七章「暴走のピアニスト」2
放送室の前は凄い人だかりだった。
放課後とは言え、まだ授業が終わってそうたっていない。残っていた生徒の中で、あれを聞かなかったものはいないだろう。
でもなんだなんだと群れる生徒たちも、こちらに気づくと驚いたように道を譲った。ドアが開けられたまんまの放送室の前に、ぽっかりと人垣があいて激しく動いている誰かの手足が見える。
「どうして僕が拘束されなきゃいけないっ!」
「うるせえっ!!」
甲高い声で騒ぎ暴れている誰かを、ドアの中に入れまいと必死に防いでいる数人の生徒と、後ろから羽交い絞めにしている三年らしき長身の生徒。その双方に挟まれて依然として騒ぎ続けているのは、――小さな、子だった。
いや、お前に人が小さいどうのと言えるか、というのはわかる。でも、それでも俺は高校生以下に、まあ遺憾ながら中三辺りに見られることもたまにないこともないが、ともかく高校生という実際からそこまでかけ離れて見られることはない。
でも。彼は。
制服の白いブレザーを着ている。でもそれ特注だよね、絶対そうだよね。それくらいに彼は小柄で身長もなかった。今は乱れているけれど、艶々した癖のない黒髪の髪型がなんか坊ちゃんぽいのもあわせて、小学六年生くらいが関の山って感じ。
でも、今彼は自分の身長など遥かに超える複数相手に大暴れしている。もしかしたら相手もこんな小さな相手にあまり強い力を出せなくて困っていたのかもしれない。驚いて立ちすくむ俺たちに初めに気づいたのは、彼を後ろから羽交い絞めにする長身の男子生徒だった。
「お前ら!」
もがく小さな身体を押さえつけながら、切羽詰った声で。
「なんとかしろ!」
なんとかって。でもそのとき、背後の反応に彼――この状況ではもう一人しかいないのだろうが――が俺たちに気づいた。ふわっと軽くウェーブがかかった前髪の向こう、闇に光る猫のようなつり目がハッと瞬いた。
「佐倉晴喜!」
一点を見つめて彼は動きをとめた。
「ようやく僕の前に来たな! 佐倉晴喜、お前――許さないぞ、絶対に許さない! 薄汚い陰謀で僕の努力を破ったな! この臆病者め! 卑怯者め!」
彼の最初の叫びが終わる頃には、驚きから抜け切って、カチン、ときたのが自分でもわかった。なんだこいつは。どう考えたって佐倉さんが罵られる理由なんてこれっぽちもない。時任の言うように完全な逆恨みだ。それをこの衆人環境の前で居丈高に言うなんて。変人だからって許されないのはそっちじゃないか。
「そんな侮辱を受ける謂れはこちらにはない」
「逆恨みも甚だしいじゃないですか」
ずいっと一歩出たのが、時任と半田君だった。むっとした顔で相手を睨んでいる。奇変隊の結束と言うべきか。佐倉さんは、きょろきょろ二人を見ている。でも、その彼女の顔があがってあ、という口の形になった。
「撤回してください」
ゆうちゃんが出た。
「佐倉さんは、そんな人じゃない」
俺も急いでゆうちゃんの横に出て、言いたいことは三人が言ってくれたので、厳しく睨むに留めた。でも、この変人は聞く耳持たなかった。
「うるさい! そいつは僕を陥れたんだぞ、それもきわめて卑怯で陰惨な手だ。そんなことが許されてたまるものか! 僕は許さない。こんなことは許されない」
ここで周囲もただ口を利くのを忘れて驚きを感授する立場から少し回復したのか「佐倉、なにしたの?」「あいつ、京免だよな」「だれそれ?」「佐倉とどういうカンケイ?」「え、振ったんじゃないの?」「佐倉に遊んで捨てられたんじゃない?」
違う! でも、撤回しようと目を向けた先で、群集のざわめきはどこから生まれたかなんてわからないまま流れていってしまった。見失ってしまった言葉と、確実にそれが浸透した群集を見る。どうしよう、嫌な雰囲気だ。今の目撃者から捻じ曲がって伝わっていきそうで。でも彼らに向かってどう説明すればいいだろう? これは川に流した笹の葉船を取り戻せないのに似ている。
「京免!!」
不意に声があがった。俺たちはびっくりした。なぜならそれが、結城君のものだったからだ。それまで俺たちについて放送室に来てはくれたけれど、多分後ろの方にいただろう彼が、今、輪の中から抜け出してまだ放送部員に肩をつかまれている京免くんの前に出た。
京免君は目を少しぱちりとさせた。長い睫がカールしているのが見える。
「君は、クラスメイトだな」
「そうだよ! ってかそこはどうでもいい。京免、勝手なこと言うなよ! なんだよ成績が自分より下だったから許さないって! お前がビリ狙ってとるのも勝手なら、佐倉さんがヘマしてビリになるのだって勝手だろ。そんなことで卑怯だのなんだの言うなよ!」
結城君が叫んでいる。その叫びが聞こえた人が「成績?」「びり?」「なんの話?」と生徒たちがこだまする。ちょっと方向性が変わったか。――にしても結城君。あんなに表に出るのは勘弁と言っていたのに大丈夫か?
でもよく見ると気づいた。彼の膝がガクガク震えてる。目は落ち着きなく動いているし、決して平静でいるわけじゃないって。なのに結城君は出てきてくれた。佐倉さんを庇うためだ。
「何をしているんだ!」
生徒の誰とも違うトーンが人垣の向こうから響いた。そして無理にかきわけたり避けられたりして、二人の先生があらわれた。一人は生活指導の谷村、そしてもう一人は。――竹下先生。
「いったい誰だ!」
叫んだ谷村が、俺たちに気づいてぐうっ、と顔をしかめて、そして京免君を見てぐうううっ、と顔をしかめた。先生って大変だな、となんだか思ってしまった。
「と、ともかく! 他の生徒は帰りなさい。さあ――お前ら、散れ!」
まるでほんのひと時でもこの現実から逃れたいように、くるりと背を向けて谷村が集まった生徒たちを追い払おうとする。でも待って。こんな中途半端なまま返してしまったら、あのひどい誤解の種が残ってしまうんじゃないか!
生徒たちは谷村の促しに不承不承という風だがきびすを返しかけているのもいる。足取りは鈍いが生活指導の先生の指示にそうまで反抗はできまい。ああ。どうしたら?
そのとき。さっとゆうちゃんが動いた。ゆうちゃんの視線の先には、竹下先生がいた。あの日から、俺たちを避けつづけてきた先生。先生は現れたときから気まずそうな苦しそうな顔をしていた。ゆうちゃんを見てもそれは変わらなかったが。
「先生、このままじゃ、佐倉さんが誤解されます。ひどい誤解」
ゆうちゃんは必死に見上げて、先生、とまた呼んだ。
「――何があった?」
「京免君には、何故かテストで自分が最下位をとらなきゃならないってこだわりがあるんです」
「ああ、それは知っている」
「でも今回。佐倉さんが最下位をとってしまった。もちろん故意じゃないんです。でもそれを陰謀だって佐倉さんを責めて。他の生徒たちが勝手に話を作り始めて、中傷の種になりそうな雰囲気なんです」
竹下先生が考えたのは一瞬だった。そして彼は、躍起になって生徒たちを追い払おうとする谷村を振り向いた。
「谷村先生!」
呼ばれた谷村がうるさそうな顔を振り向く。
「ちょっと待ってください。どうも両者の間で話が食い違っています。見ていた生徒に真偽を確かめる必要性があるので、帰さないでください」
その言葉に現金なもので名残惜しそうに離れていきかけてきた生徒は、すすすっと戻ってきた。谷村先生は真偽? と胡散臭そうに呟く。
「まず、放送部員。何があった」
「は、はい。その、機器を調整してたら、突然、この人が入ってきて僕に放送させろって言い出して。断ったら勝手にスイッチを入れて言い始めたんです。制止してもとまらないしで、仕方なく外に連れ出そうとしました」
「僕は正しい主張を伝えるために――」
「黙って」
何か言いかけた京免くんを、竹下先生はぴしゃりとさえぎった。有無を言わせぬ調子だった。
「一人ずつ、話を聞いているんだ。君の話は後で聞く」
京免君は不服そうだったが黙った。竹下先生は俺たちを見た。
「そして君たちはまるで心当たりのないことに驚いて放送室に駆けつけた。それでいいかい?」
「はい。寝耳に水のことで驚きました」
時任が困惑顔を作ってうなずいた。誰が見ても悪くない完璧な被害者の顔。
「さて、と。京免君。今から僕が言うことをよく聞いて、間違っているところを訂正して欲しい」
「ようやく僕の番か!」
「君は今回のテストである順位を狙っていたそうだね。けれど、別のクラスの佐倉晴喜が、その順位になってしまった。そのため君はたいそう佐倉晴喜に怒りを覚えた」
「そんな言葉じゃ言い表せない!」
「ともかく、君は怒ったんだね。佐倉晴喜が君が狙っていた順位になって、君がその順位になれなかったから」
「そうだ!」
「君が狙っていたテストの順位が、佐倉晴喜がなったことによって達成できなくて、君が悔しいと思う気持ちはよくわかる」
竹下先生の発言は明朗としていたけれど、よく聞けばくどいくらいに同じ事を何度も繰り返しているのがわかる。つまり「京免が怒っているのは、佐倉晴喜がテストで自分の狙っていた順位になったからだ」という点。
先生が生徒の順位を勝手にばらすのはよくないと思ったのか「ある順位」としているけれど。いや「ある順位」としているのは別の意味もあるのか。この言い方ならまさか最下位争いとは思うまい。それなりにいい順位と誰もが思うだろう。佐倉さんは今回飛躍者として名が載っているわけだし。
すなわち、京免君の動機は、ただのつまらない妬みだと。
竹下先生のはっきりした声には、静まって聞いていた背後の生徒たちにも十分届いたようで「テスト?」「テストの順位」「佐倉今回テストの点良かったらしいもんな」「それで?」「ええー」「かっこわりー」という囁きが聞こえてくる。
非難の流れは京免君に流れが向かった。ちょっと気の毒だな、――なんて、思わない。絶対に思わない。佐倉さんは何にも悪くないのに、彼の勝手な思い込みと暴走でこんな事態になっているんだ。
「京免。君は佐倉がわざとそうしたと思っているんだね」
「ああそうだ! 僕の切なる願いだったんだ! 目標だったんだ! テスト前にはいつだって全員に知らせている。知らなかったとは言わせないぞ!」
「知らなかった」
ここで初めて佐倉さんが口を開いた。あっけらかんとした口調。京免君が、かあああと白面を赤くさせる。
「嘘をつけ!」
「アイ ドント ナウ!」
佐倉さんそれじゃ「私は今じゃない」だよ。
「嘘だっ!」
「京免!」
横から叫んだのはまた結城君だった。
「お前がそれを言ってるのってクラスの奴らだけだろ! そりゃ佐倉さんは知らないよ。クラスが違うから!」
そう、すがるように言う。もうやめとけよ、と態度に表す彼は優しいんだろうな。
「なあ、知らなかったんだって。ただの偶然だったんだよ。運が悪かったんだよ」
なだめる結城君の態度に、初めて京免君が変化を見せた。まだ疑いを残しながら、結城君をじろっと見る。
「君たちには言ったじゃないか」
「俺たちクラスの連中は、お前の話を他のクラスにもらすことってほとんどないんだよ」
「……なぜだ」
「お前が、好奇の目で見られるのは嫌だろうな、って思ったんだよ。みんな」
結城君の言葉に、うんうん、と群集の中から同意を示すような動きと声が聞こえた。結城君と同じクラスの生徒が何人か混じっていたのか。
「僕は人の目なんて気にしない」
「でも、中傷とかになったら嫌じゃないか。同じクラスメイトなんだし」
「……」
京免君は疑うような訝しむような目で結城君を見て黙った。竹下先生は生徒たちを見返った。
「今の事実で違う点はないか?」
誰も反論しない。だってそもそも彼らは事の成り行きなんてほとんど知らなかったんだし。
「わかった。じゃあみんなもう帰っていい」
さあ帰れ、と一応黙ってみていてくれた谷村が追い払うと、今度は生徒たちも帰り始めた。中にはなあんだ面白くない、と顔に書いているものもいるけれど。ああいうところを見ると、いそべん先輩が言っていたことがわかる気がする。人は聞きたいニュースに耳を傾ける、って。
そうして俺たちはようやく人垣の重圧から開放された。残されたのは放送部員と京免と俺たちと二人の先生。
「京免、放送部の後片付けをするぞ。後、彼らに謝らなきゃいけない」
「なぜですか」
「君は彼らの仕事道具を了承もなしに奪ったからだ。ヴァイオリニストが弾いている最中の自分のヴァイオリンを横から急に奪われたとして考えてみるんだ。どれだけ怒るだろう」
「万死に値します」
「そういうことなんだよ」
すると京免君はむっつりしながらも黙って立ち上がり、とりあえず恐る恐る中から出てきた放送部員全員に、物凄く渋々とした様子だが頭を下げた。
「機器は無事だったか?」
「あ、はい。壊れたりはしていないんです」
「わかった。僕と京免で一緒に片付けよう。さあ行こう。京免」
京免君はむっつりしたまま放送室に入る。なんで謝る方が態度が悪いんだ。竹下先生は入るがてらに谷村を見返った。大人同士の何かのやり取りがあったようだ。ドアが閉まると、谷村は渋い顔をしてお前らちょっと来い、と呼び寄せた。
「このことはな、京免のご両親にも許可を貰っているから話すんだが。――まあ、結城。同じクラスなら知っていると思うが」
はい、と結城君がうなずいた。え? なに?
「京免の両親は世界的なピアニストと指揮者で、幼い頃、京免は彼らについて公演旅行で飛び回るという日々を送った。小・中と学校にもほとんど通っていない。それのせいかどうかはわからないが、京免は情緒面が幼いんだ。小学生くらいの成熟しか果たしていない、という話もあるらしい。ご両親は彼の希望でもあるピアニストになることを望んでおられるが、ピアニストというのは技巧の面だけではどうにも立ちいかん世界らしい。表現すべき豊かな感情というか、それが大切なんだと。京免はそこが未熟すぎる、と。それで高校になってから急に編入することになった。きっと周囲と齟齬が大きいだろう、と心配して必要なら他の生徒にこの話をしてくれるようにと言われている。――今回、お前たちは納得がいかんことが多かったと思う。だがな、言い聞かせれば理解するし、こういう事情もあるから、なんとかおさめてくれんか」
谷村は頼むように言った。俺たちはむっとしていたし、放送部だってたいがいだろうけれど、そういう話を聞かされるとそうそう怒りを持続させてもいられなかった。あと、京免君、中身だけじゃなく見た目も幼いって言うのもあるだろう。同い年だというのにあんまり我を張り続けていると、なんだかこちらが大人気なく思えてしまう。
放送部も渋々うなずいた。時任がさっとそちらに行って、迷惑をかけた、と彼らに頭を下げた。大人だなぁ、というか、如才ないというか。明日からでも一流サラリーマンがなんの問題もなく勤まりそうな奴だ。
俺と同じ感想を持ったのか、結城君が横目で見ながら
「時任って、なんか凄いよな」
「だよなあ」
漫画やテレビの中では、世界を救ったり政治を動かしたり巨万の富を得たり大活躍の高校生だが、実際の立場でいるとそんなたいしたことができるわけじゃないよ高校生は。同じ二年生男子としては結城君と共感できる。あ。でも。
「さっきはサンキュ、結城君。助かった」
「いや」
首を振って結城君はむしろ申し訳なさそうに
「前に佐倉さんの家で話題が出たとき、もっとちゃんと説明してればよかった、って思ったよ」
「いやでもあれはさあ、言いようがないと思うよ」
谷村先生の口ぶりではクラスで軽い口止めもしていたんだろう。
「悪い奴じゃ、ないんだけど」
腕を組んでそう言いながら、心配の色を見え隠れさせる結城君は、いい奴なんだろうなあ。「あとさあ、君付けはやめて、結城か清明でいいよ」と気さくそうに苦笑したところもあわせて。
そんな結城君は俺たちの部室についてきた。鞄以外にも大きなバッグを持っている、と思ったら、彼はそれをそっと机に置いて危機としてケープやハサミやらを取り出した。
「少なくとも週一で手入れしたい」
とのことだ。専属スタイリスト様は毛先や頭皮マッサージ(これがまた気持ちいいんだ)に飽き足らず
「ちょっと太った? 間食は控えて」
「野菜とってる? ビタミン不足っぽいね。このサプリを買って飲んで」
等も指示してきた。ちなみに前者の発言が半田君に向かって、後者の発言は俺とゆうちゃんへ。サプリのメモを渡された。帰りにドラッグストアに行くか。
時任と佐倉さんは無罪放免だったけれど、日ごろから心がけなきゃダメだ、と言い渡された。
「エステの施術ってのも興味がちょっとあるんだ」
素人がやったらダメなんだけど、と言いながらもうきうきしている結城君。太った発言にちょっとショックを受けている半田君を立たせて、近づいたり離れたりしてバランスを何度も確かめている。
その間俺たちは、彼が教えてくれた美容体操たるものを床やソファで一生懸命励んでいる。美しくなるため、の一事にちょっと思うところがないでもないが、イメチェン戦略相の指示であるので、俺達は諾々従うのみだ。
よいしょと勢いをつけて前屈。いででで。身体が曲がらない。背中を押してくれているゆうちゃんが困った顔をしているのがわかる。確かにちょっと情けないくらいの角度だ。佐倉さんはソファの背の形にぴったりと添ってそりかえっている。骨あるのかあの人は。時任はインドのじーさまがやってそうなあぐらに近い形で足を組んでの修験道のポーズ。
入るぞ、とがらりとドアが開いて竹下先生が顔を出したのは、そんな若干カオスな場だった。




