九章「大運動会」3
昼休みに入り、時任と廊下を歩いているときに、不意におうい、と後ろから声がかかった。見ると鞄をつかんだ結城くんが小走りで駆け寄ってきた。
「また派手なことしたね」
困ったように笑っているけれど、引いている感じは幸いなさそうだ。
「ちょっと相談があるんだけど」
「ユニフォームのこと?」
「うん。他のメンバーにも聞いてほしいんだけど」
「今から部室で飯食うんだが、一緒に来るか?」
結城君はついてきた。今日はゆうちゃんのお弁当の日ではないので、それぞれ弁当なりパンなりを持参の中。
「ディスカウントショップとか巡ってみたんだけどさ。あんまり収穫なくて。まあ、それでもレベル落とせばなんとかなるんだけど。フリマもあるし。ただ、一着ならなんとかなっても五着だからさ」
「結城、まだ何か買ってはないか?」
「ああ」
「そうか。お前が店を巡るって聞いてたから、金額のことが気になってたんだ」
「残念ながらうちの部費はほとんど支給されてませんからね」
まあ支給した結果がどうなるか……ほぼ100%学校にとってプチ迷惑なことか、どうでもいいことにしか使われない。
「自腹でどれだけ出せるかだよな」
着物ってなんか高いイメージしかないんだけど。う…んとうなるお財布事情はいつでも乏しい高校生。
「あ、いや。それも含めてさ。ちょっと磯部先輩にメールで相談してみたら「隗より始めよ」だってさ」
「貝?」
古文だってさ、と結城くんは笑って。
「つまり身近なところから始めろってこと。周りに聞いてみろって。家によっては結構、使わなくなった着物があったりするって教えてくれてさ」
「ああ」
ようやく合点が言って俺達はうなずいた。
「そう言えばうちにもありますね。母親のお古で女物ですけど」
「着物か。どうだったかな」
「キョンシーの服なら箪笥にあった」
三月さんなに入れてんのっ!?
「篠原さんは?」
「……多分、ないと思います。会ったとしてもお母さんの振袖くらいかな、と」
そうかあ、と結城君がため息を吐いて、背もたれにもたれた。
「俺もクラスの連中とかに聞いてみてるんだけどね。磯部先輩もそういう情報流してくれるって言うから、どこかしら引っかかってくれるとは思うんだけど」
「あの」
俺の声に結城君が顔を向けた。
「あるかもしれない。俺んち」
結城君が背もたれから身体を起こす。ぬか喜びさせたら申し訳ないと思って俺は携帯を取り出した。
「ちょっと聞いてみるから、先にごはん食べてて」
廊下に出てコール音を鳴らす携帯に耳をつける。出るかなあ、と思ったら数コールであっさり出た。ちょっとやり取りの末、まだ繋がっている携帯を少し遠ざけながら、戸を開けてのぞきこむ。中の全員が俺を見てくる。
「ともかく一度うちに来てみなさい、ってんだけど」
「え、いいの」
「うん」
「えっと、じゃあ、いつだったら都合いいかな」
「向こうは、今日来てもらう前提で話してるね」
「えっ」
結城君がびっくりした顔をする。
「俺はいいけど、むしろ早く用意したいから嬉しいけど。え。でも、本当にいいの。放課後だよ。あと数時間後だぜ」
「うん」
「あ。じゃあ、お願いシマス……」
じゃあ今日行くから。多分、四時過ぎかなと、口早に伝えて電話を切った。
「なんか、いきなりの展開でびっくりした」
「わざわざ来てもらっていいのが見つかんなかったら申し訳ないけど」
「あ、いや。そんなのは全然だよ」
「国枝、俺もお邪魔していいか?」
「いいよ。でもどうしたの?」
「古着とはいえ、いただくかもしれないんだったら、代表者が一言挨拶しといた方がいい」
そこで片手をあげかけた佐倉さんを素早く時任が制する。
「お前は駄目だ。大勢でいきなりいったら迷惑になる」
「いや、かまわないよ。むしろ大勢の方が喜ぶよ」
「だったら僕もお供したいです」
「いいよ」
答えると半田君がわっと笑った。
「本当にいいのか」
「うん。そこはマジで気を使わなくていいから」
「やった!」
佐倉さんと半田君がハイタッチをして歓声をあげている。はしゃぐ二人に、時任がいいのか、と目で再度念押しするが、にぎやかでいいだろう。普段が静かな家だから。
「じゃあ、放課後は全員で行くか」
手土産はどこで買うかなあ…とうなる時任に
「あ、すいません。私、今日用事があって……」
「そうですか。残念です。あ、でも篠原先輩なら行ったことがありますか。国枝先輩のおうちですもんね」
ゆうちゃんが困ったように笑って俺を見た。嘘をついて。共犯者の笑みを浮かべた。悠ちゃんは控えめに首を横に振った。
「意外です。また今度、行きましょうね」
「半田、人の家だからな」
時任が釘をさす。ゆうちゃんはただ控えめに笑っている。
放課後に自転車置き場のところで合流した。半田君が一番遅くにやってきて、すでにそろっているメンバーを見回して、すいません、遅れました、と言う。
「いっこ下なのによく遅いよな、お前」
「ホームルームが長いんですよね。担任の藤江先生」
ぼやいてふと周囲を見る。
「篠原先輩は?」
「もう帰っただろ」
「途中でも一緒に行けば良かったですよね。篠原先輩って同じ方角でしたよね」
「じゃあ、行こうか」
俺は遮って歩き出す。徒歩で十分通える距離にあるが、途中、東屋に寄る、と時任が言い張ったので少し回り道をした。手土産なんていいのに。もし買うとしてもコンビニでいいのに。手頃な菓子折りをみんなで出し合って購入し、道路を外れて住宅街に入る。ここいらは一軒家ばかりだ。その中のひとつ、並ぶ一軒家の列の角にあるのが俺の家である。ほうう、と興味深そうにメンバーが見るのがなんとも不思議な感じ。俺も佐倉さんの家に行ったときはこうだったかな。
「入って」
玄関口をあけてドアを開く。上がり框でただいまー、と家の奥に声をかけると、リビングに通じるドアが開いてお母さんが顔を出した。
「お帰りなさい」
おっとりと笑ったお母さんは、ずらずら入ってくるメンバーに、あらあら、まあまあ、とさらに目尻に笑い皺を刻ませて。俺のすぐ後ろにいた時任が
「宗二君のお母さんでしょうか」
「ええ、はい」
「初めまして。同じクラスの時任と言います。今日は突然大勢でお邪魔をしてすみません」
よどみなく言って「これはつまらないものですが」と買ったばかりの手土産を頭を下げながら差し出す。世の中にはどこに出しても恥ずかしくない人間ってのがいて、その内の一人は間違いなくこいつだろう。お母さんもびっくりしたようで、目を見張り口元に手を持っていった。
「まあ……。こんな気を使ってもらってすみませんね。うちの人が無理に呼んだようなものでしょうに。どうぞ、奥にいるので、あがってくださいな」
「お父さんは奥の部屋?」
「そうなの。すっかり広げて見本市よ」
苦笑交じりにお母さんが言う。
「どうぞ、あがって」
「お邪魔しまーす!」
それまでがんばって黙っていた佐倉さん、半田君が元気な声をはりあげた。とりあえず全員気を使ってくれたのか靴をそろえてあがって、ぺたぺた廊下を歩く。半田君がなつっこい声で
「綺麗なおうちですね。新築ですか?」
「買ったときはそうだったけれど、もう十年近く前になるから、新築とは言えないんじゃないかしら」
「いやあ、うちなんて父親より年代物ですよ。立て替えられたんですか?」
「いいえ。以前は埼玉に。新築だった家を購入してこっちへ」
突き当たりの戸をあけると、お母さんの言が全然誇張じゃないということがわかった。いつものまだ青い畳もほとんど覆い隠して、渋い色がとりどり広がる部屋の真ん中で座っていたお父さんが「おお、来たか」と顔をあげた。
「ただいま。凄いね」
「お帰り。どんな物がいいのかわからなくてな」
言ってお父さんはよっこらしょと立ち上がる。
「いらっしゃい。宗二がいつもお世話になっています」
「あ、こ、こちらこそ」
先にお父さんが頭を下げたので、慌てて頭を下げるみんな。
「宗二から簡単には事情は聞いたんだが、なにぶん見当がつかなくてな。少し見ていただけると助かる」
「あ、はい」
「お茶を入れてきましょうね。みなさん、紅茶かコーヒー、どちらがいいかしら」
「いえ、お構いなく」
「全員紅茶でいいよ、お母さん」
「お手伝いしまーす」
半田君はお母さんと一緒に台所へ。忠実な小型犬のようについてくる半田君をお母さんももう遠慮せずに受け入れて「埼玉ですかあ、僕、従兄弟が住んでるんですよ」「あら、どこいらへん?」と、そんな会話を弾ませながら二人は遠ざかっていった。
「わしの若い頃の着物だったり、爺さんの古着だったり、まあ、古いものでよければまだあるんだがね。ちょっと片付けなきゃならんか」
慌てて結城君が近くに行った。俺と時任はお父さんの指示に従いながらもう出ていた着物をたたんだり、佐倉さんは正座してろ、という厳命に素直に従って部屋の隅っこで正座して興味深そうに見ている。
「似たような色合いがいいなら、これとこれなんかどうだろうね」
「あ、はい。ええ、その」
結城君は着物を見ながらも上の空だ。お父さんもそれがわかったのか
「やっぱり役に立たないかね」
「いや、その……」
結城君が部屋を見渡してごくっと飲み込んだ。
「あの……。用途って聞いてますか?」
「学校の体育祭で使う、と聞いたが。なんでも着て走るとか。今の学校は面白い競技があるんだな」
「ええ。楽しそう」
紅茶が入りましたよ、と呼びに来たお母さんが笑う。
「その、ですから、結構荒っぽい場所というか。土ぼこりとかも立ちますし、なにより来て走りますから破れたりとか汚れたり」
「そんなこと、いいんだよ。これだけ古いと宗二も今後使う場面があるとは思えないし、変な言い方だが私ら自身はもう着物を着る年でもないしな」
「年をとると不精になって、洋服のほうが楽ですからね」
「箪笥の肥やしどころか邪魔者だ。捨てる手間が省けて返ってよかったというものだ」
結城君が戸惑って俺を見た。俺はこくりとうなずいた。唾を飲み込んでまだ緊張したように、それじゃ…と結城くんが着物を手に取る。
それから結城くんの見立ての合間、お母さんと半田君が入れてくれた紅茶を飲んで、小一時間ほど楽しく話をした。時任の如才なさに、半田君の会話スキルもそうだけど、お父さんとお母さんは結構佐倉さんとの会話も楽しんでいた感じだ。女の子が家にいるって新鮮なんだろうな。いささか世間の「女の子」基準から外れている人だが。お母さんたちが想像する女の子って言ったら。……。
家を辞するときは、紙袋に包んだ五つの着物をメンバーで分担して結城君の家に運ぶことになった。俺も行こうと思ったけど、それはいいよ、ということで玄関先で三人で見送った。手をふりふり、頭を下げ下げ行くみんなが角を曲がると
「あんなにたくさんの若い方と話したのは久しぶり。にぎやかだったわぁ」
「そうだな」
二人は本当にそう思っているみたいだ。やっぱり全員連れてきて正解だったな。
「時任くんだったか。お若いのにしっかりしている」
「他の皆さんも感じのいい方達だったわね」
お母さんが俺を見上げて笑う。
「またいつでも連れていらっしゃいね。あの子たちも、――他の子も」
そう言ったお母さんの顔が、夕焼けのせいだろうか。なんだか透けていたような気がしたから。
俺は、十分だよ。その言葉が詰まった胸から出てこなくてずきんといたんだ。十年前を思い出したのは、半田君とお母さんの会話を聞いたせいだろうか。それとも三人でこの玄関に立っているせいだろうか。
十年前のここで、俺は泣いて泣いてむせて泣いてそれでも言葉を紡いだ。ありがとうお父さん、ありがとうお母さん。このご恩は一生忘れません。きっと絶対忘れません。
二人が望んでいたものはそんな言葉じゃなかったのは重々わかっていたけど、まだ子どもだった俺には胸が破れそうなほどの感謝を伝えるにはそうとしか言えなかった。
俺のためにここまでしてくれました。もう十分です。十分すぎるんです。本当に本心だったのに。
身勝手な翻意、それを悟り笑って許してくれるお父さんとお母さんを前にすると、ときおりたまらなくなる。溢れんばかりに注がれたのに。できる限りのいや本来なら手に余るだろうこともしてくれたのに。もう足りない。人は欲深だ。与えられれば即座に飲み込んでもっともっとと欲しがる。足りることがない。
いくら食べてもやってくる空腹のように、いくら飲んでもやってくる喉の渇きのように、くうくう鳴るこの胸のうちを満たすには、どうすればいいんだろう?
「……本当に貰ってよかったのかな」
道を歩く結城は下げた紙袋をちらりと見ながら、落とした声で呟いた。その隣で同じような紙袋をさげた時任が苦笑いする。
「何度目だよ、もう」
「いや、だってさ。さっきは面と向かって言いにくかったけど。これ、いい代物だよ、多分」
「――だろうなあ。素人目から見てもそう思った」
「家も結構いい家だった。ここ駅からもそう離れていないし。なにより品がある夫婦だよな。お年ってのもあるんだろうけどさあ。国枝んち、金持ちなのか。……俺が思ってる以上に高い着物かもなあ、これ」
「ちゃんと主旨も用途も説明もした。向こうがいいと言ってるんだ。あの人達なら誤解することも後からなんだと言うこともなさそうだろう?」
「……うん」
結城が呟く。そして何度かうなずいた後で、ようやく思考が前を向き始めたのか
「こうなった以上は、俺、がんばって仕上げるよ」
「頼りにしてる」
「うん。これだけちゃんとしてれば、着付けの問題な気がするけど、幸い男物だ。そっちもなんとかしてみせる」
「おー!」
結城の横で、佐倉が元気よく拳を突き出している。結城はじっと彼女を見下ろし
「着物だから佐倉さんサイズでもあわせられるはず」
「フリーサイズ?」
さっそく算段を整えている彼から、時任は少し遅れた形になった。その斜め後ろに半田がいるからだ。珍しく彼は口を噤んでいる。彼が考えていることはわかった。
部屋を辞す前に、半田はお茶の片付け、国枝、結城は残りの着物の片付けに分かれた。自分も後者に加わろうと紅茶のカップを流しに持っていった際、まるで親戚か何かのように仲良く並んでいた母親と半田の会話の破片が時任の耳にもかすった。
「今日は見えないようだけれど、あなた方のお仲間は他にいらっしゃらないの?」
「いえ、いますけど」
ああ、やっぱりいるのね、と呟いた。洗剤を水で流したカップを持ち上げて何気なく。「宗二が、あの子が、とても大切にしている女の子が」
――
「部長」
小声で半田が呟いた。
「なんだ」
「お二人、幼馴染なんですよね」
「そう聞いてるな」
「僕、あんまり詮索しちゃいけないと思ってるんですけど、どうしても引っかかってしまって。だから聞いてここでとどめてくれますか」
ため息を返答にすると半田は続きを話した。
「埼玉にずっと住んでたって言ったんですよ。十年近く前まで」
「俺も同中の奴に聞いたことがある。国枝は小学校の時に転校してきたって」
「……小学校からでも幼馴染って言えば幼馴染になりますかね。同じクラスとかで」
「同じ奴に聞いたんだが。国枝と篠原さんは学校が違う。中学校も――小学校も」
「……まあ、家が近ければ、親しくなる機会はいくらでもありますよね」
到底納得していない様子で半田が呟く。そこにあるのは違和感だろう、と時任も思う。
新築と言っても十分納得できる彼の家で、その台所で。問いかけに「あ、はい。いますけど……」と答えると、手の水滴をタオルで拭って、母親はにっこり笑った。
「その子に伝えてくれませんか。いつかうちに遊びに来てくださいねって」




