全に停止していた。

 やがて、ふるりと正座した膝から波のようにひとつの震えが走る。

 ガチッ、ガチ、ガチ、とその奇妙な音が続き、彼が再び動き出したのがわかった。その歯が震えて固く噛みあい、たまにずれてたつ音色だ。次にわずかに出かけた喉仏の辺りが震える。そしてぐぱぁっと口が開かれる。まるで内なる何かにこじあけられたよう、食道のあたりから内部を圧迫する異物がせりあがってきたかのごとき開口だった。う、あ、と言葉ではない。機械的な音を幾度かならして。ならして。そして、ぶるっと喉の震えがなくなって、そしてまるで飛び火したように左拳がぶるっと震えた。まぐれではないというようにぶるるると震えてそれは腕に肘に肩に広がる。

 震える宗二の様子は尋常ではない。食いしばった歯は時たまずれて軋み、瞳は血走り限界まで剥かれている。何かが彼を突き動かしている。それはおそらく意思でそしてたぶん強大でひどい熱をはらんだ塊だ。なのに国枝宗二には声がない。言葉がない。誰よりも大きな声を持つ彼は今や言葉を失っている。はけ口をなくして密閉された中で、それは、限界に近づき限界に到達し限界を超えて。こえた先をさらに越えて。そして。

 キレた。




 真上美奈子は自分の真横を黒い何かが通り過ぎた、と思った。自分の髪をさらって壁に激突する鈍い音。一拍置いてそれが自分の斜め前に座っていたはずの北原透の身体だとわかった。

 呆然と見返ると、くちゃくちゃになった人体がそこにあった。絡まりもつれて輪になったような二人の人間。北原と国枝。

 震えていた国枝宗二が立ち上がり飛びかかった。タックルなどと上等なものではない。暴走する身体を扱いかねてとりあえずぶつかって丸まって転がった。そんな感じだ。

 後ろの襖も巻き込んでもつれあい、彼我もわからない状態で、けれどそこから突き出た細い黒い影がぶんとうなった。腕を振り回しあたったところを手当たりしだいに横殴りする。ひょっとしたらそれは彼ではなく自分のものかもしれない。あるいはそれでかまわないのかもしれない。容赦も手加減もいっさいなく。腕でも足でも額でもかまわずに、滅多打ちにうちつける。

「このやろうっ!!!」

 我に返り動きかけた真上と父親が、喉を裂く叫びに硬直する。

「ごみだと、その程度の存在だと、だから手を離せるだと、だからだと。どの口で言いやがる! てめえがどの口で!」

 くわりと牙を剥いた、宗二の顔は狂った獣のようだ。左手で逃がさぬようつかみあげた襟首。そこにがつがつと打ち込んで。

「ゆうちゃんをとったお前がっ!」

 ほとんど無抵抗、いや無反応に近かった北原の顔がかすかに動いた。すでに熱を孕みはじめている頬がわずかに震える。そこに拳が食い込む。

「俺からゆうちゃんをとりやがって! ずっと俺のゆうちゃんだったのに。俺とゆうちゃんだけだったのに!」

 一方的な殴打に顔色をかえた真上が踏み出しかけ、ふと異変に気づいた。

 北原の白い面が、今では少々崩壊していたが――朱を落とされた白絹のように徐々に徐々に伝播したのだ。まるきり無垢でしみひとつない純白だからこそ、汚染されるのもあっという間であるように。

 汚染者と同じく、彼もまた拳から始まった。床から繰り出された左拳が相手の身体につきあがる。無理な体勢なのでそう威力はない。そのことにいらだったように反対の腕が床を突っぱね半身をおこして今度は幾ばくかの体重を拳にのせた。

「勝手な、ことを!」

 拳が出て、口から飛び出て、そうして最後に照り返しは顔に色をうつした。北原の顔が歪んだのだ。それは長年の怠惰のつけのように初めは柔軟に動かず、固まりかけた紙粘土が圧力をかけて少し潰された、そんな奇妙な表情だったが、まるでこねなおされた粘土のように少しずつ柔らかさを取り戻して表情を作り出す。

「姉のかわりにしてきたくせに!」

 国枝の動きが縫いとめられたように止まった。瞬間、北原の左拳がその頬に食い込んで斜め後ろに殴り倒される。

「透!」

 真上が叫んだ。けれど動きは止まらずに、馬乗りになって沈んだ身体の襟首を掴みあげる。激情と呼んでいい、歪みが白い面にある。

「篠原を、姉のかわりにしてきたくせに!」

「お前になにがわかる!!」

 瞬間、反応がなかった両腕が跳ね上がるよう突き出され、同じように襟首につかみかかる。口元が少し切れて血が飛んだ頬が激怒に歪んだ。

「お前に何がわかる! 父さんが死んで母さんが死んで最後に夕子が死んで。もうわからなかった。どうしていいかわからなかった。生きてるのだってわかんなかった! ゆうちゃんがいなかったら俺はとっくに生きていなかったよ! かわりってなんだ、俺とゆうちゃんが一緒にいたらかわりなのか? 一緒にいたらダメなのか? ゆうちゃんがそれで苦しむのか? じゃあ俺は、俺は、俺は、俺はあのときッ!」

 腕が伸ばされ弾かれた。塊になっていた両者が初めて距離をとり、北原透の正面に国枝宗二が自身の胸元をつかむ。血走った目で睨みつける視線が極端につりあがった目元の線が気づかないくらいに密やかに落ちて。

「俺は俺は俺は俺は――っ!!!!!」

 限界まで高まって暴走してその行き着いた先で。

 うあァ。

 と声は漏れた。

 見開いた瞳からぼろりとこぼれた。数拍おいてしゃくりが漏れ出る。一度だけ留めようとしたのか。うっ、とうなって。吐こうとした言葉が喉元から出てこない。

 苦しげにえづく。それでも言葉は詰まる。

「――俺は、ゆうちゃんを」

 数多の視線の中で固まった顔は、震え、そして。

「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアっ!!」

 絶叫は部屋を揺らさんばかりに轟いた。

 間近で聞けば鼓膜を貫かんばかりの声だが、大きさよりは激しさが、激しさこそが慟哭を示した。畳に爪をたて、身悶えて、こみあげてもこみあげてもせりあがってくるように喉をついて、口から吐き出される。ひあっ、アアッ、アアアアアアッっ! と堰をきったように涙があふれてあとからあとからどっと溢れて増すばかりだ。

「ゆうちゃんゆうちゃんゆうちゃんゆうちゃんゆうちゃんゆうちゃん、ゆうちゃん!」

 溺れるようにもがいてもがいて頭を打ちつけて。奪われて奪われて奪われ続けた絶望の淵で、それでも何かをつかむことを諦めきれぬように。

「ゆうちゃん――ゆうちゃんッ!!!」

 襖が開け放たれた。

 その先に息をきらした友子が立っている。

 宗二を見下ろし顔色をかえ、靴も脱いでいない足が畳を蹴って。

「そうちゃんっ!!」

 友子の後ろから一歩遅れて顔を出した時任たちが、部屋の様子に絶句したようだが、その存在に気づいた者は部屋にほとんどいない。誰もが友子を見つめている。そして友子は駆け寄って宗二だけを見つめている。

 友子の顔を見上げ、涙に濡れた国枝宗二の顔がまた歪んだ。悲鳴を絶叫を轟かせた喉ははくはくと、まるで途端に言葉を失ってしまったようにもがいて。

 小さく身を震わせて、離れていく車。

 差し出されたプリントの先を、見上げていた横顔。

 ああ。



『          』



 新しい涙が溢れる。それにわずかでも潤されたように、しゃがれた喉から掠れた声が漏れる。

「……いかないで」





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