十章「決戦の文化祭」6
『日程変更!?』
携帯電話の向こうからぎょっとした声が聞こえてくる。
時任の電話をとったあのときからずっと、まるで落ち着かなかった心が、自分以上にうろたえるものを見つけてようやく少し余裕を取り戻せた気がして、京免信也は携帯にぐっと耳を寄せた。
「いったいなんの話だと思ったが、本当なのか」
『ほんともなにも知らないけど……。それが本当だったら、無理、じゃないのか」
「ああ。プロのスケジュールをなんだと思ってるんだ。そんなに簡単に動かせるものか」
『……』
絶句する向こう側に、またざわざわと身体の中でざわめき出すものを感じる。
『……時任たちの、様子は?』
「わからない。ほとんど一方的に切られた」
無礼と考えてもいいが、そんな感情は覚えなかった。京免とてそれどころではなかった。
『……生徒会の奴らが?』
「そう言っていたな」
低い声の後。突然、あぉあっと獣が喉奥でうなるような声が弾け驚いて耳から離し電話を見つめる。いつもは温厚な相手だが、一度だけ怒鳴られた体育祭を思い出した。すると機械の向こうから詰まらせた声が響く。
『なんだよ、それ……っ、マジでひどい。国枝たちがどんだけがんばってたんだと…っ』
「プロの世界ならそう珍しいことじゃない」
相手が黙った。
流れてくる沈黙の拍数を読み取る。正確だと確信している。それでも奇妙に長く感じられた。沈黙。沈黙の音楽、ジョン・ケージ。4分33秒。楽器の前にいながら奏でることはない演奏なき楽曲。多くの否定と賞賛の後に一定の地位を築いたが、ああ、しかしこの音色はあまり好きではない。長く聞いていたくはない。
だから携帯から流れた、次の言葉にはほっとした。
『……悪かった』
「あ、ああ」
『約束をとりつけてくれたのは京免だから。がっかりするのは俺以上なのにな』
がっかり。落胆。
新たな要素に、また身体の中がざわめきだす。今、自分はそれを味わっているのか? 見当もつかない。だが、妙に鼓動が早い気がした。この速さは120拍。メトロノームの4刻みと同じだ。
『……でも、国枝や時任たちにどんな言葉をかけていいかわからない』
ひゅんと胸が跳ねた。メトロノームが動く。よくわからないものに全力で、心を傾けて、動き続ける国枝、篠原、時任たち。その瞳が。心が。どんな風に変わってしまうのか。胸が跳ね続ける。
ダメだ、と思った。もうこの通話は続けていられない。何かがいっぱいで限界だ。胸の刻みがあまりにはやくて、おかしくなりそうで。
「切るぞ」
『ん』
承諾をもらったからすぐにボタンを押してもいいのに。どうしてかきれない。相手も自分からはきらなかった。受話器から流れ出す、4分33秒。耳にしながら思う。――あの曲は本物だ。
『あのさ。京免』
「……なんだ」
『さっき、プロの世界なら珍しいことじゃないって言ったよな』
「ああ」
『じゃあ、プロならこんな、どうにもならないとき、どうするんだ?』
――
気づくと、通話はきられていた。表示されている通話時間は15分。それから傍らの椅子に携帯を置いて、ずっと座って向き合う態勢であったグランドピアノの鍵盤に目を落とす。黙していた時間はいくらだ? 4分33秒? 自分は無意識にあの曲を奏でていたのか?
もつれた思考のまま、指を走らせた。ほとんど無造作に指は動いた。流れ出すメロディと共にぐるぐると電話の内容と思考がまわる。ぐるぐると。メロディと共にまわる。
ぐわがあんと金槌で打ったような響きと共にハッと我に返った。両手の指が凶暴な形にひらき鍵盤を強くおさえていた。
「……」
まるで憎しみをこめて爪たてるような形の自身の指に衝撃を受けたあと、耳が拾った音を再生する。なんて音だ。甲高く乱暴で耐えられない衝動に引き裂かれる音。
ふと、先ほどの電話相手があげたうなりを思い出す。言葉ではなかった。あの音は、ドとソとレだ。考えると同時におさえてみた。ドソレ。音程は完璧だ。だが、似ても似つかなかった。
腰を入れて押し込んでみた。少しだけ近くなる。だが、奏でる自身の冷静さがまるで似つかわない。あそこには冷静さなどなかった。落胆。憤り。彼らは落胆する。努力は無になる。願いは折れる。その現実への痛烈な怒り、無念のほとばしり。ドソレ。くわりと指を開いて、何度も繰り返す。繰り返す。押し込む。押し込む。
「あぉあっ!」
気づくと叫んでいた。「あぉあっ!」ドソレ。「あぉあっ!」ドソレ。「あぉあっ!」ドソレドソレ。
叩きながら叫ぶ。4分33秒などくそくらえだ! 自身の楽器を前にそんな長い間、触れずにいられる演奏者がいるものか。
「プロがどうするかっ、だとっ!」
弾く。弾く。飛ぶようにだが明確な意思を持って。鼓動は8刻みのメトロノームよりはやく。ガラスの欠片が混じる空気で呼吸をし、触れれば切れる刃物のような鍵盤を叩き続けて。残酷な残酷な世界の中で。生きたいと願うなら。
テーブルの端に座るのは、一本のほつれもない艶やかな黒髪を流す麗人だ。腰掛ける姿だけで、緩やかな曲線を描く肩やしなやかな腰と、欠点なきひとつの美しい造形物。優雅に片目を開き、共犯者の笑みをひけらかす。
「ずいぶん。意地悪な手をつかったわね」
「人聞きが悪い。日時変更をしただけです。まだ当日まで一ヶ月はあるから各部から苦情らしき苦情もありませんし」
「いい性格だこと」
「こっちも暇じゃねえからな。くどくどしい罠かけるような奴は頭がわりいんだよ」
「頭が悪そうな東堂が言うといっそう重みがある」
じろりと東堂が凄みのある目元で南城を睨むが、端整な微笑みは堪えた様子もない。ただ、そこに普段は便乗して煽る高い声は今日はもっぱら別の関心ごとにいっぱいのようだ。西崎蓮は、真上の前で眉を下げて
「ねえ、本当頼みますってば」
「ダメよ。受験に挑むこの時期に。ばれたらどうする気? 下手したら前科がつくわよ」
「ばれたところで僕と繋がることなんかないって。ね?」
両手を合わせての上目遣いは、その裏の腹黒さを知り抜いていても騙されかねない、自身の魅せ方を知り抜いたそれだ。けれど、黒髪の麗人はきっぱりと首を横に振った。
真上の前に積まれているのは、掌にのる程度の黒い四角のボックスだ。独立形式だが、端には電源元なのかUSBの端末がぶら下がっているものもある。それを白い指先が拾い上げる。
「これなんか、職員室のパソコンにそのまま接続されてたのよ。いくらなんでも杜撰すぎるでしょう」
「この情報化社会に、教師くらい無防備な職種はないよ。職員室なんてとんでもない量と質の個人情報が飛び交っているのに」
にこ、と笑む後輩に、呆れたように薄まった真上の瞳に一抹の光が走ったが、すぐにため息と共に消した。
「そうね。だから、危険すぎるものに手を出してると自覚して引き際を知りなさい」
「諦めろ、西崎。それはさすがにやばい」
「えー、なに? びびっちゃったのぉー? 南城」
「んなもんで足元すくわれたかねえんだよ」
「散々、利用してきた口でよく言うよねー」
ぐるりと見回し形勢不利と見たのか、すねたように西崎が呟いた。
「あーあ、馬鹿らしい。ここまで散々貢献してきた末路がこれなんだもん」
「とってもいい子ね」
真上の笑顔に、ハッ、と西崎が声をあげて
「いい子だってさー! 生まれてこの方、嫌味か盲目でしか言われたことないね。奴らに泡吹かせた気分も半減」
ポーズのようなふてくされが、けれど次の瞬間、すっとひいた。
「ところで、聞いていいですか。これなに?」
西崎の指がひとつのボックスをとりあげた。何か圧力がくわえられたのか、直方体のそれは少しひしゃげている。
「ああ、ごめんなさい。落としてるのに気づかず踏んでしまったの」
ふうん、とさめた瞳が手元のボックスに向かう。
「ま、許しますけどさ。どこに設置してあった奴?」
「確か……会議室にあったんじゃないかしら」
「聞いたの?」
「なにを?」
「壊れる前に、これが録音してたもの」
真上は微笑んで首を軽く横に振る。西崎はそちらを見たが、何も見つからなかったように肩をすくめた。
「ま、いっか。そんな収穫があったとも思えないし」
「ごめんなさいね。その分の弁償はさせてもらうわ」
「いいですよー。もう」
「かわりと言ってはなんですが、先輩。11日の、文化祭の週の土曜はいらっしゃいますか? 準備に出てくる生徒が多いので、お越しいただけると嬉しいんですが」
「ちょっと南城。僕の盗聴器の代償勝手に掠めないでよ」
「吝嗇ぶるな。全体の利益だ」
「11日ね。残念。先約があるの。でも、それ以外の日は出来るだけ予定をつけるわ」
「お願いします」
ええ、今日は失礼するわ、と呟いて立ち上がる真上の後ろ、椅子にかけていた薄手のコートをとった南城がスマートな仕草で広げる。ありがとう、と腕を通しながら
「それでこちらの準備は問題ないのかしら」
「誰に言ってるよ」
東堂が鼻で笑う。ま、三年目だしね、と西崎も肩をすくめる。コートを羽織った真上は部屋を一瞥して最後に窓を背にした机でとまった。
その机につく、これまで一度も言葉を発しなかった色の薄い男を見下ろし
「透。うまくやりなさい」
返事は声ではなく、かすかな首肯で紡がれた。
小さなポーチを持って下足に続く階段をおりる。遅い時間帯のせいか、人影はない。昇降口で真上は立ち止まった。初めは少し驚いたように目を見開き、その後で口の端をつりあげた。
「あら、新聞屋さん」
廊下の向こうに立っているのは磯部だ。鞄を持ち少しの距離を歩いてくるのは、待っていたとも偶然ともどちらともとれる。もしゃもしゃの前髪から薄くのぞくのはやはり微笑だった。
「そういうそちらは勘違いの女王様か」
真上は一瞬むっとしたようだが、すぐに微笑を取り戻した。
「私が卒業した後もずいぶんの部数を発行したみたいね。バックナンバーをいただこうと思ったけれど、記者のリサーチ不足が露呈したなら目を通すのも無意味かしら」
「なら芋でも包んで焼けよ。うまい季節だろ」
侮辱を肯定するような言い回しに、真上の瞳に怪訝さがかすめる。その前で磯部は平然と
「今回は出し抜かれた。それは事実で、原因は俺の力不足だ。篠原たちには申し訳なかった」
「――篠原さんたち、落ち込みすぎないといいけれど」
「いらねえよ」
真上が見つめ返す前で、磯部善二郎は口の端をつりあげる。
「こっちは、お前らみたいにスマートじゃねえよ。気取る余裕もねえよ。それでも、んな必要もねえってことが、どんだけしぶといか、嫌になるか、今回の分もあわせて返してやる。だからいらねえよ、べきべき女の心配なんぞ」
かすかに歪みを見せる顔を前に。ただ――不敵に。
「仁王立ちで待ってろ。まとめて足元すくってやる」




