六章「学生の本分は勉強です」3
先行は半田君だった。相手はバスケ部の二年で(背が高くてうらやましい)シュッ、とあっという間に一本決められて、半田君はうーんと唸りながらコートに出てきた。いつの間にか増えたギャラリーの視線を集めながら、これだけ自然体なのは凄いけれど。
半田君はすぐにはシュート体勢に入らず、ボールを持って色々と確かめた結果。
「すいません。ちょっと練習していいですか」
ずこ、とこけた雰囲気があった。
「……いいけど」
相手が言うと、ありがとうございます、と笑顔。このギャラリーの中、まさかの公開練習。ほんとにくそ度胸だな、これ。半田君は三本くらい投げて、ようやく一本が入った。やった、とボールを拾いにいって
「入ったんで、練習これでいいです」
「……もうそれがお前の一本目でいいよ」
「本当ですか? ありがとうございます!」
くすくす、と体育館にも笑い声が広がった。そうか。佐倉さんに隠れてなかなか気づかなかったけれど、彼のこのキャラクターって結構インパクトあるんだな。
半田君はそれからは普通のフリースローでバスケ部と交互にやったけれど、残念ながら一本も決められなかった。相手は三本入れてきた。
「ありがとうございましたー」
明るく退場する半田君に、最後まで笑いは消えなかった。どころか大きくなって、特に上級生である二年や三年の女子に受けたようだ。手を振るお姉さま方の集団に振り返す半田。この状況であの度胸はうらやましいものがある。
ゆうちゃんほどではないけれど、俺も注目を引くのはそんなに得意ではない。それにバスケも背が低い俺にはなじみのある競技ではなく、体育でそんなに活躍しましたとか派手な経歴はいっさいない。相手である勝ち抜いた二年生はすっかりリラックスしているし。
「そうちゃん、がんばって」
「がんばる」
ゆうちゃんの声をしっかり耳に入れて挑んだけれど、真ん中に出てくると空間の広さに圧倒されるようだ。天井のライトがぐにゃりとゆがんで、熱線を浴びているようにめまいがする。長方形のはずの壁が丸みを帯びて押しつぶすようにゆっくりと迫ってくる。こくり、と無意識に唾を飲みこんだ。半田君はよくこんな世界であんな真似が出来る。
力が抜けたいい動作でバスケ部が先に入れた。ボールを受け取る。手が震えていないのにほっとして、そんなレベルで満足してどうする、と気を引き締める。意識して息を吐き出して。注目を引くのは得意じゃない。でも。
――がんばって。
根性で二本入れたが、調子が出たのか向こうに四本決められて終わった。
でも、がっかりする暇も、まあよくやったよと自分を慰める余裕もなかった。後に控えているのは、ゆうちゃんだ。ゆうちゃん。ゆうちゃん!
見た目から態度から性格から、ゆうちゃんがスポーツ万能少女だと思う奴はいまい。実際にそうだ。ただ、思われているよりかは、そこそこ出来る。まあ平均かそれよりはちょっと上くらい。身体能力的にはそんなにひどくはない。
でも、スポーツって基本的には競争世界じゃないか。それがゆうちゃんは絶望的に苦手だ。特に敵と同じコート内で押せ押せでぶつかりあうバスケなんかで、ゆうちゃんが活躍できたら世界が滅んでしまう。
ゆうちゃんの登場時には、半田君のパフォーマンスの空気も薄れていた。
「あれが生徒会長候補だよね」
「ええ!? なんか冴えない」
そんなひそひそ声が俺にも聞こえる。聞こえなくても空気が体育館を満たしている。
そんな中でゆうちゃんは出て行って、またしても勝ち抜いた対戦相手によろしくお願いします、と頭を下げた。相手は戸惑ったように頭をかいて、もちょっと前からうっていいよ、と言った。ゆうちゃんはまた頭を下げる。
先攻はバスケ部。決めてもいいのかなあ、という顔をしながら決めた。
ゆうちゃんがボールをとった。ひたっとかまえてゴールを見上げる。細い肩が真剣にこわばっているのが見て取れる。投げた。はずした。
なんとも言えない空気。二回目にもバスケ部が入れた。ゆうちゃんがボールをとって、少し息を吐く。ボールを見つめて、またゴールを見上げる。細い肩はまだ真剣に。投げた。外れた。
三回目にバスケ部がはじめてゴールをはずしたときは、相手はどこかしらほっとしてもいた。自分で跳ねたボールをとりにいってゆうちゃんに渡す。がんばれよ、と小さく言ったのがわかった。ゆうちゃんは礼を言って、ボールを胸の前で持つ。そして息を吐いて、ゴールを見上げる。とても遠い高いところにある何かを、それでも諦めずに見つめるように。
気づくと、体育館がすっかり静まっているのに気づいた。ゆうちゃんが投げる。外れた。同時に、ふ、と息を吐く複数の音が重なるを感じた。
四回目はバスケ部が入れて勝敗はもう決まっていたけれど。ゆうちゃんにまったく変化はなかった。ボールを持つ。抱きしめるみたいな一瞬。自分の心臓にあてて、そこにある思いを宿らせるように。ゆうちゃんがゴールを見る。がこっ、とポストにあたった時は、ギャラリーが少し揺れたような気がした。惜しくもリングの中には落ちなかったけれど。
五回目はバスケ部は決めなかった。
ゆうちゃんがボールを持つ。そのとき。
「――がんばれ」
かすれがちだけれど、確かに聞こえた。二階ギャラリー席だった。ゆうちゃんは気づかなかったみたいだ。俺は顔をあげて仰いだけれど、言ったらしい人物は見つけられなかった。
ただ誰が言ってもおかしくないほど、みんながゆうちゃんを見ていた。軽いまなざしではない。注視だ。目がそらせない、そんな風に。
そしてゆうちゃんはバスケットボールを構えた。その姿に、横顔に、集まる視線を感じる。見つめるまなざしに、胸をつかれた。少し離れたところから、他人のたくさんのまなざしと一緒で見たとき。改めて思い知らされる。なんて、真面目な子なんだろうって。なんて、真剣な子なんだろう、って。
五投目にしてボールはまたポストにあたった。でも、それは今度は弾かれずに、リングをくるくると回った。数秒もなかったその瞬間がとても長く思えた。数多の視線を浴びながら、何度目かの回転の後、ボールはすうっと輪の中に入って網を揺らした。
わあっ! と今日一番の歓声があがった。ゆうちゃんはちょっとびっくりしたようにゴールを見上げ、それから二階席の方へ顔をあげた。声の主を探したんだろうけれど、注がれる拍手の姿にゆうちゃんはほっと笑った。拍手に何度も頭を下げた。対戦相手も拍手している。
世界の好意の中に、ゆうちゃんがいる。その光景が切なくていとおしくて。俺は戻ってきたゆうちゃんを力いっぱい抱きしめたかったけれど、肩をたたいてやったね、と言うだけに留めた。
「篠原さん、ナイスファイト」
時任が手をあげてタッチして入れ替わる。
そして真ん中に出てきた時任に、ギャラリーたちも、今度はおや、と顔をあげた。今までの一目見たら勝敗がわかる三人とは違い、体格のいい時任に別の展開を期待したのだろう。背が高く肩幅が広い時任は、他のバスケ部と比べても見劣りしない。よろしくお願いします、と時任は相手に言って、ボールを数度バウンドさせる。
眼鏡越しに瞳がすうっと引き絞る。バスケ部のそれと同じ、とまではいかないが、俺たちとは明らかに違うフォームで、時任は三本決めた。相手は、やや疲れがあったのか二本。三対二。おおっ! 初めての白星だ!
「部長、やった!」
湧き上がるギャラリーの中で、時任はシャツをたくしあげて自分の汗をぬぐっている。額や髪の生え際から湧き上がるように伝う汗。そこまでハードワークではないのに。奴も緊張しているのだろうかとふと思う。
時任は素人にしてはうまいだろう。この局面で三本も決めた。でも、相手がミスしてくれたのも大きかっただろうし、さらに三年が控えたバスケ部四人に勝ち抜けるとは思わない。やっぱり言うとおり、こてんぱんに負けるのは決まっていたのか。
ただ、ここにいたって時任の狙いはなんとなくわかってきていた。今、現在、新生生徒会メンバーはたいへん注目を浴びているし、それも悪い目立ち方ではない。ここで負けてもずいぶんプラスが残るだろう。
なにより旗頭であるゆうちゃんが注目を浴びれたのは良かった。後の佐倉さんは放っといても目立つ行動をしてくれるので、がっちり心をつかんでくれるだろうし。それもこれもみんな、俺たちが真剣にやったからだろう。
やはり時任は二人目には負けた。二本を決めたけれど、相手は四本決めてしまった。
「お疲れ」
「プレッシャーが凄いな」
時任はまたシャツで汗をぬぐい、ついでに眼鏡もはずしてぬぐう。ハイタッチハイタッチとまとわりつく佐倉さんに、面倒くさそうにぞんざいに片手をあげる。
「タッチ!」佐倉さんが振りかぶって平手のように打ち抜いた。
「いっ!…てえな! 手加減しろ」
悪態をついてさする時任の横について小声で
「うまくいってるな」
「ああ? ああ」
「半田君のキャラクターもいいし、特にゆうちゃんは良かった」
「篠原さん?」
時任は首をかしげた。
「ゆうちゃんをアピールしたんじゃないのか」
「いや、篠原さんは想定外だったな。思った以上にがんばってくれた」
「真剣にやれって。真剣さをアピールしたかったんじゃないのか」
「アピール」
時任が呟く。「ちょっと方向が違うな」
「へ?」
「俺がアピールしたかったのは、バスケ部にだ。これだけ真面目にやって見せたら、まあ面目も潰れないかな、って」
「……?」
バスケ部がなんの面目を潰すというのか?
「よっろしーく!」
そんな元気な声がコートから聞こえた。佐倉さんだ。俺たちの話の間に進んでいたらしく、先攻のバスケ部はもう終わっていた。バスケットボールを受け取って、ひたすらのりが明るい彼女にちょっと戸惑っているようなバスケ部は、最初のシュートを決めたのか決めてないのか?
それすらもわからないが、学校きっての有名人である彼女にギャラリーの視線もことさら強い。背後や二階から「あれが佐倉だ」「あの子、マジ変」「可愛いのに」との囁きも聞こえてくる。
確かに、ぽんぽんボールをドリブルというより鞠つきのように跳ねさせている佐倉さんは可愛かった。大きなバスケットボールを持つと彼女の小柄さが対照的に引き立って、小動物的な愛らしさもある。佐倉さんは両手でバスケットボールを持つ。そして何故か口を開いた。
「フリース、ロゥ」
スロゥのロゥ、のところで佐倉さんはボールを両手で投げた。ただ構えたのは顔どころか肩より遥か下、ほとんど膝辺りから、万歳をするみたいな下投げだった。フォームとかそういう問題ではない。
投げられたボールは高く舞って、リングを揺らすこともなく。
――スポッと入った。
綺麗なまぐれは驚きも感動もなかった。あれ、入っちゃったよ、みたいな。ギャラリーの感慨も俺と一緒みたいだ。佐倉さんも別に普通そうな顔をしているので、余計に無感動に拍車をかける。バスケ部が二本目を決めた。回ってきた佐倉さんがまたぽんぽんと鞠つきのようにボールをつく。
「バスケッ、ト」
ト、のところでまた投げた。今度はなんと片手投げ。それも大きく振りかぶり野球か!
とツッコミ待ちのようなこれまたひどいフォーム。
スポッと入った。
……あれ?
今度はちょっとざわついた。バスケ部が投げた。今度は外れた。佐倉さんの番。
「チャーシュー、メン」
メン、のところでまた投げる。入る。
「きへん、たい」
たい、のところで。入る。
「ぼしゅう、ちゅう」
五本目のボールがリングも揺らさず中に吸い込まれるのを、誰もが呆然と見守っている。
水をうったように静まり返る体育館の中、時任がぼそっと言った。
「佐倉に面目潰されても怒らせねえアピール」
なんの変哲もない放課後、なんの変哲もない体育館の中には、なんの変哲もな――どころではない。変哲がありすぎる。異様な熱気が立ちこめていた。
天井からぶらさがる六つの巨大なライトが照らし出すのは、多くのギャラリー。彼らが有象無象紡ぎだす数多のざわめき。そして彼らの耳目を一身に集めるのが、体育館真ん中の二人。
一人はバスケ部主将・藤田虎雄。彼は湯気でも吹かんばかりに全身汗だくで顔にも疲労が濃い。けれど、疲労をも上回る闘志がそこにはあった。部活仲間から心配顔で渡されたタオルでぬぐった後の顔には獰猛な闘争心が満ちている。
もう一人は、立派な体躯の藤田とは対照的な小柄なジャージ姿の女子、佐倉さん。さすがに彼女も人間らしいところが少しはあったのか、やや汗をかいて息を乱している。
フリースロー対決は佐倉さんが三人を勝ち抜いた。
途中までは呆然として負けていったバスケ部も、最後の主将に来るとこの信じられない生命体をなんとか受け止めて、臨戦態勢を整えたようだった。
それからの主将の怒涛の活躍には正直ちょっと感動してしまった。佐倉さんは、もうなんか佐倉さんだから仕方ない。驚いたり呆れたりするのも疲れた。
でも主将は俺たちと一緒の人間なはずだ。その彼が見せた対抗。すでに十本以上放った連続フリースローで彼は一本もはずさずにここまできたのだ。(ついでに佐倉さんもだが)
全神経を集中させているせいか、彼の疲労は見るからにすさまじいが、それがやる気に影さすことにはまるでならないらしい。俺たちですらそうなのだから、ギャラリーの受ける感銘たるや言うまでもない。バスケ部の一二年なんかは特に。中には涙ぐんでいるのもいる。主将、凄いと確認するように何度もうなずき呟くものも。
ボールを持つ掌の汗をぬぐい、闘将藤田は膝を曲げた。その手から高々と放たれたボールは――ポストに――あたった! 空中で不安定に跳ねたボールに思わず誰もが息を呑む。
けれど、シュートラインから悪鬼のように睨みあげる主将の気迫に負けたよう、ボールはポストの中へ落ちる。床で小気味よくバウンドするバスケットボール、それまでの息詰まりの後遺症のよう押し殺された歓声。藤田が片手をあげてぐっと握る。派手ではないが、確かなガッツポーズ。
そしてまた佐倉さんに回った。すでに二十を超えているシュートの中、佐倉さんもどうやらフォームを安定させたらしく、膝を曲げてそれなりにまともな形になっている。
途中で時任が耳打ちしたおかげか、あの珍妙な掛け声は小さく呟く程度になっていて、佐倉さんの口が動きながら、投げる。入った。
半ば予想はしていたけれど、やはりどよめき。佐倉さんは入れてもあまり派手な動きはしなかった。跳ねるボールを自分でとりにいく。楽しんでいるのかあまり気にとめてないのか、よくわからない。表情も珍しく動きがない顔だ。
主将の藤田は、そんな彼女のシュートが入るたびに初めは目を剥いて次は殺しそうな目で見てきたけれど、どこかの時点で螺子がぶっ飛んだのが非現実を楽しむ自棄の心境が訪れたのか。彼は笑って新しいボールを受け取った。
疲労は如実に刻まれているし、目がかすむほどの汗だくだ。でも彼は、囲む心配そうな他のメンバーたちに「のってきた」と嘯いて前に出て軽くドリブルする。体育館中の意識が彼に集中する。膝を曲げて構える。気負いのない綺麗な身体の形。
その時だ。
「おいっ! 藤田!」
突然の声。視線が集まると入り口に竹下先生がいた。……あ。
一拍遅れて俺は自分たちが何故こんなことになっているか、そのすべての発端を思い出した。ただ、この圧倒的な渦の中では、今はそれはとても小さなことのように思えた。自分の正面に広がるすべてに、戸惑うように立つ竹下先生もなんだか場違いな部外者に。
藤田もどうやら同じ気持ちだったようだ。汗だくの顔は怪訝そうに、そしてふと何かに思い当たったようにああ、と呟いた。それからどうでも良さそうにゴールに視線を戻してバウンドさせたまま。
「竹下先生。俺たち、こいつらに許可しました。顧問、手伝ってやってくださいよ」
な、と言葉を失う先生の前で、
「いいな、お前ら」
と振り向いて聞く。部員たちは心酔状態だから一も二もなくうなずく。そして藤田は佐倉さんに向き直って不敵に笑う。
「さあ、続きだ」
佐倉さんはぱちり、と目を瞬かせた。まるで初めて会った相手のように藤田を見返す。まじまじとしたその視線が徐々に興味の光をひらめかせて。
「ばっちこーい!!」
フリースローを始めてから、初めて佐倉さんが歓声をあげた。両手をあげる彼女の声にかぶせてギャラリーたちも興奮と喜びの声をあげた。




