四章「いそべんはいかにしてイソゲッペルスに進化するか」3
次の日。俺は休み時間にトイレに行った帰り、廊下で思わぬ相手に呼び止められた。目の前にいるのは半田君だ。昨夜にゆうちゃんが帰った後、時任にメールしたときは大丈夫だった、と聞いていたけれど。その時に彼のメルアドも教えてもらおう、と思ったんだけど。
意外にぶっとんだ言動をいろいろ見てきたけど、それでも見た目はどう見ても大人しそうな半田君を見ながら
「あの、国枝先輩ちょっといいですか」
「いいけど……。教室行くか、時任もいるだろし?」
「いえ。ちょっと迷って。部長いないの見計らって声かけたんです」
本当はメールを送ろうかと思ったんですけど、考えてみれば国枝先輩のメルアド知らないなあって、と俺と似たようなことを言いながら半田君は
「少しこみいった話なので、場所変えましょう」
「っても。五分休みだよ」
「いいです。これを逃しちゃうと昼休みになってしまうので」
ということ授業ボイコット?
うわあ大胆な、と思いながらも、彼の真剣さは読みとれる。昨日のゆうちゃんの恩もあるし、やぶさかではないけど、しかし俺のクラスには時任がいるわけで、そういう目立つことをしてしまうとあいつが不審がらないはずはない。奴に知られたくない話なら――
「さっきの中休みに僕のクラスに来たんです」
考えがまとまらないまま、半田君は小声で口早に言った。
「生徒会長が」
小さなすべての考えが吹っ飛んだ。
半田君は旧校舎までやってきて、一階の空き教室に入った。移動教室もないのか、区画全体ががらんとしている。座ってください、と古びた椅子に俺が腰掛けると彼も腰掛けて。
「さっきの休み時間に、僕の教室に突然来ました。入り口で僕の名前を出して」
クラスメイトの視線が痛かったです、と半田君。
「僕も昨日のことがあったので、クラス前の廊下で話したんですが。会長、僕を前に「昨日はすまなかった」と謝ってきました」
「……」
驚く半田君を前に、自ら赴いた生徒会長は淡々と
「あてるつもりはなかった。大丈夫だったか?」
「は、はあ。大丈夫でした」
それにうなずいた後、会長はなにひとつも表情を変えずに。
「なら幸いだ。君には申し訳なかった。それについては謝罪する。ただ、君もこちらに謝るべきだ」
半田君はぽかんとしたらしい。
「君に肘をあてるまで、こちらは何一つ非のある行動をとってはいなかった。それにたいして君の行動は非礼だった」
「い、いや、近づかないでくださいって言ったじゃないですか」
「彼女に近づこうとしたんじゃない。あの時、印刷機を利用しに行った。だから印刷機に近づこうとしただけだ」
「……」
半田君は相手を見上げたけれど、真意は読み取れなかった。
「あのですね。それでも僕はあなたに謝罪はできません」
「――なぜ?」
ふとそのとき、思い出してしまいました、と半田君は言った。あの声、その調子。昨日の印刷室で、近づかないでくれ、と言ったときに返されたそれとまったく一緒だと。
「まだ、考えがはっきりしないからです。あなたに謝るべきか、謝らないべきか。僕は悪いことをしたのか、していないのか、わからないうちはあなたに軽々しく頭はさげるべきじゃない」
「君はいつも、そうなのか」
「いいえ。でも、相手があなただから慎重に行こうと思っています」
生徒会長はそれ以上は食い下がらなかった。そうか、とだけ言ってきびすを返しかけたけれど、足をとめて一言だけ残した。
「それでもこちらからの謝罪を、撤回するつもりはない」
半田君は話し終わって俺を見て少し心配げな顔をした。自分が今どういう顔をしているかよくはわかっていない。でも彼に気を使われるようなそれはしていたのだろう。
「迷ったんです。自分の中でもどうにも整理がつかなくて。僕は当たり前ですけど、あの人のこと、よく知らないんで。でも篠原先輩のこともあるし、ご本人には聞きづらいし、部長や隊長もちょっと相談されても困るだろうし」
「俺に話してくれて、ありがとう」
俺はうなずいた。
「時任やゆうちゃんにも俺が時期見てうまく言っとく」
「助かります。特に、篠原先輩に関しては」
時計を見ると授業開始から20分はたっていた。一緒に部屋を出て、がらんとした旧校舎の廊下を出る。新校舎に戻ると、各教室から気配と教師の声が聞こえてくる。ドア一枚壁一枚隔てた誰もいないこの空間は、妙な緊張感が漂っている。いざとなったら半田君を保健室に連れていったことにしよう、と思いながらも、教師の姿に警戒するのはこの空気のせいか。平和に誰にもあわずに階段に来た。
「半田君、保健室に寄っていきなよ。頬が痛んだってことで。それでどっちにも言い訳が立つ」
「僕はいいんですけど。……先輩、その階段のぼるんですか?」
「ん? うん」
「そっちは先輩の教室じゃないですよね」
「……」
半田君は鋭い。
「もうどうせ言っても出席扱いにならない時間だしさ。さぼりついでに、昨日の印刷室、ちょっと見て来ようかと」
「じゃあ、僕も付き合います」
俺は苦笑した。ついてきて欲しくなかったが、彼ならいいか、と思わせるところは人徳かもしれない。それを見抜いたように半田君が笑う。
「奇変隊の特徴は、付き合いがいい、なんですよ」
半田君と一緒に印刷室についた。そこまでは誰にも見咎められなかったのだけれど、意外なことに先客がいた。と言ってもしばらく気づかなかったけれど。昨日ごしにようやくつけた電気の下で、初めて俺たちは先客に気づいた。
申し訳ないけど、初めは浮浪者か何かかと思った。なにしろ先に目にはいったのは、低い位置にあるものをいじってでもいるのか、床でごそごそと動くケツと長いもしゃもしゃの汚い黒髪だったからだ。でもうずくまるその身体をだいぶよれよれで汚れてはいたけれど、包んでいるのはうちのブレザー(の慣れ果て)だと気づいたので、生徒だとわかった。しかし、薄暗い部屋の中でごそごそと、さらに電気がついたのにもまったく意に介さず動く相手を前にどうしていいものか立ちすくんでいると
「あれ」
と半田くんが呟いた。
「先輩じゃないですか」
ああん? と低い声が呟いて、初めてうずくまる浮浪者風学生はこっちに反応した。膝をついたまま振り向くと、後ろ髪とまったく一緒のもしゃもしゃした前髪が顔半分を隠す、実に浮浪者然とした顔があらわになる。がっしりしたあごには、高校生なのに無精ひげがある。こちらを見返った相手は、おもむろに立ち上がった。
立ち上がるとそいつは、ちょっとぎくりとするほど背が高かった。ただ東堂や南城といった均整のとれた高さじゃない。針金のようにひょろりと高くて、アンバランスで、そういうもろもろも全部あわせてなんちゃってでブレザーを着ている先生じゃないか、と思った。
「半田か」
声もきわめて低い。浮浪者でも先生でもないとしたら、この人ダブりかな。
「サボりか」
「そうです」
半田君は普通に答えた。
「先輩もですか?」
「三年にもなるとな、自主登校ってのがあるんだよ」
「まだないですよ」
半田君が苦笑する。
「そっちのは?」
「二年の国枝宗二先輩です」
「誰だ」
「あれ、知らないんですか」
半田君が不思議そうに呟いたが。いや、俺はそんな有名人ではない。でも謎の先輩は、かきまわすとふけが散りそうな髪をがりがりして
「国枝……?」
と呟いて深い記憶の底に沈んだ何かを浚うように「国枝……。――ああ」とうなずく。
「情報いってないんですか。先輩ともあろう人が」
「知ってんだろ。俺はスポーツは専門外なんだよ」
「え? スポーツじゃないですよ。最近の下克上メンバーですよ」
下克上って。
「下克上?」
「二年の篠原友子先輩率いる生徒会下克上の中心人物のお一人です」
「篠原……?」
「先輩、ほんとにキャッチしてないんですか」
「――ちょっと待て」
半田君の意外そうな響きに、何かが刺激されたのか、相手はもしゃもしゃの前髪ごと片手で顔に押し当てて
「それは、あれか。――佐倉が関わってる奴か」
佐倉、と口にしたときの響き。実に、忌々しいものを孕んだ低い声だった。
「はい。うちの部長、隊長、僕も加わってます」
ふんっ、とこっちにも寄せてきそうな鼻息がした。
「なら俺は関係ねえ」
先輩、と困ったように半田君が言った。
「佐倉先輩は先輩のことお好きですよ」
「俺は大っ嫌いだ。奴の名前なんぞ聞きたくもねえ」
そのまま相手はまた背を向けて膝をつき、さっきのポーズのまま、ごそごそし始めた。でも作業は思わしくないらしく、小さく舌打ち。
「直りやしねえ、このポンコツが」
「壊れたんですか」
「新品は職員室に真っ先にいれるからな。古いのはこっちまわしだ。ディベードすっぱぬいてやろうか、経理」
先輩がうずくまる印刷機に、俺はちょっと近づいてみた。確かに古いディスプレイに浮かんだ文字を見る。
「エラー出てますから、うまくマスターが入れられてないんじゃないんですか?」
すると相手は動きをとめ俺を見上げた。もしゃもしゃ無精ひげの面をじっと向けられると、ほんとにこれは高校生なのだろうか、という疑惑が再び頭をもたげる。
「扱えんのか?」
「まあ……」
「なに今まで突っ立ってたでかくねえでくのぼう! とっととやれ!」
暴君だ。しかもでかくねえでくのぼうとか。だったらでくのぼう使うなよ畜生。
内心でぶうぶう言いながら、印刷機の側面を開いた。思ったとおり別に壊れていたのでもなく、根本的なエラーだった。これを換えた人がちゃんとマスターを入れていなかったのだろう。
マスターを入れなおし、ガシャンガシャンとうなりながらザラ版紙を吐き出し始めた印刷機を前に、先輩はふんっとうなったきりだった。別に礼を期待していたわけではないが。なんか見た目も中身もアクが強そうな人。
「んで、お前らさぼりなのになんでここに来てんだ? 俺の前でタバコすったら殺すぞ」
あごをしゃくって尊大に言う相手に「吸いませんよ」と半田君は苦笑い。
「ちょっと昨日、ここでひと悶着ありましてね。それで調べに来たんです」
「あっそ」
興味がなさそうに呟いた相手の前で、がしょがしょんとザラ版紙が吐き出される。
「――で?」
「え?」
「もたもたしてると印刷が終わんだろ。とっとと話せよ、そのひと悶着とやらを」
くだらなかったら殴るぞ、となんとも横暴なつけたし付きの要請に半田君も目を丸くして
「いや、ちょっとそれは。個人的な話なんで」
「個人も法人もあるか。俺が話せって言ったら洗いざらいぶちまける、それだけだ」
俺は半田君を横目で見たが、昨日は生徒会長相手にあれだけ意を貫き通した半田君は何故か困り顔で
「先輩、記事にしたり他言したりしません?」
「はあ? んなことは、聞いて俺が判断すんだよ」
俺は顔を覆いたくなったが、その直前、ふと半田君の言葉に引っかかるものがあって声をあげた。
「記事?」
「新聞部なんです。磯部先輩は」
いそべん!!




