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十章「決戦の文化祭」20

  熱狂、熱狂、飛び跳ねる生徒達の振動で、歩くグラウンドも揺れてるみたいだ。先生たちも総動員で警備員みたいなことをしてくれている。中には怒鳴る谷内先生も見える。いやあ、殺気立ってるなあ…。

 そういうのが落ち着いて見えるようになったのは、なんとステージの上に立ってからだ。動線確保に観客整理に出来る出来ること、と唱えながらもう訳もわからず駆け回っていたら「国枝せんぱーい!」との呼び声にようやく気づいて振り向いた。そして凍りついた。

 Sealがあがるステージの上でゆうちゃんたちや半田君がこっちに手をふっている、という光景の衝撃度は忘れがたい。そこで初めて、自分たちの番がとっくに来ていることに気づいた。

 もちろんそれまで一回だって、同じように仕事を手分けした他のメンバーと顔をあわせることはなかった。京免くんを迎えに行って解散して、それの再結成がステージの上って。いつの間に一時間近くたったの? 今、時間、ワープした?

 うわあ、うわあ、うわあ、と思ううちに、Sealの面々まで面白がって俺を呼び出したからたまらない。周囲の刺すような視線の集中から逃れた先は、ステージの上。緊張を凌駕する緊張というか、もうわけわかんない。する暇すらない。

 そしていま、数メートルと離れていない場所、同じステージ上にSealがいて、数百人の学生の視線が集中する場に立っている。

 あまりアイドルとかに興味がないものだから、コンサートとかライブに行ったことはない。だから言われて俺が思いつくのは平凡なイメージだ。大舞台の上でスポットライトを浴びてマイク越しに呼びかけるアイドル。埋め尽くした観衆がそれに応えて。

 ただ俺の予想は、第三者、いわゆるテレビ向けの視点。観客でそして今いる舞台上の、熱に飲み込まれる立場とは全然違った。当のアイドルでもなければ観客席より先に舞台を経験するなんて珍しい例だろう。

 感想は――。

 暑い!

 スポットライトって尋常なく暑い。下手したら熱い。そばで見るとわかるけど、Sealのみなさん例外なく汗だくだ。そりゃお洒落な服着てひたすら動いてるかしゃべってるかすると無理ないだろう。それでも笑顔、全開の笑顔、芸能人って過酷な仕事なんだなあ。

 ただそれ以外の熱もむろんあった。

 袖からでも見下ろす先、無数の視線が集中する。それは小学生のとき、虫眼鏡で集めた光線のようだ。黒い紙に穴をあける熱のように。熱は視線だけじゃない。紅潮する頬、無意識に開いた口からひきりなしにあがる声が孕んだ熱。吐息にこもる熱。すべてすべてが熱気だ。観客席からその一人一人から発せられたそれが一塊のエネルギーになって寄せていく舞台で、またプロたちが発する熱気がぶつかってまじりあって融合して溶解して――もう滅茶苦茶で。体温と同じくらい生ぬるいんじゃないかって夜の中で自分と世界も曖昧で。

 そんな中で、トーク(俺はほとんど周囲が笑うときに引きつった顔で笑ってただけのような気がするが)、正解者へのプレゼントの手渡し、握手(ところどころ凄い悲鳴があがった)を嵐のようにこなして。

 ついにラストソング。菖蒲さんのかけ声と共に、運動場中に響く声。本日の大功労者、京免くんが呼ばれた。京免君、京免君の連呼に、さっきの一幕を思い出してうわっと思う。

 そんな状況でも、京免くんの小さな身体があっさり出てくるのが見える。彼の格好は制服だ。あんまり着ていないせいか、京免くんの制服はいつもパリッとして、元々白の上品な感じがあるうちの制服ではよりシックな正装っぽく見えたものだけれど、今日はいささかくたびれていた。でもやっぱりロックバンドの舞台では浮いてるなあ。あと多分その格好はここでは物凄く暑くなるよ。

 疲れていると聞いたけれど、白いライトがまぶしすぎて京免くんの顔までは見えなかった。観客の方へ素っ気なく礼をして、京免くんは端のピアノへと真っ直ぐ向かった。



 


 斜め後ろに設置されたピアノの椅子に腰掛けた京免信也は、ちらりと目だけで周囲を見やる。激しいスポットライトの下で、やや感覚が惑う世界の中で、ぼやけた輪郭の塊だけを確認して視線を手元に戻すと同時に、何も置かれていない譜面板が視界に入った。

「……」

 プロデューサーが差し出したファイルに目を通したのは五分にも満たなかった。

 何日も徹夜も辞さず費やした、血肉も同じ十曲がたった五分で吟味され、そして破棄された。あったはずのプライドも何もかも引き裂かれたはずなのに、不思議と今、痛みはなかった。

 客をひきつけるゲストはここにいる。自らが彼らをつれてきた。それだけで妙に満ち足りていた。

 合図があったので、初めの音を鳴らす。ぽーんと。ボーカルがうなずく。楽譜など必要もなく、初めの音に指をあわせる。

 どこで借りたのかひどい音響設備だし、ピアノは学校のアップライト、反響するホールもない野外。何もかもが無残で、おまけに自分自身は連日の徹夜でつかれきっている。これ以上の最悪なコンディションはない。

 でも、車を迎えた面々の驚いた顔、顔、顔。あれはなんだか悪くない。胸に漂うものもふわふわとどこか温かい。それに任せて、自然と目を閉じた。

 自分自身が普段は決してひかないメロディタッチで、ボーカルの声を包むように拾う。指が動く。

 音が乗ると、心地よい酩酊感が包み込む。世界は音とピアノで心が紡がれる。指を傷めるまで弾いたこともたびたびだが、白い鍵盤は絶対に自分を拒まない。黒鍵は半音のやわらかさで世界をまた無限にする。

 世界は不愉快で不可解なものもたくさんだが。それでも求めてやまない。どう触れていいかわからない世界も、ピアノを通して繋がれる。世界は残酷だ。だからこそ、この音色は美しい。

 全ての始まりである目を疑った成績表に、対峙した彼らの不遜さに、よくもわからない騒動に、鍵盤を叩く以外はしないと決めた掌に食い込む荷物の重みに、日没後の校舎で一緒にすすった奇妙なヌードルの味に、受話器から流れる落胆に、それを覆すために躍起になってとりくんだ己の不可解な心。残酷な世界の中で、びっくりするくらい現実に包まれた日々。口の端が少し笑む。

 ボーカルの音色にわずかな色が現れる。紡ぐ。心を紡ぐ。思いのままに。羽根よりも軽く。




 その演奏は前奏の、いや極端な話最初のひとつの音から違っていた。

「――」

 腰掛ける京免くんの前のピアノから流れ出す音と音が紡ぐメロディ。何度か聞いたことがある彼の音色。変わらずにうまい。でも、何かが変わっていた。なんだろう。何かが起こった。まったく異なる薬品を混ぜ合わせて思わぬ変化をおこしたように。

 メロディにあわせてボーカルが声を出す。紡がれる歌、その歌を包むもの。それを聞くもの。俺達も慌てて歌いだすけれど、開いた口からまるで音が流れ込むように胸が一気にいっぱいになった。

 時間の流れが今だけは世界から外れた。空気も空間もすべてが外れた。特別なクリーム色のやわらかいものに包まれているみたいに。なんだろう。この感覚は。

 世界の中心で流れ出しているものは、真心とかそんな優しいものだ。アップテンポの音色は確かに急いて激しくて情熱が弾けていて、限界なんか知らないようにボーカルの声が伸びていく。夕焼けの中をどこまでも。どこまでも柔らかくて広くて包むようで。不意に泣きたくなるような、叫びだしたくなるような。

 ピアノが奏でる。すべてをゆだねられるほど安定しているようなのに、その実心かきむしられるほど不安定で。ピアノはもっとも簡単に音が出せる楽器のひとつだと聞いた。訓練をしなくとも指を置くだけで音は正確に出る。なのに、この音はここまで世界を変えてしまうのか。

 音は音と音が繋がったメロディは世界を増幅させて増幅させて。この音の世界の中で、自分の心は自由な翼を得たような気がした。なんて万能感。酩酊感。なんでもできる。世界は作り変わる。この世で泣く人間は誰もいなくなる。そんな御伽噺すら今は信じられる気がする。限界なんて絶対にないように紡がれた世界は広がって広がって果てしなく広がって。そして、その余韻を世界中にばらまいてばらまいて――終わった。

 終わった後に声を発するものはいなかった。誰もがその余韻にしびれていた。Sealのメンバーすら、呆然としているようだ。でもプロ意識のなせる技か、誰よりもはやく我を取り戻し

『いや、こりゃ、まいった。みんなーっ! 意識あるー?』

 と手を振った。

『魂消る演奏だったねー!』

 というマイクの声がようやく俺たちを現実に引き戻した。目の前にはテレビでしか見たことがない芸能人がいる。それだけでも現実的ではないのに。確かに俺たちはもっと浮遊した世界にいた。そこにいざなったのは間違いなく。

 ピアノの陰に隠れて京免君の姿は見えない。京免君はそりゃ常識知らずで、はた迷惑で、多分ちょっとさびしがりやで、ほんといろいろあったけど。

 確かに彼は、人の心を揺さぶれる人間だ。





 ステージ袖からのぞいてみても、まだ観衆の心が完全には戻ってきていないのがはっきりとわかる。そこへ一つの礼だけ残して、余韻が満ち満ちた舞台から京免は返ってきた。そして先ほど座り込んでいた木箱の横に、どさっと落ちるように腰掛けた。

 先ほど違うところは、うつむいていた顔が空を見上げていることか。口を半分ほど開いた状態で、目は完全にどこか違う場所をさまよっている。

 精も根も尽き果ててしまったのかと、慌てて結城がのぞきこみ肩に手をかけ揺さぶる寸前。ふいに小さな手が結城の腕をつかんだ。

「京免?」

 掌が伝える思いのほかに強い力に思わず顔を見下ろす。まだ口を半分開いた状態で京免がこちら見上げていた。

「き、君、聞いたか?」

「え?」

「さっき僕が弾いたピアノ……」

「聞いたよ。凄い演奏だった。本当に、凄い演奏だった」

 夢じゃない、と京免がぼんやり呟いた。そしてうつむいた。

「京免? どうした」

 うつむく相手の顔をのぞきこむ。初め何が起こっているのかわからなかった。けれど、それに思い当たったとき、結城はぎょっと身を引いた。

「きょ、きょうめん?」

 うずくまった京免信也は泣いている。喜怒哀楽は激しい彼、涙もいくらか見たことはあるが、今は違った。ぶるぶる首をふり、ガチガチ歯をぶつからせ、極限の寒さに置かれたように腕をつかんで全身で揺れる様は、異様だ。

「ぼ、ぼくは、ピアノを弾いていられる。ピアノを弾いて生きていける」

「なに」

「ずっと怖かった。自分にそんな力があるのか。僕は通用するのか。この世界は残酷だ。生半可なものを拾う慈悲なんかない。弾けなかったら、僕は生きていけない。なのに何者にもなれないまま、ここまで来てしまって。こんなに年もとってしまって。もう、遅いかもしれない。もう、間に合わないかもしれない。いつも焦りでいっぱいで。怖くて。できるかわからない、保障もない。弾けなかったら、生きていけないのに」

 紛れもない恐怖に沈み込んでいた瞳が、突如として現れた光がまだ信じられないように見開かれて。

「――でも、僕は生きていける。あの音を出せた。生きていけるんだ……!」

 繰り返し繰り返し瞳は涙を生み続ける。結城清明は唖然と見下ろしていた。が、ある地点でハッと瞳に強い色が戻った。まだ震える京免の傍らにぐっと膝をつく。

「確かに聞いたよ。すごい音だった。すごい演奏だった。お前ががんばってたからだよ。本当にがんばっていたからだ」呟く結城の瞳にもうっすらと涙がにじむ。「――よかったな、京免」

 うん――、と京免信也はうなずく。うん、うん、何度もうなずく。悪夢を見た幼い子がそれは夢だったとわかったように、涙はとめどなくあふれて。その様によかったよかった、と繰り返しつづける結城の声にも鼻音が混じる。華やかな舞台の端で、カーテンの陰で、小さな芽たちはささやかな光と水を浴びて。大きくなる、なれる、と震えている。湿った日陰の隅っこはスポットライトを浴びる舞台とはやはり隔絶されているけれど。

 やがて最後に、二人分の嗚咽に混じって響いた。ず、と鼻をすすって、かすれて消え入りそうな小さな呟き。それでもかみ締めるように。

「……ありがとう」




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