エピローグ
俺の幼馴染のゆうちゃんは、ありていに言えばとても損な子どもだった。
欲しいものやしたいことは、聞いてもなかなか言い出せなかったし、その反対のしたくないことや嫌なことなんか、絶対に口に出せなかった。
その結果、いつも損な役回りをたくさんおしつけられて、楽しげに駆けていくみんなの後ろをゆうちゃんはいつもうつむきがちについていった。昔からずっと変わらない首にぎりぎり届くくらいの黒髪のボブは、うつむくとゆうちゃんの頬をほぼ隠したし、六歳の時にめがねをかけるようになるともうゆうちゃんの顔は見えなかった。いつも斜め下を見ている子。ゆうちゃんの顔をのぞくには、膝を曲げて下から見上げるような体勢をとらなければならなかった。
「大丈夫?」
と下から見上げて俺が声をかけると、ゆうちゃんはちょっとだけ顔をあげて
「大丈夫」
と儚そうに笑った。そのうち大丈夫とはもうきかなくなった。大丈夫以外の答えを返すことは決してなかったから。
低い場所に流れ込む水のように、おしよせるたくさんの雑事をいつも抱えてた。見かねた俺が今度こそ、と前置きして
「いやだっていいなよ。断りなよ」
うなずくゆうちゃんに何度も何度も念を押す。
「絶対だよ。断らなかったら、もう手伝わないからね」
そう言ったってゆうちゃんが断れたことはない。俺の言葉にそむく形で、結局すべての重荷を引き受けるゆうちゃんに、焦れて怒って最初はふんと背を向けるけれど。ごめんね、とだけ言って、全部人の物だった仕事を黙々とこなすゆうちゃんに我慢がきかなくなったのはいつも俺の方だった。
「今度だけだからね!」
苛立ちと照れ隠しを叫びに隠して駆け寄ると、ゆうちゃんはほっとしたように
「ごめんね、そうちゃん」
「しかたないなあ」
俺は怒ったようにそっぽを向く。ゆうちゃんは困ったように小さく笑う。それが何度繰り返したかも忘れたいつも俺たちのパターン。
天才が99%の努力と1%のインスピレーションで出来ているなら、ゆうちゃんは99%の忍耐と我慢と諦めで出来ていたのに間違いない。正直に言えば、100%だと思っていた。天才にも凡人にもある1%はゆうちゃんにはないのだと。ゆうちゃんの身体の全てはそうしてじっとうつむいて泣きもせずに愚痴も言わずに耐えつづける気持ちで出来ているんだと。
でも。ゆうちゃんにも1%はあった。幼馴染と言いながら、それに気づき見つけるのにはずっと長い年月かかってしまったけれど。
俺の幼馴染のゆうちゃんは、99%の忍耐と我慢と諦めと――。
そして、1%の火薬で出来ていた。
階段を駆け下りても、ゆうちゃんは見つからなかった。階段の半ばから飛び降りて着地と同時に廊下に出た俺に、角の向こうにいた相手がうわっと声をあげた。
わりい、と声をかけてから、知り合いだと気づく。
「篠原、見なかったか」
短い柄の箒とちりとりを抱き寄せるように持った、去年同じクラスだった諏佐野は、なんだ、国枝か驚かすなよ。と言う。無視してもう一度同じ問いをすると
「職員室に入るの見たよ」
そうして諏佐野は顔をしかめてこっちに身をよせた。
「お前の幼馴染、やばくね」
「……」
「なんか、様子、おかしかったぜ。目がうつろっていうか」
手を振るだけで答えて俺はとりあえず職員室へと向かった。
失礼しマス、と扉をあけると、外とは別世界のようなクーラーの冷気が包み込む。お世辞にも綺麗とは言えないテーブルときどき教師の中に、俺は黒いボブの眼鏡女子を探す。いない。すると去年俺の担任だった現国の柴田が声をかけてきた。
「どうした、国枝」
「E組の篠原サン、探してるんすけど」
「篠原ならさっき来てたぞ。次の総会の意見を教師全員に聞きたいって」
今日中に全員の先生の意見を聞くなんて、無茶だと思うぞ。出張に出てる先生もいるしなー。そんな言葉を横に俺は長い職員室の真ん中に立った。
背筋を伸ばし、足を開いて、すっと息を吐いて。
「――すいませんっ!」
響き渡った俺の声に職員室が静まり返る。正面やや上空を睨みながら「二年E組。篠原友子を探しています。ご存知の先生はいらっしゃいませんか!」
呆気にとられたような顔、顔、をぐるっと見回すと、端っこの席にいる数学の今井先生が俺の視線にぶつかって我にかえったように手をあげる。お前なあ…と言う柴田に会釈して、急いで今井先生のところに行く。
頭部が見ていてやや不安な今井先生から、ゆうちゃんが向かったのは旧校舎にある美術室だと聞き出して俺は急いで向かった。
でも、そこにはすでにゆうちゃんはいなかった。生徒や先生に聞きながらひたすら校舎を巡る。建て替えしたばかりで広い綺麗な学舎も、こういうときは恨めしい。このくそ広い校舎に散らばった先生の意見全部を集めるなんて!
普段ならゆうちゃんのいる場所なら、俺はだいたいあたりがつくのだけれど。今日はずいぶん当たりが悪いようだった。俺とゆうちゃんを繋ぐ電波の受信が悪いみたいに。本物の電波が出る携帯は、学校出るまで電源禁止のため生真面目なゆうちゃんが切っているだろう。
背中にじっとり汗を感じる。前のシャツを握る指も、自分が作り出した拳の密室の中で熱を灯らせた。
ああ。
嫌な予感がする。
繋がらないのは、今のゆうちゃんが俺を必要としていないから――じゃない。一番、必要なときほど電源を切ってしまう。助けてと声をあげなければならないときほど、口を硬く閉ざしてしまう。ゆうちゃんは、そういう子だった。
俺は古い校舎の床を蹴った。
俺がゆうちゃんを見つけたのは、夕日が校舎の窓から差し込みかけている頃合だった。もうほとんどの生徒は帰っているけれど、携帯はいまだにうんともすんとも言わない。雲と雲の狭間に沈む夕日に空が広々染まっている。とっても綺麗な夕焼けで、なんだか無性にやるせなかった。ゆうちゃんは、生徒会室にいた。
生徒会室は最上階の四階は見晴らしはいいけれど、二階の職員室からは結構遠いし、西向きであんまりいい場所でもないだろう。
部屋の中は大きな窓から血みたいな夕日が差し込んで真っ赤だった。ファイルが収まっているスチール棚が壁際に並んでいて、職員室からお古で貰った旧式のパソコンとプリンターが端っこにおいてある。娯楽物にあたるものはいっさいなく、これまた職員室からお下がりの棚と、パイプ椅子とパイプ机が寄せられた窓側から伸びている。
実に素っ気無いその部屋に、ドアを開いたこちら側を背にして、ゆうちゃんは一人パイプ椅子に座っていた。いや、座っていたというほどしっかりしていただろうか。
頭がかくりと横に垂れて、ゆうちゃんの肩はだらりと垂れていた。黒いボブの髪は揺れないで、もうただ何かを使い果たしたみたいに見えた。
昔からずっと思っていた。人の世が搾取する側とされる側にわかれているなら、ゆうちゃんは搾取される側だって。この世が、奉仕と奉仕を受ける側なら、ゆうちゃんは絶対に前者だと。その理に怒りを抱きながら同時に俺はずっとはらはらしていた。ただただ自分を切って切って与え続けて、その代価でゆうちゃんが受け取るものは何もないのに。そんなに自分を切り売りしていたらいつかなくなっちゃうよ。君がなくなってしまうよ。
あたらないでと願う心配事こそあたってしまうほど神様は俺が嫌いだろうか。
ゆうちゃんは自分をあげてあげてあげて。
そうして――尽きてしまったのだ。ついに。
「……ゆうちゃん」
反応はなかった。そこには俺のゆうちゃんは、もう、なかったのかもしれない。抜け殻が向かう空を、夕日が赤くて赤くて、染め上げて。残酷な何かがここには漂って。どっぷりと塗られた紅色が地平線に引っかかって消えかけた、そのとき。
忍び寄ってきた影の曖昧さかと思った。でも確実に。ゆっくりと。
ゆうちゃんの肩が震えている。
揺れる肩の端から、ふ――ふ、と息が切れて、また漏れて。
ゆうちゃんが、笑っていた。