六章「学生の本分は勉強です」6
来たる試験日。土日も返上して最後の最後まで粘りに粘りつくして、ついに迎えた二日目の数学テストが終わった瞬間、崩れ落ちそうになった俺は先を越されて、机にべっとりふした時任を見やった。
「……時任?」
「……すまん」
低い声のみで時任は顔を上げられない。全精力を使い尽くしてしまった人のようだ。
「お前、大変だったもんな」
時任の献身は横で見ていて本当に頭が下がったものだ。結局、半田くんの面倒も一人で見たようなものだし。俺とゆうちゃんは自分でいっぱいいっぱいで。鞄をとってきてやると時任が伏せたまま
「……いけそうか」
「ん? ああ。順位だからわかんないけど、手ごたえはあった……と思う」
「俺も、なんとかなる……か」
そう呟いた声が若干不安そうで。
「解けないの多かったか?」
「いや、前のよりは解けたが」
「なら大丈夫だろ。お前、前の順位、本来の実力から言えば落ちてた奴だったんだろ?」
しばらく潰れていた時任は沈黙した後に、むっくり上半身をおこした。
「国枝。俺の前々回の順位は42番だ」
へ?
「悪い」
時任はぼそりと言う。
「……どういうことだ?」
「前回の33番はベストなんだ」
いっ。
声には出さなかったけれど、顔には十二分に出ていただろう。
「じ、じゃあ、お前」
「勉強はした」
「いつ!?」
「あの後で」
ときとおおおおおおおおっ!
じゃあこいつ。自分もぎりぎりだったのに、それを隠して佐倉さんと半田君にかかりきりだったわけか!? そしてあの勉強三昧の後にさらに自分の勉強!? 俺なんか家に帰ったらもうただベッド一直線だったのに?
「……悪かった」
「悪かったじゃねえよ! いや、そういう問題じゃねえ! 悪くねえ! ってか、お前、大丈夫なのか」
よくよく見ると時任の顔は青白い。
「お前、今日は帰れよ」
「……そうさせてもらう」
「送ってく!」
鞄を奪って立ち上がる。ゆうちゃんにはどうしよう。メールをしよう。慌てて自分の鞄を探りながら、時任と一緒に後ろのドアから出たとき。バッタリと誰かと鉢合わせた。顔をあげて気づく。驚いた。そこには結城君が立っていた。偶然ではないように結城君は俺たちをじっと睨むように立っていた。俺たち――いや、俺だ。
色々あって吹っ飛んでいた、前に時任が言ってたのを思い出す。確かに結城君、変だ。執拗と言っていいほどに俺を上から下まで睨んで。くっと引き結んだ口元が「やっぱり…」と小さく呟いた。やっぱり?
「あ、……久しぶり」
対応に困って俺が呟いた時。度肝を抜かれ連続だ。俺の方を向いた結城君。
そのまなざしに。
ぞくっとするような険が走った。
殺気というのは言いすぎだけど、突然殴られてもおかしくないような危険さを漂わせる結城君に、俺はとりあえず抵抗していた時任を保健室に放り込んだ。
そして目つき鋭く唇をかみ締める結城君を一人では扱いかねて部室に行くことにした。時任がリタイアした今、あそこに助けを求めてもどうなるかはわからないけれど。この結城君と一対一でいるには危険を感じる。他の人がいれば彼の空気もかわるかもしれない。
ドアを開けると、もうメールを送った後だったので、ゆうちゃんが意外そうにこちらを見た。佐倉さんも結城君に気づいて
「りんりん!」
と呼んだが、その直後に不思議そうに首をかしげる。半田君も疑問符を浮かべていた。
「ええっと……」
三人が俺に説明を求めているのが伝わるが、俺もわからない。
「あの、時任はちょっと具合悪くなっていま保健室おくってきた」
「大介君が?」
「鬼の霍乱って奴ですか」
半田君。君は奴の献身を茶化しちゃならん。
後で言っとこうと思いながら、俺は今ここにいない時任からいまここにある結城君に意識をシフトチェンジした。
「結城君が来てくれたんだけど」
そこで佐倉さんや半田君も結城くんの漂わせる雰囲気に気づいたようだ。
「ええっと……。結城君、あの、何かあったかな。その」
久しぶりにじっくり相対してみても、ちゃらいイケメンという印象がぬぐえない彼だけれど。整った顔をしているせいか、怒りの表情はかなり迫力がある。
「……誰ですか?」
「へ?」
「みなさんに、その手、入れた人」
「手を入れた?」
「手入れですよ」
半田君の言葉に弾かれたように結城君が言い返す。手入れ? それって――。
佐倉さんが先に答えた。
「ハハ」
「何がおかしいんですか」
「違うんです。母親のハハで、佐倉さんのお母さんのことです」
険を増した結城君にゆうちゃんが急いで訂正する。
「その人が…!」
ようやく了解したらしい結城君。そして斜め上を見上げて固まる。いったいどうしたんだ? 戸惑う俺たちの前、彼のこぶしがぶるぶる震えているのに気づいた。どうしちゃったの!?
「――だめだ!」
首を強くふりながら結城君が叫んだ。はえ?
「だめだっ、すっげー嫌だ!」
なにが?
「あんたらは、俺が変えたんです。俺が手ぇ入れたんだ。なのに別の手が勝手に入って、勝手に俺のものをまとめて、勝手なつけたしとか変更して! 時任も、半田君も、国枝も! 俺、時任を見たときほんとに驚いた。腹立つ腹立つむしゃくしゃする。俺がしたのに、俺の案だったのにっ! 悔しくて眠れなかった。ほんとに死ぬほど悔しかった!」
そう叫んだ結城君は、地団太を踏まんばかりだった。
「俺だって意地がある! 半人前でも俺の仕事だ、途中から手出しなんかさせない! 先輩たちは怖いけど、もう我慢できない! ――ムシがいいのは百も承知ですけど、やらしてください! スタイリスト!」
いきなりと言えばいきなりの成り行きに、何も返せない俺たちの中で。佐倉さんだけがぱっと笑顔になって立ちあがった。
「りんりん!」
「佐倉さん!」
飛びかかってきた佐倉さんを、結城君はしっかり抱きとめた。な、なんかかっこいい図だ。身体を離して向き直る姿も美男美女の組み合わせのため映画のワンシーンのようで。結城君が今はきりっとしてるからなおさら。佐倉さんに目を向けて結城君は別人のような強いまなざしで断言した。
「お母さんには負けません!」
パァンっ!と破裂音が響く。途中で戸棚の下の段をごそごそとしていた半田君が取り出したクラッカーを鳴らしたのだった。
びっくりというか、なんだこれ? というような呆気にとられるような成り行きの後、試験から週末を挟みついに件のテストの返却日になった。土日に死ぬほど惰眠をむさぼった、と言って時任はもう平気な顔をしていた。結城君の話には理解を放り投げたような顔をしたけれど。
もうどれだけ心配したって仕方ない状況なわけだけれど、それでも朝からそわそわと落ち着かなかった。時任も顔をしかめて
「自分のだけでもきりきりするのに、佐倉と半田のも合わせると…」
「でも、半田君も頑張ってたし、佐倉さんだって最後は追いついたんだろ」
「表面がうまくいってても、あの二人は人格が信用できないところがある」
うわ。仲間が全否定し始めた。
「いやあ、でも今回、すっごく真面目だったじゃないか」
「どうだか。佐倉なんぞ当日の朝に、筆記用具全部ど忘れしたって俺に借りにきたからな」
「……」
佐倉さん……と落胆するべきか、あなたならやりかねない……と諦観するべきか。
いや、本当のところ自分の結果だってどきどきものなのだ。俺が上から目線で心配してられる余裕はない。一応前より解けた手ごたえはあったけれど、点数評価ならともかく順位だ。もう蓋をあけてみないとわからない。ああ、胃がきりきりするって感覚が今ならよくわかる。
朝のホームルーム時に担任がやってきた。積み上げられた小さな成績表を、もう配るぞ、とやる気なさそうに。ちょっと先生ぃぃ!
不意打ちもあってやばいくらいどっきんどっきんしながら、時任の数番あとに立ち上がる。自分の成績表を受け取った時任が、俺を心配げにすれちがって見送って。ああ。手と足が一緒に出そう。
俺を前にして担任が眉をしかめる。
「国枝、お前、今回微妙だな」
「――!」
「数学だけはやたらあがったが――」
もう勘弁して!
ハイ、ガンバリマスととりあえず答えて受け取った。数学はあがった。やたら。やたらがついたから大丈夫か。でも50人抜きだぞ。座席に戻る。時任の心配そうな目がある。座ってはあと息をついて開いた。縦列に書かれた科目が現国142人/321人中、古文126人/321人中、……
数B 51人/321人
俺は崩れ落ちた。でも見守っていてくれた時任をびっくりさせては、と思って一縷の力を振り絞って右手だけで小さくガッツポーズ。ほっと安堵する息が聞こえた。
「と、時任は?」
時任も小さくガッツポーズ。ってことは、十番台か。すげえっ!
「とりあえず第一段階だな」
お疲れ、と言葉をかわしてお互い力が抜けて俺たちはだらしなくも椅子にずるりと沈む。
「後は他だな」
ふとそのとき、俺は感じた。
「――あ。ゆうちゃんは、なんか大丈夫だと思う」
「……なんで?」
なんとなく。としか言いようがないが。答えられない俺に、時任はまあ篠原さんは元々一番いけそうな人だしな、と言って腕を組んだとき。ふと、ぶるる、と小さな振動音が聞こえた。時任が身体でうまく前から隠して、手提げから震える携帯を取り出す。開くと新着メール。時任が小声で呟く。
「半田だ」
『やりました』
たった五文字。けれど俺たちは拳をつきあげ声にならない勝どきをあげた。それからはまるで身が入らない一限を終えてチャイムと共に俺たちは教室をとびだした。特に取り決めをしなくても、俺の脚は二-Eのゆうちゃんの元へ。時任は二-Aの佐倉さんのもとへ。
「ゆうちゃん」
教室まで行かなくても足早にゆうちゃんもこっちにきていた。顔を見た瞬間、確信に変わった。ゆうちゃんも同様だったようだ。
「良かった」
「うん。時任もばっちり」
「半田君からメールが来たの」
「俺も見たよ。時任は佐倉さんのところに行った」
それ以上は言葉にする必要はなく、俺とゆうちゃんも足早に二-A教室に急ぐ。教室の後ろドア辺りに、佐倉さんと時任が立っていた。高いところから時任が佐倉さんを見下ろしている。二人は同時にこっちに気づいた。
二人の顔に浮かんでいるのは――
顔をそらす時任とは対照的に、俺たちを真っ直ぐ見て、佐倉さんが口を開いた。
「ごめん」




