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十章「決戦の文化祭」10

 まだ日は落ちていない街角を、番地を確かめながら歩いてきた三人の前にあるのは一軒の家だ。緑色のプレートに記された番号に、なにより『篠原』の表札が目的地であることを間違いなく示している。

 少し年季が入ったコンクリート塀に囲まれた、漆喰壁に赤いトタン屋根の二階建ての家。手前に突き出た部分には小さな三角の屋根がのり、その奥の二階部分にまた同じ色の屋根がのせられている。門周りはこざっぱりとしていて、塀の向こうには申し訳程度だが庭もありそうだ。大きくもなければ小さくもない、新しくもなければ古すぎるというわけでもない、ごく平凡な一軒屋。

 知らずに横一列に並ぶ形でしばらく見つめていた半田、時任、佐倉の三人だが、いつまでもそうしているわけにもいかず時任がインターホンを鳴らした。

 ピンポーンと音がなり、赤いランプがやがてぷつりと緑の光にかわる。通話状態を確かめて、時任はスピーカーの上にあるつるりと黒いレンズに、顔の正面を向けた。

「初めまして。僕達、友子さんの高校の友人です。友子さんの鞄を届けにきました」

 一拍の間、黒いスピーカーは沈黙を保った。そして。

「……高校のお友達?」

 硬い声は女性のものだ。

「はい。そうです」

 スピーカーの向こうは沈黙した。けれど時任は自身の「もっとも誠実に見える顔」を崩さずレンズを見つめた。

 やがてかすれた小さな声で

「……失礼ですけど、お名前をお伺いしても?」

 隣の半田の怪訝そうな表情にかまわず「同級生の時任大介と言います」と時任がスピーカーに告げる。レンズに向ける顔には怪訝さなど微塵もにじませない。

 また長い間をあけて。

「……他の方もいらっしゃるのかしら」

「ええ。一緒に来ました」

「他の方のお名前も」

 ここに来てはっきり半田が違和感を露にするが、時任は「後輩の半田瑞希と同級生の佐倉晴喜です」と続ける。半田と同じものを感じていたとしても少なくとも表面には決して現さなかった。

「……少しお待ちください」

 ぷつりと通話が切れた。

 ほどなくして、玄関先に出てきたのは、小さな肩の中年の女性だった。肩まで届いた髪は軽くウェーブがかかってある。よく見ればそう年が進んでいるわけでもないが、ともかくひどく疲れているようだ。顔つきにも余裕がなく、周囲すべてを警戒して身を強張らせている様が見て取れる。

 一瞬だけで時任は目で合図を送り、半田がうなずき佐倉の手をさりげなく引いて、時任の背中に半身を隠す。逆に時任は一歩前に出た。

「あらためまして初めまして。時任大介と言います。友子さんとは学校での友人です」

「そう、ですか……」

「友子さんの鞄です」

 受け取った相手は口の中でもごもごとありがとうございます、と呟いた。時任の態度が堂々としている分、どちらが大人なのかと思われる対比だ。

「友子さんのお加減はどうですか?」

「……ええ、はい」

 仕方なさそうに顔をあげた女性は、そこで少し首を動かした。時任の後ろの半田と佐倉を目にしたようだが、すぐに素通りしてちらりと周囲を見る。誰かを探したように。あるいは、誰かをとがめたように。だが、探し物には行き当たらなかった。瞳はまた地面に落ちた。

「大丈夫です」

「そうですか。友子さんにはいつもお世話になっています。お弁当をいただいたりもしました」

「お弁当……」

 瞳が少し動いた。

「友子さん、大変だったと思うんですが、美味しくてついわがままを言って作ってもらっていました。すみません」

「いえ……」

 ここで初めて、彼女は顔をあげ自分から口を開いた。

「あんなに、食べられました?」

「いつも完食です」

「篠ちゃんのお弁当、美味しい」

 半田と佐倉も答えると、彼女の視線が彼ら二人に向かった。先ほどから目にしていただろうに、今初めてその存在を知覚したように。

「そう。あんなに作って逆にご迷惑じゃないかしら、と思っていたんですが」

 そんなことは、と言いかけた時任が相手の様子を見て口をつぐんだ。うつむく相手は何かを迷って考えているようだ。また沈黙。

 決して短くはなかったがその末に、顔をあげ女性はおずおずと半身を引いた。

「あの、あがられますか……?」



 家の中に入った訪問者を見回して、彼女は目的にあらためて気づいたようだ。ハッと肩を揺らして

「友子、友子なんですが、すみません。身体はもう大丈夫なんですけれど、まだ少し、疲れていて。二階で寝ていて」

「いいんです。無理させたくありませんから。友子さんは、人のためにいつも一生懸命な分、自分の身を省みないところがあるので、休めるならゆっくり休んで欲しいです」

「やっぱり、学校でも、そうなんですね」

 ぽつんと呟いてから、彼女はすべきことを探して自信がなさそうにポットからマグカップに注いだ碗を並べた。それを終えてから改めてテーブルを見回し、殺風景さに自分自身で落ち込んだようだ。

「すみません。何もなくて。あんまりお客が来ない家ですから」

「とっても美味しいです」

 真っ先に手を伸ばした半田が一口含んでにこっと笑う。

「僕、学校でお茶入れ係なんですけど、篠原先輩も入れるの凄くお上手なんですよ」

「えっ…と。あなたは、後輩さん、かしら」

「はい。一年の半田瑞希と申します。篠原先輩にはいつもお世話になっています」

「お役に、立ててます? あの子。引っ込み思案だし」

「いえいえ、さっきのお茶入れもそうですけど、先輩はなんでも丁寧でその姿勢が参考になります。僕はついつい、いいやってアバウトにやっちゃうんですけど」

「男の子ですもの。お茶入れをしているだけで、十分丁寧でしょう」

「いやあ、ほんと適当なんですよ。前にちょっと紅茶にうるさい人が来てミルクって言われたんですけど、きらしてて。じゃあ何か代わりのもの探すかーって考えて。結局、なに入れたと思いますか」

「……――クリープとか?」

「カルピスです。原液まんまの」

 まあ、と少し表情が動く。

「同じ乳酸菌だからなんとかならないかなーと。紅茶には砂糖も入れるしなー、と思って入れてみて――」

 どうなったと思いますか? と焦らしながら懐っこく顔を近づけて

「飲んだ人、瞬間に吹き出しました」

 女性の顔に今までで一番笑みに近いものが漂った。気が弱そうで不安定そうで扱いに迷う相手だが、不謹慎な面白さが困ったように肩をすくめる姿には根の優しさを漂わせる。

「ね。凄いアバウトでしょう。篠原先輩は、そういうことは絶対にないですからねえ」

「いえ、そんな。……友子だって、同じようなことをしたことがあります」

「本当ですか?」

「紅茶にミルクをとってきてって頼んで、あの子、まだ小さなカップを知らなかったんでしょうね。冷蔵庫からパック牛乳をとってきて、それをそのまま必死に傾けて。まだ小さかったしいっぱい入っていたからぐらぐらしていて。それでもなんとか入れてたんですど、私がそれを見て思わず声をあげた瞬間に、全部撒き散らしてしまって」

「でも小さい頃なんて僕はしょっちゅうこぼしてましたよ」

「そう。よくあることなんです。でも、あの子には天地がひっくりかえるくらいの大失敗だったらしくて。たくさん謝って、雑巾はどこかって聞いて、新しい牛乳をって。急に目まぐるしく動くから私も慌ててしまって。肩をつかんでその場にとどめて、たいしたことじゃないのよ。たいした失敗じゃないのよ。って何度も言い聞かせて落ち着かせて。私も、根が明るい方じゃないけれど、あの子は本当に。なんでも、重く受け止めてしまう」

 机を見下ろし、困ったわね、と呟く。

「でも、だからこそ、篠原先輩って人に信頼されると思います」

「え、」

「僕、篠原先輩の真剣さとか真面目さを凄く尊敬してます」

 なんの照れもなく言う半田に、時任、佐倉もうなずいた。不思議そうに顔をあげた彼女の瞳がぱちり、と瞬きして。

 そう…、と彼女は息をつく。深く。ゆっくりと身体が弛緩して。

「そう――」

 玄関先まで見送ってくれた彼女は、同じ場所で同じ方角から再び見たせいか、初対面時と比べると態度や表情がずいぶんほどけたように見えた。

「今日は本当にありがとうございます。友子も月曜には、またいけると思います」

「ええ。待ってます」

「きっとお弁当も作っていくと思います。――そうだ。どなたか、明太子入りの玉子焼きがとても好きな人がいらっしゃるのね。あの子、普通の玉子焼きを絶対に作らないんです」

「僕ら、みんな大好きですよ」

 三人顔を見合わせてからうなずいた言葉に、初めて彼女ははっきりとそうわかる明確さで微笑した。

「そうだと思いました」

 よければまた来てくださいね、と見送りの手をあげかけた。ところで彼女の表情がふっと変わった。

 あげた指を握って少し目をそらす。気配が変わったことを時任は正確に察知して、佐倉や半田に素早く視線を送り、きびすを返す足をとめた。玄関先でのわずかな沈黙。やがて迷いと硬さが入り混じった声が喉から低く漏れた。

「あなた達の知り合いに。ささ――いえ、国枝君っていらっしゃるかしら」

 返事は誰もしなかった。けれど沈黙と表情を読み取って、そう、やっぱりいるの、と妙に静かな声で彼女は言った。

「あなた達は、本当にいい子ね。礼儀正しいし思いやりもあるし。でも、あの子は……ちょっと。その、常識がない、っていうか……」

 曖昧な口調はそのままだ。けれど先ほどとは違い、その芯には躊躇いはない。怯みもない。

「――友子には、あまり近づかせたくないわ」

 いるの、と繰り返したときに歪んだ頬。人の中に同時に在る気弱さと優しさとそして般若と。うつむく瞳に影がかかる。いや、闇をうむ。影の中でぼそりと低い声で紡がれた。掠れて耳には届かなかった。隠せぬ嫌悪に掠れてた。





「――……くせに」










 カツン、とコンクリートに転がった石が、学校指定の黒のローファーのつま先でまた蹴飛ばされた。石を追う、毛先が揺れる横顔は少年じみた面差しをうつしだす。カツンカツンと歩く先を転がる。佐倉晴喜の茶色い髪は辺りの夕焼けとすっかり同化して透き通るようだ。カツン、と石が道や電柱にぶつかる以外の音色はない。

 そんな音だけが響く夕焼けの道を、幾つかの区画を曲がってから、時任大介は携帯電話を取り出した。手早く操作して耳にあてる。

「――。ああ。俺だ。うん。寝ているらしく会えなかったけれど、もう大丈夫みたいだ。明後日には来るって」

 電話に応答する時任を、共に歩く半田と佐倉が注意深く見守っている。

「うん。ああ。――いや。いたって普通だったよ。何もなかった。……よせよ。俺達だって心配だったんだから。見舞いに行ったのは当然のことだろう。礼も謝られる筋合いもないぞ。国枝。大丈夫だ。なにもなかった。後は月曜に自分で確かめろ。弁当も作ってきてくれそうだってさ。明太の玉子焼き、お前好きだったろ? ああ。じゃあ、また、学校でな」

 空々しく響く声以外、ひどく静かに感じられる、朱に染まる街角で、時任は通話を切った。石を蹴る音もいつの間にかやんでいた。

 やがておそるおそる半田が

「……国枝先輩、どんな様子でしたか?」

 携帯を見つめたまま、時任は返事はしなかった。それが万遍の言葉より雄弁な答えな気がした。

 ふと、彼の手の中で、ピッピピピピピと携帯が震えだす。画面に浮かんだ文字は「国枝」だ。驚きを見せながらも時任が急いで通話をおした。

「――国枝? ……え。――お父さん? ですか?」

 思わずあがった声に佐倉と半田も耳を近づける。その動きがわずらわしかったのかスピーカーモードに切り替える。そうして流れてきたのは

『……申し訳ないが、今からうちに来ていただきたいのですが』

 スピーカーモードと言っても小さい、聞き取りにくい電話越しだが、確かに宗二の父親の声だ。時任が通話口に向かい告げる。

「あ、あの。今から、ですか?」

『申し訳ありません。少しでもお時間をいただければ』

「い、いえ。時間は大丈夫ですけど。えっと、お宅は確か」

『ええ、一度来ていただきましたね。そこから。そう、離れてはいません』

 不鮮明な回線越しにでも、その声に含まれた苦さとそして一縷の後ろめたさは十分に響いた。

『すぐ、近くです』



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