六章「学生の本分は勉強です」8
人口密度がぐっと増えた部屋で、にぎやかな笑い声がする。俺たちを呼び寄せて三月さんが次々出来上がった料理を渡してきた。麻婆豆腐、エビチリ、牛肉と筍の炒飯、最後に熱いよ、と言いながら三月さんが運んできた鉄鍋から、真ん中に置いていた皿に餡を流し込むと、一気にジャッと乾いた米が餡を吸い込む荒々しい音が香ばしさと共に立ち上る。
おこげ料理を完成させると、料理人はふう、やれやれと座布団について
「かんぱーいっ!」
と一人だけ早々と缶ビールのプルトップをあけてごくごく飲んだフリーダムな三月さんは、やっぱり佐倉さんのお母さんだな、と思う。佐倉さんが年をとって若干社会性を身につけたらこうなるんじゃないだろうかって。
「いただきます」
奔放な大人に対抗して、礼儀正しく大人しい高校生として俺たちは手を合わせた。いただけいただけ、と缶ビールを振って
「いやあ、マジでやるとは思わなかったけど」
そうして料理には手をつけずビールだけ飲む三月さんは、まるで酒のツマミみたいにさっきも見た成績表を開き、一瞥してぶっはははははと笑い声をあげる。
「晴喜が、150台! 150!」
「がんばりましたよ、今回」
「なに言ってんだよ、時任。これ、ほぼお前の努力だろ」
ほれ、頭を下げな、と娘のふわふわした頭に手を添えて、素直にかっくり頭を下げる佐倉さんとそっくり同じ格好で三月さんも。そして同じタイミングで顔をあげる。
「他の成績がビリとか。ビリが三つとか。312/312人中とか!」
目に涙まで浮かべて、本気で爆笑する三月さん。いや、今まで311位だったからそんなにダメージないのかもしれないけれど、親としてそれはいいのだろうか。
そんな彼女のちょうど向かいに座って唖然として見ているのは、結城君。佐倉邸に来るのも初めてだし、三月さんに会うのも初めてなので仕方ない。
佐倉さんがお母さんにメールすると、よっし今夜お疲れ様会開いてやるよ、というメールが帰ってきた。それに結城君も声をかけてみた(いそべん先輩はまだ試験中だった)
あの件からまたちょっと素に戻っていたのか、初め結城君はびびっていたけれど、手を入れた三月さんに会える、と知ってからまたあの時見せた我慢ならん、という顔になって「行くよ」と言ってきた。彼、本当にプライドがあるんだな。
そんな意気込みと小心者の緊張が入り混じって、結城君ははたから見ても丸わかりなくらいがちがちで佐倉邸の前に立ったけれど。
「ホスト!」
彼を見た三月さんの第一声に色々なものが砕けてしまったようだ。ちらちらと彼女を観察することはやめられないが、物申せるほどの度胸がまだ戻っていないようだ。
そうこうしているうちに、成績表をツマミにビールを煽っていた三月さんが、お、と台所の方を見て「そろそろ熱が通ったかな」と立ち上がった。
「晴喜、手伝え」
佐倉さんも立ち上がる。
並んでシンクの前に立つ二人が、座っている位置から、俺にはよく見えた。台所の前で三月さんが佐倉さんの頭をひょいと捕まえ引き寄せて、よくやった、とささやいたのを。それに佐倉さんが笑ったのが。
気づくと隣のゆうちゃんも同じものを見ていた。俺たちは顔を見合わせて同じ笑みを浮かべた。
「さあ、できた」
二人が積み重なった蒸籠を運んでくる。
「熱いうちに食べな」
蓋をあけると湯気と共に綺麗に並んだシュウマイと餃子、小型サイズの肉まんが見える。飲茶だ。試験勉強最中、三月さんは何度か料理を作ってくれたが、必ず中華の領域に入るものだった。でも、これらって、家で出来る中華なのだろうか。
「あの、」
「ん、なに」
ずっと何か言いたげに三月さんをちらちらしていた結城くんだけれど、ここでついに口火をきった。
「お店とか、やってるんですか」
「いんや、昔きったない中華料理店でバイトしてて、それで覚えた。店主がパチンコ行くと、あたしが全部作ってたから」
だから他の料理はできない、と三月さん。
「あの、じゃあ、お仕事は服飾関係とかですか」
「いんや。建築関係だよ。設計が主だけど」
現場にも出てるよ、と言う三月さんに、じゃあ、センスあるわけですね……と呟いて結城君はきっと顔をあげた。
「お、おれ。あの、このメンバーのスタイリストやります」
「ふうん」
「お、俺には俺の計画があるんで、――お母さん。今後、手を出さないでくれますか」
俺たちは全員箸を止めて三月さんを見た。
三月さんは、缶ビールを机の上に置いて、結城君を見た。
「あたしの仕事は家を建てることなんだけどさ、この家ってのも結構作業は細分化されてて、いろんな人間が関わってくんだよ。まず依頼主が依頼して、あたしらが設計する。事務が採算だして、そんで土台を作る大工が出てくる。骨組みの後にもさらに細かく分けられてる。その過程でさ、ひとりでも自分の仕事を放り出したらどうなる?」
「……」
「なんもかんもがご破算だ。他人の努力や成果までね。もちろん、そんな奴は二度とその業界で使っちゃくれない。それだけじゃないよ。ちょっとでも弱音ややる気がないところを見せたら、容赦なく奪い取られてく。そしてそいつはもう干されるだけだ。それが仕事ってもんだ」
「……」
「将来の仕事にしたいと本気で思うなら、今の段階から甘えはやめな」
「――はい」
「次に放り出したら、全部奪うよ」
「はい!」
結城君が睨むようにうなずいた。するとじっと見つめていた三月さんは、これでおしまい、とばかりに目を線にして笑った。
「ところで、晴喜もだめなのかい?」
「だめです!」
寂しい中年女の楽しみを奪って……と三月さんはぶつぶつ不平を言った。でもどことなく楽しげだ。強く言い切った結城君は、大それたことをした…、という高揚とドキドキ感でいっぱいいっぱいな感じみたいだが、さっきよりかは少し態度がほぐれたようだ。こんな感じでもさすがに大人ということかな、三月さん。
とりあえずほっとして俺たちはまた食事を再開した。テーブルいっぱいに溢れんばかりの料理だったけれど、なにしろ育ち盛りの男子高校生が四人いて、そして佐倉さんがいる。
夢中で食べながらも黙々とならないのはこのメンツのせいもあるだろうけれど。ゆうちゃんと並んで会話にはそんなに加わらないかなと思ったら、結城くんは意外にもあれから三月さんと結構話しこんでいる様子だった。髪型がどうのお肌の手入れがどうのとちらちら聞こえた。
「あ。そう言えば」
そんな団欒最中にふと半田君が呟いた。
「どうでもいいことなんですけど。隊長の他の教科の成績。なんでビリなんでしょうか? ずっと白紙で出す人がいたって言ってたのに」
そういやそうだな。
「同着ビリとか?」
「いや、それなら繰り上がりで同着311位になるだろ」
俺たちがそれぞれ憶測を言っていると、不意に、結城君がそれなら、と口を開いた。
「その、白紙で出す奴ってうちのクラスの奴なんだけど。今回、何枚か配点の問題で名前を書いてれば一点ってのがあったらしいよ。それで抜かれたんだって」
みんなが佐倉さんを見た。全力で麻婆豆腐をかきこんでいた。この人、名前も書かなかったのか、と思うけれど、本当に頑張っていた点はみんな知っているので無言で目をそらす。でも、同じクラスの子とは言え、人のテストとかよく知ってるな、結城君。
「友だちなの?」
その問いに、結城君は何故か目をそらして、いや、と短く言う。
「あと、その、佐倉さんが今回ビリだったってこと、あんまり周囲に言わない方がいいと思うんだ」
「……言うようなことじゃねえと思うぞ」
「うん、まあ、そうなんだけど。佐倉さんだし」
佐倉さんだしなあ。吹聴するつもりはなくてもさらっと口に出すかもしれない。時任はちょっと結城君を不思議そうに見たけれど、何か感じ取るものがあったのかそれ以上は追求せずに、傍らの佐倉さんをうながすように横目で見た。箸を口に入れたまま、佐倉さんは「ん、言わない」とうなずいた。「言うな言うな」と三月さんがけらけら笑った。
たらふくご馳走になって、当分中華はいいかな、とこっそり思いながら佐倉邸を辞した。途中までは時任と半田君、二人と別れてからは結城君と歩いていたけれど、その結城君とも別れてゆうちゃんと二人きりになった。
今日は自転車で来たけれど、歩きだった結城くんに付き合って結局俺は自転車を押していた。彼と別れてからもなんとなく惰性でおしながらゆうちゃんと歩く。
「楽しかったね」
夜の中でふふ、とゆうちゃんが笑った。
「うん。結城くんにはびっくりしたけど。三月さんが大人な対応でよかった」
「多分、三月さんは結城くんが気に入ったんだと思う」
「へえ。どうして?」
「佐倉さんって、結城くんが好きでしょう?」
ええっと。ライクかラブかと一瞬困ったけれど、まあ間違いなくライクだろう。
「うん。それはわかる。なんで好きなのかはわかんないけど」
「佐倉さんは多分、夢や目標があって、それに向かって一生懸命な人が好きなんだと思う。磯部先輩もそうだったし。磯部先輩にあんなに怒っていたのも同じところから来ているんじゃないかな」
「……」
結城くんと磯部先輩は部外者だったけれど、佐倉さんのお気に入りだった。二人は全然似ていないけれど、それぞれ自分の夢にたいしてとても真摯で一生懸命なのは一致する。自身の夢を汚したいそべん先輩に向かって初めて激を吐いた佐倉さんの姿。俺たちの髪を嬉しそうに整える結城君を、負けずに嬉しそうに見ていた佐倉さんの姿。
そうかあ。
すとんと落ちてきた気がした。
「なんか、凄く納得できた」
「三月さんもそうなんじゃないかな。二人は同じタイプの人が好き。見た目はあまり似てないけど、親子なんだね」
「そうだね」
台所に向かう二人。佐倉さんを引き寄せる三月さん、腕の中でくすぐったそうに笑う佐倉さん。
ふと振り向くとゆうちゃんが止まっている。どうかしたのかな、と思って目をやると、そうちゃん、と呼ばれた。角度のせいか眼鏡のレンズが反射してうまく中のものが見えなくて。近寄る俺の前でゆうちゃんの手があがる。闇の中で、ゆうちゃんの手は細くて指は少し長い。誰も傷つけられない手だな、となぞるたびに思う。その手が伸びてきて、俺の前髪から耳の後ろにかけてそっとかきわける。
「よくがんばったね」
見返すとさっきは見えなかった眼鏡の奥から、柔らかい光が漏れている。
「ありがとう」
俺も同じように手をあげて、小首をかしげてさらりと流れるその髪に触れる。やわらかい手触り。誰も傷つけられないゆうちゃんの中で優しくないものはひとつもない。ゆうちゃんのそんなあり方を、カタチを、たどるように撫でる。
「よくがんばったね」
ありがとう、と夜の中でくすぐったそうに笑う、ゆうちゃんを確かめる。




