十六章「ガチッ」
本当に言いたい言葉は、いつだって言えたためしがない。
声が大きいと誰にも言われたけれど、口達者なのはいつも奴の方だった。
変な生き物みたいにぴらぴら動く舌にまくしたてられて、うぐ、と詰まっているうちにさらに言葉の洪水がおしよせて、今から口を開いたってどうせ勝てっこないって気にさせられる。だから声が大きいと言われたって、本当に言いたいことはいつだってまともに口に出せたためしはない。
父さんと母さんが亡くなった時のことはあまり覚えていない。全部人伝てに聞いたせいかもしれない。だから、幼い頃の思い出で、なにより鮮烈だったのは、去っていく車だった。
ああ、別れてしまうのだ。ああ、行ってしまうのだ。
エンジンを唸らせる車は、残酷なほどそれを突きつけた。
いつもは威張った同じ色の髪の奴が、虚勢もはらずに泣いていたせいか、余計に。なにものにも紛らわせない現実味があった。
嘘だろう、と思う気持ちは直前まであった。こんなことは想定してない。父さんがいなくなっても母さんがいなくなっても。こんなことは想定していない。
だって奴は、……なのに。半分、俺なのに。宗二の二は二番目の二だって奴は馬鹿にしつづけたけど、違うよ二人の二なんだよ、つけてくれた父さんは笑ってた。お前達は特別よ。生まれたときからひとりじゃないんだから、母さんも繰り返しそう言った。
ああ、なのに。どうなるんだろう。離れてしまったら、いったいどうなってしまうんだろう。
涙で歪む顔の中、のぞく同じ色の瞳に同じ不安が揺れている。
どんなたくさんの言葉より、どんな大きな声より語る。生きていけないかもしれない。離れた途端に破裂して死んでしまうかもしれない。鏡にうつすみたいに思う。現れているのは同じ恐怖だ。
物心ついたときから主導権争いに明け暮れていた。それは、両親や周囲の関心をひくための熾烈な戦いでもあった。一瞬だって気を抜けやしない、常に意識しつづけていたそれだけど。今はどちらも相手の優位に立つことを考えるような余裕はなかった。俺達は蒼白になって震えていた。
奴はそれを隠さずに、俺はそれを覆い隠した。だって俺だけは残るんだ。ここでこの人たちと。なら俺は後のことだって考えて振舞わないといけない。奴はその必要がないから。――ああ。道が分かたれるのだ。本当に。最初に舞い戻ってぞっとした。
悲しみよりひどく利己的な恐怖。それを共有していた。
車が動き出す。振舞う。俺は、平気なふりを振舞う。未来が怖い。
車が離れていく。まとわせていた振舞いが、肩からずりおちていく。
車がもっと離れていく。ずり落ちていくものを抑えている場合じゃなかった。それまでちっともなかったものが、どっと押し寄せた。父さんがいなくなった。母さんがいなくなった。そして。そして。
ああ。
『 』
――篠原。
扉の隙間に手をかけて、聞いた声音でほんとは全部わかっていた。今まで扉が阻んで見えなかった場所から、重ねられたプリントが差し出されている。ゆうちゃんがそちらに顔をあげる。
……――ありがとうございます。
微笑んではいなかった。唇はつりあがっていない。でもとても自然だった。この相手には偽らなくてもいいのだと肩の力を抜いているような。
今度だけだからね!
そう言って駆け寄る俺に、向けられるゆうちゃんの顔はいつもほっとして小さく笑っていたけれど。でも必ずあった遠慮の影が、今のゆうちゃんにはない。
なんで。
胸に隙間風が吹き抜ける。ゆうちゃんのお父さんお母さんにそうなら、俺は無理矢理納得できたかもしれない。でも、そこにいたのは、たかだか知り合って一年か二年にも満たない、それも年もそう変わらない相手。
どうして。
混乱する頭は明白すぎる答えをすぐには見つけられずぐるぐるまわる。俺を取り残して現実は進む。
――次は。
身を引いて遠ざけた。でも続く言葉はわかっていた。さっきはあんなに簡単な答えが見つからなくて混乱していたのに。いや、見つかっていたからこそ、迷走したんだろう。
次は自分に言え、か、次は守る、か。別にどう言ったって構わない。ただ、それにたいしてゆうちゃんがどう答えるのか。それを聞くのが怖かった。
歩き出して、思い出し頬の筋肉をつりあげる。よかったよかった。たくさんの肯定を吐き出して、ゆるゆると瞼を温かく伝うそれを払おうとしてかけだす。
ああ。
『 』
ずいぶん、時間がたった気がしていた。何年も何十年も過ぎてしまったような気がしていた。
昔、ほんの少しだけ住んだ家の畳の間に、北原の話が流れていく。その口調は変わらない。集会や行事で聞いた時と同じように。滔々と、よどみなく。あまりになめらかで、流れさってしまって、なかなか頭に入ってこない。
それでも、たった一つ焼きついた言葉。夕子。俺の双子の姉。ゆうちゃんが、夕子のことを、ずっと?
「篠原を誰より理解しているというポーズをとっていた。だが、そんなものはまやかしだ」
ゆっくり時間をかけてそのことを飲み込んで、くらりと眩暈を覚えた。揺れる頭の中にめぐるのは、記憶。ありったけ探る過去の中で、夕子とゆうちゃんのこと。二人には、接点なんてない。俺は夕子と別れてみどり園に行った。夕子の話をゆうちゃんにしたことはある。逆は――多分、ない。話したのだってほんの短い間だ。夕子が死ぬまでのわずかな時間。たいした話はしていない。
その間もゆうちゃんから夕子の話題を振ることはほとんどなかったし、あの時から俺の周囲で不用意に夕子の名前や話題を出す者はいなかった。それからずっと今まで。
知らず俺は周囲をぼんやり見回していたらしい。驚いた顔をした真上会長、うつむくお母さん、前を向いてただじっと全てを受け止めるよう背筋を伸ばすお父さんが目に入って。
カチッ、
何かの音と共に、不意に今より若いお父さんを思い出した。お母さんも若かった。みどり園に来てくれた二人。一気に記憶が広がる。
――君は立派だ、それでいいんだ。
優しい人たちだと思った。言えないけれど好きだった。なんの取り柄もない、しかももう大きな俺の親になりたいなんて。望んでくれてるのがわかって辛かった。俺はあの人たちに気安く接するべきじゃなかったと思った。期待させて失望させてしまった。胸が痛い。
宗二君、と呼ばれた。園長先生が開いた遊戯室で手招きしている。他の子に聞かせたくない話があるんだな、と思って周囲を見てから入ってすぐに戸をしめた。
「国枝さんたちは、とても、いい方よ。それにあなたを、もう、愛し始めていると思うの。まだ、心の整理がつかないと思うけれど。すぐに断るんじゃなくて、考えてみてもいいと思うの」
なんの話をしているのかわかって愕然とする俺の前で
「いきなりじゃなくて、初めは一週間とか二週間、おうちにお泊りするだけでもいいのだし」
「いやです」
それを聞いて園長先生が悲しい顔をしたから胸が痛んだ。でも首を横に振る。辛いから目を閉じて首を横に振る。微笑んでくれた人の顔が浮かんできて、振り払おうと勢いをつける。優しい人たち。わかっているから、もう言わないで。
「考えてみるだけでいいの。もう少し国枝さんたちともお話したり会ったりして」
いやだ。
「あなたは自分がもう大きいって言うけれど、そうじゃないわ。あなたはまだこれからの子よ。過去よりずっと未来の方が大きくて長いの。あなたの人生はこれからなのよ」
いやだ。
少し間をおいて園長先生は、潜めた口調で
「友子ちゃんのことは、寂しいと思うけれど、会おうと思えばいつでも会え」
「いやだっ!!」
目を見開いて叫んでいた。宗二君、と戸惑ったように呼ばれる。
「友子ちゃんもあなたも大丈夫よ。離れていても、大丈夫」「そんなことないっ!!」
先生のエプロンの前裾をつかんで引っ張って俺は半狂乱で叫ぶ。離れたらダメだ。離れたらおしまいだ。だって。
「だって、夕子は死んだじゃないかっ!!」
あとで、園に来ていたゆうちゃんのお母さんが、たまたま通りかかってこのときのやりとりを耳にしたのだと聞いた。職員さんから事情を聞いたわ、あなたと友子を一緒にさせられないと思ったと、冷たい目冷たい声。
ああ。
くらり、と眩暈と共に記憶の底から今に返る。
そういうことか。そういうことなのか。
ぶわっと知らず全身から汗が溢れていた。正座で折り曲げた膝が震える。ゆうちゃんのお母さんが向けてくる嫌悪の顔。そのまなざしから隠れて手を繋いだ。でも、繋いだ先のゆうちゃんの目は何を語っていたんだろう。
「現に君は篠原がもっとも苦しんでいることに気づかなかった」
正座も維持できそうにないくらい震えだす。寒い。怖い。歯がカチカチ言う。
さっきまで浸ってた自分を打つなんて比じゃない。もういい。もういいから。一息に殺してほしい。そうしないと持たない。
滝のような汗を流して痙攣する俺を前に、だけど北原は北原だ。俺が初めに望んだように刃を突き立てる。そんな奴から目がそらせない。
「結局君は、篠原などどうでもいいと思っている」
カチカチカチ、歯が鳴る。
「それが君だ。国枝宗二の本質だ。大切にしてと言いながら、君にとって、篠原はその程度の存在だ。姉の変わり身にすぎない」
ソノテイドノソンザイ。かちかち。ソノ程度のソンザイ。カチカチカチ。その程度のソンザイ。その程度の存在。
「だからすぐに手を、離せる。平気でごみのように捨てられる」
耳のすぐそばで、ガチッと音がした。




