六章「学生の本分は勉強です」5
いつも正門前で別れる奇変隊メンバーと、今日は一緒に同じ角で曲がっていく。別に佐倉さんに先導されるわけでもなく、すいすい行く時任と半田君にこっそり
「行った事あるの?」
「何度かあるな」
「隊長の家はいつでも基本オーケーなんですよ」
佐倉さんの家。
うーん。想像がつかないけど。ちらりと見ると俺たちの後方で、佐倉さんはゆうちゃんと腕を組んで「ねーねー篠ちゃん」とか他愛無く話しかけている。彼女が他人を気に入る基準はまだよくわからないけれど、ゆうちゃんのことは好きみたいだ。微笑まし――
「九九唱えてろっ!」
その一言で女子同士の話し合いは終わって、七いちがしちー、と九九がBGMになった。
そんな不思議ないつもと違う道をしばらく進んで、つっかえながら八の段がようやく終わった頃。もう辺りは薄闇の中だったけれど、あれだよ、と時任が示した家はかろうじて輪郭が見て取れた。
和洋折衷というか、それとも無国籍というか。ビルみたいな四角い壁が三つほど重ねたようなシルエットに、でも上には赤い屋根をちょこんとのせてみましたという感じ。ちゃんと緑の芝の庭があって、洒落たデザインの一軒屋だった。
佐倉さんの家としてしっくりくるのかこないのか、わからないけれど確かに表札には佐倉と書かれている。その下に二つの名前。三月と晴喜。さんがつ……?
「おや?」
玄関先で佐倉さんが首をかしげた。
佐倉さんの前には、一部がガラス張りのドア越しに中の明かりが漏れている。服に手を突っ込んで何か取り出そうとしていた佐倉さんはそれをやめて、ノブを回した。ガチャリと回った。開いた玄関は広くて、真ん中にヒールの高い黒のパンプスがぽつんと置いてあった。おかえりー、と部屋の奥から聞こえてくる女の人の声。
「ハハー」
ぽんっと靴を脱いで佐倉さんがとことこ中に入っていった。玄関先まで一緒だった俺たちは、置いてけぼり。廊下の突き当たりを曲がって消えた佐倉さんに、どうすりゃいいのかと思っていると時任が「中で待とう」と玄関まで入り込んだ。俺とゆうちゃんもおずおず入る。すると、奥から、おーい、と佐倉さんの声がした。それを聞いて時任が靴を脱ぎ始める。
「入るぞ」
「え、いいの?」
いいんですよ、と半田君も靴を脱いでいる。俺とゆうちゃんはまたおずおずと従った。
初めての家って緊張する。時任と半田君の後を俺たちはついていった。突きあたりを曲がると、明るいダイニングが見える。こんにちは、と控えめに言って入る。テーブルにあごをのせた佐倉さんが俺たちを見た。そしてもう一人。台所で誰かが中華なべをふっていた。
細身で長身の人だった。黒いタイトスカートにシャツといった上着だけ脱いだような格好だな、と思っていると、案の定、ダイニングテーブルの椅子の背にスカートと同じ色の上着がかけてある。染めたことなど一度もないような黒髪は飾り気なく後ろでまとめられて。
「悪いねえ。豆板醤を入れちまったもんだから、手が離せなくて」
ジャッジャッとふられる中華なべの中から、具が勢いよく跳ねてまたなべに。ニンニンクとショウガが炒められる匂いが鼻をくすぐって、思わず唾が出る。
「晴喜、皿」
大きな皿を佐倉さんが横から滑り込ませる。そこに鍋の中身を流しこむように入れ、残った汁もお玉でがっがっとかき寄せてふりかけて。そこでようやく一段落したらしい。お玉を入れた中華なべをコンロにおき、その人は俺たちに目を向けた。
「いらっしゃい」
年のころなら、30から40の間くらいだろうか。でもどうしてか「お姉さん」というイメージが強い。顔立ちが派手なきつめの美人で、相手はお、と綺麗にかかれた眉を跳ね上げた。俺とゆうちゃんに目がいっている。
「そちらは新顔だね。半田と並んで新しいツバメかい?」
ツバメ?
「それに女の子!」
あんたを見ても逃げない女の子がいたのかい、と目を丸くする。
「しかも頭の先からつま先まで、まっとうそうな子じゃないか。ここにくるまでによく泣いて逃げられなかったね」
そう言いながらゆうちゃんに目を向ける、まなざしには暖かさがある。
「はじめまして、篠原友子です」
「ともこ。なんて字かな?」
「あの、友だちの子です」
「いい名前だ。ご両親はきっと心根のいい方だね」
微笑むと口の端に自然に皺ができた。いい人だな、と思った。
「これの母親業をして十七年。佐倉三月だ。よろしく」
佐倉さんのお母さんであり、表札にもあった佐倉三月さんは、娘の頭をぐいっとつかみながら頭を下げた。
「さんがつ、じゃなくてみつき。まあ、三月に産まれたかららしいけど」
適当な親もいたもんだろ、と笑う彼女は、見た目の印象はバリバリのキャリアウーマン。話してみるとちょっと下町のお姉さんっぽい感じで。綺麗な人だけれど、佐倉さんとは全然タイプが違う。
とりあえずお食べ、と白ご飯と出来たばかりのチンジャオロースを出してくれて、食べながら事情を聞いた三月さん――どうもお母さん呼びは違和感がある――は
「ふうん。難儀だねえ」
「はあ……」
「バカで申し訳ない、と頭を下げさせたいけど。この子のバカは、あたしのせいだからね」
「……えっと」
「だって、名前が晴喜だよ。晴れて喜ぶってお気楽バカのイメージしか浮かばなくないか。苗字が木の「桜」だったら、もう花見のために産まれたとしか思えない名前だね。あたしも三月の桜そのまんまでバカっぽさ二乗だけど」
けらけら笑う三月さん。なんて言っていいものやら。
「そのかわりというかせめてもと顔が良く産んでやったんだけど――」
三月さんは、ぱくぱく食べるわが子の顔――全面チンジャオロースだらけになったそれを見てふうと息をつく。
「甲斐がないねえ。人がせっかく磨いてやってんのに」
「え?」
「見ての通り、あたしは狐顔のデカ女だろ。可愛いものちっちゃいものが好きでも見事に似合わない。だけど、似合いそうな娘が生まれたから、よっしゃと髪いじったり服いじったりで、いい玩具扱いしてきたんだけど」
俺はゆうちゃんを見た。ゆうちゃんも俺を見ている。結城君の言葉がよみがえったんだろう。なるほど。自分を磨く佐倉さんのイメージがどうにもわかず苦しんだけれど、このお母さんに玩具気分でセットされている彼女なら浮かぶ。
「そういやあんた達も、なんか小奇麗な感じだね。半田もいよいよツバメの覚悟決めたのかい?」
「ツバメじゃないですってば。三月さん、もう、それおばさんの発想ですよ」
「おばさんだもん」
屈託なく笑う三月さん。佐倉さんも笑っている。この母娘は笑うと少し似ている。
「時任もちゃっかり色気づきやがって。晴喜、これはお前の彼氏、浮気する兆候ありだぞ?」
「彼氏じゃありませんって」
一瞬どきっとした。いや、この二人ってどうなのかなってちょっと思ったことあるからだけど、時任は呆れ顔でばっさり否定。
「でも、セットしたのが崩れかけって感じだね。スタイリッシュは日々の手入れが一番肝心だぞ、ワカゾー諸君」
「これもちょっとわけがありまして。セットしてくれたメンバーが抜けてしまったんです」
「そりゃ無責任だな。そこまでかっちりセットしたら、崩れはじめは余計目立つのに」
腕を組んだ三月さんはふと思いついたように
「勉強が終わったら、あたしがセットしなおしてやるよ」
「え?」
「いや、三月さん。それは」
「遠慮はしない。ほら、勉強すんだろ。晴喜、椅子持ってきな」
あたしは仕事が残ってるから、と立った三月さんは
「玩具が増えた」
と口ずさみながら上に消えた。
翌日。部室に行って勉強していた俺たちのところに「おらあっ!」と殴りこみをかけるような声かけでやってきたのは、いそべん先輩だった。びっくりしてそちらを見る俺たちに
「ヤマノートだよ」
とばしっと古そうなノートを乱暴に叩きつける。
「マメな同級生から、二年と一年のときのノート頼み込んで借りてきてやったんだ、感謝しろ」
「ありがとうございます」
「後、お前らの数学担当者の過去問コピーだ。俺なりの傾向分析もメモしてやったから見とけ」
すっげえ頼りになるなこの人。
ありがとうございました、とそろって頭を下げる俺たちにいそべん先輩は
「それでお前ら、どうにかなるのか?」
「篠原さんと国枝はマメに勉強してますからなんとかすると思います。半田も……まあ普段してない奴なんで、力を入れればそれなりに順位はあげられるかな、と」
「んで、それは?」
ひたっと見据えられる一点に、時任が思わず目を泳がせる。
「わり算をマスターした」
佐倉さん胸を張らないで。すべてを悟ったらしいいそべん先輩が苦いため息を吐く。
「まあ、やるだけやってみろ。――それはそうと。お前ら、なんか小奇麗になったな?」
「あ、はい」
やっぱりわかるもんなんだ。昨夜、帰り際に三月さんに捕まってチョキチョキちくちくとやられた。そんなに時間はかからなかったけれど、前の変身時から若干元に戻りつつあった俺たちもまたセットしなおされた。
「佐倉のお袋さんがね」いそべん先輩はあごに手をあてた。「まあ、いい。見た目の手入れは大事だ。試験で手一杯でなけりゃ、習っとけってくらいだな」
いそべん先輩も忙しいのだろう。足早に去っていった。将来のために頑張っているなら、これ以上、煩わせることはできない。俺たちはノートを見ながら粛々と勉強。そして佐倉邸へ。
昨夜は、帰りが遅くなったと、三月さんが車を出して送ってくれた。それが申し訳なくて今日は、俺は自転車で来た。遅くなったので後ろにゆうちゃんをのせて帰る。
実際のところ、普段からそれなりに努力していると、今の順位が限界というところだから大幅アップはしんどいと感じる。でもそんなこと言ったらゆうちゃんはもっと突き詰めて努力しているだろうから、かっこ悪くて泣き言なんか吐けやしない。
俺はすんません先生、と心の中で呟きながら、別の教科の時間に、数学の教科書を開くという強硬手段まで通して粘った。それを話したらゆうちゃんが私もこっそり、と言ったのでびっくりしてしまった。ゆうちゃんが内職! そういうこずるさが絶望的なまでになかった子なのに。
「先生には申し訳ないけど。みんなが頑張ってくれてるのに、もし私が届かなかったら、申し訳ないどころじゃないから」
俺はあんぐりしてゆうちゃんを見ていた。困ったように苦笑する顔を見て、ゆうちゃんも変わったんだな、と思った。ちょっとの寂しさがあったけれど。
そうして最終下校時間になると再び佐倉さん邸へ。もう一週間以上通っている計算になる。
「三月さん、最近家によくいるな」
ぽつりと時任が呟いた。確かに三月さんは二日に一回くらいの確率で家にいたり、帰ってきたりした。佐倉さんがうなずいたので、普段はそうはいないのだろうか。
ところで。ひとつ気になっていることがある。表札の二人の名前。そしてまるで気配を感じさせないいるはずのもう一人。「はず」って言葉はちょっと微妙だけれど。
帰り道にそれとなく時任に聞いてみると
「父親はいないよ」
「そっか」
死別か離婚か。どちらなんだろう。思ったけれど、口には出来ない。ゆうちゃんがこちらに耳をすませているのがわかる。
「最初からいないって言ってましたから、シングルマザーらしいです」
「そっか」
「聞きたいことがあるなら聞けばいい。佐倉なら気を使わなくて大丈夫だ」
常識的にはわかるけどな、と時任が苦笑する。俺もつられて笑みを浮かべる。わかるよ。わかるけれど。――わからないんだ。やっぱり。
頭を振って夜気に軽く頬を叩かせて、いつもに戻って時任に聞いた。
「佐倉さんの勉強、どう?」
「……ようやく、中学を卒業した」
ある意味で飛び級か? いや、軽口は叩けないな。ただ、気になっていたことがある。おれたちの決して短くはない勉強時間、時任はほぼ佐倉さんにつきっきりだ。
「お前、自分の勉強は大丈夫なのか?」
「ああ。実は、前の成績はヤマをはずして悪かったんだ。おかげで前回の順位の半分って条件はそんなに苦じゃない」
そうなのか。――って33位でそれか!
「お前、ほんとに頭いいんだな」
「点がとれる、だよ」
闇をバックに時任が言う。嫌味じゃなくてとてもさらりと。こいつはなんで奇変隊に入っているんだろう。思うのははや何回目か。そう言えば、と時任がふと口に乗せた。
「結城、いるだろ」
「ああ」
「今日の業間に廊下で会ったんだけど。変だった」
「変?」
「でも、結城先輩、あれからずいぶん怯えているみたいでしたから」
「いや。そうじゃない。あれは、なんというか、出会ってまずいとか困ったとかいうんじゃなくて……」時任がちょっと眉をしかめて考え込む。「俺を見て、凄く驚いた、というか。十秒くらい固まって何か言いかけたりしたからな」
はて。
あれから音沙汰のない結城君は、俺もたまには廊下や移動教室で会ったりするけれど、目があえばいつも気まずそうにそらされるとか、そそくさ場所を変えられるとかだったので、俺もつとめて接触したり見たりしないようにしていた。その彼からすれば、時任の言ったリアクションはおかしいだろう。
「どうしたんだろうな」
この時点でその話題はちょっと気になるを過ぎることはなく、頭の中にぎゅうぎゅうにつめた公式や計算方式にスペースを追いやられてそれから考えることは一度もなかった。
ともかく余裕がなかった。勉強勉強勉強の毎日。勉強時間も三時間を越すと、半田君はかなりぐんにゃりしてきて、俺とゆうちゃんも疲れ気味。
最後まで気力を保ったのは般若顔の時任と、そして。意外なことに佐倉さんだった。佐倉さんにとって頭を使うというのは相当大変なようで、うーんうーんとうなりながら取り組んでいる。バスケでシュートを決めたときとは違う。勉強は彼女にとって鬼門だというのがよくわかる。たまに顔が真っ赤になっているときもあって、苦しそうだし、大変そうだ。でも佐倉さんは投げ出さないのだ。
休憩時間に、乱れた髪でぷすぷす煙をあげてそうな彼女に大丈夫かと聞いたとき。
「頭の中がぱんぱんする」
と佐倉さんは答えた。その後で、でも鉛筆の痕がついた頬でにへらと笑う。
「でも、楽しくないわけじゃない」
目指せ150番と書きなぐられた習字が壁に貼って、三月さんも帰ってきたときは夜食や夕食を作ってくれる。(なぜかすべて中華だが)匂いにつられて半田君がふらふらとそちらにいきそうになる。時任が怒鳴る。俺とゆうちゃんはともかく自分が頑張る。自分が頑張る。正直しんどい。頭もパンクしそうで、やけに喉が渇いて乾いて。いろいろともう限界。
でも、ふと顔をあげると、同じ部屋の中に、弱った半田君に、たぎる時任、唸る佐倉さんがいて、そして俺のすぐ横で一生懸命問題をといているゆうちゃんを確かめると、佐倉さんの言うこともなんだかわかる気がする。そう思ってまた問題集に目を落とす。
……うう。でも、証明って意味が不明だ。QEDよ。何が証明されたのか俺に教えてくれ。ゆうちゃんにすがる俺の横で佐倉さんは、高校一年生を卒業しようとしていた。




