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十章「決戦の文化祭」12

 ――階段の角から顔を出し、俺は廊下の人影を伺った。

 下校時刻をだいぶ過ぎたこの時分、校舎に人影はない。顔だけ突き出すような姿勢でいると、いつもの制服と違う、ごわごわした布地が顎をこする。どうしてこのまま来てしまったんだろう、と後悔した。

 誰かが見たらやっぱりストーカーだ、と断言されるだろう今の自分のしていること。ましてやこの服じゃ先輩方にも迷惑をかける。全部全部わかっているけれど、いやわかっているつもりだけれど。

 廊下に人影はいない。素っ気無いプレートが揺れるそこに、電気がついているかどうかこの角度からは確かめられない。もう少し身を乗り出そうとして、不意にがらっとドアが引かれた。

 咄嗟に身を引くと同時にがやがやと声と複数の足音が角向こうから聞こえる。心臓が一度跳ねたけれど、それは近づかずに遠ざかっていくと気づいて、思い切ってもう一度角から顔を出す。

 頭の後ろで腕を組んだり、肩を回したり、小さく転がしたり、三人の生徒会役員が俺とは反対側の廊下に向かっていく。名前は確か西崎、南城、東堂。

 大層な人気があるらしいけれど、詳しくは知らない。人目を引く姿形をしているのは、後姿だけでもわかる。でもそこから流れる雰囲気から、わずかに聞こえてくる言葉の調子から、少しだけ垣間見れる横顔から、好意的にとれるものは何一つも感じられない。

 他人に明確に格差をつける。自分は違うと感じている。それ故に人を見下しても恥じ入るところはない。あれらはそういう人種だ。理屈じゃないところで、そう思った。あれらは疑いもなく人を搾取する人間たちだ。ゆうちゃんのそばにいるには、最悪の相手だ。

 生徒会室。ゆうちゃんはきっと中にいる。最後まで残っている。そういう子だ。誰にも嫌とは言えない。やめることも断ることもできない。だから。

 乱雑に閉められたせいか、生徒会室のドアは少し開いていた。中は電気がついているのがわかった。ゆうちゃんはここにいる。

 そっとのぞくと目に入ってきたのは重なり合うプリントだった。白い床に何枚もばらまかれたそれ。そして身をかがめてそれを拾う――ゆうちゃん。

 黙々と、ゆうちゃんはそれを拾っている。膝をついて腰を曲げて。ぱっぱと寄せて集めるような真似はしないで。ゆうちゃんの顔は見えない。下を向けば顔は横髪で全部隠れる。ただ黙々と、黙々と。

 何を賭けてもいい。馬鹿みたいな量のそのプリントは、ゆうちゃんが落としたものじゃ絶対ない。ずっと昔から、誰かが汚した床を、誰かが放り出したおもちゃを、誰かがぐちゃぐちゃにした棚を、ゆうちゃんは処理し続けてきた。歯痒くなるほど丁寧に。

 そのたびにいつも俺は腹が立って腹が立って。無責任な誰かが、その無責任さを責めもせず黙って肩代わりするゆうちゃんが。

 今も同じ怒りが腹を焼いたけど、一人でプリントを拾わせるわけにはいかない。もう引き受けちゃダメだよ、と言いながら、耐える以外に術のない君の横で俺は、一緒に床を拭き、一緒におもちゃを片付けて、一緒に棚を整理した。ずっと昔から。

「篠原」

 扉の隙間にかかった手が力を入れるより一瞬はやく。その声は聞こえた。今まで扉で阻んで見えなかった場所から、重ねられたプリントが差し出されている。ゆうちゃんがそちらに顔をあげる。横髪が流れてゆうちゃんの顔が見える。

「……――ありがとうございます」

 君の、顔が見える。





 時任たちが招かれて家の中にあがると、階段から国枝宗二が顔を出した。。

 いらっしゃい、と言うその顔は穏やかで、時任たちは出鼻をくじかれた思いで、あ、ああと呟くうちに、あがってと二階に案内される。二階のつきあたりにあるのが宗二の自室らしい。

 勉強机とベッドと幾つかの棚があるだけの、物が少ないこざっぱりとした部屋で、

「楽にして」

 とそう言いながら宗二はきちんと正座した。そして三人が座るのを待ってから、両手をついて頭を下げた。

「いろいろ回りくどい真似させて、ごめん」

「いや……」

「いやな思いをさせて、本当にごめん」

「――国枝」

 時任大介は顔をしかめる。

「本当に、かまわないんだ。そんなの。佐倉と半田はお前も知ってるとおり能天気のきわみだし、俺も他人より平気なたちだ。自分が迷惑かけられた、というより、お前の力になれない方がきつい」

 その言葉を受けて国枝宗二は笑う。少なくとも、笑おうとしている。

 あまり成功はしていないまま、彼は言葉をさがしていたようだ。少しだけ目がさまよった後に。

「小説とか映画の中じゃさ、孤児って賢くて意思が強くて自分の力で運命を切り開いてハッピーエンド、みたいなこと多いじゃないか」

「ああ……」

 意図がわからず眉を寄せる時任の前で、宗二は横を向いたまま

「でも、それは俺、無理だから。とりえもない凡人だから。だから、せめて迷惑をかけないようにしようと思ったよ。周りの人を傷つけないようにしようって。せめても。たいしたことじゃないけど、それが俺の生きるスタンスっていうか方針だった……」

 語尾は弱く消えて。黙りこんだ末に、やがて覚悟を決めたように。 

「お父さんとお母さん、自分達が悪いんだって言ってなかった?」

 三人の顔にあらわれた答えを読み取り、国枝宗二の顔がさっと青くなった。肩から腕に震えが走り、自分の膝頭に指が食い込む。

「あの人たちは、優しすぎる」

「……国枝」

「あの人たちは立派な人だ。誰にだって胸を張って恥じるところなんかない人たちだ。そんな二人を、俺は死ぬほど嫌な目にあわせた」

「国枝」

「一度、先方がこの家に来たことがある。出て行ってって言われて、玄関先でお父さんとお母さんが小さくなってすみません申し訳ありませんって頭を下げてた。お願いします声を落としてください子どもに聞こえてしまう、そう母さんが懇願する声が聞こえて。俺は何をしてるんだろうってどうして俺はこんなことしかできないんだって」

「それはお前のせいじゃ――」

「それでも俺は言えなかったんだ」

 宗二の声が跳ね上がる。階下の両親を気にかけてか、ぎりぎり抑えてはいるようだが、その自制が余計に悲痛さを物語る。

「この家から出て行っていいって。もういいよ。前のうちに戻ろうって。俺は言わなかった。俺は出て行かなかった。階段の影で固まって何もしなかった。ゆうちゃんのそばから離れるって言えなかった。――迷惑かけたくない? 傷つけたくない? ……笑えるよ」

 笑えるよ、と震える拳で殴るように顔をこすって。

「……――ゆうちゃんのお母さんに、会ったんだよね」

「ああ」

「あの人はゆうちゃんをすごく愛してる」

「……」

「向こうの気持ちだって、よくわかる。養護施設に入ってたとかって、噂になったり色眼鏡で見られたりするから、忘れたい人もいっぱいいる。せっかく新しい生活を始めようとしたのに、それが追いかけてきたらたまらないだろうって。ゆうちゃんのお母さんが追い詰められるのもわかる。誰も悪くない。俺だけが悪い。俺が我慢できなかったからだ。それがみんなを不幸にした」

「篠原先輩は違いますよ!」

 再び膨れ上がりそうな宗二を危惧して、半田が声をあげた。

「篠原先輩は先輩が近くにきてくれて、嬉しかったんでしょう。お弁当の卵焼き。明太子しか入れないって。国枝先輩が好きだからでしょう。篠原先輩は、先輩のおかげで幸せですよ」

 国枝の顔から表情が消えた。

 テレビモニターの一時停止のようだ。その異様さに半田たちは思わず唾を飲みこむ。やがて宗二は震えだす。青ざめた頬が唯一の感情の片鱗を残す。

「ゆうちゃんが幸せなら、俺はそれでよかったんだ。俺は、ゆうちゃんを、守りたかっただけだから。たまに姿を見れたらそれでよかった。だから、中学まで我慢して、学校だって別にした。数年たったからゆうちゃんのところも少し落ち着いたみたいで。大学に入ったら離れるからって、これだけだからって。いいわけもないのに。同じ高校になって俺は浮かれてた。干渉したりそばにいすぎるのはやめようって思ったけど。人が見てないところならいいだろうって。二年の5月の終わりくらいにゆうちゃんが生徒会に入ったって聞いた。俺、急いでやめさせようとした。大丈夫だよ、と言った。それでも心配でたまらなかったから、隠れて様子を見てた。向こうの言うとおり、俺はストーカーだったよ。どうしようもなく」

「……」

「そしたら、やっぱり生徒会の連中はちくちくやってた。やめさせようって思った。でも……。ゆうちゃんは、居場所を見つけたんだと思ったよ。ゆうちゃんもそこにいたがってた。だから、距離をとろうとしたんだ。……もう、手を離さなくちゃと思ったんだ」

 話すうちに頬の筋肉が動いて無表情はなくなった。けれど、国枝宗二が浮かべているものは、笑いとはこんな表情だろうかと、不安になるようなものだ。美しかった花や野菜が腐臭を漂わすよう、いつのまにか変質して爛れて。

「だから俺は、ゆうちゃんに好きな人が出来たって言った。だから少し離れようって。ゆうちゃんの性格なら絶対に遠慮して距離をとると思った。ゆうちゃんはその通りにした。その後、どんな目にあっても俺に近づくことはなかった」

 見開いた瞳の表面に広がった絶望的な色がひび割れる。

「あいつらが許せない。北原は絶対に許せない。でも、それ以上に俺は。――自分の馬鹿さが、許せない」




 ――床一面にまかれたプリントを全部拾い終わって、ゆうちゃんは部屋の中心に置かれているパイプ机にとんとんと書類を打ちつけ揃えた。丁寧にめくって、汚れていません、と報告する。ずいぶんと手慣れた動作だと思った。

 「そうか」

 パイプ机を挟んで座る相手の言葉は素っ気無い。打ち切るような調子。だけど続きがあったようだ。ゆうちゃんはそれに気づいていた。相手はやはり抑揚なく、けれどレールを走る車両が別の道を求めてきしむような、その際に見せる不自然な振動が垣間見れるような、どこかしら不具合そうに、言葉を紡いだ。

「次は――」

 わずかな隙間からそっと身を離す。扉は閉めようかと思ったけれど、かすかな振動で気づかれてはいけないと思ってそのままに離れる。

 よかった。

 歩きながら笑った。よかった。よかった。

 本当にゆうちゃんのことでは心配し通しだった。寝ても覚めても、が誇張じゃないくらい。いつも君のことが気になった。あげくにストーカーしていろんな人を悲しませた。でも、ほら。世の中はうまく出来ている。健気で優しい女の子にハッピーエンドはしっかり用意されている。ああ、ほんとうによかった。

 階段をとんとんとリズミカルに下りる。にこにこしながら、ふと自分の襟元を見下ろして苦笑した。ごつい詰襟。学ランで覗き見とか、誰かに見られたらなんの言い訳もできない不審者だ。先輩たちにも本当に迷惑をかけるところだった。いつだって俺は誰にも迷惑かけたくない、と言いながら相手にとって一番ひどいことをわかりながらやってしまう。

 でもそれも今日で終わり。いつだって俺は唱えてきた。誰かを悲しませるたびに。誰かの顔を歪ませるたびに。心の中で。ゆうちゃんのためだから。ゆうちゃんが心配がなくなったら離れるから。

 踊り場まで来たので折り返す。

 めでたく晴れてそうなったんだ。そうだ。これは俺がせめても最悪のストーカーじゃないことの証明にもなれる。他の誰かに目を向けるなら、と困らせたり危害を加えるような、そんな屑とは違うって。最後だけは潔く、いたことが忘れさられるくらい綺麗に消える悪役であろう。

 唇の端をつりあげる。目じりをたらす。頬をゆがめ。顔をゆがめる。そこにゆるゆると伝う生暖かい感覚に、嬉しいからってやりすぎだろ、俺はこれから部活に戻らなきゃいけないんだし、とセルフ突っ込みいれる。はは。みっともない。ほんとみっともない。

 世界が少し歪んでいた。白っぽくて水っぽくて。そしてとんとん規則正しく降りていたはずなのに、視界もろくにきかない世界で、俺の足はせわしなくいやにせっかちに段を飛ばして走っている。瞳は見開いているから、風を浴びれば乾いて涙が溢れるのは自然だろう。何もかもどうでもよくなる世界で、嬉しくて笑う。よかったから笑う。笑うと決めていたから。

 心配しないで。ずっと決めていた。俺の手が君を離したがらないなら、俺は手を切り落とす。もう伸ばせないように腕ごと切り離す。なんでも切り離す。足も胴体も心も。

 ゆうちゃん。ゆうちゃん。君が俺のものじゃなくなったって。


 君のためなら、俺はなんでもしよう。









 


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