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十四章「××」

 お父さんとお母さんの家の、畳部屋に置かれたちゃぶ台をよけて、座布団がしいてある。向かい合うようにしかれた二つの座布団のうち、ひとつに北原が座っている。もうひとつに俺が座る。

 北原のすぐ斜め後ろにお母さんに手渡してもらった座布団をひいて、真上会長も座っている。携帯に連絡があってそれをとったお父さんが少し出てくると言った。車を出す音がした。お母さんと待っていた。戻ってきたときに、複数の足音がして振り向いたら、北原と真上がいた。

 ――意味がわからない。

 思い返してもまったく、全然。どうしようもなくなってお父さんをかえりみた俺は、途方にくれた顔をしていたろう。お父さんは小さくうなずいて

「来ていただいた。北原君と真上さんだ」

 そんなことは知ってるよお父さん! 喉元までせりあがるそれをぐっとのんで。

「あの……。どうしてお父さんが北原……先輩を連れてきたの?」

「お前に必要だからと思ったんだよ」

 俺はますます途方に暮れた顔をしていたと思う。そんな俺にかまわずに「茶でも入れてこよう」とお父さんが腰をあげた。お母さんがやっているはずなのに。

 引き止められず、本格的に残された。向かい合って黙りこくる。真上はまだ表情がある。彼女もこの展開にやや戸惑っている様子がわかる。でも、俺の真正面の北原は。

「……」

 北原はしゃべらない。口だけではなく、その表情も何も。しゃべらないのが北原だからこれがデフォルトで。俺はしばらく眺めて仕方なく

「あ、の、会長」

 呼びかけても北原はほとんど反応しなかった。それに向かってもつれる舌をなんとか動かす。何を話しかければいいのか。頭は全然動かなかったのに、不意につるんと喉から言葉が漏れた。

「――ゆうちゃんとは、どんな関係だったんですか」

 北原の目の焦点が俺に向く。

「彼女の目的のために手を結んでいた」

 目的。手を結んでいた。無機質な言葉をなんとか脳内で再生して意味を探して。

「会長、は、ゆうちゃんの、敵、じゃなかったんですか」

 北原はうなずいた。

 俺はそれを眺めていた。じっと眺めていた。そうか、そう思った。

 生徒会室でかがんで白いプリントを拾っていた。誰かにぶちまけられた、嫌になるようなプリントの海を、黙々と。あれは嘘じゃなかった。俺が見たものは嘘じゃなかった。あのときの、俺の判断は間違っていなかった。そう、なのか。

「――……すみません、でした」

 北原の肩がぴくと動いた。それから少しだけ顔が歪む。どうしてこいつは顔より先に身体に感情が出るんだろう。

「わからない」

 声は平坦。

「何に対する謝罪だ?」

「……ゆうちゃんに、協力していた、って聞いて。少なくとも俺が考えていたような関係じゃなかったって」

 息がしにくいなあ、と思った。何かが詰まって喉が塞がれているみたいだ。

 北原は黙っている。これはいいことなのだろうかと考えた。北原はゆうちゃんを迫害してなかった。ゆうちゃんは北原に傷つけられていなかった。誰よりも、何よりも、こいつこそが許せなかった。でも、こうしてわかった今、いいことだったのだろうか。ハッピーエンドがここにあるのか。喉から息を押し出す。強いて意識しなければ、必要なだけの酸素を身体が取り入れない。

 俺は北原を見る。表情乏しいけれど、端正な顔立ちで体型も俺よりずっと恵まれていて頭もいい。いや、なんでもいい。見た目なんて。スペックなんて。

「会長、これだけは答えて欲しいんですけど」

「……」

「ゆうちゃんのこと、好きですか?」

 北原は動かない。そこでとまるなよ即答しろよ、と思ったけど。この相手は仕方ないのかもしれない。学校一目立つ相手なのに、コミュニケーション能力皆無とは恐れ入る。いや、俺はそれを笑えないか。

 そう考える間に北原はぎこちなく首をふった。少し曖昧だけれど、確かに上下に。

 息が、しづらい。

 でも、息なんかしなくても、いい。

 俺の手が床についた。

 崩れる壁の、つっかいぼうみたいだ。なんでもいい。ポーズとしては間違っていないはずだ。声がこもる。息ができないせいだ。絶対に許せないと思った相手。殺してやりたいと思った相手。肘の力を抜き、なるだけ縮こまらせて、身をかがめていく。誰かが息を呑む音がする。国枝くん、と高い声。額に畳をとんとつけた。

 なんでもいい。見た目なんて。スペックなんて。

「――……大切にしてください」

 誰より君を、大切にしてくれればいい。




「私は、いじめられてなんかいなかった」

 革張りのシートの上、身をかがめた友子が呟く。

「先輩達は私を、いじめていた「つもり」だったんだと思います。でも、そうじゃないんです。あるとき、北原会長が私に言いました。私を傷つけることは誰にも出来ないだろう、って。――そのとおりです」

 友子の背がすっと伸びた。呆然と前を見詰める。

「私は、何をされたって、傷つかないんです」

 聞く奇変隊の面子は何か言いたげだが、さえぎろうとはせずに、憑かれたように吐き出し続ける友子を見守る。

「そうちゃんは、私を何も欲しがらない、欲がないって言うけれど、違います。私は、ひとつだけが欲しいんです。全部をあわせたより、ひとつだけが深く欲しいんです。それさえあれば何もいらない。それさえあれば、何があっても傷つかない、それさえあればどんな目にあっても平気」

「……」

「そうちゃんが離れていって、私、傷ついたふりをしました。平気じゃないふりをしました。限界のふりをしました。壊れたふりをしました。そうちゃんは、ふりむいて戻って来てくれた。またそばにいてくれるようになった。私は傷ついたふりをすることで、壊れたふりを見せることで、そうちゃんを縛ったんです。故意に傷つけたんです。離れていったせいだって、また離れていったら私はこうなるって、そうちゃんを脅しつけた。どれだけそうちゃんが悲しんで苦しんで自分を責めてたかわかってたのに。――私はずっと自分のエゴでそうちゃんを苦しめ続けてきた」

 声は小さいが喉を裂くようで、血と共に吐き出される呻きのようだ。膝に顔を伏せた友子に、時任、半田、佐倉が思わず身を乗り出す。何かを言いかけて口を開いた。だが言葉は出ない。

「それでも」

 暗い暗い瞳が両手の向こうからのぞく。深淵に落ちて果ての果てにたどりついた泥沼でそれでも捨てられないと血の涙を滴らせる亡者のように。

「そうちゃんがほしい」

「そうちゃんしかほしくない」

「そうちゃんさえいればいい」

 走行を続ける車内に、満ちたのは沈黙だ。あるいは誰も言葉を出せない、という金縛り。確かにそこにいたのは、彼らの知っている篠原友子ではない。誰といても一歩下がって控えめに微笑んでいた篠原友子。その向こうで昏く深い執着を抱えていた。今初めて、その生身の声を、肉声を、耳にした。

「で、でも」

「私を、許さないでください」

 心底からひどく戸惑い、躊躇い、それでもと恐る恐るかけられた声に、即座に返されたのは叩き落すような返事だった。「みなさんはそうちゃんが苦しんでいたのをご存知でしょう」

「……」

「苦しめたのは私です。篠原友子です。私はそうちゃんを苦しめた篠原友子を許せない。許されることも許せない」

 それは潔癖な拒否だった。一部の譲歩の隙もない。顔を肩を強張らせ、決して許しを受け入れまいと断固とした意思が立ち上る。その気迫に、声をかけかけた半田がぐっと詰まり、時任も言葉が出ない。

 そんな中、ふむ、と呟きが漏れた。佐倉だった。なにを思ったのか唐突に両手を突き出して友子の頬をがちりと抱えて引き寄せた。

 露になった顔にはかつての友子には決して見られなかった、誰彼かまわず噛み付いてやるとばかりのぎらぎら溢れる闘争心がある。それとつき合わせて、ふむ、と佐倉はまた呟いた。

「許せないかはわかんない。半分だから」

「――?」

 友子が眉を寄せる。

「ここにいるのは半分しかない。篠ちゃんの半分は国ちゃんで出来てるから」

 その言葉に怪訝そうにしていた友子は、ぐっと力を入れて自分から佐倉に顔を寄せた。睨みあっている、という表現が一番近い女子二人に、半田や時任は口を挟めず友子の変貌にたじたじとなっている。

 佐倉だけがどっしり落ちついて見据えている。これまでグループ内で唯一の同性と言っても、ひどく対極な様相しか示してこなかった二人が、初めて男には入れぬ同性のみがかもし出す緊張をたぎらせた。

「半分、半分? そうちゃんは、私の全てです」

「国ちゃんが好き?」

「好き? 好き? そんな言葉じゃないんです。そうちゃんの声が聞こえないなら、耳はいりません。そうちゃんが見れないなら、目はいりません。そうちゃんと話せないなら、言葉も。そうちゃんがいないなら、世界は滅んでいいです。なんの意味もないから。そうちゃんが、そうちゃんは、そうちゃんを、そうちゃんと、そうちゃんに、そうちゃん、そうちゃん、そうちゃん――」

 矢継ぎ早な言葉は途中でつまづき支離滅裂になって、最後はたった一つの言葉になった。それを激しく繰り返しそのたびに自分を追い詰めて、ぶるぶる震える両手は佐倉の襟首を締め上げて迫る。ぎりぎりに見開かれた瞳がさらに加速してわなないて光が散って。

「――――――!」

 突然胸が裂けたように絶叫とも悲鳴ともつかぬほとばしりと共に友子が崩れ落ちる。決壊したそれを受け止められるのも佐倉だけだった。硬直したままの半田と時任の前で、真正面から抱きとめた。その胸であがる嗚咽は発作のようだ。本当に苦しそうに咽び泣きながらそれでも名を呼び続ける。壊れて壊されてそれでも最後に残るのは、それ一つだとばかりに。

 聞くものの胸をその響きは刺す。ぐさりぐさりと鋭利なナイフが根元まで差し込まれるよう痛みは鮮明で深くしみこむ。

 ハンドルが切られて、車が道の横につけられた。慣性の法則が車中の身体を揺らす。

 急いで振り向いた金本は、そこで目にしたものに小さく息を呑んだ。エンジンの音も消えた車内。車としては広くとも、悲しみを拡散するにはこの空間は狭すぎて、密閉されて逃げ場がない。反響は永遠のように苦しくて。

 それでも。嗚咽は静かになった。暴れてももがいても決して離さなかった佐倉の腕の中で、顔があげられる。苦痛にもがいた拍子にか、眼鏡は外れていた。髪は涙で顔中にへばりついて、泣きはらして赤いのに、昏くよどんでたった一つを求める妄執の眼が前方へと飛ぶ。

「――……そうちゃんの、ところへ」

「――」

 その響きは、美しく澄んだ水に、ぽつんと落とされた墨のようだ。たった一滴でも全てを変えてしまう圧倒的な黒。透明さはあっという間に濁る。

 車内に言葉はない。ここにいたるまで、彼らはずっと信じていられた。国枝と友子二人を引き合わせることが最善だと。

 けれど、今は無理だ。暗い水底に沈んだ子どもたちだ。日がさす明るい岸で遊んでいた自分たちが、その心など推し量れるものでは到底ない。

 沈黙を、そして動かぬ車を、友子はどう受け取ったのか。見上げた瞳に絶望と哀願がよぎる。

「そうちゃんの、ところへ」

「……っ」

 けれど、誰が無視できるだろう。震えすがるその響きを。聞かなかったふりができるだろう。光の中で遊んでいたならなおさら。

 金本が他のメンバーへと目を走らせた。うなだれそれでも止められない彼らに、エンジンが再び鳴り、車が動き出す。友子がかすかに息をつく音がした。でもそれはここに漂う悲痛さを少しでも和らげる音色ではなかった。

 車が再びスピードに乗る。長い覚悟の沈黙を経て。

「――先輩。確かに、国枝先輩が苦しんでいたのは事実です」

 半田、と時任が止めるように言ったが、半田は身を乗り出して。

「だから、許す許さないは保留にします。でも、どうして篠原先輩が苦しむんですか」

 半田、と先ほどより少しの苛立ちをこめて時任が言った。なぜ苦しむかなどわかりきっている。エゴだエゴだと言いながら、それでも友子は鬼になりきれぬからだ。宗二の苦しみを、目的のためとわりきれず受け止めて自責に潰されそうなのだ。

 だが半田は言いすがった。

「そうじゃないんです。僕が言ってるのは前提のことです。そもそもの大大前提のことです。どうして篠原先輩が、国枝先輩を手に入れようなんてわざわざ思うんですか。れっきとした血のつながりもあるし、国枝先輩を見ていたらどんな馬鹿でも一秒でわかります。欲しいなんて、言う必要もないでしょう。初めから終わりまでずっと、国枝先輩は篠原先輩のものじゃないですか」

 必死な言葉に、時任が不意をつかれたように顎をひいた。佐倉もふむとまた呟く。ゆうちゃんゆうちゃん、といつも彼女を呼ぶ声。いつも彼女を探す目。いつも彼女のことを考える頭。何度も呆れたポーズで指摘した。まだ気恥ずかしさが先行する年頃なのに、宗二にはまるでてらいがなかった。思いやりを差し向けることに手を差し出すことに。

 いくらかの誤解があったとしても、あれ以上に開けっぴろげでわかりやすい好意を示すことなどできるだろうか。それを前にして、繋ぎ止めねばとここまで追い詰められる理由があるだろうか。

 三者の視線が集まる中で、友子の顔がゆっくりとあがった。



 絶えずピアノの音色が響いても、階段をのぼってくる足音は二階の住人にいやおうなく察知された。

「――どうする? 立てこもるか」

「立てこもりねえ」

 安田講堂は知ってるか? と緊張感の中にもふてぶてしさを漂わせる磯部と、まったく事態を気に留めていないよう弾きつづける京免。その間で、ひとりで三人分の狼狽を引き受けたように首を回したり腰を浮かせたりしていた結城が、足音がいよいよ間近に迫って飛び上がったとき。

「三人とも、俺だ」

「竹下先生!」

 軽いノックの音と共に、下でひとり奮闘しているはずの竹下がドアを開いて顔を出した。

「少し、話が変わった。降りてきてくれないか」

 戸惑いと真剣さを半々に混ぜたような竹下に、多くは聞けずにとりあえず腰をあげた。「話がよくわからねえから、お前らは俺の言ったことに同意するだけにしとけ」と磯部が釘をさし、一階に降りていくとダイニングテーブルに腰掛けた相手はこちらを立って迎えた。

「まだこんなに来てくださっていたのですか」

 かすかに驚きをのせるのは、竹下より一回り年配のスーツ姿の男性だ。誰だこれは、と警戒する三人に向かい

「篠原さんのお父さんだ」

「いつも娘がお世話になっています」

「いえ…」

 ひとり慌てる結城と後ろから興味津々の顔をのぞかせる京免の前面、磯部は短く応えて

「こちらこそ、友子さんにはいつも世話になっています。俺は彼女の一つ上ですが、教えられることが多いです。――なあ」

「は、はい! 本当にお世話になっています」

「やぶさかではない」

 磯部は素早く目だけで場を見回した。

「お母さんは?」

「家内は少し疲れたようで、奥で休ませました。色々と気を使わせてしまったようで、申し訳ない」

 一瞬、苦味がよぎった顔はけれどすぐにポーカーフェイスへと戻って「お座りください」と進めた。とりあえず従って椅子を引く。

「先の三人とは玄関先で会いました」

「――」

「危ない真似までさせてしまったのは、家内のことが頭にあったからでしょう」

 竹下と磯部が横目で視線を合わせる。物言わぬ意思の疎通で、磯部が強く制止を示した。誘導の可能性をより危惧して。結局、否定とも肯定とも後からどうにでもなるように沈黙で受ける。幸い結城と京免も階段での忠告を守っている。

「家庭のことで、たくさんの人を、巻き込んでしまった」

 そう呟く彼はあまり表情は動かないが、それでも自身のふがいなさを悔いているようには見える。

「先ほど、友子とも話しました。家内のことを全て肯定はできないと。それが結局、友子を苦しめてしまったのですから。結果としてあの子には多くのことを我慢させてしまった。その余波をあなた達にも被らせてしまった。本当に申し訳ない」

「……」

「家内のサポートも娘のサポートもできず、二人を支えることができなかった。先方の家族にも非礼を重ねてしまっている。それが子どもたちを傷つけている。私は言い訳がききません。ただ……」

 ここでやや彼は言葉を躊躇わせた。

「あなた達には思うこともあるでしょうが、家内のことは責めないで欲しいのです。……あれも苦しんでいるのです。年端もいかない子どもを責めたのは、言い訳がきかないこととは思いますが。どうしても、先の子のことで自責の念が強すぎた」

「先の子のこと?」

「先ほど友子にも初めて話しましたが、私どもは胎児のまま亡くした子がひとりいました。それと友子とを重ねることを、家内は神経質な程、過敏になっていました。必要もない罪悪感にかられていた。友子を傷つけることを恐れすぎて。……それが、国枝君を攻撃することに向かってしまったんです」

 ほとんど口を挟まずに聞いていた磯部がここで眉を寄せた。竹下も何かがひっかかるようだ。

「すみません。ちょっといいですか。お母さんの辛さは私どもでは想像もできない辛さなのでしょう。……ただ、その、友子さんを守ることが国枝を攻撃、ですか」

「八つ当たりじゃないか。国枝が気の毒だ」

 京免が言った。結城も一瞬ぎょっとしたが、国枝の弁護の気持ちもあるようで、結局とがめなかった。

 確かに母親が友子を思うあまりに、失った我が子と同一視することを過剰に恐れるのはわからないでもない。だが、それと国枝を結びつける要素はまったく見えない。

 怪訝さと混じるかすかな非難を受けとり、けれど組んだ腕に顔をのせ父親は揺るがなかった。

「言動に移してしまうのは、止めるべきではあったと思います。冷静な大人がやることではない。ただ心情的には私も家内と同じです。せめて離れて暮らしていたなら……と思いますが。彼の方にもたくさんの鑑み同情すべき事情はあるので」

 父親は強く言い切った。

「けれど彼が執拗に友子にこだわる動機は、私も友子の親として認めがたいものです」





 いやに重い頭を抱えながら、敗北ってこういう気持ちなんだなとぼんやり思う。

 負けた。国枝宗二は負けた。

 でも、ゆうちゃんのために負けるなら、いくらでもいい。

 額をつけているのか、それとも畳に打ちつけているのか、よくわからないまま、首を上下させる。

 小さな息の音がした。かすかな苛立ちのような。北原が何か言い出すんだろうな、と思ったけど、重くて頭があげられない。地に這い蹲るってこういうことか。負けるって身体が重くなるんだな。

「――お前のそういう所が、友子さんには辛くてたまらなかったと思うよ。宗二」

 いくらかおいてゆるゆる顔をあげた俺の視界に、襖戸の前に立つお父さんがうつる。いつの間に戻ってきたのか、かすかに苦く、悲しそうな顔。俺はなにか失望させてしまったかな。世界で一番迷惑をかけたり失望させたくない人達なのに。負けたからかな。俺だからかな。凄く凄く辛いはずなのに。でも、全部が鈍いんだ。

「友子さんは今、どうして苦しんでいるんだ」

「俺がもっともっとゆうちゃんのことを考えてあげなきゃいけなかった。考えが足りなくて、北原……先輩のことも敵だって決めたしそうした。俺がもっと、もっと」

 もっともっともっともっともっと。ゆうちゃんのことを見ていればよかった。ゆうちゃんのことを考え続けていればよかった。自分の痛みなんて気にしなきゃよかった。もっともっともっともっとその言葉がやがてなぜなぜなぜなぜにかわっていく。なぜそれができなかったんだ、なぜお前はそんなに無能なんだ、なぜゆうちゃんを苦しめる結果に終わったんだ、なぜなぜなぜなぜ渦巻く胸の中で、ゆっくりとそれは尖って鋭い刃の形になる。

「そうだ」

 膨れ上がる自分の中の暗いものを見つめていた。だから初めは気づかなかった。

「そのとおりだ。何も見ていない。何一つも見ていない」

 俺は顔をあげた。知らずにうっすらと笑っていたかもしれない。無様な期待を込めて。自分で刃を作り出さなくてもこれが俺を刺してくれそうだ、と。

 なぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜなぜ、内側から打っている滝のような衝撃にぼやけて。北原の顔はまだ変わっていない。だけれどちり、と瞳の中に昔どこかで見た光がゆらめいた。

「大切なんて、口にするな。他のものと重ねて。君にとって大切なものは別にある」

 滝越しに響くように言葉は鈍かったはずなのに。厚い瀑布の壁をこえて、妙にその言葉は綺麗な形のままここに届いていた。ただ意味はまるで飲み込めなかった。

「……なんの、」

 話ですか。と声が掠れる。

「何度も聞いた。何度でも聞いた。篠原に。君には大切な相手がいる。唯一の大切な相手がいる」

 ゆうちゃん。

「その相手にはもう何もしてあげられない。だから自分にする。それだけだと」

 俺は飽和していた。誰に言われてもお前は何を言っているんだと跳ね除けられた。誰に言われても跳ね除けられた。たった一人をのぞいて。

「……ゆうちゃん、が、それを?」

 北原がうなずいた。

 北原が、うなずいた。

 俺はその意味を飲み込めなかった。気づくと世界が揺れている。がくがくと。気づいた揺れているのは世界じゃなくて。震えを確かめるみたいに腕をつかむ。がくがくと揺れている。その振動にこぼれるみたいに、喉がひくりと痙攣して。そして。その名をこぼす。





 半田の言葉を聞いたあと、篠原友子はまるで人が変わったようになった。いや、あるいは戻ったのだ。彼らが篠原友子だと思っていた存在に。

 佐倉の腕から顔をあげて、眼鏡こそ改めてかけなおさなかったが、篠原友子は座りなおした。そこには先ほどの激情も暗さも影をひそめて。控えめにそこに在る篠原友子として座っている。ただ漏れた声は機械的だった。

「私が生徒会に入って、しばらくしてそうちゃんが気づいて、心配してくれて、それから少し距離を置こうかって提案をしてきました。そのとき、そうちゃん、俺も好きな人ができた、と言っていて」

「あ、あの、それはですね、先輩」

「それが、そうちゃんの嘘だっていうのは、初めからわかっていました」

 感情なく続けた友子に、驚きが走る。

「だってできた、って言う言葉はおかしいから。そうちゃんの好きな人なら、できたじゃない。いたんです。昔から、ずっといたんです。私と出会う前から」

「出会う、前?」

「ご両親は亡くなっていたけれど、私が出会ったそうちゃんは、一人じゃなかったんです」

 ……え、と声は漏れた。呆然としたような一音。驚きがついてこないような声音で半田が口を開く。

「真上会長が、篠原先輩の前の名前は佐々木だって」

「はい」

「国枝先輩も同じ佐々木で。お二人は、お二人は――双子のきょうだいだって」

「苗字が同じなのは、本当にただの偶然です。私とそうちゃんは、赤の他人です」

 ――……でもないくせに。

 友子の母親が以前もらした暗い呟きがよみがえる。記憶の中では聞き取れなかった失われた言葉を繋いで。

 ――きょうだいでもないくせに。

 血が繋がっていないなら、非人道的に見えた接触拒否もうなずける。それでは施設も友子の母親の味方をせざるをえない。かすかにあいていたパーツの隙間が、あてはまっていくのを感じる。それと同時に空間を構成していた膨大な量のパーツが抜け落ちていくのを感じた。

「真上さんが話を聞いたとき、混合されたんでしょう。それか園側で誤魔化したのかもしれません。確かにそうちゃんは、きょうだいで入る予定だったそうです。けど、入所前に引き取り手が見つかったんです」

 そうだ。国枝宗二にはきょうだいがいた。篠原と国枝は兄妹ではなかった。だから、その事実が示すものは。

「……別の、子、がいた」

 がくり、と折れるような動作で友子はうなずく。そのまま上がらない頭を見て、半田や時任の動悸が激しくなる。今まで自分達が見ていた問題とは根底から違う。いや根底こそが覆ってしまったのだ。 

「そ、その……国枝先輩のご、きょうだいは、今どこに?」

 肩がぴくりと震えた。そして突然、友子が顔をあげた。糸に引っ張られたからくり人形のような動きだ。人形の顔に埋め込まれた硝子玉のよう開かれた瞳は動かない。

「亡くなりました。ずっと前に」

 ――複雑な子です。家族を次から次に亡くした子です。

 息するだけで針刺すような空気の中、掠れ声が響く。

「な、んて、名前の方なんですか?」

 前を見つめたまま、硝子玉の瞳で。もう何も感じられないように、その名を機械的に紡ぐ。





『――夕子』






十四章<夕子>




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