十二章「〇〇〇」
「篠原」と書かれた表札。その下の壁から突き出たインターフォンは、どこか煤けて卑屈に見えた。ぐっと押しこむと、またかというように呼び出し音をうんざり鳴らして。間合いだけで十分に語る、たっぷりの沈黙の後に、プツ…と小さな接続音と共に繋がった。
『はい』
一度だけ見た暗い彼女の顔は、その声音だけで容易に浮かぶ。その陰気さに決して引きずられまいと、時任大介はぐっと胸を張った。
「時任です。プリントや手紙を持ってきました」
『ありがとうございます……』
同じ言葉、同じ地を這うような陰気さ。まるで録音しているかのようだ。時任の後ろにひかえてじっと耳をすませる佐倉と半田にも、次に続く言葉は容易に浮かぶ。『郵便受けに入れておいてください』それがここ数日繰り返され続けたやり取りだ。
けれど、憂鬱な機械は記憶の中より長く沈黙して。そして
『少し、お待ちください』
後ろに控えた半田が小さく声を漏らす。佐倉もじっと視線を固定させている。今までにないパターンだ。
玄関のドアがほんのわずかに開いた。隙間としか言いようのない間隔の中にぶら下がるチェーンが見える。時任は息を吐き出してゆっくりと近づいた。
「プリントです」
隙間からのぞいた、友子の母親は幽鬼のようだ。前に見たときよりやつれたように見える。目だけが妙に大きくのぞくまま、ありがとう、と掠れた声で伸ばした掌も萎びている。そのことを自覚してを恥じ入るように、さっと引かれた。
思わずその手を掴んで留めようと一瞬頭を掠めた時任が、肩を揺らしてハッとする。思いのほかに焦っている自分に気づいて、息をはく。あの、と吐いた声は少し上ずった。
「友子さんに、お会いできませんか?」
「……」
「一目でいいんです。お願いします」
お願いします、と後ろで半田も声をあげた。わずかに開いた戸の隙間、その向こうですがるような視線を浴びて。
「……」
チェーンの下をかいくぐるように、一通の白い封筒が差し出された。
「……手紙?」
「友子から、預かりました……」
これでご勘弁ください、と掠れ声を残して扉が閉まった。
部室に戻ると、参考書を広げていた磯部が顔を上げた。まだ文化祭の名残が濃く残る、旧校舎の奇変隊部室。古いが広いその部屋にいるのは彼一人だけだ。
「行って来たか?」
「はい。結城や竹下先生は?」
「竹先は担任と話すとかで、結城はあのピアノ坊やから連絡があったとかで、行っちまった」
俺一人だ、と呟き、磯部は参考書を閉じる。
「会えたか?」
「……いえ」
「もう何日目だ?」
篠原が来なくなって、と淡々と続ける。
「三日です」
「……どうしたもんかな」
「あ、で、でも、先輩! 今日、手紙貰ったんです」
「手紙?」
鞄をあけて時任がすぐに差し出した。受け取った磯部は白い封筒の宛先を見て、特に躊躇いなく開いた封から便箋を引き出す。みなさんへ、の中に自分自身も含まれていると、そう判断したのだろう。
二枚に別れた便箋を上下に並べ、さっと全体を眺めるように一瞥し、それから細部を確認する。独特の読み取り方で磯部はすぐに内容を把握したらしい。
「なにもわからねえな」
「……はい」
「具体のない自責と謝罪をだらだら。要点を抑えるって視点がいっさいねえな」
だからこそ絶望が色濃い、とは後輩達の顔を見て磯部は続けなかった。
「で、でも。篠原先輩は、僕らへコンタクトとろうとしてくれたんですよね。返事書きます!」
「……」
「だ、ダメですか?」
磯部のしかめ面を読んだ半田が、すがるような目をした。
「俺の独断と偏見で言うと、返事が来る可能性は低い。この書きっぷりは、言い捨ての姿勢がにじみ出てる」
半田がうなだれる。
「まず、事態を客観的に抑えるぞ。篭城状態の本人との接触はできない。その周囲――家族ともだ。教師からの電話すらろくに事情が聞き取れない。本丸を落とすのは極めて難しい。手がかりは、外で探すしかねえ。しかし、俺達の中にはそれがない。仕方ねえだろうな、俺達のほとんどは事が起こってからの関係者だ」
「……」
「としたら。情報源はここでしか見つからない」
一拍置いたが、磯部は躊躇わず続けた。「生徒会の奴らだ」
沈黙だけで即座の反発がなかったことが、若干意外だったようで磯部は三人を見返した。肩をすくめた半田が気まずそうにちらりと視線をなげて
「……先輩。実は」
「手紙はもう一通ありました」
差し出された手紙、まだ封がされたままのそれの表面に書かれた宛先に目を落とす。確かに友子の几帳面な字で「生徒会の先輩方へ」と書かれている。それを読み取った磯部の目に驚きは浮かばない。ただじっと時任達を見据えた。
「きっかけも出来たな。――行くか?」
半田が不安げに時任を見る。佐倉もあまり動かない表情で時任を見る。
「行きます」
磯部はうなずいた。そして薄目で見据えた。
「ただな、覚悟はしておけ」
「……?」
「今までお前らは未来を見据えてた。だから前向きになれたんだろう。だが、今回は過去をほじくり返す作業になる。過去には、希望なんてねえ。変えられない絶対があるだけだ。今回、それがもろに出てくる。はっきり言う。きついぞ」
「……」
時任、半田、佐倉、三人の視線が互いをめぐる。そして視線を合わせてうなずいた。
「行きます」
そうか、と磯部はテーブルの上のスマホをくるりと回す。
「アポはとっといた」
「え、」
「許可されたのは、お前らだけだがな」
僕達だけですか、とどこに驚いていいのかわからないとばかりに半田が呟く。ああ、とうなずいて
「待っといてやるから、行ってこい。絶対ってのは強いからな。引きずられやすい。――だがな、良くも悪くも過去はどうしようもない。お前らの楽観的な姿勢は間違いじゃねえ」
もしゃもしゃの前髪の向こうから、射抜くように磯部は視線を向ける。
「可能性は過去にはない。過去にとらわれて今歩く道を見誤るなよ」
その扉には、生徒会室と書かれたプレートがかかっている。扉を開くと奥に長い長方形の部屋が広がる。左側のパイプ机の前には西崎と南城がいる。壁際に椅子だけを置いたそこに、だらしない姿勢でもたれている東堂の姿。窓際の机には北原、そしてその前にゲストを迎える女主人のように、真上が立っている。
「よく来てくれたわ」
「……」
迎えられたのは、理知的な顔立ちに眼鏡をかける長身の高校生、時任大介。若干警戒した顔つきをかまえる半田瑞希、あまり表情を変えていない佐倉晴喜だ。
「座ってくれる?」
「……失礼します」
動きかけた真上を制し、時任が壁にたてかけられたパイプ椅子を手に取り、半田と佐倉にわたし自分も開いて腰掛けた。
対面と言うにはやや座る場所にばらつきがあるが、少なくとも腰を落ち着けて互いの視線が交差し、また明後日に飛ぶ。中でも生徒会役員側が散漫だ。興味がなさそうに腕を組む南城はまだ聞いているほうで、西崎は自分の手元をいじっているし、東堂は誰もいない場所で眠りに入ろうとしているよう天井を向いてのけぞり、北原も顔は向いているがどこに焦点をあわせているのか曖昧だ。そんな彼らの前面で、ただ一つの碇のようにしっかりと視線を定めて真上は切り出した。
「彼女の家に通ってると聞いたわ」
「はい」
「会えた?」
瞳を薄めて睨みながら、時任は首を横に振る。そう、と真上は呟いた。
「国枝くんは?」
つきん、と響く胸の痛みを押さえ込み時任はことさら無感動に答える。
「学校には、ずっと来ています」
「そう……」
短い言葉に全てを悟ったらしい。物憂げに呟く真上を、時任がじっと見据え
「真上さん。ひとつお尋ねします。あの日の演説前もそうでしたが、あなたがそんな風に俺たちに気を配ったり二人を気にしたりする目的はなんですか?」
時任の視線は敵意まではいかないが、現実を見極めようとする厳しいものだ。真上はそれを受け止めて一拍おいた。
「目的、そう目的ね。……――怖いの」
「怖い?」
「自分がまだ把握できていないところで、取り返しのつかない何かが起きている。そして多分、とてもまずい方向にむかっている。それを食い止めたい。壊れた何かを、出来うる限り修復したい。信じてもらえないかもしれないけれど、私の偽らざる気持ちよ」
強く見つめ返す目に、時任が少し引いた。あの朝に、部室前に立っていた真上。邪魔をしにきたのかと阻んだけれど、演説で何か良くないことが起こる、と真剣に訴えた。あの時の彼女に策謀はなかったように思う。
だがどこまで引いていいものか。結局、彼女は生徒会を背負った立場にいる。疑いながら妥協してもいい点を探り、ひとつひとつの言葉を慎重に選びながら
「……多分。今回の件は、事の根本というか始まりに全てがかかっているような気がします。そして根本については、基本的には部外者だということです、俺たちもあなたも。今の国枝にも篠原さんにも俺達はそれを聞くことはできない。――だから、ここに来ました。北原会長、生徒会の先輩方。始めに何が起きたのか、知っている範囲で話してくれませんか」
沈黙が部屋に落ちた。この場所にいることも、同じ空間でこのメンツが席を同じくしていることも、まるで現実味がない出来事だ。けれど続いていたはずの現実は、崩壊してしまったのだ。多分。そしてすがる糸を見失ったものたちが、お互いに呆然と見回してここに在る。
小さな硬直は、しばらくして、はは、と生徒会側からあがった声に消えた。
「なにが起きたって? 俺達がなんか謎でも握ってると思ったの。なに、推理小説の読みすぎ? 謎も何もないよ。そっちが知っているだけのこと」
「始まりは先輩方が、篠原さんを迫害した」
「そちらは、そう思っている。ってことだね。物事の受け取り方なんか主観だから」
しゅかん、と冷えた声で半田が呟く。時任はつとめて冷静にふるまうように、足元においていた自身の鞄をとり、中に手を入れた。
「家に行っても篠原さんには会えませんでした。でも、手紙を、預かってきたんです。開いたら、俺たち宛てともうひとつあった」
「なに、告発文?」
鼻で笑う西崎、天井を仰ぐ東堂は見る気もないようだ。唯一南城が受け取った。
南城は二枚の便箋に、つまらなそうに目を落としていた。けれど文字を追うにつれて視線が、それを放つ目元が、険しくなる。
どんっ、とパイプ机に掌が叩きつけられた。二枚の便箋はその下であえなく挟まっている。
「――これは、なに」
ひどく冷ややかな声音が響く。その音色は彼の仲間達の関心もひいたようだ。
「なんだ?」
片目を開いた東堂が、机の上に置き去りにされた便箋の端をひく。軽く目の前で掲げたが、その顔がみるみる険しく歪んでいった。その手から西崎が抜き出したが、それにも気づかぬよう顔つきには憤怒が宿る。
三人目の彼もほぼ同じ反応をたどった。初めは、さもつまらなさそうに目を向ける。そして。
「――馬っ鹿じゃない!」
西崎蓮の怒声が弾けた。




