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十章「決戦の文化祭」11

 夕焼けはもう濃い。自分達の長い影を追いながら行く道が、少しの間わからなくなる。もう迷い子という年でもないのに、どこに繋がっているのか見当もつかぬ道にそろって迷いこんでしまったときのような心細さ。感覚を惑わす、逢魔が時の禍々しさだ。普段は明瞭な現実が赤黒く色づき様相をかえる。そして信じていた現実を逆に幻とかすませてしまう。

 けれど不安の道行は長くはなかった。角を曲がった先に目に飛び込んできたのは、一度訪れたことがある、一列に並ぶ家の中の一つ、薄茶色の壁の真新しい一軒家。ただそれを目指してきたはずの三人は、むしろ見つけたことに惑うように立ち止まった。

「……本当にすぐなんですね」

 表札の横にあるチャイムを鳴らそうとしたとき。先に扉が開いた。出てきたのは、先ほどの電話越しに声を聞いた、宗二の父親だ。彼はこちらを見下ろして動きをとめ、心労深き顔を向けた。

「急に無理を言いまして」

「い、いいえ。こちらこそ、体育祭ではお世話になりました」

 まだ当たり障りのない挨拶の領域の中。次の言葉はずばりと踏み込んできた。

「先方に、行ってくださったそうですね」

「……」

「宗二の様子がおかしいから、聞き出しました」

「……宗二君は?」

「今は二階の自分の部屋におります」

 そこをあおぐように一度見返った後、彼はくんと年を思わせぬ機敏な動作で向き合った。

「時任さん、半田さん、佐倉さん。――本当に申し訳ありません」

 腰を折り深々と頭を下げた彼に、時任と半田が慌てる。

「お父さん! 顔をあげてください!」

 けれど彼はその体勢のまま首を横にふる。

「決して、いい気持ちにはなられなかったでしょう。まだ年若いあなた達をこんなことに巻き込んでしまって、本当に情けない大人です」

「そんな…!」

 焦って無意味に周囲を見回した半田がふと気づく。佐倉が見当たらない。その半瞬後に、居場所に気づいた。膝を折りまげてしゃがみこみ、いつの間にか父親の影にすっぽり入るまで近づいていた。

 これにはかたくなに頭を下げ続けていた父親も驚いたようだ。思わず動いた目が、見上げた佐倉の視線とぱちんとあった瞬間、にこ、と佐倉が笑った。

 そして両手で自分の顔を左右からむにゅっと豪快に潰す。一拍おいて今度は引っ張って斜め下の糸目顔をさらす。次の変顔に移ろうとしたそこで、時任が無言で襟首をつかみ、猫の子をつまみあげるよう立たせて強制終了させた。

「……」

「お父さん」

 後ろから穏やかな呼び声が聞こえ、きい、と扉があいて母親が顔を出した。

「逆に、困らせているわよ」

「あ、ああ……」

 扉を閉めた彼女は、父親の腕にそっと触れて座らせる。急に力をなくしてしまったように父親はされるがままぼんやり座り込む。そして、気づいたように腰を浮かせて縁石の端に動き場を譲った。こんなところで悪いのですが、と言われるままに時任たちも腰掛ける。

 隣にガレージが併設されているので、玄関先は広い。門を背にして並んで座るともう夕日も終わる世界が目に入る。どこからか、子どもの声が聞こえてくる。

「……私どもの、夢だったんです」

「?」

「日が暮れて誰もが家に帰る頃に、このうちの扉が開いて気の済むまで遊んだ子どもが、「ただいま」と。一言、そう言ってくれるのが」

 遠い街角を見つめる夫の背を、妻である彼女は優しく叩いて。そして時任たちに目を向ける。

「友子さんの家に行ってきてくれたそうですね」

「……はい」

「ありがとうございます。私たちにはどうしても行けないところですから。――私たちはあの子の苦しみをなんともしてあげられないんです」

 彼女の横顔と呟きは、不思議とどちらも澄んでいた。深い苦悩が純度の高い結晶となったように気品高く。美しく純粋な分だけ、きりきりと胸をしめつける。

 腹を据えた大人の決意だ。生半可には触れられない。けれど触れぬまま在るだけに任せてしまうには悲しすぎて。

「……」

 きりたつ氷山のように圧倒され迷う半田の膝の上に、ぽんっと腕が無遠慮に乗ってきた。見ると時任の左腕だ。投げ出されるように置かれている。

 意図がわからず彼を見ると、いつもの生真面目な横顔で父親の方を見ている。身体も顔も相手を向いていて、その姿勢に惑いなどないように思えたけれど。腕はこちらに差し出されていた。力を貸せとばかりに。

 はっとして急いで腕に触れた。気づくと自分の膝を通り越した先の掌にはすでに佐倉が握っている。思いをこめてぎゅっと握る。向こうもぎゅっと一度、彼らの接触を確かめて。

 時任大介は立ち上がった。お父さん、お母さん、と芯が入った声で呼ぶ。

「とてもデリケートな問題なのだろうとはお察しします。でも、僕たちはみんな宗二君が好きで、微力でも力になりたい、苦しんでいるなら理解したいと思います。できたら聞かせてもらえませんか。何が起きているのか」

 身を寄せ合う初老の夫婦は、ゆっくりと時任を見上げる。

「もとよりそのつもりでこちらがお呼びしたのに、申し訳ありません。この年になっても臆病さは捨てられないようだ」

 伏せたままだった顔を、彼はきりとあげた。

「先にお話したいのは、私どもに非がある、ということです」

「……」

「宗二には、非は、ありません。私どもが勝手にしたことです。そして、そのことで先方がどのような態度をとられても、仕方ないのです。それだけのことをしました。あなた方もそう思ってください。ただ宗二にも――あの子にも。二人には決して非はありません、どうか今までどおりに受け入れてやってください」

「……わかりました」

 座ってください、との言葉に時任が腰掛ける。それを待って老人は皺が寄る喉に。細く息を吸い込んで。

「ストーカー一家、と。私どもは先方に言われております」

 時任、半田が息を飲む。

「警察沙汰や裁判沙汰に発展しそうな事態になったこともあります。――無理もありません。大事な一人娘のそばにいるために、他県から家を買って越してくるなど、常軌を逸している、と言われる領域です。いくら幼子が望んでもそれを諭すのが親の役目だろう、と言われては返す言葉もない」

 知らず開いていた口を閉じて、ごくりと乾いた喉奥に唾を送り込んで。

「……この家を購入されたのは」

「宗二が友子さんのそばにいるためです」

 苦い自嘲をこめて呟く父親に、しばらく言葉を失っていた時任だが、居住まいを正した。

「若輩の身で過ぎたことを言うと思います。でも、僕にはお父さん方が生半可な気持ちでそうされたとは思えない。何かが、あったんですか」

 父親の顔から自虐的な笑みが消えた。複雑な色合いを湛える瞳が、端に座る佐倉に向いた。

「佐倉さん……、でしたね。宗二もそんな風に笑ったのです」

「?」

「私どもはこんな年ですから。養子縁組を迎えるにあたり、悩まなかったわけではありません。こんな年で新たに誰かの親になろうなどと、おこがましい話ではないか。たとえ運良くひきとれても、その子がなついてくれなかったら、わたしどもが引き取ることで、かえってその子の人生を歪ませてしまったら、と。あなた方に話すにはまだまだお若すぎると思いますが、親になる怖さ、といいましょうか。お前に一己の存在が背負えるのかと、自分という存在の厚みが容赦なく突きつけられる。でも、それすら私どもには、この上もなく贅沢な恐怖でしたが」

「……」

「怖がりながら、何度も何度も、私どもはみどり園の門前に行きました。子どもたちの声にどうしようもなく心ひかれて、でもたずねることはできなかった。格子門の向こうから立ってのぞいている私どもは、はたから見たら怪しいだけの存在でしょう。でも、そんな私どもに気づいてくれる子がいました。それが宗二でした」

 皺の寄る目じりに、さらに皺を寄せて遠い日々に彼は微笑んだ。

「園庭で遊んでいた宗二は、門越しに私どもを見て、先ほどの佐倉さんのように、笑いかけてくれました。とても普通の男の子に見えましたよ。でも、私たちが怖がっていることが、不思議とよくわかっているようでした。何回か行くと顔を覚えてくれたようで、手を振ってもくれて。不安でたまらなかった私たちには、そのことがどれだけ勇気付けられたでしょう」

「あの子にはそういうところがあるんです」

 思わず、というように母親が口をはさんだ。

「勇気が出せずに怯えている、足踏みしている誰かの心にすぐ気づいて寄り添って、そして懸命に励ましてくれる。本能みたいにそういう性質が。門の向こうであの子が、口の形だけで「がんばれ」と言ってくれたとき、私達はようやく踏み出せたんです。……もう、心は決まっていました」

「ただ、園の方針で、里親や養子を望むなら、集団でのレクリエーションに何度か参加しなければなりません。そうして時間をかけて関係を作ってから初めて話を持ち出せます。宗二は私どもを覚えてくれていて、来れてよかったね、と言ってくれました。一緒にカレー作りやゲームに興じました。楽しいひと時でした。宗二も懐いてくれたと思います。幾度目かの訪問の後に園長先生に、初めの訪問時に申し上げた決心は揺るぎません、と告げました。そうですか、と園長先生は答えられました。そうしてご自分で宗二を呼びに行かれました。園長先生と一緒に入ってきた宗二は、私どもを見て笑顔になりました。その笑顔が消えたのは、園長先生が宗二に私どもの用件を伝えたときです」

「そのときの、あの子の凍りついたような顔は忘れられません。我にかえるとしばらく必死に言葉を探して。優しい子でしたから、私たちを傷つけまいと必死に断りの言葉を捜して。見つからなくて、ぼろぼろ泣き出して。泣いて泣いてようやく『ありがとうございます。僕は、お二人がとても好きです。こんなに大きな僕に言ってくれてとっても嬉しいです』と」

「……?」

「養子縁組はね、年が小さいほど希望者が多いんです。できるなら赤子、という方が多いそうで。六歳の宗二達には引き取り手はほとんどいなかったんです。申し出たときにも園側の先生に言われました。六歳なら前の暮らしの記憶が強くある。それでなくとも、宗二君はとてもいい子です。でも、同時にとても複雑な子だと。家族を次から次に奪われた子だと。そういう子は難しいところがありますと。私どもの思いは変わりませんでしたが、でも宗二は決して首を縦にはふらなかった。『ごめんなさい。僕には、ここに、大切な子がいるんです。僕はいけません』」泣きながら、宗二は繰り返していて」 

「そのときに、この人が「いいんだ」と言ったんです。あの子の肩を叩いて「君は立派だ。それでいいんだ」と。それを聞いてあの子はもう泣きやめないくらい号泣しました」

 やせ我慢ですよ、と父親が笑う。

「家内にそう酷なことを言わせるわけにもいかんでしょう。先走って勉強机まで見に行ってたんだから」

「それは言わなくていいでしょう」

 彼女は少し本気を混ぜた声音でとがめた後。

「その晩のこと、覚えてます。二人で家のちゃぶ台を囲んで。いい夢を見せてもらったことにしようと。本当にいい夢だったと」

 同じ表情で目を伏せる二人を前に、潔い人たちだ、と時任は思う。潔さのよさの中、あるいは果てに、たとえどんな煩悶を含んでいても、自身の中にきちんと折りたたみ収めてしまえる。彼らは彼らの苦しみを外にさらすことを由とはしないのだ。

「でも。後日、園側から連絡がありました。あの子がうちにきたいと。突然のことに信じられない気持ちを抑えて、どうして急にそう言い出したのか、聞きました。理由は明白でした。友子さんが引き取られることになったんです」

「……」

「宗二の心中を思えば、素直に喜べないことです。私どもの幸福が宗二の悲しみと結びついてしまったのなら。でも、健気な子でした。うちに来てからは、精一杯明るくふるまって、楽しそうな顔を見せて。本当にいい子でした。私どもは、すべてが夢のようで。家に元気な小さな男の子がいることが。家の中に「ただいま」と響く声が。宗二の食べる姿が、しゃべる姿が、眠る姿が、息をしていることが。何もかもが。毎朝、目覚めるたびにそれを思い起こして噛みしめました。当時の私どもはずいぶん浮かれていたんでしょうね。でも」

 薄影に息を吐いて、彼は続けた。

「ひきとって二ヶ月後に、宗二の声が出なくなった」

「!」

「心配かけてごめんなさい、と声を出さずに泣きながら宗二はただただ申し訳なさそうで。いろんな医者に見せたが、心意的なもの、と言われました。学があるほうじゃないが、わかりましたよ。原因なんてたったひとつだ」

「友子さんが、引き取られた先はわかりませんでした。規則もあり知らせてもらえませんでした。神奈川の方に、とそれだけがかろうじてわかっていました。気晴らしで車に乗せてその方面に向かいました。――いいえ。知っていました。車の窓にはりついてあの子が何を探していたのか。何を求めていたのか」

「引き合ったのでしょうかね。あの子を見つけたんです。狂ったように窓を叩いてまだ走っている車から飛び降りて、なくした声で宗二は絶叫した。それは、あの子の名前でした」

 夕焼けの中に、過去に響いた声が浮かび上がる。まだ声変わりもすんでいないのに、声を奪われた少年が。魂を引き裂くように搾り出した求めが。

「あの子のそばに住むことは、先方のご意向には真っ向から歯向かう形になり、施設としても受け入れがたいことで。訴訟までちらつかされましたが、この家を購入しました。引っ越したその日、玄関先で宗二は号泣しました。恩を一生忘れないと何度も何度もここに頭をこすりつけた。六歳の子どもが」

 父親が見つめる先にあるのはコンクリート床だ。何もないそこを見下ろしている。耐え切れないように母親は掌で顔を隠す。

「震えるつむじを見下ろして、この子の親になりたいと、思いました。心底思いました」




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