十三章「訪問者たち」5
真上の話は順序良く要点を抑えていたが、全てを伝え終わるにはそれなりの時間を要した。
その間、園長は聞き続けていた。真上が友子への迫害をかなり詳しく話したときも、崩壊した後の今の様子を話したときも、ただじっと注意深く聞き取る表情以外の変化は見せなかった。
そして全てが終わって
「とても、よくわかりました」
そう穏やかに告げる相手を、真上は見つめた。そして。
「……後輩達が本当に申し訳ありませんでした」
深く下げられた頭を前に、園長はふふ、と笑う。
「あなた、苦労性なのね。いろいろと自分で背負い込んでしまうのじゃないかしら」
「……」
「誠意を持って話してくれてありがとう。少しお待ちください」
電話をしてきます、と園長が立った。電話の主が探す相手、少なくとも繋がる相手だと悟ってうなずいた。残された部屋の中で
「あの人も、善だけで出来たような方ね。こんな話を聞かされたのに、私の心配をされてる」
「……」
「私、苦労性だって。そうね。本当は守ってあげたいタイプなのよ」
茶化した笑みを作って隣の北原を見るが、すぐに石に話しかけた自分が馬鹿だったとばかりにため息を吐いて顔を戻した。そしてふと部屋を見回して席を立つ。
「透、こっちに来なさい」
一応立ち上がった北原を手で招く。
「ほら、篠原さんよ。隣の子が国枝君」
壁の白黒写真を指差すと、一応目を注いでいるらしい。行動のすべてに「一応」がつくのが結局、北原透という人間なのだろう。しばらく彼は何も言わずに眺めていた。あまりにそれが長いので、さすがに園長が戻ってくるかと時計をちらりと見てから、
「……?」
視線を戻してふと気づく。北原の目は示した写真を見ていない。どころか、どこか忙しそうに周囲の写真に目を動かしている。より正確に言えば写真の一人一人を何かを見極めるようにじいっと向いている。
「透、篠原さんたちはこれよ」何を勘違いしているのかと、とんとんと壁を叩いた。「ほら手を繋いでる。仲が良さそうね」
「本当に、仲が良かったんですよ」
後ろから聞こえた声に慌てて振り向いた。お待たせしました、と園長が戻ってきていた。
「二人は、いつも手を繋いでいたような気がします」
北原の手を引いて真上が急いで座席に戻ると、腰掛けた園長は
「なにをするにも、どこに行くにも。当然みたいに、いつも二人は手を繋いでいた。あの二人は一緒にいられればそれだけで良かったんです」
優しく穏やかな思い出にひたるように目を細めていた園長は、けれどふっとそのまどろみから、微笑を消した。
「川や海で誰かと溺れたときに、ひとりがもうひとりを助けるために決してやってはいけないことをご存知かしら?」
「……飛び込むこと、ですか?」
「そう。一緒に水の中にいてはいけない。もしもうひとりが泳げるなら、相手を突き放してでも自分だけ陸にあがり、ロープを投げるなり人を呼ぶなりしないと、二人とも溺れて死んでしまう。非情に思えてもそれが最善です。でもあの子たちはそんなことを考えもしないで、手をつないだまま沈んでいった」
「……」
真上は戸惑い目の前の人を眺め、そして壁の写真を眺める。ここからではそうはっきりとは見えない、今はもうない風景の中で、手をつなぐ二人。
「……二人に、何があったのですか?」
「それは、ここに来られる国枝さんに聞いてください」
「!」
「連絡をすると、あなた達を迎えに来ると。ここに来られるのはおそらくお父様だけでしょうが、宗二君にも会えるでしょう。三人は今、埼玉の昔の家にいらっしゃるのです」
「……」
真上が咄嗟に言葉が出ずに、こくんと唾を飲んで横の北原を見る。北原の横顔は変わらないが、瞳の奥が静かに引き絞られた気がした。
「宗二君たちは、ずっと傷ついてきたのですね」
園長の言葉に視線を戻す。「それは、私達のせいです」
「……なぜ、そのように思われるのですか」
「繋がれた二人の手を私達が引きちぎったからです」
「……」
「個々の家庭の事情のことはお話しできませんし、そもそも私どもがお話しすることではないでしょう。でも、私ども施設側がした過ちはお聞かせいたしましょう」
園長の視線が壁の写真へと向かった。
「二人は、望まれた親御さんとの相性はとてもいいように思えました。環境的にも申し分ありません。いつかは迎えられて互いに親子になれるめぐり合わせだったことは疑いません。でも、あの時のあの子達は、互いが離れ離れになる、心の準備は到底できていなかったのです。あの子達にはなによりも時間が必要だったのです」
園長が瞳を伏せた。固く苦い何かを我慢してかみ締めるような表情で。
「なのに――……。先ほどあなた方に偉そうに申しましたが。あの時の私達こそ、時間をかけることを怠ったのです。飛ばしてはいけないものを飛ばしてしまった。二人を急いで離してしまった。すべて私達の都合だけで」
「都合?」
「――あの子達の年齢です」
「年齢?」
「特別養子縁組」
横から飛び出た耳なれぬ単語に、真上が思わず声の方を向く。口にした北原の無感動な顔をなにも言えずに眺めていると、よくご存知で、と園長が続ける。
「通常の養子縁組とは違い、より実子に近い扱いを受けることができる制度です。ただし、これには養子となる子が六歳までという要件があるのです。少なくともその年までの養育実績が必要で、その期日は間近に迫っていました。六歳の誕生日から一日でも過ぎたら二度とこの制度は適用されません」
「……」
「一年後に裁判所の審判が下り二人の特別養子縁組は認められました。――でも、制度のために私達は心の傷に目をつむったのです。あの子達の心は身体に変調をきたすほど泣き叫んでいたのに」
真上は何かの衝動にかられて壁際を見た。もう貼ってある場所もおぼえてしまった白黒の写真。手を繋いだ子どもたち。写真の中の子どもたちは大きくなった。施設育ちなど気付きようもないほど平凡に、傷があるなどとてもわからないほど普通に。
そう、傷は表面にはもう生々しく現れない。けれど覆われた皮膚の下でまだ痛みを放ち、それは思わぬ形で噴き出すのだろう。言葉を失った宗二のように、音を失った友子のように、いまここで何かに駆られるよう罪を吐きつづける彼女のように。
「私達はみんな間違ったのです。あの子達の心に寄り添わずに、手を離すことの必要を説きもせずに、溺れるからと刃物で切り離すように無理矢理離させた。だから離されたあの子達の手は血を流し続けている。――今でも」
「そうちゃん」
呟きは不思議だ。ひどい喪失と途方にくれた果ての虚脱と、それでも呼ばなければならないどうしようもなさに支配されて。世界にたったひとり、取り残されてしまった捨て子のように友子は呟く。「そうちゃん」
「そうちゃん」
初めはひどくしわがれていた声はやがて濡れていく。「そうちゃん」
「そうちゃんそうちゃんそうちゃんそうちゃんそうちゃんそうちゃん」
声の後を追うように瞳に涙の膜が張る。そうちゃん、の呟きに追随するように、ぼろ、ぼろ、ぼろ、と涙が零れ落ちる。
「篠ちゃん」
両腕をかかげベッドからずり落ちて尻を打つ。その先でしゃくりがあがる。必死に留めようと身を震わせて余計、悲痛な喉の音色を響かせる。
「篠原先輩」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「篠原さん」
「わ、たし、ひどい人間です。ひどい人間なんです」
否定しようとする誰かをふりきるよう首をふって。
「だから、そうちゃんを傷つけた」
濡れた瞳の奥から絶望がなにより色濃く花開く。「そうちゃんを、傷つけた」
傍らの半田が、がたがた震える身体に気づいて目を揺らす。繰り返す友子は自傷のようだ。そのたびに身を震わせるのに、耐え難いとおののくのに、繰り返すことをやめない。「そうちゃんを――」
うずくまる身体を佐倉がぎゅっと抱き込んだ。腕に力をこめて、身体の震えを物理的に止める。まだ唯一震えが残る頭はぽんぽんと叩いて。
一拍おいて、止まっていたピアノの音がまた流れ出す。佐倉が頭の後ろを穏やかに撫ぜる、ピアノの音色に合わせるように。
「篠原さん!」
膝をついて視線をあわせた時任が割り込んだ。
「もし君の言うことが正しくて、国枝が傷ついていたとしても。それの償いも癒しも俺達が一緒にやる。いやだと言っても」
「奇変隊の特徴は付き合いがいい!です!」
時任の後ろから顔をのぞかせ半田も叫ぶ。「集団エクストリーム土下座決めますよ!」
響きが終わっても、気まずい沈黙はない。音楽が満ちている。それにあわせて佐倉が頭を抱きこみ、ゆりかごのように優しく揺らした。
「いっしょ」
波のように小刻みにやってきた衝動が大波になって寄せる。友子は自身に迫る何かにしばらく抵抗したようだ。獣のように声をかみ殺してその衝動に耐え身を震わせて。けれど圧倒的な音色が柔らかさが温かさが、なすすべもなく溶かしたようにくたりと力が抜けた。泣き出す、ただ泣き出す。どうしようもなく身を任せて。
誰もがその空間の中で真摯に、京免すら神妙な顔で指を走らす。泣き吐き尽くす彼女を邪魔せぬように。
やがて長く重い吐露を経て。友子はしゃくりをとめて真っ赤な目元をぬぐった。
「……会いに行きます」
まだ身を震わせながら。「そうちゃんに」




