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八章「彼女は来たりて各語りき」3

 ざわめきに揺れる教室の中で、ぽつんと座ったとき、篠原友子はまるで影になる。孤独ではあるが、孤独が目立つことのない。彼女は孤独すらひき立たない。彼女はほとんどどの場所でも違和感は抱かせない。クラスに一人はいるよね、ああいう子。いつでも用意された枠がある。

 机の上には次の授業の用意がすでに几帳面にまとめられていた。そうしているのは彼女だけではない。順番から指名されることを知っているのかノートを睨んでいるものや、慌てて友人に要請に行っているものもいる。けれど、篠原友子はそれらに準ずる行動はなく、ただぼんやり前を向いている。

 真上会長

 二年にあがってから生徒会入りをした友子にとって、一年の時に生徒会長をしていた三年の彼女は一般生徒並み、もしくは以下に馴染みがない。あんなに間近で姿を仰いだのも先の部室でが初めてのことぐらいだ。

 それでも知っていた。友子にとって彼女の存在は、


 ――生徒会に女入ったじゃん。真上先輩の後釜とか思ってないけど、あれはさらにひどくね。

 ――生徒会、女、だと真上先輩イメージが強すぎるよな。でもあれはねえと思うけど。

 ――もうおかしいくらい対照的だよね。


 それに関しては彼らだけではなかった。生徒会に入った瞬間から、真上真上真上と、その名はふりそそぐ呪いだ。彼女はカリスマであり、金字塔であり、大仰でありながらも伝説に入りつつある。溶けない雪のように降り積もったそれらに埋もれて呼吸ができなくなってしまう。そんな生徒も多くあった。

 が、元来篠原友子の精神には他との比較で自信を喪失する、ということはない。彼女の中で自分自身は常に一番下。青く揺らめく世界の中でふわふわと浮き沈みする彼らを水底から泡を吐きながら見上げている。その立ち位置が揺らぐことはない限り、篠原友子が呼吸に詰まることはない。

 それ故にその名が刃になることはなかった。なかったはずだ。でも灰色の空から降ってくる、無害な雪にまぎれたもの。混じったもの。ちらちら舞う雪片の中に、きらりと光るガラスの破片。


 ――ねえ、真上会長って。北原君と

 ――やっぱり……てるのかなあ。


 一瞬だけ彼女は自分の腕に顔を埋めそうになった。けれど見えない何かに引き止められたように、鞄を見つめた。その中にある電源を入れていない携帯を思い浮かべる。

 HRが終わって足早に教室を出た。仲間達の教室を避けて、いつもとは反対方向の階段を使う。決して望んではいないのに、急がせなければならない足がむなしい。

 やがて彼女はたどりついた。かつて通い慣れ、そして今は間違ってもよりつかない場所。


【生徒会室】


 見つめても無情にもプレートが示すその文字は変わらない。息を詰めてノックをする。どうぞ、と中から澄んだ声がした。扉に手をかけたとき、小さく震えて彼女は思った。

 ここから先がどうなるか、いっさいの保証はない。吐いて倒れて壊れても何も不思議はない。

「……」

 息を詰めようとして、すでに詰めていたことに気づく。落ち着くことだ。そして優先順位を決める。何があっても、何がおこっても、しなければならないことはひとつだけ。

(……ちゃん)

 胸の中か、頭の中か、わからないけれどどこかに確実に存在する回線をシャットダウンする。映画の前に携帯の電源を切るように。それを確かめて腕を引いた。

「来てくれてありがとう」

 開いた先で、窓を背に彼女は微笑んだ。開いた窓を背に、影になっているのに、その人が持つ艶やかさや端正さはまるで霞まない。じわりじわりと沸きあがってくるものを、ただもう感じないようにだけつとめて、友子は頭を下げる。その向こうで彼女の声が聞こえる。鈴を含んだような軽やかで好き通った声。悠然と、そして。――嫣然と。

「話をしましょう、篠原さん」




 なんだか、胸が奇妙な感じがした。むかむかするような。そわそわするような。微妙な違和感。感じ取るまで意識しないのに、気づいた瞬間に離れないような。おかげで半田君が入れてくれた紅茶も手付かずで、湯気がもう消えてしまった。

「篠原さん、遅いな」

 向かいのソファで時任が言う。ぴくっと肩が震える。

「教室にはいなかったんですか?」

「見なかったが。佐倉はどうだ?」

「見てなーい」

 気づいたときは、立ち上がっていた。

「迎えに行ってくる」

 こんなそわそわした気持ちの自分で考えても、俺の行動はあれだったけれど、三人は別に変な顔をしなかった。それだけで十分感謝しつつも、ともかく急いて仕方ない。扉が俺より先に開いたときも、止まれず二歩ほど歩いてしまった。

「こんにちは」

 そこに立っていたのは、真上美奈子だった。いつもどおりの落ち着いた雰囲気で、彼女は俺に、というより俺の様子に目をとめた。でも俺は正直、時がたつほど膨れる焦りにいっぱいで彼女のことが眼中になかった。

「用事かしら?」

「こっちの話です」

「もし篠原さんのことだったら、今日は来ないかもしれないわ」

 俺は足をとめた。足どころかすべてが止まっていたと思う。

「……どういうことですか?」

 後ろから抑えた時任の声がする。

「ちょっとお話させてもらったの」

 もてるだけの速さで俺は彼女を見た。まるですべては彼女の描く予定調和とばかりに、真上は俺達を見回して

「まず、初めにあなた達にも謝らせてちょうだい。私の後輩たちが彼女には本当に迷惑をかけたわ。ごめんなさい」

 黒いストレートの髪が垂れ下がっている。彼女が腰をおって頭を下げたのだ、とわかった。

「でも少しだけ弁解させてほしいの。私のせいもあるのよ。あの子達が他所から入ってきた後輩に過敏になっていたのは――」

「そんなことどうでもいい」

 耳から入ってきてはじめて自分が言葉を吐いたのに気づく。

「ゆうちゃんに何を話した」

 真上は俺を見た。中断されたことに少し物申したそうにしたが、仕方なさそうにため息をついて

「後輩が本当に申し訳ないことをした、と、まず謝罪したわ。そして、彼女のしていることの無意味さを指摘したの」

「……」

「怒らないで。許せない気持ちはわかるけれど、少し話を聞いて。あの子達は三年生なのよ。もう実質、引退する時期なの。そんなところを狙って、再選挙なんて仕掛けて何になるの? よしんば彼らを追い出してあなたたちがそのポジションについたところで、行事の進行や活動のノウハウを持つ者がいないからすぐ行き詰る。無意味なのよ。聞いたところ、あなた達もなかなかユニークだし、篠原さんも能力的に申し分ない。篠原さんと、それと出来ればあなた達も、正式な手順を踏んで生徒会に戻るべきだわ。そうしたら全方向に向かって収まる。一番円満な方法が歴然と目の前にありながら、たった一つの意固地さで拒んでいる、今はそういう状況よ。もちろん、彼女は傷ついたのだから、拒絶するのは無理もないわ。たとえ間違った道を歩んでいるとわかっても、自分ではとめられないでしょう。だけど行き着くところまで行っても、そこに彼女の救いはない。誰かが止めなければならないし、やめどきは今だと思う」

 彼女はそう言った。

「それを」

 抜け落ちてしまった。俺を構成していたものがするりと。

「――それを、ゆうちゃんに話したのか」

 女はうなずいて、ため息をついた。

「ちゃんと聞いてくれた。立派な態度だった。彼女の傷は、私にも、よくわかるわ。辛かったでしょうね、本当に。でも、私、篠原さんには乗り越えて欲しいの。辛い思いをいつまでも引きずっていたって前には進めない、自分のためにはならない。それに、物事は多面的だわ。客観的に眺めたとき、どちらか一方が完全に悪いなんてことはない。今回のケースはあの子達により多く問題があったのは確かだろうけれど、彼女にだって少しは省みるところがあったと思う。小さな行き違いが大きな傷になってしまった。不幸なことだけれど。あの子達には反省と謝罪の気持ちもある。それを受け入れた方がきっと傷はこれ以上深くならないし、癒えるのも早くなる。大丈夫。あなたは立ち直れるわ。そう伝えた。でも、彼女からは返事が貰えなかった」

 無理もないかもしれない、と哀れみの表情で息を唇から零れさせて、女は見つめてきた。恥じ入ることなどないようにまっすぐに。

「あなた達には、彼女の気持ちをほぐしてほしいの。彼女は今、耳を傾けられる状態じゃない。わかるわ、その気持ちも。でも受け入れることこそが彼女のためだと思うの。部外者の方が言いやすいだろうから、告げるのは私がするわ。だから彼女が信頼するあなた達に――」

 真っ白なその頬めがけて右腕を唸っていた。ハッと誰かが息を呑んだ。張られた頬で呆然とこちらを向いた。打ったばかりの右手がまたうずく。たりない。

「国枝!」

 返す手は炸裂させられなかった。俺の手首を時任が必死につかんで引き止めている。落ち着け、と時任は言ってすぐに女に向けた。早く下がって、と。女は瞳を見開いて動かない。自分が傷つけられるなんて欠片も思わない。夢にも思わない、その、ツラ!

「早く下がれ!」動かない女に時任が怒鳴る。

「お前――お前っ、お前えええええッ!」

 喉がひきつれて獣のうなりのような声になった。びくっと震えて女は一歩下がった。待て。逃がさない。許せない。国枝っ、時任の声が聞こえるけれど。とらえようとして、手は空をかく。でもなんとか届かせようと腕を伸ばす。逃がさない。この女を許せない。

「国枝!」

 不意に横合いから別の声がした。振りほどけそうだった時任の腕からさらに急にぐいっと遠くに引き戻された。

「国枝、落ち着きなさい。落ち着くんだ」

 耳元に誰かの声がする。大人の声、竹下先生だ。そこまで考えて遠ざかってしまった相手へとまた意識が引き戻される。

「国枝、お願いだ、落ち着いてくれっ!」

「このっ、お前――! このッ!」

「国枝」

 不意に胸の辺りに何かが弾けた。身体がふわっと浮いたと思うと、一気に背後に飛ばされる。国枝先輩っ、という声と共に後ろで誰かとぶつかって、なんとか転倒を免れた。それでも勢いは殺せずに、腰をついた先でぽわんと跳ねる。ソファだった。

 咄嗟に見上げたそこに、竹下先生が立っている。ひどく苦しそうな竹下先生の顔が影になって見えて。でもすぐに俺はあの女を捜した。向こう側にまだ立っている。

「国枝。真上にあたるな」

 腰を浮かしかけた俺に竹下先生の声が降る。

「俺が悪い。俺が悪いんだ。篠原のことは」

 最後の言葉に、俺は見上げた。青ざめて、それでも俺を見下ろす竹下先生。

「国枝。篠原に、生徒会に入るように勧めたのは、俺だ」

「……」

 すまん、と言って竹下先生は、膝をつきテーブルに頭をこすりつけた。低い位置にある頭を、俺はひどく冷えた気持ちで見下ろしていた。何を言っているんだ、この人は。生徒会に入ったきっかけは自分だって?

 まだじゅくじゅくした傷を抉ったのはあの女だ。その傷は生徒会からきた。逃げられなかったあの忌々しい集まり。一度も望んだことはないはずなのにゆうちゃんが所属していたあの場所。あそこで行われたこと。

 薄い軽蔑の後に、あの飽和が来た。俺を包んでしまう飽和。複数の視線が俺に集まっている。俺の反応を見ている。俺は何か応えなければならない。動かなければならない。でも。なにを? 先ほどまで詰まっていた怒りは今はどこにもない。何が正しいんだろう。今の俺にはどんな感情がふさわしいんだろう。俺のゆうちゃん。竹下先生、あの女。

 そうしてがらんどうの中に、じんわりとわきあがってきたのは。

 ――いたい。

 向いてしまう思考。描いてしまう光景。あの生徒会室にいたゆうちゃん。たった一人で。誰の助けもないまま、傷つけられるまま。そこにいたゆうちゃん。

 むせ返るような涙と痛みに俺はうずくまった。まぶたが熱くて鼻や頬にはむずがゆい温さがゆるゆる渡ってる。熱さや寒さが交じり合ってむせて喘いで息ができない。

 ガンガン鳴る身体の外側、誰かが必死に呼んでいる。声が聞こえる。だけど、声がでない。ばりばりと胸が裂ける。心と脳が割れる。いたい。いたい。ゆうちゃん、ゆうちゃん!

 君が――いたい!



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