十章「決戦の文化祭」5
部室は、通夜のように静まりかえっていた。
連日の準備で、部室が沈黙に包まれることはあった、と言った。でもそれは全然性質が違うもの。集中の沈黙と、この沈黙はあまりに孕むものが違う。
そんな、とかどうにかできないか、とか初めは声があがった。それにたいする竹下先生のひどく落ちこんでいたが、要領を得た説明の後。
「……もう一度、訴えてはみる」
だが、竹下先生は説明がうますぎた。支障は各方面にも少しはでるだろう。だが、いまこの段階で変更するなら、どこもそうしんどくはない。よくも悪くも俺たちは準備が早すぎた。
そして、俺たちは忙しさに乗っかっていたかもしれない。準備が大変すぎてそちらを考えることを放棄したのかもしれない。これだけやっていれば十分だろう勝てるだろうって根拠のない思い込みで。
でも、これは最後の勝負だった。結局、投票は文化祭当日ではなくその数日後の全校集会になったけれど、実質ここで俺たちの決着がつく。
生徒会は学園祭に出展する立場じゃない。奴らがすべてを司る。ある意味で先の許可騒動のような妨害もできるけど、基本、奴らに不利な点もあるだろう。焦ってもいいはずだ。
なのに奴らは動かなかった。許可のときからひとつも。企画の段階でも竹下先生に言う以降は、横入りはいっさいなかった。いくらでも権力を使える場にも関わらず。
もっとそれを真剣に考えるべきだった。なのに俺たちは忙しさのあまりミスをしてしまった。敵の脅威を軽く考えていた。後悔したってすべてが遅い。
「――」
息を吐き出すのも憚れる。この空間が、耐え難い。
「……」
俺はゆうちゃんを見た。青い顔のゆうちゃん。拳を握る。乾いてる舌を叱咤する。何を言う。通夜の場に吐き出される言葉。お悔やみの言葉。このたびは…。心よりお悔やみを……。残念ですね。通夜の場で繰り返される。
「……」
左手で探して触れたゆうちゃんの掌は少し震えた。俺の言葉も、震えてたかもしれない。でも触れた手の甲が裏返り、ソファの上で俺たちの手は向き合って。合図もなく同時に組み合う。この感触だけで、生きてこれた時がある。あるから。
「――練りなおそう」
通夜じゃない。まだ、誰も死んでいない。
「はい」
俺の声よりずっと強くゆうちゃんは言った。
部室にはまた沈黙が落ちる。
不意にその中を佐倉さんが立ち上がった。ホワイトボードにペンを握って大きくかく。
『ねばぁ~とギブアップ』
「ダジャレかよ」
時任がつっこむ。その後で、ちょっと微笑んだ。
「だけど、ま、確かに。それくらいの粘り強さが必要ってところか」
「腐ったところからおいしい」
振り向いた佐倉さんは笑っている。
俺はそんな二人を見て、それからゆうちゃんを見た。ゆうちゃんは二人を見上げている。横顔から見える眼鏡の隙間。そこからのぞいた瞳に揺らがない光がある。俺はそれを見つめた。誰かのためには決して諦めない光を。
時任が俺たちを見てうなずいて。そしてちょっと間をおいてから。
「半田」
視線がまだソファにひとり座っている半田君に集まった。まだ呆然とした様子の半田君の姿に、胸が痛んだ。佐倉さんに負けず劣らず、物事を楽しもうとする気持ちに人一倍溢れている半田君。心だってちょっとやそっとじゃくじけない。
ただ、本当に彼はこの企画をがんばっていた。人のことは言えないはずの俺たちから見ても無理を重ねてるところがあって、時任が何度か諌めた。それでも半田君は持てうる全てを注いで取り組んでいた。それがある日突然消えてしまった。いや――奪われたんだ。
佐倉さんがそばにいってのぞきこんだ。
「みずっちゃん」
初めて聞いたような優しい声だった。
半田君はそれでもしばらく黙っていたけど。
「一時間」
「うん?」
「一時間だけ僕にください」
「どうするんだ?」
「叫ぶんです!!」
突然、半田君ががばっとソファから立ち上がった。
「海――いえ、カラオケでいいです、行きましょう! ともかく叫べるところへ! 途中で納豆買ってやけ食いしながら、会長の将来ヅラ! 会計の将来性病! 書記の将来普通に犯罪者! 副会長の将来ヤのつく自由業! そう叫ぶんです存分に。そしたら僕またガンガンやりますから!」すでに叫んでいる半田君の目に少しだけ涙が浮かんでいて。「僕、立ち直れますからっ!」
時任がうなずいた。
「いいぞ、行くか」
「ナットー!」
「よっしゃあ! 先生! おごってください!」
呼ばれた竹下先生がびくっと肩を震わす。あ、ああ、と反射的にうなずいて。それからびっくりした顔のまま、俺たちを見回して。
ふっと眩しそうに目を細めたあと。
「他の生徒や学校側には内緒だぞ」
うおおおおおおおっと俺たちは馬鹿みたいなテンションで大声をあげた。
結局、カラオケには三時間いた。密室で納豆くって納豆ごはんの歌をものすごく熱を入れてハモって生徒会滅びろ滅びろー滅びろーオーイエイとか叫びつくして阿鼻叫喚と言ってもいい大騒ぎした。
それから必死に頭を下げてくれてた竹下先生が、周囲の苦情をもう食い止め切れないところで、若干暴徒と化した俺達は、ハハがこーい、の一言で佐倉邸に転がり込んだ。
歯止めなど知らず突進してくる未成年に、ラスボスの魔王のようにスーツの上からエプロンをつけた三月さんが玄関に仁王立ちで
「小僧と小娘ども飯だっ!」
食えっ! と高らかに叫んだ三月さんが、お玉に鍋をうちつけてがんがん鳴らす拍子と共に、ちゃぶ台とダイニングテーブルに溢れた中華を納豆だけ入れていた胃に詰め込んで押し込んでその上からさらに詰め込んで。
飲め半田! と金色のジョッキを半田君につきつけたときは、規格外のPTAに圧倒されっぱなしだった竹下先生もお母さんそれはダメです! と必死に止めたけど、三月さんはけろっとして
「心配すんな先生。薄めた麦茶に炭酸水入れただけの自家製ノンアルビールだ」
横で半田君が盛大に吹き出した。
そんな感じで死ぬほど騒いで笑って食って笑って。
家に戻ってすぐ自分の部屋にあがって、扉閉めて。それでも心配だったから、風呂でシャワーにあたりながら泣いた。あいつらが原因で泣かされるなんて我慢がならなかったから。仲間のいい奴っぷりが原因ってことにした。
いつもの通りで騒がしく元気でそれでもいつの間にか三月さんに連絡とってくれてた佐倉さん。佐倉さんに負けじとのりよく合わせて俺と肩を組んでわあわあ言ってた時任。慣れたら結構いけますよ、と自棄みたいに例のジョッキ飲みながら半泣き半笑いでいろんなものを垂れ流してた半田君。そういう俺たちを何も聞かずそれぞれの受け止め方をしてくれた竹下先生と三月さん。思い出すともっと泣けてきた。幸せだなって泣けてきた。
カラオケで俺とゆうちゃんはずっと手を握っていた。誰も何も言わなかった。ほんといい奴らだ。だから心が折れずにいれる。折れたってまたテープで巻いてたてられる。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。ふと、こちらの問いかけにいつも大丈夫しか答えない、ゆうちゃんの気持ちが少しだけわかった気がした。
大丈夫? と聞かれたら、ゆうちゃんは必ず大丈夫と言う。まったく大丈夫じゃないときも必ず。その根底はこちらへの気遣いがほとんどだけど。
だけど、ほんの少しだけそう言うことで自分に言い聞かせる役目があるのかもしれない。大丈夫。自分は大丈夫。だって人間は意地で立っていられる生き物だからって。
念入りに風呂に使って痕跡を全部消してそのまま寝て。
朝、俺はようやくお父さんとお母さんの前に出れた。二人は何も言わないでいてくれた。




