十三章「訪問者たち」2
リビングに沈黙が落ちる。まるで今聞いた言葉を体感するかのように。大人の嗚咽が聞いてはいけないもののように感じられて。やがて涙の音がやんで、ようやくにかすれ声が響いた。
「耳が、聞こえない?」
「し、心意的なもので一時的なものだから」
「いつからですか?」
「学校に行かなくなった日から」
「……」
「病院には?」
「行ってないわ。あの子が出たがらないの」
「でも――」
「実は、前にもなったことがあるの。小さい頃だけど。そのときも」
そこで彼女は、ふと何かに躓いたように息を呑んで。肩を震わせて。
「……自然に、治ったから。ただその期間、人と会うのは少し。耳が聞こえないと自分の声の大きさや調子も聞き取れないから、自然としゃべらなくなって。会話も難しいし」
「でも。僕らに会うって言ってくれたんですよね」
「……」
母親の顔が絶望的に青ざめるのを見て、半田が慌ててペンを取り出した。ノートもあわせて潰すほどに強く握りしめ震えながら、それを母親に示す。「無理はさせません」
「――お願いします」身体の前で組み合わせた、母親の手が震えている。「あの子を、色眼鏡で見ないでくれる?」
「絶対に」
力がこもった首肯に、ふらりと母親は立ち上がった。おぼつかない足取りで階上へと向かう。残された面々はリビングで立ち尽くす。
やがて幾ばくかの苦しい呼吸をへて。
「部長」
乾ききった声がぽつりと漏れる。
「なんだ」
「耳が聞こえないって。心意的なものって。幼い頃にあったって。――どこかで、聞いた話じゃないですか」
「国ちゃん」
ぽつりと呟いた佐倉に、潜めた声で「ここでその名前は不用意に出すな」と時任が囁く。無限にも思える時間が過ぎて、ようやくに母親が降りてきた。
「北原さんだけを、入れたいと」
「……」
ご、ごめんなさい、と母親が首を振る。
「あの子も、他の皆さんにほんとうに申し訳なさそうにしてました。でもでも、あの子、いま、たくさんの人を相手にできる自信がないし、他の人も一緒だと他の人同士で会話をしたりして、それが聞こえないわけでしょう、だから、その」
「わ、かりました」
自分の声とは思えないような音色が漏れる。半田も肩を震わしたが、ぐっと口をひきむすんで、北原にノートとペンを突きつけた。ひとりだけ何も変わらない北原は、そのまま受け取って母親と一緒に階上に向かった。
姿が消えるともう立つ気力もないように、リビングの椅子にやるせなく腰掛ける。くっ、と止めていた息を吐き出すこもった音色に
「半田。落ち着け」
「……はい」
静まり返った家の中で、足音が聞こえる。顔をあげると友子の母親だ。彼女もどこか呆然としたように
「二人で……話がしたいそうで」
「――そう、ですか」
また自分の喉から自分のものではないような声音がすべり出る。
静かな決定打だ。今までは北原だけの妄言としても片付けられたものが、友子側から答えが出された。確かに彼女は何かを隠していた。気づくと友子の母親も椅子に崩れるように腰掛けている。暗い海の深い底のようにひどく疲れて深い脱力だけが漂う。ここはこの世でも最悪の場だ。
長い沈黙の後の言葉は唯一、脱力を紡がないたった一人の相手から出た。
「お母様、ひとつ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
あがった顔の疲れきった瞳に真上がうつる。
「友子さんは以前、自然に治ったとお聞きしましたが、特にきっかけなどはなかったのですか」
母親の顔が歪んだ。肩が小刻みに震えだした。
「……すみません」
「国枝さんは」
目を伏せた真上の声にかぶさるように吐き出された言葉。時任たちがぎくりと動きをとめるが、母親の視線はこちらを見ていない。
「昔、あの子が同じことをしたときもそう」
うつろな瞳で繰り返した。
「国枝さんはどうして私達を苦しめるの」
「……」
問いの焦点はあっていなくとも、場のほとんどが縫いとめられたように動けない。吐かれてしまった言葉の取り返しのつかない重さが、ただ苦しい。
その時。陰鬱と沈黙の家の中に、ついぞ聞かない乱暴な足音が響いた。板を苛めるようにどすどすと近づく荒っぽい音色。それが接近した瞬間、リビングの廊下を何かが急ぎ通り過ぎる。
「――透!?」
ぎょっとして真上が振りかぶるが、駆ける音は止まらない。
「ちょ、っ、待て北原!」
一瞬呆気にとられてから、立ち上がって時任が叫ぶ。駆け音は止まったがそのかわり、玄関先からガチャガチャと音が響く。さっとテーブルを飛び越えて誰かが動いた。佐倉だ。制服のスカートを翻し、獲物を見つけたグレーハウンドのように駆けていく。
「追うぞ!」
一拍遅れて半田も慌てて席を立つ。真上も狼狽を隠せぬまま続いた。
時任たちが廊下に出ると、すでに玄関の扉は開け放たれて外が見える。自分たちの靴が蹴散らされた玄関を、靴を履くのももどかしく外に飛び出ると、左手の曲がり角直前にもつれあってひとつになっている佐倉と北原が見えた。
体格差がもう少し極端なら幼児と大人のやりとりにも見えたろう。佐倉は極めて低い位置で北原の両足にがっしりとしがみつきぶらさがり、そのせいで進もうとする北原は思うようにはいかないが、なんとかず、ず、と前に身体を進めている。
「隊長、倒して!」
半田の叫びと同時に佐倉が掌で膝裏をおしこんだ。直後、かくりと北原の膝が折れて佐倉もろとも前に倒れこんだ。もがき起き上がろうとした、が。それより早く駆けつけた時任が馬乗りになって動きを封じ込める。半田は慌てて北原と道路に挟まれている佐倉を引っ張り出した。
「だ、だいじょうぶですか」
「だいじょーぶ」
コンクリートにこすれ汚れた顔で、さらに靴下姿といった有様だが、何も気にせず佐倉がにかっと笑う。
「なにをしている」
自分の下に敷いて縫いとめた北原の襟首をつかみあげ、時任が声をこもらせた。それまでの騒動でいささか服や髪が乱れた様子の北原の顔は、それでも先ほどとたいした変化は見えない。語らない瞳が時任を見上げた。
「国枝宗二の所に行く」
傍らに駆けつけてきた真上もその言葉に息を呑んだ。
「篠原さんと何を話した?」
「……」
「黙るな!」
襟首をまた強く引き上げる。たまりにたまった憤りが、自分のコントロールから外れていくのを感じていた。それでもいい、と一瞬思う。その不穏さが伝わったのか真上が慌ててすぐ傍らに腰を落とし
「お願い、時任くん。怒るのはもっともよ。でも待って。――お母様が見ていらっしゃる」
小声だが、効果は確かにあった。玄関前の道路から友子の母親がこちらを向いて唖然とした様子で立ち尽くしている。彼女に聞こえないように舌打ちし、時任は乗り上げた北原から降りて立たせた。ただし腕は見えないように後ろで掴んだ。佐倉はカップルのようにある意味堂々と反対の腕を両腕で捕まえ、半田も背後霊のように背中にぴったりとつく。
その処遇については真上はやむなし、というように言及せず「タクシーに一緒に入っていて。それなら、逃げるのは無理でしょう」と告げ、友子の母親の方へとひとり行った。
「すみません。後輩が興奮してしまって。本当に失礼しました」
戸惑う母親に彼女がいくつか言葉をかける間、時任たちは北原をがっちりとつかんだままタクシーの後部座席へと押し込んだ。運転手のいぶかしげな視線も意に介さず三人で包囲する形で乗り込む。
真上が戻ってきた。彼女は乗り込んだ助手席から背後を見やってため息をつき
「出してください」
「後ろに四人は……」
「そこの角を曲がるまででいいので、お願いします」
運転手は渋々発進させた。真上が窓から友子の母親に向かってまた頭を下げる。その光景が流れて角に消える。タクシーはすぐに停止した。
深く吐かれたため息は真上のものだ。できるものならそのまま背もたれに身体をあずけてしまいたそうな彼女は、けれど怠惰をよしとはせずに背もたれ越しに振り向き
「佐倉さん、あなたの靴よ」
差し出されたローファに、佐倉は一瞬ぱちくりした後。
「どもー」
と受け取って狭い後部座席で履く。四人が詰まっているのでその動作だけで全体が苦しい。けれど、しばらくしてもぞもぞ動いているのは佐倉だけではないことがわかった。
「?」
異変を悟って時任が訝しげな目をあげると同時に、はしっと何かを掴んだ片手が勢いよくあがりタクシーの天井にぶつかる。
「ノートです!」
髪を乱した半田が、北原から奪い取ったそれを勢いこんで開く。友子の部屋にあがる直前に北原に渡したものだろう。何かのやり取りが記載されていると思いついたのはもっともだが、期待がわく前に「破られている!」と半田が呻きをあげた。
手がかりへの希望もなくし、場の空気は必然、奇行を見せた北原への猜疑心に満ちた。その空気を代表し、あるいはせめても緩和させようとしてか、真上は身体ごと向き直り
「透。何をしようとしていたの?」
「国枝宗二に会う」
「なぜ?」
「……」
「だんまりはなし」
言葉は幼いものに向けるようだが、真上の響きは刺すようだ。それも刃物ではなく、虫を押しピンで縫いとめるような逃がしようのない音色で。彼女自身も庇う端から台無しにする北原の行動に苛立っているようだ。
「……篠原と話して、そうすべきだと思った」
真上が目を細くさせた。
「何を話したの?」
「……」
真上の細い手が伸びた。北原の襟首をつかんで引き寄せる。
「二度言わせないで」
声は静かすぎるほど静かで、吐く息は冷気を帯びているようだ。後ろの奇変隊メンバーも息も呑む。今の彼女にはぞくりとするような迫力があった。冷たさで心臓まで縛りあげ逆らうことを何人にも許さぬような。
引き寄せられ吐息が触れるほどの距離で、北原の視線が動く。氷のまなざしをまっすぐ見返した。
「――言わない」
車中に落ちた沈黙は、緊迫感の現れでもある。真上は言わずと知れた美貌に特に横顔の輪郭は際立っているし、北原とて彼女に決して見劣りせぬ顔の造作だ。それが近距離で向かいあい、冷たく凝る有様は整った故に戦慄や恐怖と言ったものに近い感慨を浮かばせる。
その二人が漂わせる緊縛は時の流れも破れまい。結局、その対峙は真上がすっとまた目を細めて身を引いたことで終わった。
身を戻した真上は、その瞳の奥にまだこちらの心底が寒くなるような冷ややかさをまとわせていたが、目を閉じて座席に背をあずけた。
「この子は、私の言うことに逆らったことなんか一度もなかったのよ」
一拍置いて自分たちに話しかけているのだと時任たちが気づく。相槌は待たず、真上は独白のよう
「同じ高校に入れと言えば入ったし、会長になれと言えばなったわ。あの人間と付き合うなと言えば誰であろうと切ってきた。ずっとそうしてきたの。なんの意思もないお人形さん」
そう呟く真上がどのような感慨を巡らせているのかはわからない。記憶を見つめるように少し遠い目をしていた真上が、ふ、とひとつ息を吐いた。
「国枝くんの家に、行ってもいいかしら?」
「……」
「――いやですよ!」
真上の様子に時任は一瞬返答に窮したが、半田はきっぱりと跳ね除けた。
「報告・連絡・相談! 略して報連相! これもまともにできないような相手の要求ばっかり聞けません! 一方通行感半端ないですよ、このNEET予備軍!」
「篠原と話した。国枝宗二に会いに行くべきだと思った。会うためにどうすればいい」
すらっと言った北原に、半田は一瞬言葉を失って、それからキーッと頭をむしって。
「もう北原くんほんとやだーーーっ!!!」
反対側で佐倉が
「国ちゃんに会ってどうすんの?」
「話をする」
「なんの?」
「……篠原のことを」
これまで黙っていた時任が口を開いた。
「国枝には、会えない」
北原の顔が向く。真上も振り向いた。
「昨日の夕方から行方知らずだ。連絡もとれない。おそらくご両親と一緒に車でどこかに出ている」
「心当たりは?」
「……」
真上の瞳に曇りが走ったが、すぐに彼女は考えをめぐらせて
「竹下先生に学校から連絡をとってもらっては?」
「今日会えなかったらそれをしようと思っていました」
「そうね。それに……みどり園は、どうかしら。何かご存知かもしれないわ。私は場所を知っているから、電話が通じないなら直接行ってみてもいいし」
「……」
時任が真上をじっと見た。
「真上さん」
「なに」
「俺は今、考えてるんです。あなたがどれくらい信用できるか」
「……」
「北原は、悪いけれど今までのことを考えても信用できません。こいつは何をするかわからない。あなたはうまく俺達もたてて立ち回っているけれど、結局、北原寄りの内心は変わらない」
「……そう思われても、仕方ないでしょうね」
「北原が信用できないなら、あなたにいくらか信を置く以外に協力はありえない」
「正直にいって、あなたに信用してもらえるカードは私にはないわ」
真正面から見つめ、真上ははっきりと告げた。
「でも、私の後輩たちが二人を傷つけたのは確かで、それは私にも責任がある。だから私は北原より二人を優先させる。支障のない程度なら北原を庇うことはあるけれど。――……。時任くん、半田くん、佐倉さん。本当にごめんなさい。言えた義理ではないけれど、こう言うしかないから。私を信じてください。お願いします」
真上が頭を下げた。時任が佐倉と半田を見やる。
「どうする?」
「靴持ってきてくれたから」
OK、と気軽に両手の親指をたてる佐倉に
「この場面で一緒に頭下げるでもなく我関せずの顔してる北原くんには僕は一ミクロンの信頼もおけないんですが」北原くんの後頭部を肘でごりごりこづきながら半田が「真上さんの方は約束破ったら奇変隊でお茶くみ係、でどうです? 指示はいっさい出さないのに鬼姑なみにねちねちチェック入れますから」
「ええ」うなずいて、真上がほっとしたように顔をあげた。「それは私にとって厳しい条件だと思うわ。私、お茶くみしたことないから」
え、と半田が素の声を出す。
「そうなんですか」
「恥ずかしながら、そうなのよ。約束を守ったら教えてくれるかしら」
守ってくださいね、と半田が念押しでうなずいた。
「わかりました。真上さん、竹下先生には、こちらから連絡をとります。みどり園に向かってもらえますか?」
「ええ」
「俺達も後から追いかけるかもしれません。国枝と会えたり場所がわかったらすぐに連絡をください」
「もちろん」
「万一国枝と会えたときに北原が暴走することがないように、あなたが身体を張ってください」
「はい」
そこで時任は首を回して、目元を厳しくさせた。
「北原、ひとつだけ聞く。これには答えろ」
「……」
「篠原さんは、本当に耳が聞こえなかったんだな」
一拍おいて、感情なき男は無言で首肯した。




