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一章「許せない」

 いい天気だった。太陽は燦々としてるけれど、日差しが強すぎることもない。風もあって、木陰に入れば十分心地よいような。太くがっしりした木の下で座っている今はとてもいい。

 目の前にはゆうちゃんがいる。お弁当のおかずを小さく箸できって、ゆうちゃんは食べる。一口がとても小さくて、ゆうちゃんのお箸は何度も口とお弁当箱を行き来する。

「味、大丈夫?」

「ん。うまい」

 俺はゆうちゃんの手作り弁当を頬張っている。俺はゆうちゃんと正反対で流しこむようにかっくらわねばどうも食べた気がしない。チビの大食いだとよく言われる。飲むように食べる、とも。

 あやうく一緒に食べかけた箸を噛んでとめて、俺は自分が食べるのもとめてこっちを見ているゆうちゃんを見る。

「でもさ、いいの? 俺は嬉しいけど、大変じゃない。俺の分まで作るの」

「一人分と二人分作るのにたいした違いはないし、それに、今は時間がたっぷりあるから」

 木陰の下でゆうちゃんは笑う。

「あまるぐらい。だから気にしないで」

「ん。またお礼するね」

「いいよ。その玉子焼き、どう?」

「うまい。これ、なに?」

「明太子パスタのソースを混ぜたの」

 濃い味のそれは、しみじみくる和風のおかずを延々と作り続けるゆうちゃんにしては珍しい味付けで、そんで出汁とか醤油とかで地道に味つけてくるゆうちゃんにしてはパスタソースをぶちこんだという方法も画期的だ。これだけで相当ご飯が食える。

 もう一切れ口に入れて、箸で白飯をがっつりかき寄せたそのとき。

 突然、だんっ、と足音が聞こえた。柔らかい地面なのに、そこにめりこんだ30cm近くはありそうな足はずいぶんな音と衝撃をもたらした。

 俺からは正面、ゆうちゃんは背にしたところに、一人の上級生が立っている。背は高い。バスケ部かバレー部か、と思うほど。肩幅も広く、手足の長さのバランスがとれているので、でかくても寸胴な感じはまったく受けない。モデル体型と言ってもいいのかも。俺が着ているとなんの変哲もないように見える制服も、そいつが少し崩して着ているとどこかの雑誌に載っていてもおかしくないように見える。つくづくファッション雑誌って、可愛い子が着てるから服も可愛く見えるんだろうな。

 モデルと例を出したように、立派な体躯の上に乗っかった顔も申し分なかった。ただ、しっかりした顎と鋭い目つきがかもしだす威圧感には、優男の王子様を夢見る相手にはちょっと怖がられるかもしれない。不良ですら避けて通る。制服の胸についた赤のエンブレムがそいつを最上級生だと示している。

 俺は白ご飯を飲みこんで、二切れ目の玉子焼きに行きたいのを我慢して青物の上に箸を彷徨わせる。

「ともこ」

 軽く顎をしゃくってそいつが呼んだのはゆうちゃんの本名だ。友の子と書いてともこ。

「てめ、なにこんなところで油売ってんだよ」

 苛立たしそうに吐き捨てる。かつお節をまぶしたブロッコリーがちょうどよくしゃきっとカリッと。満足してしゃくしゃく飲みこむ。よし次はまた明太卵焼きにいこう。

「てめえも知ってんだろ。部室がようやくセンコーの手から引き渡された」

 泥棒だか部屋荒しだかしらねえがふざけんじゃねえ、とぶつぶつと不穏な低音で何かをこねて、不良気味の上級生は横を向いて吐き捨てた。

「やった奴がわかったら、ぶっ殺してやる」

 あながち冗談でもなさそうな声音。俺は玉子焼きが残ったままの口の中に、ご飯をかきこむ。組み合わせがいい。太陽の下が似合わない奴は吐き捨てて、またゆうちゃんを向く。

「なにぼけっとしてんだ、カス。とっとと来い」

「ぼけっとしてんのてめえだろ人にすがること考える前に自分がやれよ糞の役にもたたねえ青蝿がぶんぶんうぜえなに得意づらで犯罪ほざいてんだよマジでいますぐ刑務所でも就職しろよ監視側じゃなくて内側にな」

 口いっぱいだったご飯をごっくり飲みこんだ俺は、次にウィンナーに箸を伸ばして口に入れた。バジル味だ。イタリアンな香りがほろほろ口の中に広がる。ゆうちゃんはこっちを見て笑っている。俺ものんびり食べている。光景はかわらない。

 現れた青蝿だけが違っていた。初め、青蝿は無反応だった。そしてようやく顔に動きが走った。でも残念なことに全面に現れたのは怪訝さだった。まるで突然宇宙からの声を交信したみたいに。ありえない自体に事実よりも常識をとったみたいに。

「おい、ともこ」

 ゆうちゃんはこっちを見て笑っている。青蝿が現れてから、一度も振り向かなかった。 また少しの待つ時間を経て、青蝿君はようやくそれを悟ったらしい。そしてチッ、と舌うちの音。

「てめえ、なに無視くれてんだよ」

 大またで近づいた男の手がゆうちゃんの肩に触れて、手荒に振り向かせようとしたそのとき。黒い一陣の影が、男の前にさっと流れた。俺がウィンナーを飲み込む前に、さっと流れるように身を反転させたゆうちゃんが、振り向く動きと連動して腕をひいて勢いをつけ食べかけの弁当を男の顔面にめり込ませていた。

 さすがにウィンナーの微妙な油っこさやひじきの細かな感触や赤いプチトマトの硬さといったその感触には、常識も退いて事実を受け入れるしかなかったのだろう。

 ずるりっと下にずりおちて、それでもこびりつくいろいろなものの残りかすやまるまる一切れ玉子焼きを目の上に載せたまま(彫り深いと変なところにひっかかるんだろうな)男の顔は呆然としていた。そのまま、おまえ…、と呟く。立っていたゆうちゃんは、尻餅をついた男の前にひょいとしゃがんで、初めてにっこり笑いかけた。

「頭悪ぃな。おまえ」

 知ってたけど。

 立ち上がると、そこで笑顔のまま、右手に掴んでいた箸に気づいて、ああ、とやっぱり笑顔のまま言った。そうして振りかぶる。呆然としたままかたまっていた男の瞳がその瞬間、確かにカッと見開いた。

 ゆうちゃんの箸は男の横に突き刺さっていた。正確には男が背後にした幹に深々と。俺は知っている。あの箸は木の色にコーティングされているけれど、鉄箸なのだ。

 今度は見開いたまま固まる男の前で、ゆうちゃんは身を翻した。さっきとは逆転した高低さ。遥か高みから口元に微笑をひらめかして。

「二度と気安く呼ぶな、青蝿」

 その後、弁当がなくなってしまったゆうちゃんに、俺は残りのお弁当を半分こして一緒に食べた。




 今日は夕暮れに夕焼けらしい色はなくて、もう薄暗くなりかけている。俺とゆうちゃんはてけてけと歩いている。なんだかんだと言って家からわりと近い高校なのだ。バス通学だ電車通学だ、中には一時間もかけて通っている奴もいる中では、俺たちは恵まれている方だし時間にゆとりもある方だろう。

「けっこー図書館って遅くまであいてんだね」

「そうだよ」

 ゆうちゃんはくすっと笑う。

「試験の前とか、いいよね」

「試験前は、ダメだよ。凄く混むよ」

 ちぇ。考えることはみんな一緒かあ、と言うとゆうちゃんは

「教室でやればいいよ。これから。ずっと」

「そうだね」

 俺たちはてけてけと歩く。どうでもいい会話をしてもいいし、黙っていてもいい。そんな帰り道の途中にふとゆうちゃんが言い出した。

「お弁当のときは、ごめんね」

「いいよ」

「お箸ちょっと、もったいなかったかなあ」

「お弁当のお礼に買ってプレゼントするよ」

「お礼なんていいのに」

「貰っといて。これからも、気兼ねなくご相伴に預かれますんで」

 ゆうちゃんは首を少し傾けて笑みを浮かべた。

「ありがとう」

 夕日の中を俺達はのんびりと帰った。




「え、あの箸って、東屋に売ってるの」

「そうなの」

 二人で登校する道すがら、放課後の相談をした。件の箸は近くの東屋というデパートに売っている物らしい。

「はあ~。そりゃわからないわ。どこで見つけてくるんだろう、と思ってたけど」

「私も、お母さんと一緒に行ったときに見つけたの」

「放課後、どこで待ち合わせする?」

「そうだね――」

 そんな話をしながらくぐった正門の向こうに、相手は立っていた。昨日の青蝿さんとはまるでタイプが違う男だ。身体つきはほっそいし、面立ちも繊細さが目立つ。ただ背は同じくらい高いし、制服を流行のカジュアルのように着こなすセンスは昨日の青蝿さんより数段上だ。顔立ちは、白馬の王子様系女子にはこちらがジャストミートだろう。日本の男ならたらしっぱなしの長髪は絶対に似合うことはない、という俺の持論を見事にぶち破ってくれる。

 とまあ、そんなともかく目立つその男は、こちらを見て満面の笑みになった。

「とも、」

 最後の音を潰して少し引き伸ばす、その甘い調子をまた耳に心地よい低音で鳴らす。男子にはちょっとぞぞっとくるが、女子の耳は大半がこれに弱い。そのまま、実に自然に男はゆうちゃんに間合いをつめた。

「久しぶり。寂しかったよ」

 そっと大きな掌が肩に触れる。ともかく全ての動作がスマートだ。

 突然の王子様の接触に、ゆうちゃんは反応しなかった。両手で前に持った鞄もそのまま。それでも男は気にしないらしく、くすくすと笑ってゆうちゃんの肩や背中を親しそうに触れる。

 やがて手が離れたとき、ゆうちゃんは生真面目な顔で、相手に深々と頭を下げた。まだ鞄を両掌で持ったまま。

「お久しぶりです。先輩」

「機嫌はなおったかい?」

 ゆうちゃんは一拍置いて、その問いには答えず眼鏡の奥から相手を見上げる。

「わざわざ待っていてくださったんですか?」

「そうだよ。ともが目立つのを嫌がるだろうから、わざわざ朝早くにさ」

 またゆうちゃんは頭を下げる。そして

「ここではなんですから、校舎に」

 うん、と相手は笑って当然のように隣を陣取った。俺はとたとた後ろをついていく。そんな俺の姿などまるで見えていないかのように、前で相手はゆうちゃんに笑いながら

「ちょっと、覚悟かも、だよ? だいぶ不義理だったからね」

「すみません」

「フォローしとくよ。気にしなくていい。あいつらが悪いんだ。扱いがなってない。あいつらは、馬鹿だから」

「そんなこと」

「いやほんとに馬鹿だから。掃除機の使い方より簡単じゃないか。洗濯ボタンを押すまでもない」

 カンタンじゃないか、優美な口元に優美な笑みがひらめく。

「下僕の使い方、なんてね」

 眼鏡の奥からゆうちゃんの目は見えない。男は爽やかに笑っていたし、ゆうちゃんの様子も変わったところはなかったから、肩を並べる二人は傍目からはとても和やかな雰囲気に見えただろう。誰もいなかったけれど。二人はそのまま下足に並んで入った。

 足を一歩踏み入れたそこでゆうちゃんは、何かに気づいたようにああ、と声をあげて。

「ちょっと待ってください。先輩」

 ゆうちゃんは自分の鞄を、数本しか刺さっていない傘立ての上に置いた。ゆっくりとブレザーの上着を脱いで、脱いだ上着を丸めてとても自然な動きでその隣にあったゴミ箱に投げ入れた。

 男の視線に気づいて、ゆうちゃんはそちらを向く。

「ああ、すみません。先輩」

 負けないくらい爽やかに笑って。

「先輩の触った服なんて気持ち悪くて、もう着られなくて」

 微笑む白シャツ姿のゆうちゃんを前に、長髪男は昨日の青蝿よりは強かった。片目をすがめてふうん、と言った。

「東堂が言ってたの、嘘じゃなかったみたいだね。とも」

「なんでしょうか」

 ゆうちゃんは、首をかしげて、笑う。相手は逆に笑いが消えて、冷たさと酷薄さが入り混じった顔で見下ろしている。俺は傘立てでこてんと横になってしまったゆうちゃんの鞄をたてなおした。

「そんなに笑ってるともって、初めて見たなあ。けど、あんまいいもんじゃないね、そういう顔って。――あのさ、とも」

 ぐいっと長い上半身が折れて、綺麗な顔はゆうちゃんの目の前にきた。引き絞った瞳が眼鏡の奥までくる。

「覚悟、できてるの?」

 ゆうちゃんは返事をしなかった。いや、言葉では。

 くんとゆうちゃんの身体が頭半分沈んだ。そのまま半身を引いてふりかぶった形の右手が突き出される。視線が追いつくのがやっとの速さだ。でも、青蝿くんのことを知っている相手は、予測していたのかたいした驚きを見せなかった。途中まで余裕をかましていた。でもある地点でハッと顔が強張ってゆったり構えていた上半身が慌ててひく。それは確かにちょっとの無様さを感じさせる動きだった。

 はら、と綺麗な髪が数条地面に舞い降りた。ウィンウィンと妙な音が響いている。

 男は自分の額ぎりぎりのところで、掲げた手でゆうちゃんの腕を掴んでいた。ゆうちゃんは片手に何か握っている。男の額5cmもないところで。ウィンウィン鳴るのは。

 バリカン。

 さすがに青ざめる相手に、ゆうちゃんはゆっくり笑った。

「先輩の唯一の取り柄のお顔ですけど、どうも私しっくりこなかったんですよね。個性もないし、なんか凡百の王子様面、ですか。三秒で忘れそうな感じで」

 ウィンウィン、と音が大きくなる。ゆうちゃんの指がスイッチの強をいれたのか。

「だから、先輩にぴったりの個性的で素敵な髪型考えてあげたんです。――逆モヒカン」

 ゆうちゃんは、自分で言った言葉に肩を震わせて笑った。多分、額のど真ん中をバリカンでぞりっと禿にしてしまうんだろう。故に逆モヒカン。ばらばらな傘を端にかためていた俺も、それを思い浮かべた瞬間、ぷっとなった。

 男の綺麗な顔がカッと歪みかけたとき、不意にゆうちゃんの指がゆっくりと開いた。ウィンウィン音を立てたバリカンがそこから真下に落下する。

「――!」

 声にならない悲鳴をあげて、逆モヒカン(未遂)は態勢を崩して床に倒れながら、斜めに身体をひねって避ける、という技を見せた。たいした瞬発力だが、さすがに恐怖と無茶な動きには心身ともに負担があったのか、汗を流してはあはあ、と息を乱す。でも息も整わないうちに、何かの力にぐいっと無理矢理あげさせられたように顔をあげた。

 見上げるゆうちゃんの顔は――きっと。先ほど逆モヒカンが見せた、酷薄も冷たさもまとめてひっくるめて倍返しで叩きつけるように。

「お似合いですよ、そういうお姿」 

 見下ろし、鼻で笑った。




 授業を進める教師の声が、とても薄いものになって頭の上を流れていく。

 俺はそれを綺麗に聞き流しながら、知らず知らずに白の落書きでうまっていく緑の黒板を眺めている。

 ぼんやり思い出すのは、昨日出てきた青蝿くんと今朝の逆モヒカンくん。勉強にも集中できないし、気になるばかりなので、知ってるだけの情報を白いままのノートに書いてみることにした。まずは青蝿くんからだ。


【青蝿→本名は東堂隼人(とうどうはやと)、二のE。身長、多分、180は越えてる。体重も相応にはありそう。無駄な筋肉はまったくなさそうだけど。身体能力は高いらしく、柔道部もラグビー部も助っ人に欲しがる(らしい)。性格は威圧と暴言をふりかざし極めて傲慢。女子にも容赦なし。二年の秋から張り出される成績表ではなんと一位の常連。蝿は見かけによらない。】


 こんなもんかな、と見下ろして、二行ほどあけて次に逆モヒカンくんの項目を作る。


【逆モヒカン→本名は南城恭(なんじょうきょう)、二のA。身長はこっちも180は越えてる。体重は青蝿くんより10キロは下っぽい。こっちも体育祭では部員そっちのけで活躍する(らしい)性格はきわめてサド。最初は褒める&友好的。相手が舞い上がったりほっとしたところで、真ん中からさり気なく方向転換し最後にどん底に落とすのを楽しむ。ただ中身を知らない、あるいは遠くて実感がない女子人気は凄いらしい。成績表は青蝿君には一歩及ばずだが、10位以内から落ちたことはない。】


 自分が書いたノートの文面を、ごくごく客観的に読めるように意識して読みなおす。

 まぁぁ、奥様。スポーツもおできになってお勉強もこぉんなにできるのですの? たいへん結構な経歴の数々ですこと。でも、中身の悪さで、なんとかつりあいがとれているのかもしぃれませんわねえ。

 変なマダムキャラが出てきたけど、うん。

 さて、このムダに派手なお二人が、どうしてゆうちゃんの知り合いかつ、また絡んでくるかと言うと。

 どちらも目立つが全然タイプが違うし、仲も良くなさそうな(性格が悪い同士ってたいていは仲が悪いものだ)青蝿君と逆モヒカン君だが、二人にはある共通点がある。彼らは部活も何も入っていないけれど、ひとつのものに所属している。

 俺はノートの見開きにできた小さな谷間に挟まっていたシャーペンを拾い上げて、青蝿君のところに「副会長」逆モヒカン君のところに「会計」と情報をつけ加える。

 その肩書きの枕詞ひとつ。


 生徒会。


 実に無害そうな生徒達がなんとなく集まってあんまりたいしたことしてなかったり、結構癖がありそうな奴らがより集まって結構力持っちゃってがんばっていたり、学校によって生徒会の実態ってのは様々だろう。

 街頭演説、所信表明、ビラ配りなんてばりばりの選挙してみたり、前の生徒会に頼まれたり先生に声かけられてなんとなく入ったり、任命の仕方もそれぞれだろう。

 任命形式で言えばうちのそれは、立候補と任命が入り混じっている。一応一定期間の間に募集をかける。ある程度集まればよし。ある程度以上集まれば選挙、ある程度も集まらなければスカウト。会長とか書記の役職はいったん入って仲間内と先生をまじえて決める。

 途中でやめる奴や逆に入る奴もいる。けっこう融通がきく、必ずしも狭き門じゃない。それがうちの生徒会だった。

 伝統を言えば、そこそこ、がぴったりくるところなんだろう。生徒会の重みもその活動も。

 ところが。

 今、その名はこの学校で、抜群の知名度とかなりの恐怖を持って知られている。外側の問題じゃない。中身だ。夏を前に前会長たちを含む三年はもう引退して今の生徒会にバトンタッチしていた。みんな一年生から生徒会に所属していたメンバーで、基本的にスムーズにいった。ただ彼らのさらに下。春から新二年にあたるメンバーは、なんだかんだといって数が少なくて、最後には転校とかで全員いなくなってしまった。

 まあ、ともかく次世代はいるんだし、それも次の選挙でまとめて募集すればいい、と思われていたようだ。

 そして、春になって三年が卒業し新学期が始まり一年生が入ってきてから、募集が始まった。目立つ奴が集まっていたから、一年生も二年生もさっそく生徒会に殺到した。かつてない大漁の立候補に選挙も盛り上がったらしい。そして多くの立候補者の中から、熾烈な戦いを勝ち抜いた、期待された新生生徒会の一年二年たちが。


 全員一週間で生徒会をやめたのは伝説になっている。


 その多くは、ほとんど理由を口にしなかったけれど、きつすぎる、それがおおむね一致していたようだった。空きがでたそこに、落ちた生徒や改めて憧れた生徒達はたくさん殺到して。

 その全部が今日にいたるまでにやめた。

 綺麗な顔にも、人気にも、隠せないものがあったということだ。三年生の底意地の悪さは少しでも向けられたものにとってトラウマ並のものらしく、不穏な噂が渦巻いて生徒会の希望者は目に見えて減少し、数ヶ月たった頃には誰もいなくなっていた。

 教師が声をかけても、端から逃げ出していく。現在生徒会メンバーに言ってものれんに腕おし、効果が出ない。困って色々な生徒に手当たり次第に勧誘してみた。

 ゆうちゃんは、何十本めかの白羽の矢をあてられた生徒だった。

 教師連中のうちの誰が、ゆうちゃんを誘ったのか。今考えたって胃がむかつく問いだが、今さらそこは仕方ない。ともかく最後の方は手当たり次第だったし、他の大人しい子も何人も誘われている。

 でも、全校生徒ぜんぶひっくるめて見たって、どう考えたってゆうちゃんが生徒の代表になるような場所にあうわけがない。その頃つとめていた図書委員もやめて、ゆうちゃんは生徒会に入った。

 そうして、ゆうちゃんは、続いてしまったんだ。

 大人しげでちょっとつつかれれば近所の小学生にも泣かされてしまいそうなゆうちゃん。彼女が続けたことに、みんな驚いた。俺は驚かなかった。もともと、ゆうちゃんはそういう子だった。耐えることならいくらでもできる。みんながわかってなかっただけだ。

 でも痛切に思う。そこだけは、ゆうちゃんはゆうちゃんでない方がよかった。他の子と同じようにすぐに根をあげてとんずらをこいて欲しかった。

 ゆうちゃんは俺に話さなかったから、俺がまさかゆうちゃんが生徒会に入ったなんてのを聞いたのは「あの生徒会で一ヶ月以上継続している一年がいる」という噂を耳にしてからのことだ。

 そう聞いてみれば思い当たるふしはあった。行きがぐんと早くて帰りがぐんと遅くなっていたこと。たまに顔をあわせると眼鏡の向こうの瞳が疲れに翳っていたこと。試験でもないし委員会の仕事が忙しいのかな、とのんきに思っていた自分。

 気づいたときに俺は急いで駆けつけた。やめるようにかき口説いた。だけど――

 不意に授業終了のチャイムが俺の物思いを破った。ハッと我にかえって見ているようでまったく見ていなかった視界の風景を認知した。

 いつの間にか真っ白な線でごちゃごちゃ埋められた黒板の一部をさして、教師が何か言っている。周囲のざわめきから多分、伝家の宝刀「ここは試験に出る」だろう。

 そこだけ写しとくかとシャーペンを持ち上げる。ノートに書いた青蝿と逆モヒカンのメモ書きと改めて対面する。

「……」

 あの時。

 慌てて駆けつけて問い詰めた俺に、ゆうちゃんは大丈夫、と笑った。俺は信じなかった。昔からゆうちゃんの「大丈夫」はちっとも信用できない、と睨んだ。でも、そうして笑うゆうちゃんから、無理をしているだけではない不思議な躊躇いを見つけて。だから。だから――。

 青蝿と逆モヒカンの欄の下にシャーペンの芯がきている。チャイムの音が終わったときにも、俺はノートに何も書けていなかった。

 



   東屋は家に帰るより、学校からの方が近い。別に問題になるような買い物でもないし、学校帰りに制服のまま向かうことにした。一応老舗のデパートではあるので、フロアによっては若干浮くだろうけれど、フードコートもあるのでうちの学生がゼロってわけじゃない。あんな鉄箸どこで見つけてくるんだろう、と思っていたけど、デパートだというのはなんだか納得。

 たどりついたデパートの五階で、鉄箸はなかなかいいお値段がした。箸にうん千円って…!

 財布を開くときも、笑顔はキープしたはずだけれど、ゆうちゃんにはお見通しだったらしい。

「半分こ」

 一枚出てきた千円をちょっと葛藤した後にうけとった。

「高いお箸でしょ」

「うん。でも、仕方ないよ。いい箸なんだし」

 折れることもなくぶっすり木に突き立つ箸なんてのはなかなかないだろう。

 目当ての買い物はすぐに終わったので、ゆうちゃんにつきあって電気用品の売り場をのぞいた。いろいろお目当てのものがあるらしかったけれど、結局何も買わなかった。

 三階にあるアイス専門店は避けて、地下にある食料品売り場の片隅で売ってる安いソフトクリームを食べに行く。二つ買ってフードコートのテーブルに腰を下ろした。お前は物を舐める、ということをしない、と言われたことがある。確かに飴はのど飴だろうと即効噛みくだく。ソフトクリームやアイスは食む。ぱくっと食いついてがぶっと噛んでごくんと。五口くらいでコーンまでばりばりとやってしまう。

 たいしてゆうちゃんは正反対だ。いつまでもいつまでもいつまでもゆうちゃんは舐めている。アイスクリームがそこまでもつ食べ物なのか、と思うほど。飴だって人の倍はもつ。

「ゆうちゃん、食べるの遅い。溶けてる」

「冷たくて」

 コーンを口から遠ざけて、ゆうちゃんは本当に苦手そうにふう、とため息をついた。俺は肘をついて笑う。

「足して半分にできればよかったのにね」

 そのとき、何かに気づいたようにゆうちゃんの視線が眼鏡の奥からちらり、と横にいった。それを追って俺も視線を動かすと、フードコートの端で見慣れた制服が見えた。

 軽くウェーブをかけて、スカートを膝上までにあげて、シャツの胸元を軽く着崩した女の子たち三人。ブレザーの左胸につくエンブレムが緑なので、同じ二年だ。向こうはとっくにこちらに気づいていた。そして、近づいてきて俺たちの斜め横にどっかり腰をおろした。

 ううん、と俺は内心で舌打ちする。何も言い出さないし、近づいてきたあたりから顔はこちらを向かなかったけれど、もう雰囲気でイタイほどに伝わる。ゆうちゃんは懸命にソフトクリームを舐め始めた。

「あの生徒会のうっとーしー女さぁっ!」

 一人が椅子の背にそりかえりながら、髪をかきあげる。

「やめたんだってね」

「マジですっきりしたー。あの根暗さあ」

 向かいの二人がぽってり塗られた唇で笑う。打ち合わせなんぞしてないと思うけれど、女子のある種の連携の巧みさというのは恐れ入る。一生懸命舐めているゆうちゃんに視線を送る。ゆうちゃんはうなずいた。

 基本的に俺たちは平和主義者なのでこういう場はそっと退散するに限る。よこしてとうけとったソフトクリームを一口で飲みくだす。ゆうちゃんはすでに鞄を手に取っている。

 走り出すのはよくない。刺激は禁物。ライオンだって逃げるものを追うんだし。俺たちはそーっと腰を浮かせてそーっと椅子を入れて、そーっと猛獣達の机とは反対側に。

「シカトかよ!」

 机の跳ねる音とそれに、背がびくんっと跳ねた。その反応に気をよくしたのか、きゃははは、とあがる嬌声。今度はゆうちゃんが俺に目でエールを送る。この控えめなゆうちゃんと向こうの女子は本当に同じ生き物なのだろうか? と内心首をかしげながら、当初の予定通りそーっとまた歩き始める。

 でも。

「待てよ」

 振り向くと、中の一人が立ち上がっていた。口火をきり、テーブルを叩き、ずっと先導していた相手だろう。三人の中で一番長い髪をおろして、一番明るめの色を入れている。爪は尖っているが、マニキュアは入れてない。きつそうな美人は、もともと釣り目の目をさらにつりあげて、もうまごうことなく俺たちを睨みつけている。

「話終わってないんだけど」

 顔を見合わせる必要もなく、俺たちは逃げ出した。

「待てよ!」

 待たないよ。背後の叫びに心の中で返して、ただ逃げる。彼女たちが俺たちを追いかけるには一度椅子の鞄を持たなきゃいけないだろうし、こんな人の目が多いところで他人を追っかけるまでするか花の女子高生と五分五分で考えていたが、「むかつく!」「え、行くの?」とのやりとりの後、追いかけてきた。嫌な方向に根性あるなあ!

 向こうも何もかも放り出して短距離走をかますのはできないだろうけれど、こちらもデパートを全速力で走るには無理がある。ゆうちゃんの鞄を奪って走る。

 角を曲がってもまだ足音はついてくる。どっかにゆうちゃんを隠して俺だけ走るかと思ったけれど、俺につられずゆうちゃんを探されたら余計面倒だ。

 ふと、視界にまたうちの学校の制服がうつった。壁についた関係者以外立ち入り禁止の扉の向こうから、何故か手まねきする男子学生。

 さっとゆうちゃんがそらちに走ったので俺も続いた。静かに扉が閉まる。耳をすませたけれど、がさがさした足音は何かに気づいて止まることはなく通り過ぎて先に行った。

 あがった息の中で、でもほっとするでもなく顔をあげた。

「もう大丈夫だよ」

 先にはうちの制服を着た、一人の男子学生がいる。俺より背が小さい貴重な男子生徒だが、胸のエンブレムは赤で上級生だというのを示している。身体が小柄なだけでなく、大きな瞳の童顔は、入りたての中学生かと見間違うばかりだ。挙動も小動物のごとく落ち着かなくて始終身体のどこかを動かしている。

「先輩」

「ともたん」

 相手は高校三年生にもなってちょっとどうかと思う呼称を口にし、小首をかしげて笑った。垂れた瞳がそのまま溶けて流れてしまいそうに甘い笑顔だった。

「ほんと、久しぶり。嬉しい」はしゃいだ顔がけれど途中でくるりと怖そうに身を寄せる。「怖かったね、怖かったねえ。ねえ、大丈夫だった、ともたん」

「おかげさまで」

 俺は汗をかいたシャツのボタンを外して襟元をくつろげた。さっきの刺客たちと打って変わって、きゃっきゃっと女子力最大限にはしゃいだ上級生はしばらく一方的に喋っていたけれど、急にすがるように眉を寄せた。

「ねえねえ、ともたん、いつ戻ってくるの? ともたんがこなくなってさ、ぼく、すっごく心細いの。みんな機嫌最悪でね。ぼくにあたるの。あの理不尽さをぼく一人で受けてるんだよ。もうぼく耐えられない!」

「すみません。先輩」

「ねえ。ともたん。やめたってさ、ああいう人たち減らなかったでしょ。むしろひどくなるよ、きっと」

 ふとゆうちゃんはブレザーのポケットに触れた。ああ、落としてなかった、と呟いて携帯を取り出した。ワインレッドの色だ。ゆうちゃんの携帯は薄い水色なのに。利き手とは反対なのにゆうちゃんは簡単にボタン操作した。

 ゆうちゃんが掲げて見せたのは、メール画面だった。件名なし。写真が付いている。箸を見ているゆうちゃんと俺だ。遠写みたいだから、ちょっとぼやけているけれど、その下にはしっかり俺たちの名前とこのデパートの名前が書いている。

「一斉配信で、ある特定のメンバーに送られたみたいですね」

 つきつけられた携帯の向こうで、上級生はびっくりしたように目を大きく瞬かせた。

「なにこれ!? 怖っ! ひどいひどいひどい!」

「先輩のところには送られてませんでしたか?」

「送られてないよ、そんなの」

「一応確認してみてください」

「ないない。ないって絶対」

 じゃあ、とゆうちゃんは言った。

「送信画面、確認してくれませんか」

 視線の先で童顔の上級生は、ぴたっと止まった。くるくる変わる顔の表情も。

 止まったそれはたっぷりの間を置いてから、ゆっくりと動いた。

「ひどいことするよねえ、ほんと」

 ――微笑みに。

「そういう人たちってさ、自分隠しには悪知恵きくから。送るの、自分のケータイからじゃなかったり、フェイクかけたりするんだよね。絶対しっぽ、つかませないんだよ」

 くるくる回る表情の玉手箱の奥の奥から最後に、陰湿な悪意がずるりと這い出てきた。

「ねえ、ともたん。これは本当に、僕のただの予測にすぎないんだけれど、きっともっとひどくなるよ、こういうのって。集団の悪意って暴走するからさ、そしたら手加減なんか聞かないから、壊すまでとまらなくなったりさ。怖いよねえ、ほんと怖いよ。暴徒だよ。だめ。危ないよ。ともたん、戻っておいでよ、ぼくたちが、君を守ってあげるから」

 約束するよ。童顔の上級生は微笑む。穢れを知らない幼児みたいな笑顔で。

「ぼくたちなら、君で遊ぶのに、君を壊したりしないから」

 ゆうちゃんは携帯をポケットにしまった。今度は反対側の手でブレザーのポケットを探った。小さなプレイヤーみたいなものを取り出した。ピッと小さな電子音がして、やがて小さなでも聞き取るには十分な大きさで声が漏れ出す。話し声。どこかで聞いた声。今、目の前で聞いた声が、含み笑いこみで話している。ピッ、とまた違う操作。同じ話し声。誰かを明確に脅す声。ピッ。しばらくしてゆうちゃんは再生をとめた。先輩はもう笑っていない。青ざめた額に汗をかいている。そんな先輩を目にして、ゆうちゃんは甘い響きで告げた。たった一言。

「しっぽ」

 本当に、甘い響きだった。

「――」

 数拍の空白を隔てて、相手はようやく思い出したように唾を飲み込んだ。

「他の電子機器も見てみたんですけど、とりあえずこれでも十分ですね」

 プレイヤーをポケットにまた戻して、ゆうちゃんは顔を上げた。

「どうしました? 先輩。腐ったゲロみたいな顔ですよ。でも先輩って元から腐臭がしますもんね。ほんと、先輩に近づかれると、前からゲロ吐きそうでした。表に出ないでこそこそ隠れながら攻撃って悦入って、もう、公衆便所にでも暮らしたらどうですか? 蛆虫とかゴキブリのルームメイトって、先輩にはぴったりだとずっと思ってたんです」

 ゲロ男は少したって、あ、と呟いた。自分の呟きに我にかえったみたいに「……あー、ははははは」と調子をあわせていって。下からのぞきこむみたいな小首をかしげた。

「いいの? そういうの、言っちゃってさ」

「ご心配なく。今は盗聴、きってるんですよね、先輩がああいう台詞を言ったって時点で。相変わらず、なんか天才クラッカーハッカー気取りでごっこ遊びご苦労様ですけど、実態はただの変態盗聴ストーカー蛆虫男で可哀想ですから、付き合ってあげますよ」

 そうしてゆうちゃんは、再び腰くだけになったゲロ男の腕をつかんでちゃんと立たせた。

「『先輩大丈夫ですか?』」

 耳元で囁く。

「『顔、真っ青ですよ、先輩』」

 ゆっくり向いた顔の黒い瞳はおそるおそる探っている。ゆうちゃんの笑顔を目にして、少し安心したのか媚びるような色が瞳にかすめる。ゆうちゃんの膝がぐっと跳ね上がった。それがゲロ男尖った膝が股と股の間にめりこんで、瞬間、可愛い顔が壮絶に歪んだ。すべての虚勢をかなぐりすてて、床でのたうちまわる。ぐゃあ、響く床からの声に、ゆうちゃんはうっとりした。

「ああ、いい声で鳴きますね」

 ゆうちゃんは言葉どおりの表情で見下ろして告げた。

「いま、初めて先輩を、可愛いと思いました」




【ゲロ男→本名は西崎蓮(にしざきれん)、二のB。身長は150台。体重も軽そう。その外見を最大に生かして無邪気で可愛いキャラを演じるが、性格はもっとも陰湿。盗聴や盗撮を武器に情報で他人を追い詰めて影で喜ぶ。中身を知らない女子に、また一部の男子にも人気あり。テストでは百番台だったり青蝿君を抜いて一気にトップに出たり人をおちょくっているような成績。

 生徒会書記。】

 



 とっととデパートを後にして、そして近くでうろつくのもやばいので俺とゆうちゃんは駅に向かうバスに乗った。時間帯が微妙だったのか、人が少ないそのバスで最後部座席に座る。

 何も言わずにしばらく揺られていると、ゆうちゃんが肩にもたれていた。寝たのかなと思ったけれど、ゆうちゃんの瞳はすうっと見開いて座席を見ていた。いや、座席に固定して、ゆうちゃんはここにはない何かを見ていた。

 バスから降りると、夕焼けが迫っていた。ゆうちゃんは俺の少し前を歩いてた。夕日を前にした後姿。生徒会室で見たあの時と。大きな光の前に、ブレザーが黒く焼けていて。

「ごめんね。そうちゃん」

「何言ってのさ。ゆうちゃん」

 ゆうちゃんは振り向かない。

「もう、愛想をつかされたかな、って思ってた」

「俺がゆうちゃんを見捨てるはずがない」

 もう少し軽く言えばよかったのに、ぽろりとこぼれて耳から入ってきたそれは余裕のない早口で硬い響きになっていた。ゆうちゃんはうなずいてくれた。

「そうちゃんもずっとそばにいてくれるしって。ずっと言い聞かせてた。もう関わらないでおしまいにしようって。でも」

 ゆうちゃんは恥じ入るように両手を顔にあてた。

「――抑えられなかったの」

 俺は目を眇めた。夕日を背にして顔を覆う俺のゆうちゃん。

「ゆうちゃんは、全部、見事に撃退してやったじゃん」

 見事? とゆうちゃんは呟いた。

「凄かったよ」

「そうちゃん」

 せわしなくゆうちゃんが繰り返した。大きな光の前に、ゆうちゃんの輪郭が霞んでる。その両手は顔を覆って動かない。俺は少し目を細めた。背後の夕日が強すぎて。

「そうちゃん、私は――」

 俺は眦がうずくのを感じた。

 夕日がとても、強すぎたから。





 俺が、東堂先輩(青蝿)と南城先輩(逆モヒカン)と西崎先輩(ゲロ男)の訪問を受けたのは、業間休みのことだった。トイレから出た俺はハンカチを忘れたことに気づいて、さてどうしたもんかと手をお化けのように垂れていた、その前にずんっと影が満ちた。見上げると、前面に東堂先輩が、左後方に南城先輩がちょっと距離をおいて西崎先輩がいた。

「おい、二年坊主」

 東堂先輩が低い声をとどろかす。

「ちょっとツラかせよ」

「いいっすけど」

 幽霊の手のまま俺は答えて、そしてふと思いついて。

「ハンカチもってないっすか?」

 誰も持っていなかった、あるいは俺に貸す気はまったくないようだったので、仕方なく制服の袖でぬぐって、ついていった。

 20分しかない休みがもう半ばだというのに、先輩方はわざわざ校舎を出て下駄箱あたりまでやってきた。そこにはギャラリーはさすがになかったけれど、そこに連行されるまでに、一生分の注目は浴びたなと思った。

 立ち止まった東堂先輩が振り向く。

「お前、ともこの幼馴染だってな」

「はあ、そうです」

「あの根暗女がずいぶんうちとけてるらしいな」

「そりゃ、幼馴染っすからねえ」

 そこで東堂先輩は険悪そうな顔のまま、ちょっと続ける言葉を躊躇った。言おうとするとぐっと喉が圧迫して邪魔するみたいに。すると、南城先輩が横から出た。女に対するような甘さはないが、作ったような優等生的な笑みを浮かべている。

「要は協力してほしいんだよね。君からともを説得して欲しいんだ」

「説得」

「誤解されると辛いんだよ。俺たちもそれなりに反省したんだ」

「はあ」

「確かにともにはひどい扱いをしたこともあった。全然不平を言わないからさ、少し甘えていたって反省したんだ」

「約束するから!」

 両手を組んできらきらと目を輝かせる西崎先輩。

「ぼくらもう絶対にともたんを悲しませたりしないよ」

 俺はしばらく三人を見上げたり見下げたりして、そして休み時間がなくなると思ってため息をついて、つま先を向けた。

「青蝿」

「あ?」

「逆モヒカン」

「は?」

「ゲロ男」

「え?」

 全員が怪訝な顔をしたけれど、いちいち身体ごと向けて言ったので、一応わかってくれたようだ。

「俺にそういうこと頼むとか、まったくおめでたいっすよね、あんたらって。俺はね、全70億人の人類の中で、他の人間全てがあんたらを許しまくってなだれてきても、絶対許すかとふんばる最後の一人ですよ」

「……君は、冷静そうに見えたんだけどね」

 逆モヒカンが低く言う。はは、と俺は笑った。こいつらを撃退するときに、ことごとく笑っていたゆうちゃんの気持ちがわかった。笑うしかない。笑いしか漏れない。この馬鹿どもの馬鹿にぶちあたったとき。

「俺がきれなかったのは、ゆうちゃんが望まなかったからですよ。誰より我慢するゆうちゃんのために、ぐっとこらえてきただけ」

 大丈夫だからと笑ったゆうちゃん。やがて笑う元気も尽きてきたゆうちゃん。それでも笑ったゆうちゃん。そうして使い果たしてしまったゆうちゃん。パイプ椅子の上で壊れてしまった。夕日の中のゆうちゃん。俺の、ゆうちゃん。

「ゆうちゃんがきれた今、俺があんたらにぶちきれない理由なんてひとっつもないってことですよ」

「――いい度胸だな、二年坊主」

 少し歯を見せて東堂が獰猛に笑った。ライオンが喉鳴らす轟きのようだ。それでも俺はつまらなげに見返した。怖くはない。夕日の中で俺も、本当に怖いものにもうあってしまったから。

 少し高いところから、そうちゃん、と降ってくるゆうちゃんの声がした。三人がたじろぐ気配がしたので、本当にゆうちゃんが俺たちを見つけたのだろう。階段を一気に下る足音に、耳すませるように俺は目を閉じた。



 細い肩をさらにすくめてそれを震わして。夕日で影になっていた顔をさらに両手で隠した、ゆうちゃんがパカッと大きく割れた。たくさんの罅の隙間が大きな亀裂になって、そこからのっそりと這い出てきた。黄昏時によく似合う、暗い昏いもの。

 

 そうちゃん、私は――




「許し――たくない」



 俺の肩にゆうちゃんの手が置かれた。ゆうちゃんの気配をすぐ後ろに感じる。振り向かなくてもわかる。同じ表情を浮かべて、同じものを同じように見て。

「青蝿。逆モヒカン。ゲロ男」

 突き出した親指をがっと下にして。



「あんたら全員、ぶっ壊してやる」



 俺たちは、宣戦布告した。


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