十五章 「The End」上
小さな棺に敷き詰められた白い花の中、沈んでいくように寝かされたその子は小さく花より白く見えた。薄く化粧をほどこされた頬には青さや腐臭の影は見えない。でも眠っていずに死んでいた。
顔の横にふさふさと波打つ髪は、明るい色をしている。閉じているので、瞳の色は見えない。勝気だ我儘だと聞かされた面影はその顔からは伺えない。死んだ小さな女の子。温もりは失せ、生命の焔は消えて、ただの残骸。それだけだ。
同じ色の髪が棺の前でかすかに揺れる。なんとか座って背を保たせているけれど、一押しすれば崩れてしまいそうな、呆然とした様子で。
そこにあったのは抜け殻だった。小さな男の子の抜け殻だ。
周囲も彼にかける言葉はない。家族として迎えたばかりだった彼女の新しい父母が、無言で頭を下げたときも、男の子の様子に変化はない。
小さな頭、小さな手、小さな小さな心から、たった五つかそこらで奪われて奪われて尽きてしまった。その場の誰も彼には勝てなかった。喪失の大きさにおいて誰も。誰も彼には近づけなかった。誰も彼には触れられなかった。それほど深い暗いものを背負っていた。
境遇を考えれば立派な振る舞いをする子だった。荒れることも腐ることもなかった。はやく大人になりすぎたきらいはあっても、いい子だ、と誰もが評した。決してそれは嘘ではなかった。健気にがんばる子だった。でも張り詰めた気持ちを、糸を、彼は限界までがんばってがんばって。――そして。
「ゆうこ」
空っぽな彼は呟いた。たったひとつの残滓のように。
流す涙も残らないように。
ゆうこ。
口頭で告げられた故に余計に、その名の響きは合致と違和感を告げた。宗二が飽きることなく口にし続ける言葉。ゆうちゃんゆうちゃんゆうちゃん。だが、彼女の本来の名は友子だ。今までは愛称と気にもとめなかった響きが、今は空恐ろしい。
走る車中で友子は前を見つめている。いや、おそらくどこも見ていない。
「国枝、に、きょうだい、がいて、その子が」
半ば呆然と紡いでいた時任が、ぐっと喉が塞がれたようにうなる。続けようとした言葉は、恐ろしすぎて口に出せない。
「宗ちゃんの双子のお姉さんです」
「そ、その子は、なんで」
言葉は途中で詰まったが、友子は問いかけの全貌をすぐ悟ったようだ。彼女の中で黒い何かが増幅して広がって全てを圧倒したことがあった。今それととても近い。だが、その色は憤怒や憎悪よりももっと疲れて寂れてそして暗く深い。
「交通事故です。園内に知らせが来ました」
「……」
「私が夕子さんの顔を見たのは、そのお葬式の時です。その前は、……声だけ、聞いたことがあります。そうちゃんがみどり園に来たときに」
夕焼け時の園内の端で、何か話し声が聞こえた。運動場の真ん中で遊ぶ子どもたちから外れて、隅でうずくまっていた友子が顔をあげて見回すと、門の前に車がとまって数人の大人たちが何か話しているのが目に入った。
「もう泣かないの」
大人たちはそう誰かをあやしている。
「ね。ほら、いつでも来れるから。場所もわかったでしょう。安心して」
近づくと、涙混じりの女の子の声がする。斜め門の隙間から見慣れた施設の職員と、その隣に立つ、明るい髪をした男の子が見えた。
「なくなよ。ほら、ちゃんと行けよ。なくなって。いつも姉なのよっていばってるくせに」
明るい髪の男の子はそう言って、この状況にちょっと居心地が悪そうだ。彼は感情のコントロールができている。自分と同い年くらいだが、大人びた子だ、と思う。
「れんらくするから」
車に向かって手をふる。ぐずっと車から鼻をすする音がする。ほら、と男の子は大人のように促す。エンジンの音。そしてゆっくりと動き出す。明るい髪の男の子の足が少し動いた。
「だいじょうぶだから。がんばれ、がんばれよ」
それまでどちらかと言えば疎ましそうにしていた男の子の顔に変化が現れる。顔は車に縫い付けられたまま、足が動き出す。初めはゆっくりと、けれど駆け足にそして無我夢中の疾走に。
「がんばれよ――がんばれ」
距離が開くごとに、身がちぎられていくよう顔が歪む。必死に追った身体は門を曲がる車の前で、ついに立ち止まった。「ゆうこ――ゆうこ!」膝に手をつき身体がくの字に折れ夕日に長く伸びた己が影に汗か涙かわからないものが滴る。そのまま力尽き沈み込むかと思えた顔がばっとあげられた。
「がんばれええええええええええええええええええええええええええええっ!」
小さな身体からほとばしった、凄まじい声だった。慌てて彼を追いかけた職員も驚いて立ち止まったほどだ。あたりの空気を裂いて空にたちのぼって広がっていく。
「……」
自分が職員と同じく立ち尽くしていると気づいたのは、足音が近づいてきたからだ。先ほど、この門の場所で大人のようにふるまった彼はいない。自分の顔にあふれこぼれだす悲しみを拳で必死にぬぐい続けて。
またすぐに会えるからね、との職員の言葉に、彼はうなずいた。泣きじゃくっていてさえ、その言葉にすがるというより、職員の思いやりに応えているように。
「あら、友子ちゃん」不意に職員に話しかけられ、びくりと肩を揺らす。
困った顔をされるかと思ったが、悲しみから気をそらさせるにはちょうどいいと思ったのか職員は泣く子の肩を叩き
「ほら、宗二君。同じ園内の子で、佐々木友子ちゃん」
「……ささき?」
同じ名前なのよ、と付け足されて、拳で顔をぬぐっていた男の子がこっちを見た。初めて、目があった。目の色も少し明るい。悲しみの涙に濡れても光を忘れないような瞳だ。
不意に、園庭からかなきり声が聞こえた。砂場の方で二人の男の子が取っ組み合いになっている。あら、と焦ったように職員が呟いて交互に彼を見やる。
「おれ、だいじょうぶ、です」
「あら、でも」
「さっきのへやにもどればいいんですよね。あんないしてもらいますから」
一瞬困ったように二人を見比べたが、じゃあお願いね、と慌てて走っていく。
残されたのはいかにも小さな自分達で。友子はちらりと見た。気丈さをとりつくろわなければならなかった大人がいなくなったことで、彼の中に悲しみはまた戻ってきたらしい。
花壇の縁に崩れるようにしゃがみこみ泣き出す彼に、戸惑いの末に横に腰掛けた。彼は決して大声では泣かなかった。あんなに大きな声を持っているのに、と考えたが、きっと特別なときの声なんだろう、と考え、それは自分の中でひどく納得できる答えだった。
大気を切り裂いて、遥か空まで届いてしまいそうな、芯の通った音色。肉を貫き骨を越して心臓を叩き人を揺さぶらずにはいられない。この世でたった一人にだけ向けられる特別な声。
「……」
そっと、ほんのわずかに距離を詰めた。座って泣き続ける彼へと。
それ以上、何かをするつもりはなかったけれど。
不意に傍らに置いていた右手に何かが触れた。濡れて温かいもの。見ると掌だ。泣きつづける彼の手が無意識に横に落ちて触れたものにすがりついたのだろう。ぎゅうと。こめられた強さと熱が伝わってくる。熱くて濡れた掌から脈打つものが伝わってくる。
どくん、と。
心臓がひとつはっきりと鳴った。
「園に来たことを、そうちゃんが泣いたのはその時ぐらいで。明るくて気さくで、すぐ馴染んで。いてもいなくても変わらないとか、つまらないとかしか言われない私とは、別世界にいるみたいな子でした」
卑屈さをこめるわけでもなく、それがただ事実でしかないように淡々と告げて、少しだけ友子が目を伏せた。
「でも、そうちゃんはそんな私に、優しくて。誰といてもそばにいてくれて。どんな仕事をしてても手伝ってくれて。私、そうちゃんが来る前の園の生活が辛かったわけじゃありません。何も感じなかったんです。仕事をたくさん任されても気になりません、遊び時間にしたいことがあるわけじゃないし。でも、そうちゃんは怒りました。こんなことダメだよって初めて怒られた時は私、そうちゃんに嫌われるんじゃないかって震え上がってしまって。でも、そうちゃんが怒っていても手伝ってくれるのに、誰かといても私のところに来てくれるたびに、そうちゃんは私を決して見捨てないってことが噛み締められて。それが味わいたくて、私、わざと仕事を受け持つようにしたんだと思います」
そこで友子は言葉を止めた。思い出の中でかすかにほどけた表情がすっと能面になる。
「初めから、そうなんです」
「……?」
「私はそうちゃんを縛るためなら、そうちゃんを怒らせたり不快にさせる方法を平気で選び取る」
「……」
「それで嫌われたくないから、そんな素振りは見せないんです。私はそうちゃんが考えているような子じゃありません。誰かを思いやるような子じゃないです。少しでも思いやりがあったら、まず一秒だって自分をそうちゃんのそばに置いておかなかった。私はそうちゃんの幸せとかそうちゃんの安らぎとか、そういうことをまったく思いやれない人間なんです」
そこまで呟いて友子は疲れたように車の背もたれに背を預けて目を閉じた。
「……北原会長は、私と自分が同じだって言ったけれど、あの人には思いやりがある。あの人は何にも執着できないだけで、私とは違います」
ここに来て初めて彼女の口から漏れたその存在だが、今となっては気になる点がありすぎて注意はほとんど惹かれなかった。
「で、でも国枝先輩サイドからして見たら、姉弟と別れて寂しいところに篠原先輩がいて……その。さ、さびしさは満たされたというか、……満たされていいのかわからないけれど」
もごもごと最後は曖昧になった半田の言葉に、友子は目を開けた。少しだけ寂しそうな目で「北原会長にも、その誤解がどうしても解けなかった」とぽつんと口にした。
「そうちゃんが代わりにしたんじゃないんです。私が代わりになったんです。私、わかっていたと思います。そうちゃんは寂しいんだって。ぽっかり喪失を抱えていたって。今ならそこに入れるって。あの当時はそこまで理路整然に考えられなくても、本能的に嗅ぎつけた」
「よくわかんない」
突然佐倉が口を開いた。友子を見やって首をひねる。
「しのちゃんの言いたいことがよくわかんない」
友子が穏やかな視線を返した。
「私が最低ってことです」
「篠原さん」時任が背筋を伸ばし口を挟んだ。「誰かの代わりになろうとすることは、正しいか正しくないかはわからないけれど、悪とは言い切れないと思う」
「そ、そうですよ。ちょっと俗なたとえですけど、元カノと同じメイクして同じ洋服着てアピってそれが上手く行っても、絶賛されるわけじゃないですけど、最低とか言われることでもないってことで。ましてや相手と別れて寂しいときは狙い目って雑誌にも繰り返し書かれてることですし」
ゆっくりと三人を見回して友子はひとつ息をついた。深い悲しげなため息だった。
「みなさんは一生懸命、私を善人でなくても普通の人にしようとしてくれているのに」
ごめんなさい、虚空を眺めながら繰り返す。
「私にはそんな価値はないんです。私はエゴの塊です。私はそうちゃんの幸せも顧みない。こんな私が、そうちゃんにとっての唯一の夕子ちゃんの存在を許せると思いますか?」
「……」
「――死んで」
びくっと肩が震えた。
「死んで死んで死んで死んで夕子ちゃん」
静まり返る車内に、あはは、と哂う。声だけが笑って顔はうつろに。
「自分の底なしさに初めて愕然としました。見たこともない相手を、ここまで思えるんだって思いました。人間って凄いって。一途に願いました。星に願いました。お葬式でそうちゃんは棺の前でひとりで座ってた。泣きもしないで、空っぽで座ってました」
顔に掌を降らせて。自身全てを消したいとばかりに覆い尽くして。
「私は、許されない」




