九章「大運動会」6
ここまでしといて天気がぐずついたらどうしたもんか、と思っていたが、体育祭当日は見事に晴れていた。
準備がいろいろあったので、始業時より一時間半も早く集合した。場所は部室ではなく、着替え場所として、竹下先生が手配してくれた本校舎一階の生徒指導室。カーテンがかかるから、ということだが、なんというか。生徒指導室を俺たちが借りられるとは。
昨日のうちから、結城君が京免君の車を借りて入れた姿見が立てかけられている。俺たちより早くやってきたらしい結城君は、さっそくテーブルの上に小物をセットにして並べてと準備に余念がない。
「化粧もしたいんだけど、体育祭で流れちゃうの考えるとなあ」
残念そうに言いながら保湿クリームを塗ってくれる。このスタイリスト様の厳命により最近は外に出るときに日焼け止めを絶対に使用しないといけない。
「僕、障害物ちゃんと用意されてるか見てきます」
「ちょい待て半田、俺たちもいく。コースをもう一度確認しに行った方がいいしな」
「篠ちゃん、ちょっと乗ってみよ」
「はい」
俺はこっちの準備が終わったら行くよ、と結城君に手をふられたので、校庭に向かった。後者も廊下も無人ではない。ジャージ姿の先生たちが忙しそうに行きかっているし、生徒の姿も結構見える。たぶん、去年のゆうちゃんと一緒で体育祭担当者だろう。
校庭に出ると、校舎のてっぺんからポールを通し、華やかな万国旗が運動場の上空いっぱいに張り廻らされていた。
入場門や裏門、杭が打たれてロープが張られて、昨日出した椅子がずらりと並べられている。門の片隅には競技に使われるのだろう道具が固めて置いてある。ここにも結構な人がいて、ライン引きや打合せ等に集まったり散らばって動いていて、スピーカーからはテスト音声なのかやや控えめながら競技の音楽が流れてる。うん。体育祭、という雰囲気。
門の近くまで来ると、半田君が近くにいた道具係に話しかけにいった。彼が確認したのは八段の跳び箱と踏み台だ。
「佐倉さんって結局なにするの?」
「ひみつー」
にいっと歯を見せて佐倉さんが笑う。結局刀のかわりに「新生生徒会/奇変隊」の旗を持って走ることになったのは知ってるんだけど。同じ走者であるゆうちゃんも佐倉さんがなにをするのか知らないらしい。まあ跳び箱と踏み台だから新体操みたいなの見せるんだろうな。
そんなことを思っているときだった。ざわ、と小さな声がした。そしていくつかの意味ありげな視線が飛ぶ。注目のもとを探して、朝礼台前に行き着いた。設置されたマイクと放送機器と、それを囲む幾人かの教師とそして――。
西崎、南城、東堂、そして、北原。
真上美奈子の姿は見えないが、ゲストとして参加することは聞いている。
奴らは奴らのすることがあるので、こちらを見ていない。そんな奴らを俺達はしばらく誰も言葉を出さずに見ていた。具現化した敵を。壊すべき壁を。
胸の中にともったのを感じた。熱いものだ。とても。それをじっと味わないながら思う。
負けない。いや。
「絶対勝つぞ」
時任の言葉に、強くうなずいた。
去年、いたいけな中学生であった半田少年が目にして「つまんないなあ」と評した体育祭だけれど、今年の盛り上がりは上々だった。
未来の半田少年(半田君みたいなのが何人もいちゃ(時任が)たまんないだろうけど)には申し訳ないけれどクラスの競技に関しては辞退できるものは辞退させてもらった。棒倒しとか脇の方でちょっと固めて気分でわーわー言うぐらい。
まあ、俺みたいな特に期待されているわけではない奴はいいけれど、クラス代表でも間違いなく食い込んでくるだろう佐倉さんや時任は、角が立たずに断るのに骨が折れたみたいだ。特に佐倉さんなんか、本気出さないよ、と明言しているのに結局クラス代表リレーの枠をひとつ任せられてしまった。
「佐倉さんなら、他の競技出てもスタミナは大丈夫じゃないか」
「そういう問題じゃない。小出しで先に目立たれるとインパクトが薄れる。リレーで最高の注目を佐倉に集めさせる。その流れのまま、騎馬戦に持ってくるという計画があるんだ」
すまんー、と佐倉さんが代表を断れなかったと告げたとき、そういう作戦なんだと時任が、苦い顔をしながら言っていた。ちょっとやりすぎじゃないか、とか、リレーでどんだけのことかますんだ、とか聞いたときは思ったけど。
クラス対抗リレーの佐倉さんを見て時任の言うことも少しわかった気がする。世の中、必死に目立とうとしなくても目立ってしまう人間っている。俺たちから見れば佐倉さんは明らかに本気ではなかったけれど、それでもこの午前の注目はほぼ彼女がダントツだった。後に生徒会連中がちょろっと出てきたので、やや薄れたけれど。(チッ)
「まあ、抑えた方か」
傍らの時任が呟いた。こういうものは、始まってしまうと後はあれよあれよと言う間に時が流れてしまう。俺たちが席で観戦している合間に、たいしたことをしてない午前の部が終わった。
とんとんと肩を叩かれてみると、布巾に包まれた弁当箱が届いていた。体操服姿のクラスメイト越しに見やると、お父さんとお母さんが見えて、二人とも目配せしている。
「ちょっと行ってくる」
「俺も行く」
教室の椅子を持ち出して敷き詰めているため、狭い通路をすり抜けて後ろに出た。
「今日はありがとうございます」
「こんにちは、時任くん。遅れなかっただろうか」
「十分です。すみません。僕たち、座席で昼食をとってからになると思うんですが」
「控室に案内しとくよ」
時任が軽くうなずいた。俺が先をきって案内すると、お母さんがくすくす笑った。
「ちょっと、得した気分」
「なにが?」
「高校生にもなって親が運動会観戦なんて、絶対歓迎されないものなのに、こうして堂々案内までしてもらえて」
俺はちょっと鼻を鳴らした。どう答えるか考える時間稼ぎに。
「そんなことないよ。来年も堂々来たらいいんだよ」
校舎に入ってスリッパを取り出した二人を生徒指導室に案内して、それから急いで席に戻ると時任はもう半分ほど飯を平らげていた。
「先に悪いな。でもとにかく、ここからは時間がほしいから」
「いいよ」
「結城は先に行った」
「え、入れ違いになったかな。にしてもはや」
「早弁してたとさ」
結城くん見た目はチャラいけど基本は真面目タイプで、規則破りとかしそうにないのに。彼のこれにかける情熱は誰にも劣らないな。
思いながら蓋を横においてお弁当に箸を落とす。ボリュームがあって大変いい感じ。きっと手間暇かけて作ってくれたんですね。ありがとうお母さん。そして、――ごめんなさい。
ひとつだけ唱えて、上を向きざっ、ざざあっと箸で一気に口の中に寄せた。一口。二口。三口。四口。
佐倉さんには負けるけど、俺だとて伊達にでかい声を出せる口を持っていないのだ。
もぐもぐ咀嚼してる間に手をあわせごちそうさまを済ませ弁当をしまう俺を、時任が呆れたように見ている。じゃ後で、と早食いだけはぶっちぎりで奴を抜かし、さっきお母さんたちを案内した控室へと走る。
昼休みの中だけど人の流れはあちらこちらにあってせわしなくて、全速力は出せないから小走りにそれを避けながらお祭りだなあ、と思ったりして。
控室につくと、二人にくわえて、結城君と佐倉さんも先乗りしていた。
「あら、もう食べたの」
そう言いながらお母さんと結城君は二人で前後左右にスエット姿の佐倉さんを挟んで視線もくれない。真剣そのものだ。
「宗二、」
思わず真剣さにのまれていると、お父さんが俺を手招きしていた。ちょっとほっとして同じように窓のそばへ行く。お父さんも今は手持無沙汰のようだ。
「さすがに余所の娘さんの着付けを手伝うわけにもいかんしな」
「佐倉さんなら気にしないけどね」
二人がかりで締め上げているような佐倉さんとお母さんたちを見ながら
「がんばってるのか」
ぽつっとお父さんが聞いた。でもすぐに「愚問だな」と自分で打ち消した。
「お前が何かに取り組むときに、がんばらないのは見たことがない」
「失礼します!」
いいタイミングで響いた扉の開く音と時任の声に、そっちを向いた。時任の後ろで頭がひとつ飛び出たもしゃ男のいそべん先輩。そしてちょっとずれてその斜め後ろ、二人の間でまったく見えなかったゆうちゃんもいることに気づく。
「今日はよろしくお願いします」
頭を下げて入ってくる三人にお父さんの目が注がれている。ゆうちゃんはうつむきがちだ。ボブの横髪がその顔を半分以上隠して。いつも細い肩を今はもっと狭めて、自分を消すように。声もほとんど聞こえなかった。
昔のゆうちゃんだ、ふと思った。同時に最近はゆうちゃんのそんな顔を見ていなかった、ということにも気づいた。
「終わったー」
佐倉さんの独特な声に目を向くと、彼女の着付けが終わっていた。スカートともズボンとも違う、独特なラインを描く下半身。すっきりした上半身。伸びた背中が清々しくて、凛とした和服姿の美少年が出来上がっている。
「どんだけ早く食べたんだ」
「二秒」
呆れたような目を向ける時任に、ピースなのか二秒の表現なのか、人差し指と中指をたてて笑う佐倉さん。
「じゃあ。俺、いそべん先輩片づけるから」
「時任君、やろうか」
「はい」
「遅れました!」
半田君も息せきってやってきた。
そんなごちゃっとなったその場で、まぎれてしまいそうな、ささやかな、声が。
「どうぞ」
ゆうちゃんがびくっと肩を震わせた。一歩の躊躇い、でも踏み出した。どこまでもうつむきがちなゆうちゃんに、お母さんが衝立を示す。衝立にゆうちゃんが消える。お母さんも。衝立の向こうから、お母さんだけの話声がかすかに聞こえる。話の内容は、わからない。
「国枝先輩」
呼ばれてハッと我に返って目を向けた。お父さんの助手として着物を広げる半田君がいる。
「あ、ごめん」
慌てて俺はそっちに行った。慣れた手つきのお父さんより、大柄ないそべん先輩にかかっている結城君の方が大変そうだ。そもそも彼は自分だって着なきゃいけないんだし。そう考えると一気に焦ってくる。瞬間、横の戸がガラッと開いた。
「僕が来た!」
来ないで京免くん!
「京免そこの帯とって!」
結城君が叫ぶ。いそべん先輩の腰にがっぷりかぶりつくような態勢で。体操着を着ている京免君(初めて見た)はちょっと興奮したように部屋を見回し
「僕の荷物か?」
「急いでんだ、早くしろ!!」
結城君の怒鳴り声に、京免君がびっくりした顔をした。




