六章「学生の本分は勉強です」7
部室には重い空気が立ち込めている。誰もそんなものを望んではいないけれど、ソファの真ん中に座る佐倉さんとテーブルの上の成績表は、いやおうなしにそんな空気を生み出してこの場を満たし続ける。
佐倉晴喜と書かれた小さな成績表。ほぼ底辺を、それも今回は幾つか312人/312人中も存在する成績表の中、たった一つだけまったく違う桁をたたき出す。157人/312人中。前回の佐倉さんの順位が311だったから、たった二人。たった二人だ。
百人強をごぼう抜きにした、佐倉さんの努力は確かにここにあったのに。たった二人。
半田君もお茶を入れずに黙っている。彼は106番。佐倉さんとは逆方向にぎりぎりだった分だけ、明暗をわけたわずかな差。時任も佐倉さんの横で黙って何かの紙に目を落としていた。いつもの奇変隊らしくない。
佐倉さんはつと成績表を見ていた。彼女がそんなものを気にするのは、なんだか奇妙な気がした。率直に言うと嫌だった。
誰も口火をきらない沈黙の中、佐倉さんが顔をあげて俺たちを見回す。
「やめる」
「え?」
「抜ける」
……隊長? と半田君が恐る恐る呟く。
「奇変隊を抜ける。全員達成の条件が通る」
佐倉さんが何かを確かめるように短くうなずく。俺は意味がわかった。そして絶句した。
「だっ、だめですよ! そんなの絶対!」
半田君が上ずった声をあげた。
「達成できなかった」
「それは、でも。――もう! いいじゃないですか竹下先生なんて! そこまで必死に勧誘するほどじゃないですよ。若者ぶって爽やかイメージですけど実質は煮え切らないしバスケ部との関係もそこまで?って感じだしそれにあの生え際は将来ちょっと怪しいですよ!」
半田君も動揺しているのか最後の方は言っていることがやや変な方向に向かったけれど、大意は同意だ。佐倉さんを切ってまであの余所余所しい竹下先生をとる道理などこれっぽちもない。でも佐倉さんはふるふる頭を横に振る。
「だめ」
俺も言おうとした。でも、胸が詰まってうまく言葉が出ない。なんて言おう。なんて言えばいい。半田君が狼狽しきって意味不明な言葉をまくしたてている。俺は、形にならない言葉を必死に吐こうとして空回り。
「佐倉」
めまぐるしい時の中で、その声は静かだった。でも安定した重さが、流れを一人で止めた。
時任だ。平然とした横顔で、いまだに時任は手に持った紙に目を落としていた。そして紙を傾けたので、ちらりと紙の表面が見えた。そこには問題が書かれている。数Bのテスト用紙だ。赤の点数の横に「佐倉晴喜」と書かれた癖のある字。返却された佐倉さんのテストだろう。
「この問題、よく解けたな」
時任が右手に持ったペンでつついたところには、大きな赤丸がしてある。
「俺が教えた所だ。ちゃんと入ってたんだな」
「……」
「お前は元々頭が悪いし、それに加えて勉強もしないし、そのことに対して別になんとも思っていないしの三重苦で。教えてても、別に俺、お前を信じてなかった。お前がここまでやるとはこれっぽっちも思ってなかった」
そうして時任は持っていたペンで、佐倉さんの頭を軽く叩いた。
「がんばったな」
佐倉さんは、時任からゆっくり顔をそらし、そして何があるでもない前を見た。瞳が丸く見開いている。そうして。
ぽろりとこぼれた。丸い瞳からぼろりぽろりとこぼれる丸い涙。真正面を見つめたまま、佐倉さんが泣いている。嗚咽も言葉もなく。
「隊、長」
声を詰まらせた半田君が、やがて耐えられなくなったように佐倉さんに抱きついてわんわん泣き始めた。俺もぐずっと鼻を鳴らす。ああ。せっつないなあ。こんなにがんばったのに。佐倉さんは本当に真剣にやったのに。結果は無情で。なんでだよ。って納得いかなくて。
でも、だからって、あーあ駄目だったって笑って、こんなことたいしたことないんだからって風に流してしまったら、みんなで教科書参考書とにらめっこしてうんうん唸ったあのがんばりに価値がなくなるような気がして。この傷に耐えなきゃならないんだな、と思った。懸命さに向き合うなら。
そのとき。国枝、と呼ばれた声に俺は向いた。何故だか妙に平坦な時任の顔。
「篠原さんは?」
ゆうちゃんがいなかった。
階段も廊下もなんのそので走って、試験中で立ち入り禁止の職員室に駆け込む直前に隣の会議室から声が聞こえた。争うような甲高い声。いい加減にしろ、と誰かが怒鳴る。
「お願いします!」
ガラス窓の向こうでゆうちゃんが頭を下げていた。今までの弱い懇願じゃない。気迫すらこめて相手を見つめている。俺たちは扉を開ける手も出ず、絶句してそこに立ち止まった。
「お願いします!」
「いい加減にしてくれ!」
たまりかねたように竹下先生が叫んでいる。彼も息を切らして俺たちを見て、そして頭を下げたままのゆうちゃんを見る。
「篠原。……約束は達成できたのか」
ゆうちゃんがびくっと震える。
「いかなかったんだろう」
「……」
「じゃあもう諦めろ」
いいえ、ゆうちゃんは告げた。
「達成は出来ませんでした。でも、お願いします。顧問にはなってください」
「めちゃくちゃなことを言うんじゃない!」
怒鳴られてゆうちゃんはうつむいた。その身体がすっと沈んで。
「篠原!?」
冷たい床に膝をついて、頭を下げようとしたゆうちゃんに、それまで距離をとっていた竹下先生が飛びついてきた。慌ててゆうちゃんの肘をつかんで引き上げようとするが、ゆうちゃんは抵抗する。
「お願いします」
「篠原」
竹下先生の声に弱さが混じる。
「お前、どうしたんだ。意味がわからない。なんでそんなこと言い出すんだ」
「佐倉さんが、頑張ってくれたからです」
篠ちゃん、と佐倉さんが小さく呟いた。
「みんな、頑張ってくれたんです。私のために、頑張ってくれたんです。先生。お願いします。お願いします。――お願いします、先生」
竹下先生の顔に絶望的な色が浮かんだ。一瞬、彼はふらりとこちらにやってきそうだった。でもぎりぎりのところで何かが彼の足をとどまらせた。
「篠原……約束は、約束だ」
「……」
「もし、お前らが達成して、それでも俺が顧問にならないと言ったらお前らは裏切られたと思うだろう。それと同じだ」
「……」
「子どもであることに、甘えるのはやめなさい」
確かにそこに漬け込む気持ちはあっただろう。本当にがんばったんだ。だから成果が伴わなくてもどうか認めて欲しいと。そう願うのは甘えだと言われても仕方ないかもしれない。でもその動機は決して不純じゃない。不純じゃないんだ。
ガラリ、とドアが開く音がして、中の二人がハッとこちらを見た。
「竹下先生」
ドアを開けた時任が、一歩前に出た。時任、と呟く竹下先生に向かってつとめて冷静な口調で
「つまり裏を返せば、先生の出した条件を、もし俺たち全員が達成できていたら、先生は顧問になってくださっていた、そういうことですね」
「……約束だからな」
「確かですね」
「仮定の話をしてどうする」
「確かですね」時任が眼鏡の奥を光らせる。「先生は本気でそう思ってくださっていたんですね」
竹下先生はちょっと鼻白んだようだけれど、ちょっとの間を空けて「……ああ」と紡いだ。
「わかりました。――先生は、俺たちの成績をご存知なんですよね」
「……鵜飼先生にお聞きした」
「佐倉が惜しくも届かなかったんです」
時任、と思わず俺は小さな声をあげたが、ふと奴は持っていた紙を広げて竹下先生に突き出した。
「……なんだ」
「佐倉のテストです」
「これが、どうした」
「よく見てください」
時任がペンでつつく。ピンと弾かれた問題。
「第三問はあっていますよね」
――。
本当だ。俺も解けた、正解だ。なのにそこにはピンと跳ねたそっけない赤。
「採点ミスです」
竹下先生は狼狽したように目をおとしたが、すぐに顔をあげた。
「こんなものは駄目だ。いまさら指摘しても後から書き直したかどうかがわからないだろう」
「いや、書き直した証拠はないと証明できます」
にやり、と初めて見るような笑みを刻んで、時任はさらりと切った。
「このテスト、全部答えはボールペンで書かれている」
「……」
「消えるボールペンなんて代物じゃないですよ。佐倉はぽかをしまして、当日筆箱を忘れたんで俺に借りに来たんです。怒った俺が適当に持っていけって中を開けたんで、ポカの連続でボールペンを借りていった。ノック式だからそのときまで気づかなかったんでしょうね。これです。筆跡もインクも確かめてもらって結構です」
時任がペンを振る。さっきからずっと持っていたペンだ。
「これなら、鵜飼先生も認めてくれるんじゃないでしょうか。ちなみに、ここの配点は5点。――二人くらい、余裕で抜ける点数だと思いませんか? 達成できたら顧問になってくれる。二言はありませんよね、先生」
「……」
一度だけ時任はゆうちゃんに目を向けて、ありがとう篠原さん、と笑いかける。そして、まるで全世界に向かって宣言するように告げた。
「佐倉の努力は、認めさせる」




