ただあなたを守りたい 騎士編 9
ただあなたを守りたい 騎士編
―9―
「レンティア……」
一枚の写真を見つめ、独語するようにつぶやいたのは一人の男だった。手にした写真には漆黒のドレスを纏った幼女と、その幼女を抱きしめる二十代前半の女性が写っていた。男の娘と妻だった女性である。
ふと写真を見つめる瞳が霞んでいる事に男は気づく。そして、次の瞬間に一つの雫が落ち、手にした写真に一つの染みを付けた。
(泣いている?)
自らが泣いている事にようやく気付いた男は涙で出来た染みを虚ろな瞳で見つめる。
そして。
男の心を埋め尽くす感情が鮮明に、まるで一つの形になったかのようにはっきりと感じる事が出来た。それは身を引き裂くような悲しみと、世界を破壊し尽しても満たされないであろう怒りだった。
なぜ彼女達が死なねばならなかったのだろうか。
なぜ自らに彼女達を守る力がなかったのだろうか。
(なぜだ?)
男は写真を見つめて問う。
だが答えは返ってはこない。おそらく誰もこの心は分かってくれないのだろう。レンティアに似せて作った人形も、結局は男の心を理解してくれる事はなかった。
男の深い怒りを込められた人形は結局戦う事しか出来なかったからだ。レンティアのように笑ってはくれない、そんな人形は男には不要だった。
(錬もいつかあいつらと同じように……大切な者を私から奪うのだから)
心の中でつぶやく。奪われたくないから、男は自らが作った人形を棄てたのだ。
棄てた事に対する罪悪感は男にはない。醜い感情を持つ者は奪う事しか出来ない。だから仕方がないのだと心を固めていく。ならば意思のない人形で周りを埋め尽くす事でしか男が幸せを手に入れる事は出来ないのである。こんな思考は誰も理解してはくれない事は男が一番よく分かっていた。だから誰とも分かりあおうとは思わない。
ただ一人の少女を除いては。
彼が望むのは自らの娘であるレンティアただ一人なのである。あのあどけない笑みをもう一度見られるならばそれで良かった。他には何もいらないのだ。
結局、男にはハールメイツ神国も、フィッツベル王国も関係がない。戦争でもしてお互いに弱ってくれればそれでいいとさえ思っている。男は最後の後片づけをすればいいとくらいしか思ってはいないのである。
つまらない後片付けが終わった暁には誰もいない世界でレンティアと一緒に暮らす。それこそが男の望む理想郷だった。
「もう少しだ……レンティア」
男は写真に写る幼女を優しく撫でる。ざらついた手触りが指へと伝わる。その瞬間に溢れる怒りが男の心を埋め尽くす。レンティアはあんなにも温かくて、柔らかかったというのに。その一片すらも再現できない紙切れに怒りを感じたのだ。
「くっそ!」
男は溢れる怒りに従い写真を地面へと叩きつけるように捨て去る。それ以降男は固まったように動かない。ただ虚ろな瞳を写真に向けるだけだった。
一体どれだけそうしていただろうか。
固まって動かない男を現実へと引き戻したのは不定期に鳴る木が軋む音。それは数秒鳴り響き男の部屋の前で止まる。
「いいか?」
ドアの外から聞こえてきたのはノックの音と男の低い声だった。
「少し待て」
男はつぶやいて地に落ちた写真を拾い上げ、漆黒のローブのポケットにねじ込み――
「何用だ」
いつもの低く不気味な声をドアの外へと向ける。
「もうそろそろ大陸マクシリアに着く」
ドアを開けながらゲベルがつぶやく。
「もうそんなに経つか」
男はこの部屋に引きこもり、ずっと物思いに耽っていたためか時間の感覚がずれている事に今さらに気付く。
「貴様でもそんな時があるのだな」
ゲベルは男のそんな様子に驚いているようだった。
「私も醜い人間なのだ」
男はつぶやき乾いた笑みを浮かべる。おそらく何が言いたいのかはこの小さき男では理解出来ないであろう。だが、それでよかった。
「意味が分からんな。だが……まあいい。グリア連合国と戦いになる場合もあり得る。準備をしてくれ」
ゲベルはもう用は済んだのか背を向ける。その姿を見送るのもいいが男はゲベルという自称王を試すように語り掛ける。
「新しく調達した人形を試すのはいいな」
「まさか逆らう者を自らの忠実な兵に出来るとはな。全く持って貴殿の力には恐れ入る。さすがにこの行為にはソルトは反対したが……今さら第三師団などなくても戦争には勝てる」
ゲベルが嬉々とした瞳を向けてくる。
(この程度の器で王を名乗るか。まあ、俺からすればこの程度の男であった方が……都合がいい)
男はゲベルを試した事自体がばからしいと思えた。
だが、男はそんな素振りは見せる事はなく――
「気に入っていただけで何よりだ、王よ」
心にもない言葉をつぶやく。
「なかなか食えん男だな。だが、戦争で活躍してくれさえすればいい。ではな」
ゲベルは振り返ってつぶやき、今度こそ用を済ませたと言わんばかりに部屋から退出していく。
(つまらん男だ。それでいて何と醜い世界か)
男はゲベルの去った後もドアを見つめ続ける。あのような男がレンティアを奪ったのだろうか。もしそうであるとすれば、あのような醜い人間はこの世界から排除しなければならない。そう強く思えてしかたがなかった。
*
「あの光は……懐かしいな」
ノイアは瞳を細めて一つの光を見つめる。
「そうだね。帰ってきたんだ……私達の国に」
隣に立っているシェルは船から身を乗り出す勢いで、とある一点へと視線を向けた。
二人の視界の先には首都クロイセンを守る光の壁が決して衰える事なく輝き続けていたのだ。あの光の中にいた時は対して気にもしなかったが、数日離れた今となってはどこか懐かしい。
「あれがハールメイツ神国。この辺りは……寒くないのですね」
ノースは二人に倣うように首都を見つめぽつりとつぶやく。
「雪国と比べれば大陸マクシリアは快適だと思いますよ」
ノイアは首都から女王へと視線を向ける。毎日、寒さに震えていた日常から脱す事が出来たノイアは嬉しくて堪らない。まるで水を得た魚のように容易に動く体には感動すら覚えているのである。
「そうですか。私には少々……暑い気がしますね」
そう語るノースはほんのりと赤らんだ頬に手で風を送っていた。だが、その程度の微々たる風ではどうにもならないのか少し疲れた様子である。
「すぐに慣れるよ」
身を乗り出していたシェルが船の手摺から甲板へと小さな体を戻す。
「そうだといいのですが」
ノースは薄っすらと微笑んで返すに留めた。やはりどこか無理をしているような気がしてならない。
「ただ大陸を手にいれるだけでは駄目なんだな」
疲れた様子の女王を見つめてノイアがぽつりとつぶやく。
「ええ。おそらくこの気候の違いで体調を崩す者はいるでしょうね。適応出来ない者がどれだけ出るか……現状では分かりません」
ノースは重い体を船の手摺へと預けてつぶやく。実際に気だるそうにしている女王を見ているとあながち間違っているようには思えない。
「それでも……来るんだな。この地へ」
ノイアは一つ溜息をつく。なぜそうまでして争う道を選ぶのだろうか。それだけ国を、人を信じる事は難しいのだろうか。
「そうですね。ゲベルは必ず来ます」
ノースは端正な顔を悔しそうに歪める。自らの力不足が招いた戦争だと考えているのだろう。
「最後まで諦めないで。戦争だって……止められるよ」
シェルが二人へと微笑み、常人ならば不可能だと思える事をさらりとつぶやく。やはりシェルを見ていると何故だか世界が簡単に見えてしまうから不思議である。
「そうだな。そのために……戻るのだからな」
ノイアは自らの為すべき事を確認するかのようにつぶやく。その言葉にノースが一度頷く。
「明るい未来が訪れますように」
シェルは短い祈りを捧げて首都を守る輝きを見つめ続ける。ノイアは大陸を離れる前よりもさらに大きくなった背中をじっと見つめ続けた。
*
乾いた金属の音が一定のリズムで鳴り響く。その音を捉えたアガレスはゆっくりと瞳を開く。
「使者が参りました!」
開口一番に近衛隊隊長のフィッツが報告をする。
「思ったよりも早いな」
王城に残った部下から受けた報告ではフィッツベル王国は内乱が起き、それに伴い女王ノースはハールメイツ神国へと向かっているとの事であった。王が去った地で自らの基盤を構築するとばかり思っていたのである。
「起こった内乱は鎮圧。魔力が使える者は……強制的に徴兵したらしいです。そして……」
フィッツが一度言葉を詰まらせる。何か口にしてはいけないものを飲み込んだような様子だった。
「なんだ?」
アガレスは眉根を寄せる。鎮圧に、強制的な徴兵など権力を欲する男がやりそうな手段である。これ以上、他にどんな愚行があるというのだろうか。
「鎮圧し……命を失った住民を操る男がいるようです」
フィッツは地に吐き捨てるようにつぶやく。
「死しても戦う兵か。そして、意思などを持たずどんな命令をも聞く。それが奴らの切り札か」
アガレスは一度瞳を閉じる。こんな事を平気でやる者がいるのであれば、相当な外道である事は間違いないだろう。
「素晴らしいとは思いませんかな」
アガレスが思考を走らせようとした所で見知らぬ声が響く。
瞳を開けた先には豪奢なマントを羽織った筋肉質の男と、黒いローブを纏った不気味な男が真紅の絨毯をゆっくりと前進していく。まるで自らの領地を歩んでいるかのような横柄な態度は癇に障るが、その程度の事では眉一つ動かすつもりはアガレスにはない。
「何についてだ?」
アガレスは努めて平静を装って問う。
豪奢なマントを羽織った男は不敵な笑みを浮かべてアガレスへとゆっくりと視線を向ける。アガレスの記憶が正しければ、この男は現在フィッツベル王国を納めている元第一師団長のゲベルという男である。まさか使者として自らが乗り込んでくるとは思ってもいなかったが、敵の懐を探るにはまたとない機会でもあるだろう。既に底は知れたが演技である可能性も捨てきれないからである。
「これは異な事を。そちらの男と話していた内容です。死しても兵として扱える力。それでいて決して裏切る事のない意思無き兵士。素晴らしいとは思いませんか」
ゲベルは両手を掲げてわざとらしく語る。
「すまないが全く理解出来ん。王は民を正しく導き、そして民は国へと尽くす。それがあるべき姿だ」
アガレスはゆっくりと立ち上がり、ゲベルの瞳を真っ向から受け止める。
「それは残念だ。では、貴殿はこの戦争でどう動く? よもやハールメイツ神国の盾となるのか?」
ゲベルはこちらへと挑発するような瞳を向ける。だが、アガレスの心が揺れる事は決してない。
「否。通りたければ通るがいい」
「ほう。我らの通過を許し……それでいてハールメイツ神国を守らぬと」
ゲベルはあっさりと退いたアガレスを注意深く見つめる。
そんな彼へと念を押すかのように――
「断じて誓う。我らはハールメイツ神国の盾とはならん」
アガレスは断言する。
「それを信じろと?」
「信じていただけないのであれば……一戦するしかあるまい」
疑うゲベルに対して、アガレスは腕を組み鋭い視線を向ける。それと共に向けたのは鋭い殺気。隣の男はどうか知らないが、この程度の男であれば後れを取るつもりはさらさらない。
「くっ……少しでも妙な動きをすれば、まずは民から血祭りに上げる。いいな!」
吐き捨てるようにゲベルが叫ぶ。
その様子を冷静に見つめたアガレスは、既にこの自称王に感心はなかった。常に警戒すべきは器の小さき男の隣に黙して立つ黒いローブの男である。
(俺が何を考えているか分かっているな)
アガレスは心の中でつぶやく。
そう断定した理由は彼が薄っすらと微笑んでいたからであった。あの笑みはガイラルが好敵手を見つけた時に浮かべていた笑みと同じだったのだ。勘違いであればそれでいいが、警戒をするには十分だった。
「好きなように通れ」
間を開け過ぎれば黙した黒いローブの男が何を話すか予測出来ないアガレスは、今は目の前の自称王への対応に集中する。
「約束を違えぬ事を祈る。行くぞ」
ゲベルはつぶやいて背を向ける。その背を追うように黒いローブを纏った男は結局一言も発せず去っていく。今回の戦争を裏で操る男。彼の目的は一体何だと言うのだろうか。
「王……盾とならぬとはいったい。共に歩むのでは?」
二人の男が去った後。フィッツはアガレスの険しい表情を伺うように問うた。
「盾とはならん。だが、我らは彼らを救う剣となればいい。違うか、フィッツ?」
アガレスは険しい表情を緩め、問いを発した男へと向き直る。
「なるほど。我が国らしい……さすがは王」
フィッツは一度微笑む。
「約束は国の誇りにかけて守るべきだ。なればこそ交渉は常に冷静であれ。時には相手を騙す事も肝要だ。いいな、フィッツ?」
アガレスは腹心の部下へと教えを語るようにつぶやく。
「はっ――!」
教えを受けたフィッツは姿勢を正して胸の軽装を一度叩く。本当に理解しているかどうかは怪しい所だが、まだこの男に自らの教えを語る時はあるだろう。
「行くぞ。この大陸史上……最大の決戦だ」
アガレスは自らを鼓舞するようにつぶやいた。
*
淡い輝きが一人の女性から止めどなく溢れる。溢れる輝きは折れた心を支えるかのように力強く、それでいて包むように優しい。
この輝きが今もなお首都クロイセンを、そしてハールメイツ神国を支えているのだ。それをいとも簡単に成し遂げてしまうのがシスターの第一であるサリヤ・メイルである。
この国では信仰する神に等しいシスターを見つめたハーミルは自らを律するように視線を正す。
「サリヤ様……ノイア達が戻って来ました」
ハーミルは集中の邪魔にならぬよう努めて落ち着いた声音で話し掛ける。
「そうですか」
声を掛けられたサリヤは短くつぶやいてゆっくりと瞳を開いた。ただ一点見つめ、それでいて無表情を貫くサリヤ。その姿からは才女と呼ばれているハーミルですら、何を考えているのか読む事ができなかった。
「現在、大聖堂に向かっています。ここは私が代わります。彼女達の声を受け止めて下さい」
ハーミルは平静を装ってつぶやく。ノイア達の様子を見たハーミルは内心では戸惑っている。まさか敵国の女王が一緒にいるなど夢にも思っていなかったからだ。今にもサリヤへと詰め寄り対応を問いたい所ではある。
だが、シスターの第二位であるハーミルが混乱し、叫べば首都は大混乱に陥るだろう。それだけは避けねばならないのだ。
「シェルは何かとんでもない切り札でも持ってきたみたいですね。分かりました。私が対応します。光の壁は任せました」
サリヤは薄っすらと微笑み祈りを中断する。
一つ頷いたハーミルは大聖堂の教壇に立ち瞳を閉じる。
(シェル……ノイア。あなた達の歩む道が皆の幸せにつながりますように)
心の中で祈りの言葉をつぶやく。ハーミルの祈りを受け取った淡い輝きが教壇を埋め尽くした。
*
周囲から向けられる視線はまるで異物を見るかのような冷たいものだった。ハールメイツ神国の出身であるシェルですらこの視線はどこか居心地が悪い。
だが、今まさに戦争をしようしているフィッツベル王国の魔術師達は居心地が悪い程度の言葉では済まないのではなかろうか。
「私達は大丈夫です」
シェルが気にしている事に気が付いたらしいノースが一言つぶやく。周囲を皆に守られた女王はどんな視線を受けてもただ前を向き、その瞳は揺れる事はない。その姿はまさに王であった。
「ならば……参りましょう。大聖堂へ」
シェルの左隣を進むノイアが力強い声を女王へと掛ける。その言葉を受けて皆が歩を早めていく。ただ一人を除いてではあるが。
歩を早めなかったのはシェルである。船に乗っている時までは平気であったが、首都に着いてからどうも調子が悪いのである。船の上ではかっこいい事を言った気もする。だが、目の前に迫った事で、そして異物を見るような目で見られた事で臆しているのだろう。自身がやろうとしている事はこの国を破滅へと導くかもしれないのだから。どれだけ抑えようと試みても震える両肩は止まることはなかった。
「シェル……お前なら出来る」
そんな時にそっと左手を握ってくれたのは温かい手だった。視線を向けると澄んだ緑色の瞳がこちらに注がれていた。
「ノイア……」
また、いやまだノイアに頼ってもいいのだろうか。言い出したのは自分だというのに。
「手を繋いで力が出るのなら……どれだけでも握っていろ。私はシェル……お前のためにいる」
言葉が耳に届いた瞬間に一度心臓が跳ねた。温かい気持ちが全身を満たしていた緊張を和らげ、震えを止めていく。今ならどれだけでも歩める気がする。
そんなシェルの背を押すのは二人の言葉。
「今回は俺達にやれる事はない。しっかりとやれよ、お姫様」
女王の左側を守るジュレイドがいつもの陽気な笑顔を向ける。
「あなたがここまで導いたのだから。そのまま貫いて。その道は……ノイアが進む道。それなら私も最後まで付き合うから」
女王の右側を守る錬がにこやかに微笑む。二人ともシェルの緊張を解すために微笑んでくれているのはすぐに分かった。
「うん。ありがと……ジュレイド、錬」
シェルは二人へと微笑みを向ける。
そして、目的地である大聖堂へと決意を込めた瞳を向けて――
「行くよ、皆」
シェルが一歩を踏み出す。まるで周りの冷え切った視線を跳ね返すように。
「ずいぶんと大きくなりましたね。シェル」
一歩を踏み出した瞬間に声を掛けてきたのは意外な人物だった。
百八十センチを越える長身に、ウェーブのかかった茶色の髪が印象的な女性。見間違える事などはない。大聖堂に入る唯一のドアを塞ぐように立ちふさがっているのはシスターの第一位であるサリヤ・メイルだった。
「まさかサリヤ様とはね」
ノイアが苦笑いを浮かべる。
ノイアが苦笑いを浮かべるのはよく分かる。
シェル自身も説得する相手はハーミルになるとばかり思っていたのだ。心根が優しい彼女であれば全てを話せば分かってくれると思っていた。だが、長年この国を支え続けたサリヤには生半可な言葉は通じないだろう。
だが同時にシスターの第一位である彼女を説得出来ればこの国を動かせるのは確かである。いつか説得しなければいけない相手であるならば最初に説得するのもいいだろう。
「お久しぶりです。サリヤ様」
シェルは数歩進み一度礼をする。それに倣い皆が一度礼をする。
「なかなか興味深い方々と一緒ね。女王様を人質にすれば終わるの?」
サリヤが鋭い視線を女王へと向ける。
その殺気すら含んでいそうな鋭い視線から庇う様にシェルが数歩進む。
「いいえ。そんな事をしてもこの戦争は終わりません。ゲベルは……相手の指揮官はこの大陸を求めています」
シェルはノイアの左手をしっかりと握り、臆せずに言葉をぶつける。
その言葉を正面から受け止めたサリヤは――
「では、あなた達はこれだけの時間を浪費して……たったそれだけの戦力を連れてきただけなの?」
溜息混じりにつぶやく。
「彼らが求めるのは魔力によって失われた食糧です。それは私達の神力で取り戻せる……んです!」
シェルは想いを言葉に込めて叫ぶ。どれだけ呆れられようとも叫ばずにはいられないのだ。
「そのために光の壁を使うの? 一年前の戦争では自国の騎士を救うために使用を許したわ。でも、今回は許さない。まさか救った相手に滅ぼされるなんて……」
サリヤは額に手を置いてつぶやく。今すぐにでも背を向けそうな彼女ではあったが、真摯な瞳に応えるために最後まで付き合ってはくれるようだった。
「この方法しかないんです。二つの国が共に歩むには」
さらに一歩進み言葉を掛ける。
刹那、鋭い視線がシェルを射抜く。だが、止まらない。さらにもう一歩進む。
「癒しの術式を発動させてもゲベルは攻めてくるかもしれません。サリヤ様からすれば愚かに見える事なのかもしれません。でも……」
シェルは一度そこで言葉を切る。ここで言葉を止めるという選択もある。だが、溢れる想いは止められなかった。熱い胸に左手を触れて、確かな熱を感じたシェルは逃げようとする自分を追い出して区切った言葉を再び口にする。
「例え裏切られたとしても……共に歩む道を閉ざすのは悲しい事だと思うんです」
シェルが選んだ言葉はノイア達に伝えた言葉だった。
「あなたが進む道は皆を危険に晒す。分かって――」
「分かっています!それでも諦めたくない……助けを求める者を見捨ててまで歩んでいい道なんてない!」
シスターの第一位を、この国の最高権力者と言っても過言ではない彼女の言葉を遮ったシェルの叫びが場を震わせる。あまりにも真っ直ぐで子供のような言葉。そんな事は自分でも分かっている。でも、これが自分の考えなのだ。どうしても曲げられない想いなのだ。
「言うわね。救いを求める者には手を指し伸ばすのがシスターのあるべき姿。神力を持つ者のみをシスターとは呼ばないわ。あなたの進む道はこの国が本来進むべき道」
サリヤは瞳を閉じて自らに語り掛けるようにつぶやく。
「ゲベルは……私がこの手で討ち取ります。ですから……力を貸して下さい。フィッツベル王国女王ノース・ロウ・フィッツベルはあなた方と共に歩む事を誓います」
ノースはつぶやくと共にシェルの隣に立つ。
「私達は道を示す必要があります。可能性だけを語っても誰も信じてはくれません。だから……」
ノイアが強くシェルの手を握って言葉を掛ける。
「あなた方は……どこまで真っ直ぐなのですか。いいでしょう。全ての責は私が背負います」
サリヤは三人を包み込むような笑みを向ける。
「サリヤ様!」
「その代わり……シェルとノイアが行いなさい。出来る限りサポートはしますが失敗は許されません。いいですね?」
歓喜の声を上げるシェルを抑えるようにサリヤが子供に言い聞かせる口調で語る。その姿はいつもの優しいサリヤであった。
「当然です。行くぞ、シェル」
ノイアが一度手を引く。
「うん。示すよ。私が進むべき道を!」
シェルは一度力強く頷いた。
*
「俺は何を信じればいい」
ふらつく体で歩を進めるのはフィッツベル王国第三師団長のソルトである。周囲を固めているのは自らの指示を受けて動く第三師団。そして、視線を右へと向けるとゲベルが率いる第一師団が展開している。
そして、その二つに挟まれるように集まっているのは意思なき人形達。木で出来た木偶人形と、そして本来この場にいてはならない存在だった。その存在がソルトを悩ませるのである。
それは反乱を起こした住民達だった。もうすでに息絶えているが、それでも糸で吊るされ操られ望まぬ戦いを強いられている。死しても戦い続ける。それが反乱の代償だとでも言うのだろうか。
それはあまりの仕打ちだとソルトには思える。こんな姿を晒されれば住民は従う他に道はないのではなかろうか。逆らえば次は自らがあの軍団の一部とされるのだから。
(俺は何のために戦っている?)
ソルトは心の中で問う。自らが守るべきは民ではなかっただろうか。ならばこんな蛮行を許していいと言うのだろうか。
「師団長……前方を!」
思考に没頭していると、ふと隣にいる配下がソルトへとつぶやく。導かれるように視線を向けると先には。
溢れんばかりの光が上空を満たしていた。
「光?」
ソルトは訝しんで空を見つめる。あれは神力という力がもたらす奇跡の一つだろうか。攻撃に使う力ではないのは理解している。ならばまだ攻撃が始まっていない現在で使う必要があるのだろうか。
(あれは?)
ソルトが瞳を凝らした瞬間。
溢れる光は空に読む事が出来ない文字を刻んでいく。それは円形に展開した魔法陣。そして、その魔法陣から溢れるのは温かな光だった。首都クロイセンまではまだ数日はかかる距離の筈ではあるが確かな温もりが全身を包み、心を埋め尽くす迷いを綺麗に洗い流してくれた。
(これは……まさか)
ソルトはその瞬間にとある可能性に思い至った。彼らはこんな状態でもフィッツベル王国を救うというのだ。その考えを証明するかのように温かな光はフィッツベル王国へと向けて流れる風に運ばれて進んでいく。
(ノース様……私は)
ソルトは拳を強く握り絞める。爪が食い込んで血が流れようとも力を緩める事はしなかった。自分はどれだけ愚かだっただろうか。それに変わって夢物語だと思い疑った女王は不可能だと思える事はいとも簡単に成し遂げてしまったのだ。ここにいる大の男達が束になっても叶えられない事をである。
(もう迷いません)
ソルトは一つの決意を胸に抱いて一歩を踏み出した。
*
教壇の前で三人の少女が手を握る。
真ん中にシェルが立ち、右にノイア、左にハーミルという配置である。そんな彼女達を囲むように展開しているのは首都クロイセンにいる全てのシスターである。
「まさかこれだけのシスターが手伝ってくれるなんて思わなかった」
ノイアは規格外の神力を解放しながらつぶやく。
「これがハールメイツ神国なんですよ。道を違えた瞬間に私達が存在する価値はありません」
ハーミルの落ち着いた声が響く。ハーミルの声を受けて教壇を満たす光が一層輝きを増していく。皆、想う所は一緒なのだろう。
「伝わるよ。私達の想いは……雪原に花が咲く事で」
シェルは二人の手をもう一度握り返す。
「そうだな。今度は……誰にも邪魔はさせない」
ノイアはつぶやくと同時にシェルの手を握り返す。
この場の空気がまとまりかけたその瞬間。ドアを開け放つ乱暴な音が大聖堂に響いた。
驚いて視線を向けた先には銀髪をオールバックにした大柄な男が立っていた。騎士団団長のアルフレッドである。彼の表情は険しく、肩で息をしているその様には余裕などないように見える。
「まさか邪魔をするのか?」
大聖堂の長椅子に座っていたジュレイドが立ち上がる。その手には大聖堂にはあまりにも似合わないリボルバータイプの銃が握られている。
「それなら容赦しないけれど」
同じく錬が立ち上がり大鎌を構える。
「本気か?」
アルフレッドは二人に素早く視線を向ける。それと共に素早く鞘へと手を伸ばす。形だけなのか、それとも力づくでも止めるのか。アルフレッドの行動は予測する事は不可能であった。
「冗談で雇い主に銃は向けない」
ジュレイドが鋭利な視線を騎士団団長へと向ける。
轟音が鳴り響くかと思われた瞬間に、鞘へと手を掛けたアルフレッドは一つ溜息をついた。
「今更止めても無駄なのは分かっている。それよりも敵がここまで来るのは約四日……いや、この好機を逃すとは思えん。強行軍で進軍し……三日でここまで来るだろう。聞きたい事は……光の壁は再展開出来るかどうかだ」
「何よ……紛らわしい」
錬が呆れながら大鎌をしまい視線を教壇にいる三人へと向ける。
「再展開が出来ても……敵の規模からして破られるでしょう。最悪は首都の内部で戦う事も想定されます」
答えたのは大聖堂の外からの声。
皆が視線を向ける先に立っていたのはサリヤだった。今まで皆を説得するために奔走してくれた彼女は疲れ果てたような表情をしているが、その声音はしっかりとしたものであった。
「討って出る訳にはいかないか。だが、籠城するにしても肝心の光の壁が無くては」
アルフレッドは表情を歪ませる。
「討って出るのが正しい選択でしょうね。数で負けているのであれば……策を尽くし敵の指揮官を討つしかありません」
さらに別のどこか落ち着いた声が大聖堂の外から聞こえた。皆が視線を向けた先にいたのは白髪の男性。元副団長にして数多の合戦を勝利へと導いたハールメイツの軍神ギルベルトであった。
「ギルベルト殿」
アルフレッドが何事にも変えられない力強い援軍を得て表情を綻ばせる。そして、再度瞳を閉じて思考を走らせていく。
「首都は私が守ります。ですから……敵を退けて下さい」
迷うアルフレッドへと、常に首都を守り続けたシスターの第一位が言葉を掛ける。
その言葉を受けたアルフレッドはもう迷う事はなかった。浮かんだ最良と思える配置を言葉へと変えていく、
「分かった。今から二日後の夜に討って出る。首都前方の守りはハーミル、マイセル。内部は私とルメリアが務める。ノース様を中心とした魔術師部隊はゲベルと名乗る指揮官を。ジュレイドは彼女のサポートをするように」
アルフレッドはそこで一度言葉を切る。
大聖堂を長い沈黙が満たす。
長い沈黙の後にアルフレッドがこの国の命運を託したのは一人の少女だった。
「ノイア。お前はブレイズの部隊に合流し……彼らの切り札を断ち切ってほしい」
鋭い視線が一人の少女を射抜く。
その視線を受け止めたノイアは――
「もとよりそのつもりです。ですが……私はこの戦争を止めるために剣を握ります」
自らが歩むべき道を迷う事なく語る。
「構わない。その想いがこの国を平和にするのだと……私は信じる」
アルフレッドはつぶやいて微笑む。
「後はやるだけか……」
「長い二日間になりそうね」
ジュレイドと錬が一度肩をすくめる。
「皆……思う所があるだろう。準備をすると共に……覚悟を決めてくれ」
アルフレッドは戦場へと出る者一人一人の様子を確認するように視線を向ける。その視線を受けた者は一人ずつ頷いた。
*
白銀の雪に混じって空から降り注ぐのは無数の光だった。数刻前に日は沈み、薄暗くなり始めていた空は光に満たされ周囲を難なく見渡す事が出来た。
「綺麗」
空を見上げた少女が天へと腕を伸ばす。
その瞬間。
溢れる光が少女を包み込む。
「暖かい」
少女は頬をほころばせる。毎日見飽きるほどに雪を見てきた少女。だが、今は防寒用のコートを着る事もなく、身を震わせる事もなく立っていられる。
それはこの溢れる光のおかげなのだと少女はすぐに分かった。こんなにも暖かく、それでいて優しい光が有害な訳はないのだと直感で分かるのだ。
「雪が……解けていく」
少女とは違い地へと視線を向けていた男が呆気に取られてつぶやく。雪が解けるなどという事はもう数十年と見た事はないのである。状況についていけないのは当然であるだろう。
「だから……言ったんだ。異国の地から来た……神聖なる使いがこの地を救ってくれると!」
手に花を握った男が叫ぶ。
その叫びが響いた瞬間。
雪に覆われていた花々が地を埋め尽くす雪から脱するように、天に向けて自らの存在を誇示するかのようにその姿を晒していく。
「奇跡だ……」
「これもあの黒い髪に大きな青い瞳をした……神の使いが我が国のために光を届けてくれたんだ」
住民が口々にこの地を訪れた黒髪のシスターが起こした奇跡に喜びの声を上げていく。
「そんな国となぜ戦うんだ?」
「分からない。だが……私達は騙されていたのかもしれないな」
それと共に上がったのは一つの疑問だった。救ってくれた国と戦う理由など一介の住民には理解は出来る筈はないが、何か自分達が出来る事をして返したいという思いが溢れて止まらなかった。
「なら……祈ろう。戦争が終わるように」
少女が微笑んで男達につぶやく。
「祈る? 信仰する神などいないんだそ?」
少女の言葉に男達は首を傾げる。
「その黒髪の少女が信じる神様に祈るの」
つぶやいて少女は両手を組み天へと祈りを捧げていく。
「それで……救われるのであれば」
祈る少女に倣うように住民達は祈りを捧げた。
*
雪のように降り続く淡い光が首都を照らして丸一日。
明日の夜には首都から出陣し、生きるか死ぬか分からない戦いに赴く。そう思うと幾ら戦い慣れしているとはいえ心がざわついて仕方がなかった。
「何かあるか?」
鍛冶屋のカウンターに両手を置いてつぶやいたのはジュレイド。
耐火用の岩で作られた石造りの店には騎士剣やら、槍やらが飾られているがお目当ての武器を見つける事は結局は叶わなかった。
「ちょうど試作品が完成した所だ。あんたは運がいいよ」
声と共に一つの見慣れない武器を肩に担いで現れたのは筋肉質の鍛冶屋の主だった。
「名前は?」
ジュレイドは見慣れない武器の名を問う。
「ライフルだ。あんたの銃よりも射程も、威力も高いぜ」
つぶやくと同時に金属で形作られた騎士剣のように長い銃をこちらへと寄越す。
「ふーん。とっ……重いな」
ライフルを握った最初の感想はそれだった。ずっしりと重く、それでいて弾丸を射出するであろう筒はやたらと長いような気がする。
「基本的には両手で扱う物だ。だが、あんたなら片手で使えるだろう」
「量産するの?」
男が言うように片手でライフルを構えるジュレイド。確かに片手でも十分に扱えそうだった。この武器ならば隊列を組めば例え相手が騎士であろうとも対抗出来るような気さえする。
「コストの問題で無理だな。そして、生産にも時間も掛かりすぎる。剣一本作る方が断然早い。それに扱える者が少ない現状では……まだ先の話になるだろう」
鍛冶屋の男は自らの背にある岩を組んで作られた窯を肩越しに指差す。窯で剣を打った方が儲かると言いたいらしい。
「そうかい。まあ、こいつは騎士にも魔術師にも通用しなかったからな」
ジュレイドは腰に吊ったリボルバータイプの銃を指差す。
「だが、有用性が証明されれば量産されるかもしれんな。そうすれば……騎士と呼ばれる者は姿を消すのかもしれんな」
「一般の者での騎士を殺せる時代か。嫌な時代が来そうだな。だが……それでもこの国は大丈夫だろうさ」
ジュレイドは微笑むと同時に掲げたライフルを下ろす。
「どうしてだ?」
「あいつらなら正しくこの国を導いてくれるからな」
そうつぶやいた声音はジュレイド自身でも驚くほどに穏やかだった。
「そうか……あんた少し変わったな」
「そうかい? それならあいつらのせいかもな」
薄っすらと微笑むと同時にカウンター席に金貨の入った袋を置く。そして、もうこの場に用はないと言わんばかりに背を向ける。
「そいつの感想……ちゃんと言いに来いよ」
「生きてたらな」
男の言葉に軽く片手を上げて応えたジュレイドは鍛冶屋を後にする。
一度、爽やかな風がジュレイドの茶色の髪を揺らす。
(これは?)
その風と共に流れてきたのは品のある香り。その香りに導かれるように視線を向けると輝くような銀髪を腰まで伸ばした女性が立っていた。よく手入れされた銀髪は周囲に降り注ぐ淡い光に照らされいっそう輝いて見える。
「ここにいたんですか。探しましたよ」
つぶやいて微笑んだのはノースだった。
「俺を? 意外だな。お誘いなら喜んで受けるぜ」
ジュレイドは右手で銃の形作り一度討つ真似をする。
「ふふ。面白い方ですね。ですが……討つのは敵だけにして下さい」
ノースは薄っすらと微笑んで返す。
(こいつは脈なしかな)
心の中でつぶやいて肩をすくめるジュレイド。ここまで手を汚した自分が今さら温かい家庭を作ろうとは思っていないので、これはこれでいいのかもしれないが。
「ところで……用は何?」
冗談はこれくいにして表情を引き締めるジュレイド。
「えっと。明日の事についてです」
ジュレイドの変化に戸惑いながらノースがつぶやく。
「ああ、明日か。女王様は部隊の指揮をしてくれ。俺がさっと消してやるよ」
新しく新調したライフルを掲げ余裕のある表情を浮かべるジュレイド。
「その役目は……私が務めます。いえ、私がやらねばならぬ事です」
ノースは胸の前で両手を組んで真摯な瞳を向けてくる。そんな彼女はやはり戦いには向いていないような気がしてならなかった。
だからこそその申し出を受けようとは思えなかったのである。
「女王様が無駄に手を汚すな。手を汚すのは俺のような外道で十分だ」
ジュレイドは一度女王の髪を優しく撫でる。
「――!」
ノースが一度声にならない叫びを上げる。そんな様子はどこか可笑しかった。
「じゃあな。ゆっくり休めよ」
ジュレイドは可笑しそうに笑ってから、女王の隣を横切る。
「あなたは外道なんかではありませんよ」
微かなノースの声が背に届く。だが、ジュレイドは振り向かない。自らにそんな資格はないのはよく分かっていたから。
*
紅茶の甘い香りを堪能した錬は、ゆっくりとティーカップに口をつける。温度は測ったかのような適温であり難なく口に含む事が出来た。
広がったのは渋さを感じさせる味わい。だが、この渋さは決して不快ではなかった。むしろ紅茶の深い味わいを引き立てているように感じられる。
「初めて飲むけれど……これはいいわね。特にこの色合いは最高だわ」
錬はつぶやくと同時に紅茶と呼ばれる飲み物をうっとりとした瞳で見つめる。味も香りも最良であるが、それよりもこの水色の明るさが気に入ったのだ。
「気にいっていただけて良かったです。それはグリア連合国でよく飲む紅茶なんですよ」
錬の言葉に嬉しそうに頬を赤らめたのはエプロン姿のクレサである。彼女は錬の左隣に立ち客人が紅茶を気に入るかどうかじっと見守っていたのである。
「グリア連合国か……。一度行ってみたいわね」
そんなクレサへと錬は微笑む。お世辞ではなく、この紅茶の原産地に足を向けてみたいと思ったのである。
「彼女が淹れてくれる紅茶は俺も気に入っている」
向かいに座るこの館の主が薄っすらと微笑む。ノイアが所属する部隊の隊長であり、ハールメイツの軍神と言われるギルベルトと共に数多の戦を勝利に導いた男を父に持つ男である。名をブレイズというらしい彼を錬はじっと見つめる。
(見ただけでは分からないか)
錬は一度心の中でつぶやく。決戦の際は錬もこの部隊と行動を共にする事になる。ならば隊長の人柄くらいは知っておこうと思い尋ねたのではあるが、これだけの関わりだけでは分からないというのが本音である。
「これだけの物が毎日飲めれば……幸せかもしれないわね」
錬はつぶやいてもう一度ティーカップに口をつける。
「毎日か……。そうはいかないだろうな」
そう語るブレイズの表情はどこか曇って見える。
(恋人ではないの?)
錬は館の主をもう一度注意深く観察する。あれはどこか迷った表情だった。異性と恋愛などした事がない錬には到底想像は出来ないが、何か訳があるという事だけは肌で感じる事が出来た。
「私はいつまでも側にいます。いえ……いさせて下さい。そうでなければ私は生きられない」
ブレイズの言葉を聞いたクレサが怯えた表情を浮かべる。彼女の肩は震えていた。失う恐怖に囚われ、居場所を求めて震えていたのだ。
(一緒……なの?)
錬の全身に言いようのない恐怖が駆け巡る。錬がノイアを、居場所を失う場面が鮮明に浮かんだのである。それは錬にとっては恐怖以外の何者でもない。
そして。
クレサも同じ恐怖を胸に抱いているのだという事を感じたのである。同じ想いを胸に抱いているからこそ錬は反応出来ただけで、大抵の人間はクレサが考える事は到底分からないのではなかろうかと思う。
「君はそれでいいのか。いや、そもそも俺には君がどうしてここにいるのか分からない。あれだけ俺を……ハールメイツ神国を恨んでいたのではないのか?」
ブレイズは一度溜息をついて震えるクレサを見つめる。
「今でも恨んでいます。私の大切な居場所を奪ったのだから。あなたが奪った訳ではない事も、そして戦争中の事です。奪われる事がある事も理解しています」
言葉を掛けられたクレサがうつむいて消え入りそうな声で語る。
錬はクレサから視線を外す事が出来なかった。彼女がこのやり取りにどんな答えを出すのか、そしてこの出来事を通して錬自身にどんな変化が訪れるのか気になって仕方がなかったからである。
「ならばどうしてだ」
ブレイズは淡々と語る。クレサを知るために。
「あなたは……私を受け入れてくれたから。それだけでいいんです」
クレサは儚い笑顔を浮かべる。
「俺は分からない。君は……どうして自らで立とうしない。どうしてその方法を探ろうとしない」
ブレイズはつぶやくと同時に立ち上がる。その瞬間に座っていた椅子が倒れて大きな音を立てる。
倒れた椅子など見向きもせずに、今にも詰め寄ろうとする彼を錬は虚ろな瞳を向けて――
「皆が皆……強い訳ではないの。誰かに寄りかからないと……ううん、その人の思う様にしか生きられない哀れな存在もいるんだよ」
淡々とつぶやいた。どうしてこんな事をつぶやいたのかは錬自身も分からなかった。ただ自らと同じように居場所を求めるクレサを放っておけなかったのだろう。
「そうですね……その通りです。私はガイラル様に必要とされ……依存していただけです。そして、その相手がブレイズへと変わっただけです。呆れましたか?」
錬の言葉に同意したクレサの微笑みはどこか壊れているように見える。
(私もノイアを失えば……こうなるのかな)
錬は心の中でつぶやく。おそらくクレサのようになってしまうのではないかと思う。それか以前のように戦う事だけを求めて彷徨うのだろうか。今となってはそんな生活は到底耐えられないような気がしてならない。
そんな思考を走らせている間にも二人のやり取りは進んでいく。
「呆れるものか。だがな……俺は諦めない」
鋭い視線をクレサへと向けるブレイズ。
そんな彼を二人の少女が見つめる。
「君には前を向いてもらう。居場所など無くても……自らの足で歩めるようになって欲しい」
ブレイズは微笑んで語る。
そんな彼にクレサは答えを返さなかった。拳を握り締め、床へと視線を向ける彼女が何を思っているのかは錬には分からなかったが、何やら暗い雰囲気を醸し出しているように見えてならない。
対する錬の心に浮かんだのは熱い想いだった。
(自らの足で……自らの意思で。ノイアがいなくても)
錬は熱い想いを言葉に変換して心の中で反芻する。
しつこく何度も繰り返し反芻する事で自らの心を奮い立たせる。そして錬は一つの答えに辿り付く。自らの足で歩めるのが人なのだという事に。
(それなら私はどうしたい? どう進めばいい?)
心に問い掛けてすぐに浮かんだのはノイアだった。錬に側にいていいと言ってくれた女性。そして、そんなノイアを、ただ一人の少女を守るために進もうとする彼女を守りたいと思うのは嘘偽りのない錬の気持ちだった。
この気持ちのためならどこまでも進んで行ける。この想いを胸に抱いて進むのが人なのだろう。
(ようやく分かったよ。人という存在が)
錬は薄っすらと微笑む。もう自らに迷いはない。誰に何を言われようとも、決して報われなくてお錬は変わらずノイアを守るだろう。自らの意思で。
話を聞く前と、聞いた後では何かが変わったのかと問われれば何も変わっていない。だが、今の錬の心は晴れやかだった。その晴れやかな気持ちを自分と同じような生き方しか出来ないクレサにも感じてもらいたかった。
だから錬はお節介だとは思うが重い口を開く。救うために。
「ここにいたいと思えばいればいい。守りたいと思えば守ればいい。それがクレサの意思ならば」
錬は浮かべた微笑みをそのままに、クレサへと語る。
「でも……それでは。今までと何も変わらない」
クレサは迷った瞳を錬へと向ける。彼女はやはりまだ答えを見つけてはいなかった。
「違うわ。ブレイズが何を言おうとも……あなたはあなたの生きたいように生きればいい。考えに相違があるのであれば何度でも対話をすればいいじゃない。ブレイズはそんなあなたを見捨てるようには見えない。見捨てるなら最初から救ったりはしないわ。そうでしょう?」
錬は次にブレイズの瞳をしっかりと捉えて問いを放つ。ノイアは錬がどんな姿を晒しても見捨てる事はなかった。だから、この男も決して見捨てないと思えたのだ。
「見捨てるつもりはない。それで彼女が徐々に立ち直るのでなれば最後まで付き合おう」
ブレイズはまだ納得はしていないようだが一度頷く。
「私の生きたいように。私の意思で……」
クレサは噛みしめるように言葉を発する。
「もう。迷わない!」
迷うクレサの背に両手を触れて錬は悪戯な笑みを浮かべる。次の瞬間には両腕に全ての力を込める。
「ちょっと」
クレサは戸惑ったような、焦ったような声を背へと掛ける。だが、そんな事はお構いなしに錬はクレサを目標へ向けて押していく。
「おい。待て」
目標は慌てて後ずさる。だが、もう遅い。
「ごゆっくり!」
錬は叫ぶと同時にクレサを目標に向けて吹き飛ばす。
「クレサ!」
吹き飛ぶ少女を慌ててブレイズが抱き止める。抱き止められた少女は真っ赤な顔をブレイズへと向けていた。後はご両人が上手くやる事だろう。
「これで良し」
錬は満足げな表情を浮かべて二人へと背を向ける。この二人はまだまだ問題が山積みだろうが、共に歩んで行けると錬には思えた。だからこれ以上のお節介はしない。
何やら幸せそうな声が耳へと届いた気がするが、錬は気にせずに館の外を目指して進んでいった。
*
無数の銀閃が煌めく。衰えるという事を知らない高速の剣が空を切り裂き続ける。場所はブレイズとノイアの二人しか使用しない特訓場である。特訓場といってもただ獣道を進んだ先にある開けた空間を使っているだけなのではあるが。
(決戦か。結局……最後は力なのだろうか)
握った剣を横薙ぎに振るいながらノイアは考えを巡らせていく。救うために癒しの術式を展開させたが、ゲベルは止まる事はなかった。むしろ好機と見てその足を早めているとの情報もある。
(仮にそうだと言うのであれば……根源を叩くしかないのかもしれないな)
ノイア自身も結局行き着いたのは力による解決だった。人という存在はどうやら戦う事を宿命づけられているのかもしれないと思えてならない。
だが、シェルならばまた別の道を選ぶのかもしれない。この戦いは止められないにしても、戦いの後の世界に明るい道を示してくれるような気がするのだ。それは騎士という戦う者では決して到達出来ない道だと思う。
だからこそ失わせてはいけないとノイアは思うのだ。シェルが大切だという事もあるが、やはりハールメイツ神国にとって彼女は重要なのだ。
「守りきる」
ノイアは決意をあえて言葉に出す。決意の言葉は耳へと伝わり全身に力を溢れさせる。今ならばどんな困難な事でも出来る。そう信じて疑わない自分を感じてノイアは剣を振り続ける。
ただひたすらに。
剣を振っただけ強くなれる、守れるのだと信じて。
「やっぱりここにいたんだ」
新たな意気込みを胸に剣を振り下ろした瞬間に、聞き慣れた声が耳に届く。
「シェル?」
ノイアは驚いて振り向く。
振り向いた先には薄っすらと微笑むシェルが立っていた。いつもであれば誰かが来れば簡単に気づくというのに、今日は少々考え事が過ぎたらしい。
「癒しの術式は終わったよ。これからはサリヤ様を中心として、もう一度光の壁を再展開する」
シェルはまずは必要事項を報告する。
「そうか。以前、光の壁が消失した時は、丸二日休まず神力を込める事で再展開可能だったな」
「今度は一日で……明日の夜には間に合わせる」
ノイアの言葉に、シェルははっきりと断言して見せた。注意深く青い瞳を覗くと、その瞳は決して揺らぐことはない。何が何でもやりきるとその瞳は語っているようだった。
「では……私達騎士は目の前の敵と戦うだけだな」
首都は皆が守ってくれる。ならば前へと進めばいいだけだ。
「そうだね。サリヤ様とハーミルが守ってくれるから」
シェルは強い意志を感じさせる青い瞳をノイアの瞳へと重ねる。シェルが何を考えているかはすぐに分かった。それと共に止めても無駄だという事は長年の付き合いで十分に理解している。
「前線に出るのか?」
「うん。私はノイアの側を離れたくない」
ノイアが問うた瞬間。シェルは倒れ込むように小さな体を預けてきた。
「ならば……私が守る。ずっと離れるな、シェル」
言葉と共に小さな体を抱きしめる。
「うん」
一度頷くと共にノイアを見つめる青い瞳。その澄んだ青い瞳はノイアを捉えて離さない。
「やはり……私はお前が愛しくて仕方がない」
素直な気持ちを言葉にする。もう迷いも気恥ずかしさもなかった。
「私もだよ」
頬を真っ赤に染め、瞳を湿らすシェル。大きな瞳から嬉し涙が零れた瞬間、ノイアは小さな肩へと手を触れて――
「瞳を閉じて」
囁くような声を発する。
まるで魔法にかかったかのように言われた通りに瞳を閉じるシェル。そんな少女の頬へとノイアは徐々に顔を寄せていく。
唇が滑らかな頬に触れたのは一瞬。
瞳を閉じていたシェルからすれば、呆気に取られてしまうほどに短い時間であったに違いないだろう。それを証明するかのように滑らかな頬が徐々に膨らんでいく。
「短いよぅ」
頬を膨らませて怒りを表現はしているが、その声音には棘はなかった。
「すまない。これが今の私に出来る精一杯だ。だが……ずっと一緒にいるんだ。焦る事はない」
ノイアは短いキスの代わりに頬を膨らませる少女をしっかりと抱きしめる。
「そうだね。でも、あんまりゆっくりしてると……私からノイアの唇を奪うからね」
シェルは抱き返すと共に弾んだ声を返す。そんなシェルをもう一度しっかりと抱きしめたノイアはこの幸せがいつまでも続けばいいと強く願った。
読んでいただきありがとうございました。感想等をいただければ幸いです。