十章「決戦の文化祭」13
「国枝」
口火を切ったのは時任だ。
「国枝」
もう一度呼んだ。けれど、続ける言葉は吐かず苦しげに横を向く。
その隣でぱっと誰かが立ち上がる。半田だ。拳をにぎった仁王立ちで天井を睨み、そしておもむろに叫んだ。
「ドラえもーん!!!」
響きの残りが消えた後。
「はい来ない!」
ぱんっと自分で打ち切るように半田は自分で両手を打ち合わせ
「ぜんえもんはいてもドラえもんは来ないんです! だから過去にはいけません! 故に、僭越ながらおもてなしに続きまして今年の流行語大賞つながりいかせていただきます! 挽回撤回巻き返しいーつやるのーっ!?」
見上げる顔に向けて、今でしょー!! と高らかに後輩は叫ぶ。
「すっかりネタ扱いですけどこれ本質ついてますよ林先生の言ってること正しいですよ! 過去のことはどうしてあげられないですもん! だから今でしょー! いま手伝わせてください! いま四天王ラスボス攻略しましょうよ! いま西崎辺り倒して所詮奴は四天王の中で最弱とか定番台詞言われたあと残りもコンボしましょうよ! 倍返しもいっときましょうよ! 僕も女装もっと磨きますよ! いま。いま。いま! 今でしょー!! 」
今でしょ今でしょと早口で紡ぐうちに、舌がもつれだして息が荒くなり半田の目が歪んでいく。引きずられるようにうつむいていく顔は、それでも「いま」と最後に一言漏らす。
「――国枝」
轟くよう声がうなった。時任が睨むように鋭く目を向けている。
「俺は前に言ったようにそんなに深い生き方はしてない。だからお前に自信を持って言える言葉なんか、どこ探しても見つからなかった。耳あたりのいい言葉なら幾らでも紡げる。お前の話を聞いたとき、咄嗟にそんな言葉がめぐった自分が嫌になった。半田の方がよっぽどマシだ。俺の言葉はきっとお前を支えられない」
ぐっと身を乗り出す。
「だから、俺は行動で示す。お前が今回の全てをやるって言い出したのは、篠原さんのこれからのためだろう。お前は過去を悔いて、その先に進もうとしているんだろう。なら俺は全力でそれを支える。お前の決心を固めたあれも全力でサポートする。全部。全部」
「今でしょーっ!」
ばっと顔をあげて半田は真っ赤な目元で叫んだ。
「だって過去は無理ですもん、ドラえもんいませんもん! 無理ですもん! だから今でしょー! しょー~~っ…!」
言葉を詰まらせた半田の目から、そのかわりというようにひらひら涙が溢れる。
「……」
国枝は少し顎をあげていた。まだ正座した体勢のまま、疲れた顔には困惑が色濃く、半ば茫然自失の状態で部屋に繰り出された諸々が流れ去る様を見ていた。一応は半田と時任の両者が声をあげるたびに首が動いていたので、認識はしているようだが、リアクションをとる余力はなさそうだ。
それでも、あまり稼動していなさそうな頭のほとんど本能的な部分で国枝は、うわんうわんと手放しで泣き続ける半田をなんとかせねばと思ったようだ。
膝立ちで距離を詰め、ええっと一瞬戸惑った後、そっと頭に手をおいた。
「泣かないで」
半田は一瞬びっくりしたように濡れる瞳を見開いた後。
先輩っ、と盛大に叫んで抱きついてきたので、膝立ちだった国枝はうわっとよろめいた。
「過去のことで泣かないでくださぁい!!」
「いやおれ泣いてないから」
「僕の頭部で泣いてくださいッ!」
「どっち?」
ってか頭部? と泣く半田を腕に抱えながら、途方に暮れた国枝が助けを求めて首を回し、その視線がある一点に凝然と止まる。
ぴっと白い指が天井をさして。
何故か国枝のベッドの上で、佐倉晴喜が直立不動のポーズをとっている。胸を張り、自由の女神もかくやとばかりに腕をあげて。
なにかしら予感を覚えながら視線を外せない国枝に向けて、百戦錬磨の司令官でもあるかのように、白い指先を堂々つきつける。そして命じた。百戦錬磨の司令官のごとく。
「国ちゃんの全てを包んでー!! 抱きつけ第三弾ーっ!!」
「待っ――」
て、と言いかけた身体が、抱えていた半田に引きずられて沈む。盛大な物音と何かが重なって倒れる音。そして続くうわっぎゃっと潰れる蛙の断末魔。
老夫婦が心配げに見上げる階下も知らず。
音が消えた部屋の中。空中は光に照らされてかすかに見える埃がほわほわと舞っている。
涙の残滓に鼻をすする音が少しだけ響いていたが、それもおさまり後は静寂だ。時計の秒針だけが動く。他の全てが動かずとも。マイペースに。そして長針も幾度か動いて。
「……」
ふっ、と一番下から息が吐き出された。それは、今まで数々に奇変隊の面々に注がれてきたものだ。破天荒でとんでもなくてぶっ飛んでいて。でもどこかでいつも憎めなさを残して、仕方ない、と許せてしまう。今は特に多量の愛情が混じっている。
「――」
言葉では知覚できずとも、経験であるいは直感で、奇変隊の面々には読み取れた。国枝宗二は、少し我を取り戻したようだ。立て直したような様も見せた。
でも、それは多分に。彼の気遣い故だ。彼はこちらを悲しませないため、自身が悲しまないようにしたに過ぎない。己がどれだけ悲しみの底にいても、誰かが泣いていることを放って置けない性分だ。ひび割れた隙間から、一瞬だけのぞいた剥き出しの彼は、ただ隠れただけだ。
言いようのない苦味を伴って無力さと迷いが染み渡る。山となったそこからむくりと一人が離れる。
「国枝」
重なる佐倉と半田に埋もれた彼の顔そばで、遭難した誰かにそうするように、時任大介は両腕をついて顔を必死に近づけた。
「お前は、どうしたら弱音を吐けるんだ」
転がったまま、目を向けた国枝の顔がすべてを語る。必死に顔を向ける相手が、自分に重なる重みが、何を求めているのかも、全てわかってそれでも、吐き出せないものが溜まり詰まって息を喉を絞めあげるように。
こうしてこいつは声をなくしたのか。不意に時任はそれを直感し、病がうつるように息詰まりを覚えた。
「国枝先輩」
絡まった塊のどこからか半田の声が聞こえる。ごめんなさい、と妙に静かな響きの声も。
「先輩が弱音を吐いてくれることが、僕達への最大の思いやりで優しさなんです。国枝先輩の半分は優しさで出来てると信じてます」
「うん」
短く佐倉がうなずいた。「残りは篠ちゃんのこと」
密着した部分が熱い。制服と肌の間に汗が伝う。その熱と息遣いだけが伝わる。時計だけが止まらない。あるいは止まれないその業のまま。秒針が動く。長針も動く。
肌に痛みを感じるほどの沈黙の中。
ハ、と声を発するために、息を吸う音が響いて、時任は肩に力を入れる。半田もぐっと身体を固めている。佐倉は瞬きもしない。耳朶だけではない。瞳を鼻を全身の皮膚をすべて聴覚に集めて。息遣いが限界まで煮詰められて。
「……変なこと、聞いていいかな。それで嘘でいいから……俺が聞くことにさ……嘘でいいから――……うん、って言ってくれない?」
「イエスキリスト!」
「お望みなら高須クリニックもつけます!」
山が跳ねるほどの勢いで弾かれた言葉に「それはいらないけど……」とわりと冷静な声が呟いて。覆う掌も出せずに、わずかに動かせる首だけで天井を向く。それでも視界には、覆いかぶさる三人の襟や裾がちらちら入る。
「俺は」
手放しで泣ける半田のようには、いかない。声を殺して。いつもぐっと声を殺して。辺りをはばかり臆病に。本当に言いたい言葉こそ詰まらせてなくして。
「俺は、ゆうちゃんのそばにいていいかな……」
ようやく人の山がとかれて上体を起こしたとき。
一生分のキリストと高須クリニックのコンボを聞いたよ、と国枝宗二は言った。そして心配そうに囲む三人に向けて、顔を拳で覆い、そばにいたい、と絞り出した。
木がたくさんあるからではなく、壁を緑色に塗っているからみどり園。
ローカル駅から25分離れた場所にある施設を見て、人が思う多くの第一印象はそれだ。四角い建物は無個性で、『養護施設みどり園』と控えめにかけられたプレートがなければこの建物が何かをあてられるものは少ないだろう。門が柵でできているところだけは、わずかに幼稚園や学校といったものを想起させないでもない。
入ってすぐの右側に壁に四角い穴があいただけの受付がある。ロビーといったものはないようだ。細長い廊下の突き当たりに窓が見える。廊下に誰のものかわからない上履きが逆さになって転がっていた。「ひろせ ゆい」とひらがなの名前が見える。
それを眺めていた後ろから、声がかかった。
「――さん、着替えは職員更衣室を使わせてもらえるから」
「ええ」
振り向いて奥に進むと手前に園長室、その奥に職員更衣室がある。しかし、呼ばれた名の主はまだ前を向いていた。事務的すぎる、というわけでもない。けれどこれがホームだと言われれば違和感がある。家庭的になりすぎないようにどこかで気遣っているような。
「真上さん」
再び響いた呼び声に、ええ、と答えて真上美奈子はきびすを返した。




