四章「いそべんはいかにしてイソゲッペルスに進化するか」2
新聞部の扉をくぐると、机の前でパイプ椅子を並べてのんびりしていた数人の学生がこちらを見て、ガタッと立ち上がった。
「佐倉さん!」
喜色混じった声だ。
「わざわざ来てくださるなんて。こちらから出向こうと思っていたのに……っ!」
ばたばたばたと、パイプ椅子とジュースが用意された。ここまではっきりした「大歓迎!」ってのも初めて見るかも。ちなみに俺と時任にはジュースと椅子はない。ちらりと時任を横目で見るが、当たり前のように腕を組んでそ知らぬ顔をしていた。ウケがいい、と言ったけれど、こりゃ半分信望者が入ってるな。
「あの今朝の垂れ幕のことですよね!」
「指導室での話も聞いてますよ!」
「今回はひときわ派手でしたね、盛り上がると思いますよ」
ただ、きらきらした目で囲まれる佐倉さん自身は、部室で時任に完全無視されたときや生徒会メンバーと対峙したあの時と、まるで変わった様子はない。冷たくされようとちやほやされようと、まるで関係ないとばかりにいつも機嫌が良さそうで動じない顔。
「さっそくなんですけど、一枚いいですか」
「写真はいいんだが、ちょっと待ってくれないか」
時任が始めて声をあげた。すると、カメラを構えていた生徒が「ああ、はい」と言った。
うっわ。
声をかけた瞬間の、相手の表情というか、声と言うか。すうっと熱が消えてものすごく無感動というか平坦になったというか。別に時任に悪感情があるというわけじゃないんだろうけど。熱狂しているファンの前にアイドルにかわって突然マネージャーが出てきたらこんなテンションになるのかな。しかし、時任は当たり前のように
「集合写真にしてほしいんだ」
「ああ、メンバーさんですね。あの一年生さんがいないみたいですけど」
「半田もそうだが、他にもメンバーがいる」
「部員が入ったんですか?」
まさか、と言外に聞こえてきそうだ。初めて俺にも視線がくる。そのうちの一人があれ? という顔をしたけれど、その前に時任が口を開いたのでそっちに戻る。
「いや、ちょっと事情が違う。まずは垂れ幕の動機から聞いてもらえるか」
はい、と複数の手帳が開かれた。時任の説明に、さっきの態度とはうってかわってまじめにメモをとっていたが、その幾人かが途中で手をとめた。唖然とこちらを見ている。残りはものすごく激しくペンを走らせ始める。時任が説明をし終わったとき、がりがりとページを破きそうなメモの残滓があって。
そして最後にそれも終わって、一瞬、しん、と部屋に静寂がきた。
「――ちょおっ! すごい、すごいじゃないですか! そのっ、生徒会は承知したんですね。はい、おいっ、今月号、まだ刷り終わってないよな! 絶対に刷るなよ! 全面差し替えだ!」
興奮にうわずった声で騒ぐ。
「その、篠原――どんな字ですか? ああ、はい。友達の子で、友子さん。彼女が代表ですね。ああ、あの生徒会で続いていた唯一の二年生。名前は存じていませんでしたが、聞いてますよ。クラスは? で、彼女は? 来てないんですか? できればインタビューとか、写真もほしいな」
「それは、第二段ってことでいいか。まずは宣戦布告と告知をバーンと出して、誰だ誰だって好奇心をあおったところで、満を持して、という感じで」
「いいですね! 時任さん。それ!」
いただき! と相手は子供のようにはしゃいでいる。
「うちの取材は継続的に受けてくれるってことで構いませんよね」
「それは構わないが。ひとつだけ、条件がある」
時任がさらっと言った言葉に、相手方が戸惑いの顔を向ける。
「ええっと、それは何か要求みたいなもんでしょうか」
「いやいや。広報の精神に寄るもんだ」
「広報の、精神」
繰り返す相手に、時任は引き絞った目で笑った。
「中立」
「ええっと、それは、もうはい。当たり前じゃないですか」
あははは、と笑う相手に時任も笑顔のまま、ちょっと身を近づけて
「まあ、向こうの人気は凄いから、生徒会寄りの記事書けばうける事情はわかるけれど。いろいろ聞いているだろ? あちらさんがうちほど協力的だと思うかな。結局、材料がなければ成立しない商売だよな、お互い」
「はい」
その声はちょっと小さかった。突然、ズズーっとまるで異質な音が場を響かす。全員の視線を受けながら、佐倉さんが加えたストローでジュースを飲み干してまだズズズと凄い吸引力で音をさせているらしい。ようやく口からストローを話して
「ちゅーりつ」
佐倉さんがにっこり笑った。
仲良しともそうじゃないとも、なんとも言えないやりとりだった新聞部の部室からの帰り道。俺が感じたなんとも言葉にしにくいものを聞くと、時任が冷めた表情で
「あいつらとつきあって、新聞とかテレビなんてマスコミの言うことが、いかに鵜呑みにするもんじゃないってよくわかったよ。基本的に、やつらは要素を見て、自分の作りたいストーリーの中に当てはめようとする。時代劇の世界だな。水戸黄門とか、暴れん坊将軍とか、そういう、必ず、決まった絶対的な型がある」
釘刺すくらいでちょうどいい、と言う。本当に同い年かこいつは。しかし、新聞部や放送委員会とそこそこ付き合いがあるらしい時任がこんな感じでは
「やっぱり、いそうにないかな」
「あれか」
「そう。さっき半田君が言ってた、宣伝――」
「ゲッペルスぅ!」
それだけを嬉しそうに佐倉さんが叫んだ。すると時任はなぜか歯切れの悪そうな顔をした。
「多分な。半田はあれ、心当たりを思い浮かべて言ったんだと思う」
「心当たり?」
「新聞部にいるんだよ。……さっきはいなかったがな」
「どんな奴?」
「熱心な人だよ。お遊び半分の奴も多い中で、本格的にマスコミュニケーションって奴に取り組もうとしてる。自説のメディア論を展開して幾つか論文も書いているし、大学の講義にも通うくらいだからな。将来も絶対にその方面で食おうって意気込みがあると思うぜ」
「へえええ」
向上心がある奴だな。まるで別世界の存在のように感じられる。将来の報道界をしょって立つのは自分だ、ときらきら輝く夢溢れる奴、かな?
「お前がそこまで言うなら、すごい奴なんだろ。なんではじめからそいつに決めなかったんだ?」
「癖がある」
癖?
「実力は高いんだがな。弁論大会や時事をテーマの論文でいくつも賞をとってるし」
「へえ――」ちょっと呟いて考えてから俺は首をひねった。「そんな奴いたっけ?」
賞だのなんだのもらう奴はたいてい朝会やらなんだので呼び出されて表彰されるから、常連さんならちょっとは知ってそうなものだが。
「色々こだわりが強くてその手のは呼ばれても絶対でない。断固拒否するのがわかってるから、教師陣も諦めて呼んだりしない」
「ああ。いそべん」
ここで佐倉さんが気づいたようにぽんと手を打った。いそべん?
「いそべんいい! いそべんにする!」
「お前はよくてもなあ…」
いそげっぺるすー! と叫び両手をあげる佐倉さんに時任の渋い顔。
「何年? なんて名前の奴なの?」
「三年。磯部善二郎だ」
先輩かあ。古風な名前の彼も、きょうだいの二人目なのかなと、他愛なく考えながら三階から二階の最後の一段をおりて、右足を廊下につけた瞬間だった。
その廊下からまるで電流が走って足裏から流れこみ、電気を走らせた蛙の足が跳ねるみたいに。ほとんど無意識に俺は左の廊下に身体をまわしていた。
「国枝?」
そっちじゃないぞ、と言う時任にえ、とつぶやいて反射的に何故か俺はごまかし笑いをした。そんなことはわかってる。でもこっちに行くのを許して欲しい。こっちに行ってもあるのは事務室、印刷室、紙倉庫。……印刷室!
「国枝!?」
背後の時任の言葉を引き離して、駆け出す印刷室に飛びついた。ドアは開いていた。でも中は電気がつけられていない。やや古いコピー機や印刷機が両壁に寄せられて、古紙の匂いがかすかにする。そこには薄影を表面に写し取った白い紙が散乱していた。そして紙の上に。
「ゆうちゃん……!」
俺の背後から追いついた時任が「半田っ!」と呼ぶ。
白い紙の上に倒れた半田君らしき男子生徒と、その傍らに膝をついていたゆうちゃん。ゆうちゃんが首を回して俺を見上げた。大きく見開いた瞳。
「半田!」
立ち尽くしている俺の横から、時任と佐倉さんが中に入った。二人に支えられて上半身をおこした半田君が、いててて、と小さく言った。その左頬が少し腫れている。
「どうしたお前!」
あ、部長、隊長、と呟いて半田君は少しハッとしたように首をめぐらせ、ゆうちゃんを見るとほっとした。どうした、と重ねられる言葉に首を戻すと、その顔に浮かんだのは気まずそうな表情だった。半田君は、ええっと、と呟いてから。
「初めに弁解させてもらいますと、薄暗がりの密室で二人っきりというシチュに魔が差して僕が篠原先輩に襲い掛かったということじゃないんです。怪しいのはわかっています! 状況証拠もお前しかいない! 吐け! さっき食べたカツどんをげろげろと! 信じておまわりさん! それでも僕はやってない!!」
「半田」
時任の低い声に半田君は茶化しきれないと悟ったのかそれでも困った顔のままううんとうなるのみだ。話したくないらしい。
「……来たんです」
返答は別の方角から来た。
ゆうちゃんはずっと俺を見上げたまま。瞬きしない瞳は、大きく開かれていてもそこに感情はない。何もない。俺は息もできずに見つめた。
「――生徒会長が」
「篠原先輩」
顔をあげると両手に文集のような冊子を抱えた半田瑞貴が、人当たりのよさそうな笑みを浮かべて近づいてきた。
「これ、コピーしませんか?」
部室で佐倉たちと別れた後、半田と友子も図書室に場所を移した。卒業アルバムの一ページには伝統として歴代の生徒会メンバーの集合写真とその下に彼らの所信表明が刻まれることになっている。
お互い図書委員だったということもあり、顔見知りの学校司書に相談したところそれを教えてもらった。司書にかけあって近年のものを中心にごっそり借り出した。
友子が持つと言うと、軽いですから、と半田は首を振る。十冊程度のそれを抱えて、階段を挟んで同じ階の印刷室へと向かう。
部屋に着くと、半田が奥に置かれた机に文集を置きに進み、友子が入り口のスイッチを探した。棚代わりにされている使われなくなった生徒机に置いた半田は、そこで息を呑む音を聞いた。振り向くと、電気はまだつかない部屋の中で、ドアから差し込んでくる光の中で、友子の背中が見える。それは後ずさってこちらに近づいている。
「しのはら――」
先輩? とつむぎかけて、彼女の身体で影になっていた入り口に誰かが立っているのが見えた。半田が着るとなんてことはない白のブレザーが、ひどく上等な気品ある服に見える。それに包まれた、東堂や南城のような上枠にぶつかるような高さはないが、扉にちょうど収まりそうな上背。
見たことがある、と半田は思った。だいたいはいつも遠くから。壇上にあがる文句のつけようのない白いなめらかな頬に、落ち着きはらったしぐさ。遠くから見るその人はいつも非現実めいていて、テレビや映画のスクリーンにいる誰かを眺める感覚とそう遠くはなかった。区画が違うので滅多にはないが、たまに廊下や校舎ですれ違うと違和感を覚えたものだ。生身の人間だったのかと。
いつもは聴衆をひとまとまりにしてめぐらされる静かな双眸が、今はたった一人に定められる。唐突な登場もあわせて、何か冗談のようなイメージを浮かばせた。
戸口にかけた手を離して相手は一歩をこちらに詰めた。友子が後ずさる。もう一歩。表情が動かない。友子の足が動きをとめる。凝然と、なんの隔たりもなく対峙した相手を見つめる。その背が震えている。
それを見たときに、ぱちんと覚醒できた。彼女の前に回り込み、半田くん、と喉を小さく震わす声をもっと後ろに行かせようと肩で押しやる。
友子という隔てがなくなったため、まっすぐに相対することになった相手に、さすがに緊張したように半田は唾を飲んだ後。
「すみません。それ以上、篠原先輩に近づかないでください」
相手は一拍をあけた
「――なぜ?」
男として格段に高いというわけでもないのに、不思議と透んだよく通る声だ。どんな騒がしさの中でも、ぴたりと全校生徒をとめて耳を傾けさせる。いろいろなものがとてつもない隔たりがある、と客観的に思いながらそれでも半田は広げた腕を張って相手を見た。
「篠原先輩があなたに近づいて欲しくないからです。そして。僕らも。あなたを篠原先輩に近づけたくないからです、会長」
「それでも聞いてくれなくて。近づこうとするので、近くに積んでた紙を相手にこうぶちまけて、その隙をついて横を抜けようとしたんですけど。その時に、相手の肘が入っちゃったみたいで」
普段の様子とはうってかわって、半田君はひとつひとつを慎重に語る。
「そのときは相手は紙を振り払っていたので、攻撃しようとする意図はなかったんだと思います。紙を振り払おうとした手が、運悪く当たったみたいな感じでした。僕も結構派手にふっとんだみたいで。一瞬、意識がちょっと飛んで」
半田君は腫れた頬を無意識にかいてしまったらしく、いてて、と言った後。見回して「すみません」と頭を下げた。
「みずっちゃん!」
いきなり佐倉さんが抱きついた。
「みずっちゃん、がんばった!」
びっくりした半田君は、ひえええと抱きつきかえしながら
「うわあああ、隊長! だめえ、ファンに殺されます! ああ、でもやわらかい! いいにおいがする!」
「俺の胸板でも抱きつぶしてやろうか」
「それはそれで一部のアニキィ! たちに嫉妬される気がします!」
でもウェルカムです、と時任の方にも腕を広げた半田君を小突く真似をした後、時任は腕を組んで
「お前にしてはよくやった」
半田君もまた頭をさする真似をしながら、そのときは純粋に嬉しそうに口元をほころばせた。
「ただ、意識が飛んだってのは気になる。とりあえず、保健室に行くぞ」
「おー!」
佐倉さんがほそっこい腕なのにひょいと半田君を抱き上げた。やめて隊長、お姫様だっこはやめてぇ、それならせめて部長と禁断噂される方がましです! と半田君がきゃあきゃあわめく。頭を動かすな、と釘をさした時任が、俺の耳のそばで「連れていっとくから」とだけ言って奇変隊たちは出て行った。
薄暗い部屋で俺とゆうちゃんは残された。
「ゆうちゃん――」
大丈夫、とはもう聞かない。ずっと昔に決めた。大丈夫じゃないのに、大丈夫だと言うあの瞬間が、笑顔を見るのが、いやになったから。
「ゆうちゃん」
しゃがみこんで、動かない肩を俺は抱きしめた。腕が震えないように必死に制御する。でも声も震えないようにすると、結局どちらかが揺れる気がした。ぐらりと酩酊する薄暗い部屋。結局電気は最後までつかなかったその中で、俺がまわした腕にそっと手を触れさせて
――そうちゃん。
と、ぽつりとゆうちゃんが言った。
それから俺はゆうちゃんを連れて印刷室を出た。結構ぐしゃぐしゃだった部屋をそのままにするのは気がひけたけど、それ以上そこにゆうちゃんを置いておきたくなかった。部室まで鞄を取りに行って学校を出た。時任たちには後でメールをしておこう。
俺はずっとゆうちゃんの手をつかんでいた。靴を履き替えたりするときも、できるだけ離れなかった。本当はもっと触れていたかった。できるならずっと抱きしめていたかった。せめて半田くんを連れていった佐倉さんみたいに、抱っこをして連れていきたかった。ゆうちゃんとぴったり同じ身長の俺には叶わないだろうけれど。
俺とゆうちゃんの家は近い。1ブロックも隔てていない。最後に分かれるのは、大き目の道路から離れて、突きあたる壁の前。ゆうちゃんは左に、俺は右に行く。でも今は手を離さずに右に引っ張った。ゆうちゃんが少しだけ俺を見る。
「俺んち、誰もいないから」
ゆうちゃんはついてきた。
鍵をあけて家に戻る。お父さんとお母さんは二人とも今日は八時まで帰ってこない。お邪魔します、と小さく呟いてゆうちゃんは靴を脱いで、靴箱の下にそっと隠した。
玄関からあがってすぐの階段をあがり、二階の俺の部屋に一緒に入る。こういうことになるとは思わなかったので、少し散らかっている。でも足の踏み場がない程じゃない。この部屋には勉強机の椅子しかないので俺はベッドに腰掛けて、枕元の目覚まし時計をとり念のために七時にセットした。その間にあけておいた俺の横にゆうちゃんも腰掛ける。
時計の針の音が少し耳につく。ゆうちゃんに手を伸ばしてベッドにゆっくり倒れた。シーツの中に沈んでいく。深さは二人分を受け止めたと考えてもさらに深い気がして。沈んでいく。
あの印刷室と同じように電気は初めからつけていない。薄暗い俺の部屋の中で、ゆうちゃんの鞄がぱたりと倒れる音がした。