十一章「応援演説」上
たくさんの人と人と土の臭い。大勢の大人がもつれて地面にどさっと倒れて塊になって、それをふりきって誰かが走り出す。青い空に投げられたボールは完全な球形ではなかったから、きっとアメフトかラグビーだったんだと思う。
そのとき、見物の大人の頭を見下ろし全てが見渡せる視界だったから、きっと俺は誰かの肩に載せてもらっていたんだろう。おそらく、父の友人の誰か。父ではない。父はグラウンドにいたからだ。土だらけでグラウンドを駆け回っていた。
休憩の合間に戻ってきた父は、高いそこから俺をひょいとすくいあげた。記憶の中ではとても背の高い人だったけれど、小さな頃だったから大人はみんなそう見えたのかもしれない。
――宗二。
子どもみたいに笑う人だった。ユニフォームの半そで半ズボンという格好も印象に拍車をかけたかもしれない。そんな父に向かって、俺は興奮してなにやらまくしたてている。いつだって気を引きたくてたまらない、こっちを見て見てと全身で叫んでいた。
――宗二は凄いなあ。
社会人になっても休日はスポーツにいそしむ、あんなに元気な人だったのに。隣に立って俺を抱く父の頬の汗をタオルでぬぐう母なら、わからないでもなかった。薄い髪の色をして、いつも静かに微笑む母は、子供の目から見ても細い小さな人だったから。
でも現実に、先に逝ったのは父だった。トラック事故だったと聞く。一人残された母は一年と持たず後を追った。過労と心労の末の病気だと聞くけど、そこら辺のことはよく覚えていない。後から思い出さなくていいんだよ、とカウンセラーさんだか社会福祉の職員さんだかに言われた。
ただ、母が生きていたときから、養護施設にはお世話になっていたのは覚えている。みどり園じゃない。もっと小さなところ。教会と隣接していたのは覚えている。午後にはいつも鐘が鳴っていた。
慣れぬ仕事で遅くなる母の傍ら、半日お世話になったり、たまに泊まりになったけれど。親がいるのにそこにいる子どもたちも結構いたから、あまり浮くこともなくすごせた。
お母さんも、ここで育ったのよ。
そう言った母は笑っていた。少なくとも笑おうとしていた。子どもに向ける笑みを最後まで絶やさない人だった。母の出生は今考えると色々ありそうな感じがするし、父方の祖父母や親戚の類と会った記憶もないし、いきさつを考えるとそれなりの事情があったのだろう。でも、そこは引っかかるところじゃないんだろう。
大切なのは俺の天国の両親が、いい人たちで尊敬に値する親であってくれたってことだ。最後まで。初めはこのことの大切さに気づけなかったけれど、俺がやさぐれずにこれた、一番の財産だと思う。俺を最初に迎えた世界は優しかった。だから。
思い出さなくていいんだよ。心に残ったその言葉に、うん、とうなずく。一番いい思い出だけ、抱えていけばいい。考えても仕方がないことで心を疲弊させちゃいけない。
思い出の中で、ユニフォーム姿の父は、試合の後で興奮しているのか、くしゃくしゃと荒っぽく頭を撫でて、破顔する。
――宗二、お前が……。
小さな頃の夢だった。
起きた直後はとても鮮明に覚えていたのに、パジャマから着替えて一階の洗面所で顔を洗っているうちに、細かいところはほとんど思い出せなくなっていた。夢ってそんなものだよな。記憶の中に近いけれど、ところどころ違っているかもしれないし。頬から滑り落ちる水滴みたいな夢に思いをはせながらタオルで顔をぬぐう。
おはよう、とすでにダイニングにいる二人に挨拶をして、いただきます、をして朝ごはんをよく噛んで食べる。
チビの大食いと言われた俺だが、大人の大半は俺がたくさん食べる姿を見ると嬉しそうだった。特にお母さんなんかは、一緒に住み始めた最初のころ俺が二杯目のおかわりを頼むたびにうっとりしていたから、俺はますます小さな身体に詰めこむように食べた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
髭は残念ながらまだ剃る必要がないので、念入りに歯磨きをする。施設育ちだと必然的に規律正しい生活をおくるおかげで、虫歯とかになることは滅多にないし、幸い歯並びも悪くないので開いて見苦しい口ではないと思う。
ちょっとチェックした後、結城君に教わったやり方で、軽く髪を整えた。今日は朝に行ったら彼がセットしてくれる手筈になっているから必要ないかもしれないけれど、まあ、過剰なお洒落やセットは今でも苦手だけれど、ささやかに身だしなみを整える、って悪いことじゃないなあ、と思う。(美容液を寝る前に顔につけるのはまだちょっと抵抗あるけどね!)
行ってきます、と家を出て、俺は玄関前に立っている人影に気づいた。そして驚いて立ち尽くした。
朝の白い光の中で、白い制服姿の女生徒は周囲に同化するみたいだった。
整えられたボブの髪と黒のローファーだけがかすかな黒さを主張しているけれど、生まれたての太陽の鮮烈な白さは圧倒的で。両手を楚々と前に出して学校指定の鞄を握り、真正面からこちらを待っている。
「ゆうちゃん」
急いで縁石を越えてそばにいく。
「どうしたの」
問いに一拍ゆうちゃんは答えなかった。じっと俺を見ていた。じっと。そして、ううん、と首を横に振った。
「一緒に学校に行こうと思って」
「あ、うん」
とりあえずうなずいた。これが始まってから、ゆうちゃんと登下校をするのはほぼ日課になっているから、一緒に行くという点に驚いたわけじゃない。問題はゆうちゃんが、いつもの合流地点ではなく、俺の家の前に来たってことだ。
お互いの家の前まで行くってことはこれまで一切なかった。そりゃ、俺がゆうちゃんの家前に行くほどやばいわけではないけれどさ。
「どうしたの、何かあったの?」
ううん、とゆうちゃんが首を振った。
「なんとなく」
なんとなく?
ますます変だ。ゆうちゃんが普通の女の子みたいなこと言ってるぞ、と若干失礼な感想を抱く。
「今日で、最後だから」
「え……」
思わず呟いて。ああ、そうか。と思い当たった。自分のことでいっぱいだったけれど、ゆうちゃん的にも投票する今日で最後なのは確かだ。心が落ち着かないのは仕方ないかもしれない。
もう極に来ているから、どちらが優勢なのかってよりどころにする数字は出ていない。でも、京免くんがしてくれたことに、そしてそれに応えてみんなで達成した舞台、それが灯したものを信じてる。
「大丈夫」
ゆうちゃんが肩をちょっと揺らした。顔は下を向いている。
「勝てる。勝つよ」
そのためにもがんばらないと。みんなが積み重ねてくれたものを俺が台無しにするわけにはいかない。――いや。
「俺が、ゆうちゃんを勝たせるから」
ゆうちゃんの肩が小さく震えた。
「――うん」
ちょっと水っぽい声でうん、とゆうちゃんはうなずく。むこうを向いて。さあ。言ってしまったぞ、と俺は腹をくくった。白くて新鮮な朝が広がっていて。始まるんだ、と思った。終わりだけれど、それはゆうちゃんの悪夢なだけで。後は全部、新しい未来への始まりなんだって。
「――……」
小さな音が聞こえた。そうちゃん、と呼ばれた気がして俺は見た。そしてふと、綺麗だな、と思った。今はあの手のこんだ髪型もはっきり露になった顔もなくなっていて、ゆうちゃんは元に戻っている。でもあの姿を見たせいだろうか。白い朝の中で、ゆうちゃんは綺麗だった。とても。
「――――」
ゆうちゃんの唇が動いた。でも音はほとんどなかった。
「ごめん、なんて?」
ゆうちゃんはじっと俺を見て、首を横に振った。眼鏡の弦が少し震えていた。「ありがとう、って」




